ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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6.閉心術

 

 

 ハリーは走っていた。

 パジャマ姿のまま、ガウンを羽織ったハーマイオニーと共に廊下を走る。

 もしあの夢の内容が事実であれば一刻を争う事態だというのに、妙に時間が空いてしまったような気がする。具体的には数ヶ月くらい。ならば尚のこと急がなければならない。

 途中でほとんど首なしニックに見つかって苦言を呈されそうになったが、急ぎで校長の元へ行かなければならないと言えば素直に引き下がってくれた。夜道の護衛としてついてきたニックに別れを告げながら、ハリーたちは校長室の前で立ち止まる。

 しかしはたと気づけば、合言葉を知らない。どうせまたお菓子系だろうと思って適当な名前を叫ぶことにした。

 

「ゴキブリごそごそ豆板!」

『いきなりのチョイスがそれはどうかと思うぜ、リトルレディ』

 

 校長室の門番替わりをしているガーゴイル像に突っ込みを入れられ、ハリーは鬱陶しそうな顔をする。門番としての仕事を果たしているだけのガーゴイルは、そんなハリーたちの姿を見て、ため息を漏らす。

 息を切らすパジャマ姿の年頃の少女たち。就寝時ということもあって髪もぼさぼさだ。

 

『なんと、はしたない。寝間着とはいえ、せめて下着くらいはつけたらどうかね』

「だまれよ石ころ! はやくダンブルドアに会わないといけないんだ!」

「わしに逢うのはよいが、彼の言う通りじゃな。ハリーや、慎みを持つべきじゃ」

 

 苦言を呈したガーゴイル像へ噛みついたところ、背後からふわふわした上着がかけられる。

 声を聞けばだれだってわかる。ハリーは上着を抱きしめて胸を隠しながら、振り返って老人の目を見つめた。

 きらきらと輝くブルーの瞳は、ハリーの考えを見透かしているかのように校長室へ至る螺旋階段を出現させる。おいで、と無言で示した彼に、ハリーもハーマイオニーも倣って何もしゃべらずについて行くことにする。

 

「ハリーが夢を見ました」

「夢かの、ミス・グレンジャー」

「ええ。ロンのお父様……えっと、アーサー・ウィーズリー氏が襲われる夢を」

 

 ハーマイオニーの肩に抱かれるハリーは、普段の強気な態度は鳴りを潜めて青い顔をしている。ダンブルドアはその様子から、彼女に何が起きたかをだいたい察した。

 ハリーに向けて優しくおいでと声をかけ、その頭を優しく撫でる。されるがままのハリーは、ぽつぽつと話し始めた。

 

「最初から、変だったんだ」

「……続けて」

「最初は、変な夢を見ていた。なんていうか、ヘンな夢。でも、えっと、そっちじゃなくて。でもその変な夢にも何か混じってて。それで、別の夢を見た。それを見て、わかったんだ。ぼくは蛇だった」

 

 性的な内容を含む夢……淫夢を見ることくらい、思春期の男女ならば当然のことである。しかしハリーは、そのような夢を毎晩見せられていたという。明晰夢のように、これは夢だと突きつけられながら見た夢。そしてその中で自分が全く違う何かになっていたと。それが蛇だという。

 魔法学的側面から見ても、夢は未来を暗示する重要なものという説が重要視されている。占い学然り、魔法史然り、夢を題材にした授業は各授業でも聞いたことがある。それゆえマグル社会にて生まれ育ったハリーとハーマイオニーですら、魔力を多く有する魔法族が具体的な不吉な夢を見たことを危険視しているのだ。

 そしてそれは学者としても高名なダンブルドアにとっても、言わずもがなである。

 

「つまり、君は神の視点から夢を眺めていたのではなく、蛇の中に入っていたと」

「……そうなります」

「由々しき事態じゃ」

 

 ハリーの言葉を聞いたダンブルドアは、眉をしかめる。

 そして校長室の天井近くの壁にかけてある歴代校長の肖像画たちに向けて何らかの目配せをすると、幾人かの過去の校長たちがさっとその姿を消した。

 おそらくアーサーの助けを呼びに行ったのだろう。

 

「ともあれ、アーサーが襲われたことが事実ならば、事は一刻を争う」

「でもウィーズリーおじさんの場所がわからないです。それにおじさまのことなら、ロンたちウィーズリー兄妹を呼びに行かないと」

「ミス・グレンジャー。大丈夫、こちらがわかっておる。それにミスター・ウィーズリー達については心配無用じゃ」

 

 その一言で、おそらくアーサーが騎士団の任務についていたであろうことが察せられる。つまり襲われたところで文句の言えない場所にいたのかもしれない。そうなると敵はヴォルデモート一派以外にも考えられるが、しかし蛇を用いて殺害するなど彼以外には考えられない残忍さだ。他の可能性は考えなくてもいいだろう。

 気ばかりはやるハリーたちは、ばたばたという足音を聞いて振り返る。果たして螺旋階段を駆け上ってきたのは、燃えるような赤毛を有する兄弟たちだった。みながパジャマ姿であり、夢の中から飛び出してきた様相を呈している。ジニーに至ってはずいぶんと刺激的なネグリジェ姿のままだ。ぎょっとしたハーマイオニーが即座に上着を取り出し、彼女へと与える。

 

「ハリー、何があったの。先生はパパが襲われたって……」

「お父上は騎士団の任務中に怪我をされたのじゃ、ミス・ウィーズリー」

 

 泡を食ってハリーに問いかけるジニーの問いは、ダンブルドアが落ち着いた声で答えた。

 そしてまだ何か聞きたそうにするジニーが口を閉じたのは、彼らを連れてきたマクゴナガルが厳しい顔をしてダンブルドアへと何事かをささやきはじめたからだ。それを聞いて渋い顔をした彼は、そのまま机の上に置いてあるヤカンへと足を進めた。

 杖を取り出し何事かを呟くと、こつりとヤカンを小突く。魔法式はよくわからなかったが、複雑でありなおかつ空間関係のものが見れたため、おそらく移動キーの作成呪文だろう。

 

「今現在、煙突飛行粉(フルー・パウダー)は使うことが出来ん」

「なぜです、先生」

「『煙突網』に監視が入っておるからじゃ。移動キーに乗っておいき」

 

 どうやらウィーズリー氏は入院したようで、その搬入先へひとっ飛びさせるつもりではあったようだが、マクゴナガルの知らせは間違いなく監視のことだったのだろう。

 襲撃があったと知らせた直後にもう入院しているというのは、いかにも奇妙に過ぎる話ではある。しかしここは魔法界であるがゆえ、ハリーの知る常識は通用しないのだ。ダンブルドアの肩で唐突に炎が燃え盛り、金色の尾羽がひらりと舞い落ちる。それを見たダンブルドアは、ハリー達を急かすようにヤカンの前へ来るよう勧める。

 

「さあ、急いで。君たちがベッドを抜け出したことを、アンブリッジ先生が気づいたようじゃ。驚異的な速度でこちらへ這い寄っておる」

 

 銀のひげの奥から台詞が飛び出すと、フレッドとジョージが真っ先にヤカンへ飛びついた。

 早く行くようにと促されたハリーたちは、ウィーズリーズに続いてヤカンを掴む。全員がヤカンを掴んだ瞬間に周囲の景色が歪み始めた。ぐるぐるとへその裏をつかまれて振り回される感覚は、いつも胃の中のものを戻したくなるほどにひどい。昨年も味わった、空間移動の感覚。特にこの状況下において、ハリーは倒れこみそうなほどの吐き気を感じていた。

 ダンブルドアの青い瞳を見ているうちにぐるぐるとそれが視界いっぱいに広がり、さっと消え去ったかと思えば見覚えのある暗い色の壁紙が目に映る。グリモールドプレイスの、シリウスの家だ。

 まず最初に入ったのは醜い顔。以前この家に来た時にその存在を耳にしていた、老いたしもべ妖精だ。その暗い目でハリー達を見つめながら何事かをぶつぶつと呟いている。

 

「血を裏切る者共が戻ってきた……クリーチャーの仕事が増える。ああ、いやだいやだ……」

 

 しもべ妖精といえば、あの過激派ドビーの印象が強い。グリフィンドール女子寮の掃除を担当するヨーコとはよく会話をするが、よもや屋敷しもべにこのような暴言を吐かれるとは思わなかった。

 ハリーが困惑した顔をしている横で、今にも睨み殺さんばかりをしているロンの顔を見たクリーチャーという名らしきしもべ妖精は、嫌そうな顔をしてゆっくりと去ってゆく。しもべ妖精が扉を閉じて姿を消したのと、どたどたと階段を駆け下りてきたシリウスが別の扉から飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。

 

「何があった。アーサーが怪我をしたと、フィニアス・ナイジェラスから聞いたが……おいジニー、ハーマイオニー。大丈夫か。ほら立ちなさい」

 

 やはり寝ていたらしいシリウスが、寝間着姿のままこちらへ駆け寄ってくる。

 ジーンズにタンクトップという刺激的な姿ではあるが、いまは照れるよりもやるべきことがある。倒れこんだジニーとハーマイオニーを助け起こしながら、ハリーは言う。

 

「夢を見た。幻みたいな、たぶん現実に起きたことを夢として見た」

 

 眉を寄せながらハリーの話を聞いているのは、シリウスだけではない。ウィーズリー兄妹もまたハリーの話に聞き入っていた。蛇の中からアーサーを噛んでしまったことについては、奇妙な罪悪感にかられながらもそのまま話す。性的な夢を見た部分については流石に省いたが、そのほかはすべて真実を伝える。

 噛みたいと、傷つけたいと思ってしまったのは事実だ。それで嫌われたり、妙な目で見られてしまってもそれは自分の自業自得である。話し終えたとき、ロンでさえもハリーを見つめてその視線を離さなかった。

 そんなはずはないのに、まるで非難されているかのような気がする。それでもハリーは顔を背けたりはしなかった。これは女の意地なのだ。

 

「すぐにでも行かなきゃ」

「聖マンゴ病院だろ? 着替えは僕たちが空間に入れてる」

「いや、待ってくれ」

 

 ジニーとジョージが言う言葉に、シリウスがストップをかける。

 鬱陶しそうな態度を隠しもしない兄妹たちに、シリウスは毅然とした態度で声をかける。

 

「まだ行くことはできない。君たちは、アーサーが襲われたことを知らないはずだ」

「どうして!? 僕たちの父親が死にかけているかもしれないのに!」

「遠く離れた場所の出来事を、直後に知っているのはそれを襲った者だけだ。まあアーサーが救助されている現在、いまは病院の者たちも知っているが」

「だったらなぜ!?」

「だからこそ、私たちが知っているはずがないということだ。まず真っ先に情報が来るのはモリーのはずなんだ、君たちのお母さんにして、アーサーの妻であるモリーのもとに……」

 

 逸るフレッド達を抑えようと声を荒げ始めたシリウスの元に、一通の手紙が出現した。炎と共に金の尾羽根も届いたことから、フォークスの仕業だろう。

 猫のように素早い動きでその手紙をシリウスからひったくったジニーが、乱暴にその封を開ける。フレッドとジョージ、ロンが駆け寄ってその手紙を覗き込んだ。全員が顔を強張らせたまま、その内容を吟味するかのように見つめ続ける。

 ジニーがその手紙を裏返した。何か追加の文章がないかと求めているようだったが、ハリーが見る限りそちらは白紙のままである。手紙の内容がこちらにも見えた。モリーの字で、お母さんが聖マンゴへ行くから連絡を待つようにと短い走り書きがあるだけだ。

 何かをシリウスに向かって言おうとしたのか、双子が詰め寄る。しかしそれはロンが手を前に出して制した。泣きそうな顔をしているくせに、強く首を振って二人の兄をたしなめている。

 それを見て、フレッドとジョージは無言で椅子へ座った。乱暴に腰を下ろすあまり、ぎしりと危険な音を立てる。ジニーは壁に背を預け、丸まって蹲ってしまう。ハリーもハーマイオニーも、ロンに声をかけることが出来なかった。ロン自身も二人へちらと視線を向けるだけで、力なく椅子に座って頭を抱えるのみだ。

 シリウスが食糧庫へ杖を振ってバタービールらしき瓶を七本呼び寄せて、それぞれの近くへ置いていく。やることが欲しかったハリーとハーマイオニーは、台所へ急いで全員分のコップを持ってきた。

 長い夜が、とろとろと流れてゆく。

 余所者である三人は一塊になって時を過ごした。途中で心配したシリウスが声をかけにいこうとしたが、それはハーマイオニーが止めた。どちらも嫌な思いをするだけだ。ウィーズリー兄妹たちも、時折時間を確認する程度の言葉しか交えない。

 時間の感覚が分からないままもう何日も経ったかのように思えた頃、白み始めた空を確認するかのようにハーマイオニーが見上げたそのとき、厨房の扉がパッと開く。

 

「確認してきた」

 

 いつになく強張った言葉でそう告げたのは、目つきの悪い茶髪の男。

 アーロン・ウィンバリーだ。目元に隈を作った彼は、椅子にどっかと座ると近くにあったロンの飲みかけのバタービールをひったくって一気に煽った。無精ひげについた泡を袖で拭いながら、全員が注目する中で言葉を続ける。

 

「いまアーサーは寝てる。いまはモリーが一緒にいる。無事だ、少なくとも命に別状はねえ」

 

 その言葉を聞いて、フレッドが両手で顔を覆った。ジョージがその肩を抱き、腰を浮かしていたロンがへにゃりと笑みを浮かべて座り込んだ。ジニーがウィンバリーへ飛びつき、その首へ抱き着いて鬱陶しそうに振り払われている様を見て、ハリーは心底安堵した溜息を吐き出した。

 彼らの様子を見たシリウスが、ぱっと笑顔に変わって叫ぶ。

 

「そうと決まれば朝ごはんだ! クリーチャー! 朝食を作れ! ああ、今すぐだ!」

 

 どたばたと走り回る皆を見て、ハリーは椅子に座ったまま様子を見守る。

 隣に座ったハーマイオニーがよかったわねと声をかけてくれるものの、それにあいまいな返事をすることしかできなかった。

 

「ハリエット。マーマレードとイチジクジャム。どっちがいい」

「シリウス」

 

 二つの小瓶を持ってハリーへ話しかけてきたシリウスへ、ハリーがひしと抱き着いた。

 勢い良く抱きしめられたシリウスは手に持ったそれをぶつけないように高く上げたが、小さく震えるハリーの様子に気づいて小瓶を棚の上に置いて、彼女の小さな体に腕を回す。

 饒舌に会話をするウィーズリー兄妹に気づかれないように、シリウスはハリーを食糧庫へと連れて行った。ハーマイオニーは心配そうに視線を送っていたものの、シリウスからのアイコンタクトで朝食の手伝いに戻ったようだ。クリーチャーの毒づく声が聞こえてくる。

 

「どうした、ハリエット」

「……性的な夢を見たんだ」

 

 先ほどの説明で言わなかったことを告白すると、一瞬だけシリウスが身じろぎした。しかしその動揺からはすぐに回復し、ハリーの頭を撫でる。無言で続きを促す彼に従い、ハリーは言葉を紡いだ。

 

「変な感じだったんだ。ぼくは夢の中で、まるで蛇になってて、それで発情期になったみたいな、そんな、奇妙な夢。欲望まみれで、はしたなくって、なんだろう、なんていうか、ぼくが、ぼくじゃないみたいな……」

「落ち着いて、ハリー」

 

 シリウスの低く心地よい声に包まれ、ハリーはその言葉を止める。

 ダンブルドアに話したかと問われてイエスを返せば、ならば心配することはないといわれてしまう。確かにダンブルドアならば何かしらの対応を見つけてくれるだろう。しかしそうではない、そういうことではないのだ。

 

「さあ、朝食を食べたら眠ろう。みんな一睡もしていない、アーサーを迎えに行くのはお昼ご飯を食べてからだな」

「……シリウス」

「ん。どうした、ハリエット?」

「……ううん、行こう」

 

 リビングに戻れば、クリーチャーが調理した立派な朝食が並んでいた。ハーマイオニーが不満そうな顔をしているあたり、結局手伝わせてはもらえなかったらしい。既に舌鼓を打っている彼らに交じって、シリウスは新たに椅子を呼び寄せるとハリーにそれを勧めた。

 ありがたく座らせてもらったハリーは、目の前の小皿にスライスしてトーストされたライ麦パンと、その上にベーコンエッグが滑り込まされる。悪戯心を起こしたフレッドが塩胡椒をたっぷり振りかけたそれを、ハリーは無言で口に入れた。

 それはとてもしょっぱく、とても辛かった。

 

 色々と考えすぎて眠れなかったハリーを除いた皆が昼過ぎに起きだした頃、ドアをぱっと開いて誰かが入ってくるのをハリーは横目で確認する。

 寝ぼけ眼でうとうとするハーマイオニーとジニーをくすくす笑っているのは、トンクスとハワードだった。女子三人は同じ部屋の同じベッドで横になっていたものの、結局ハリーは眠ることが出来なかった。それでいて全く眠くないため、闇祓い女子ふたりにおはようと声をかけて、寝間着から私服へと着替える。

 トンクスはいつものパンクなファッションに、ハワードはマキシスカートにふわふわした服装だった。ハリー自身も厚手のタイツをはくとショートパンツを身に着け、白いロゴマーク付きのノースリーブシャツを着て、その上にネイビーのコートを羽織った。

 

「ハリーは予言者の素質でもあるのかな」

「でもぉ、現在進行形の様子を見るなら遠見だと思いますよぅ」

 

 トンクスとハワードがお喋りしているその間に身だしなみを整えたハーマイオニーを連れ、リビングへと向かう。すでに全員が用意を終えているようだった。

 本来はトンクスとムーディの二人で来る予定だったそうだが、ロンドンの街中を歩く任務に対してマッド-アイ・ムーディは適任ではないとして、代わりにハワードをよこしたらしい。ムーディは闇祓いでも最強とされているが、この二人はその弟子であり年若くも優秀だ。トンクスは七変化による隠密のエキスパートであるし、ハワードに至っては半年もかけずに闇祓いの訓練課程を修了したという容姿に似合わぬ猛者である。

 マグル界の紙幣すら知らないウィーズリー兄妹を御することが、この年若く美しいふたりの女性の仕事だった。美人が凄めば、それだけ恐ろしいものだ。ふざけて駅員へ悪戯を仕掛けようとしたフレッドが大人しく座席に座っている姿を見れば、その威容は想像できよう。

 電車を降りれば、そこはロンドンの中心部である。まさかこんな、マグルの町のド真ん中に病院を建てたのかとハリーが内心で驚いていると、その様子に気づいたハワードが補足する。

 

「病院に向いた場所を探すのは苦労したらしいですよぅ。だって、魔法省みたいに地下にはできないでしょ?」

「……不健康的だから?」

「そう。太陽の光ってやっぱり重要なんですよねぇ。そこで、マグルの倒産した企業から格安で買い取ったこの廃ビルを改装して、使うことにしたみたいですぅ」

 

 辿りついたのは赤レンガの廃ビル。「改装のため閉店中」という張り紙が張られているが、数十年は放置されているであろうマネキンが寂し気にたたずんでいるあたり営業しているようには見えない。トンクスがマネキンに対して面会を求める旨を告げると、マネキンが頷いて手首から先が欠けた腕を振るうとガラスを歪ませる。周囲のマグルが気づいた様子がないのは、いつも通りだ。

 とぷんと溶け込むようにガラスの中へ飛び込めば、その向こうは白を基調とした清潔感のある空間が広がっていた。病院内が人でごった返しているのは、どうやら魔法界でも変わらないらしい。

 ハワードが急かすように歩き受付の方へと向かう。忙しそうにした受付では、どうやら取れてしまったらしい頭を抱えた魔法使いに対して案内魔女が説明に苦労していた。

 

「これどうしたらいいんでしょう……妻と喧嘩して、彼女の魔法が暴発してしまって……」

「アー、それは『呪文性損傷』になりますねー。ですので、五階に上がってから、右の通路を行って、奥の壁をー、くすぐった先にある部屋へ、行ってください」

 

 受付の魔女が気だるそうに返事をして、自分の頭を落とさぬよう注意深く歩く魔法使いが立ち去ってゆく。早く受付を済ませたいのだが、次はまた別の魔法使いだ。だいぶお年寄りのようで、ぷるぷると震えながら、しわがれすぎて英語かどうかすら怪しい唸り声で受け付け魔女へ問いかけている。

 

「ふごふご。だぁーびぁ。だぃー、せぎ。えーかーろびーぃーんごごごごご」

「アー、ちょっと待ってくださいね。『ウォークス』、透き通れ。ハイどうぞ」

「私はブロデリック・ボードへ面会をしに参った。お嬢さん、案内願いたい」

「んー、ァー。四十九号室ですー。まあ、会っても、無駄でしょーけどー」

 

 ぞんざいな対応を受けた老魔法使いは、文句も言わず震えながら同じ姿勢のままスライドして病室へと移動してゆく。奇妙な人ばかりだと思いながらも、ハーマイオニーが小突いてきたことでようやく自分たちの番が回ってきたことに気づいた。

 ウィーズリー兄弟に代わってハーマイオニーが受付へと応対する。面倒くさそうに顔を上げた魔女の姿を見て、ハーマイオニーの顔が一瞬だけ不愉快な色に染まったのをハリーは見逃さなかった。彼女の両親は歯医者であり、そして彼女は人の健康を守るその仕事に従事する両親を誇りに思っている。

 つまり、医療関係者であるにもかかわらず仕事にやる気がないことが許せないのだろう。

 しかしここで噛み付けば、それだけウィーズリー氏へ会う時間が遅くなる。怒りと文句をぐっと飲み込んで目当ての病室を問いかける彼女は、眼前の受付魔女よりよほど大人であった。

 

「アーサー・ウィーズリー氏の見舞いに来ました。番号を教えてください」

「アー、サー、ウィーズ、ルィー。……、……ああ。あったあった。二階、ダイ・ルウェリン病棟の、アー、五〇九八号室。……アー、そうだ。ゲストカードを持っていって下さいね」

 

 魔女へ怒りの視線を向ける時間も惜しく、ウィーズリー兄弟たちは一糸乱れぬ動きで受付カウンターに置かれていたカードを奪い取ると、足早に西側の階段へと歩みを進める。

 ハリーとハーマイオニーもまたゲストカードを手に取ると、彼らの後をついていった。ゲストカードは何かの魔法がかけられているのか、その内容がぼんやりとうごめいて『ハリエット、見舞い客』と文字を創り出した。ご丁寧に顔写真も掲載されているのは芸が細かい。

 部屋の前に到着すると、どうやら六人部屋らしい。名札にはO・ペッパー、B・ボード、A・アンダーソン、C・マコーマックと続き、そして空白の名札をはさんで、A・ウィーズリーとある。

 間違いない、ここがウィーズリー氏の入院している病室だ。

 

「「ああ、パパ!」」

「大丈夫なの!? ねえパパ大丈夫!?」

「私たちを置いていっちゃだめよパパ!」

 

 ウィーズリー兄妹の全員が病室へ飛び込み、同時に心配の叫びを上げる。

 凶悪な魔法生物に襲われたなど、どれほど手練れの魔法使いであろうとひとたまりもないことだからだ。特に魔法界で生まれ育ったウィーズリーズの四人は、幾度もそういう話を聞いているはず。命に別状はないとはいえ、最悪の結末すら予想していたことだろう。

 入院患者のうち誰かだろう、ヴィジュアル系な容姿の青年がハリーたちを見て目を丸くしている。しかしウィーズリー兄弟の赤毛を見て、同室であるウィーズリー氏の関係者だと気づいたのだろう。含み笑いをしながら顎でベッドを指し示した。

 

「青年へ礼を言う間もなく、僕たち兄妹は風よりも早くそのベッドへ駆け寄った。僕らの大切な父上よどうか無事でいてくれと願って」

「しかし、ベッドのカーテンを引きちぎるように開けたところ、僕たちが見たのはパパとママのディープキスシーンだったではないか」

「よもや末っ子の私より下が生まれることになるとは、このとき誰も思わなかったのである。私これトラウマになるんじゃないかしら」

 

 真顔でジョークを飛ばすフレッド、ジョージ、ジニーの三人が懇切丁寧に説明口調で解説してくれた通り、カーテンの向こうではウィーズリー夫妻が互いの愛を確かめている衝撃シーンであった。ベッドの上でなかったことが救いだろうか。

 顔を真っ赤にしてその場から離れたハリーとハーマイオニーは、息子たちに愛する旦那様とのキスシーンを見られたモリーの怒鳴り声を遠巻きに聞く。いつもおアツい夫婦だが、まぁ死んだかもしれないと聞かされた夫が無事だったならキスのひとつでもしたくなるだろう。仕方のないことなのだ。たぶん、きっと、めいびー。

 息子たちにからかわれたモリーは照れ隠しに怒鳴り、彼らを追い払う。同じく照れくさそうに笑うアーサーの様子を見るに、命に別状はなさそうだった。夫婦の愛を見せ付けられはしたものの、しかし彼の無事を知れたことには心底ほっとした。

 薄汚い考えかもしれないが、ハリーはたとえ夢の中で蛇になっていたとはいえ、親友たちの父親を襲ってしまったのだ。大体の予想はつく。ハリーの精神とヴォルデモートの精神が同一の源流を用いている以上、無理やり混線させることも(たとえ現代魔法学上は絶対に不可能であろうとも)ヴォルデモートならば可能だろう。それによって、ヴォルデモートがナギニと呼んでいた大蛇に意識を憑依した状態でハリーに『夢』として見せていたのだろう。

 だからハリーには、親友の父親を殺さずに済んだという仄暗い安堵を覚え、自分自身に嫌悪を抱いている。ハーマイオニーもそれを察しているのか、何もいわずハリーの肩をやさしく叩くだけだった。

 

「にしてもホントに心配かけやがって、おアツいハゲ親父め」

「まったくだぜあのハゲ親父。ママとお楽しみの最中とはね」

「二人とも髪の話はやめよう。息子の僕らも遺伝的に危ない」

「「あー、ハイやめ、やめやめ」」

「また髪の話してる……諦めなさいよウチの家系の男連中は」

 

 安堵したウィーズリーズが冗談を飛ばしあう声を聞きながら、ハリーは考える。

 ハリーは今回、大蛇の視点で一連の出来事を見ていた。それが何を意味するのか。

 もうこの際、夢なのに現実とリンクしていて、なおかつその光景をハリーが夢見で閲覧していたという不可思議な現象は、そういうこともあるのだろうとして片付けておく。だってよく知らないんだもの。ハリーは占い学を履修しておらず、そもそも『夢見る魔法学とその解釈』はホグワーツに通う年齢の魔法族が学ぶような学問ではない。あれはスネイプやマクゴナガルのように、一般的な魔法学を完璧に修めてなお難しいとされるレベルの分野だ。ハリーはもちろん、我らが才媛ハーマイオニーであろうと専門書を読むことすら無理じゃないかと思われる。

 ともあれ、今回のことは尋常でない出来事なのは間違いない。

 ハリーに必要なのは、スネイプの課外授業。つまるところ、『閉心術』の習得だ。

 

「……おんやぁ? こんなところに美少女が二人も!」

 

 陽気な声がかけられたせいで思考の海に腰まで浸かっていたハリーの精神が、急激に現実世界へと引き上げられる。ハーマイオニーが驚く声を聞きながら声の主へと目を向けて、ハリーは心底驚愕した。

 

「ろッ、ロックハート先生!」

「チッチッチ。YES、I、AM!」

 

 奇妙なポーズをとって格好つけるそのナイスガイは誰あろう、ハリーたちが二年生のときに闇の魔術に対する防衛術の教鞭をとっていたギルデロイ・ロックハートであった。

 自分の実力を理解せずあらゆる場面へでしゃばる目立ちたがり屋で、保身のために子供の記憶を消す手段を迷いなく選択できるくらいには薄汚れた心の持ち主。そして、かつて親友から受けた裏切りによって心を歪ませ、自らも親友と同じ道を歩んできた悲劇のハンサムである。

 現場にはいなかったものの、ハーマイオニーも彼の顛末とその仕業は聞いている。ハリー自身が忘却術をかけたせいで、彼の脳みそは純粋無垢な少年同然の状態になっていたはずだ。

 しかし足腰はしっかりとしており、目にも自分への自信にあふれた様子が見て取れる。聖マンゴへ入院するだろうなとは思っていたが、よもやまだ治療中とは。

 

「君たちも私のファンになったのかな?」

「いきなり何言ってんですかアンタ」

「ティンクルウィンクル、ギルデロイ。君の隣にギルデロイ。私のサインがご所望かい? それゆけ、ほれゆけ、くれてやる、私のサインをくれてやろう! ゥウルィッピィート・アァフターァン、ミーィイ? どうぞ!」

「ハーマイオニー、早急にナースコールしてくれ」

「ハリー、魔法族の病院にそんなものはないわ」

 

 奇妙なリズムで歌い始めたロックハートを前に、二人の少女はげんなりとする。

 どうも正気を取り戻した様子はなさそうだが、しかし普段からこんな感じだった気がしないでもない。ドルーブルの風船ガムの包み紙にさらさらとインクに浸していない羽ペンでサインを書き上げ、それをハリーへと手渡した。しっかりと彼女の手を包み込むように持っているあたり、以前のハンサムらしさが見え隠れ手しているようにも思う。

 ハリーは手をズボンで拭きながら、微妙な顔をした。

 確かに彼はハリーへ忘却術をかけようとした小悪党だったが、しかしこの記憶を失った状態に陥った原因の一端はハリーが担っているといってもいいようなものだ。仕方なかった状況とはいえ、こんなモノを生み出してしまった自分の業の深さに少し戸惑いの感情を抱いてしまう。

 

「ほらほらギルデロイ、病室を抜け出しちゃだめでしょう」

「えっ。私のサインがほしいって?」

 

 哀れなナマモノを眺めていると、中年の女性看護士がロックハートの両肩に手を置く。かけられた言葉に対して見当はずれな返事を返すも、看護士はにっこり笑って「そうねぇ」と適当に答えた。

 ハリーたちへ笑顔を向けると、彼女は心底うれしそうに言う。

 

「ありがとうねえ、お嬢ちゃんたち。この子、お見舞いに来てくれる人がいないのよ」

「…………そう、ですか」

 

 それはきっと、彼が己の書く小説のために人々の記憶を消して回っていたからかもしれない。もちろん実話と偽った冒険譚が作り話で、ロックハート自身が魔法戦士どころかスクイブ手前の落ちこぼれであったことがバレて、ファンが遠のいたということもあるだろう。しかし、親類縁者まで来ないとなれば、つまりはそういうことなのだろう。

 彼はいったい、何の妄執に取り憑かれてここまでして名誉を追い求めたのか。

 かける言葉が見つからない、哀れな男である。

 

「それじゃあねお嬢ちゃんたち。ほらギルデロイ、ご挨拶は?」

「私のサインは決してペンを止めず、跳ね払いを大げさに書くのがポイントだよ」

 

 そう言って離れていくロックハートを直視できず、ハーマイオニーは目をそらす。

 ハリーは空しい心を押し殺しながら、なんとなく声をかけておくことにした。

 

「……先生の『おいでおいで妖精と思い出傭兵』。ぼくは割と好きだよ」

 

 ロックハートが、おそらく実話を基に書いたであろう著書。

 おそらく彼なりの、親友への懺悔の気持ちだったのかもしれない。ハリーの言葉に対してロックハートはにっこりと微笑むだけで、何も言葉を返すことはなかった。

 彼は看護師に連れられてすぐ目の前に位置する同じく記憶を失った患者たちが寝泊りする病室へ入り、頭に大きな傷のある筋骨隆々な男と談笑し始める。会話内容が支離滅裂であるため、おそらく彼も記憶を失っているのだろう。記憶を失った人の病室なのかもしれない。

 今日はよく自分の罪を見せ付けられる日だ。ハーマイオニーが気にしないようにと肩に手を置いてくれたことに笑みを返しておいて、無地の人間たちを置いてハリーは病室を後にした。

 

 

 アーサーの退院はもう少し先になるということで、ハリー達はグリモールドプレイスでクリスマスを過ごしてから、ホグワーツに戻ることにした。

 いよいよ帰る段階になって寂しがったシリウスが不機嫌になってしまったが、そこはハリーがハグをして頬にキスをひとつ落とせばたちまち上機嫌になって送り出してくれるようになる。なんかチョロいぞ。シリウスの姿が見えなくなってからそう呟けば、ハーマイオニーにため息を吐かれた上にジニーに大笑いされてしまった。

 ホグワーツに戻れば、まずスネイプに頼み込んで『閉心術』の課外授業を再開する。

 嬉々としてハリーの心を抉ろうとしてくるスネイプもハリーのまじめな顔つきに何かを感じたのか、必要以上に煽ることはせず(それでも口癖のように嫌味は言われた)に時間が許す限りハリーへ開心術をかけることにしたようだ。

 スネイプが杖を構えて魔力を練り上げる。盾の呪文で防ごうと思えば防げる。しかしそれでは訓練の意味がないのだ。そこでハリーは杖をスネイプに預けて、自ら彼の魔法へ身をさらすことにした。渋面を作った彼の心境は知らないが、杖を携帯していないからといって手加減はしないだろう。スネイプはそういう男である。

 

「『レジリメンス』、開心せよ」

「――っぐ!」

 

 顔の正中線から本になってしまったかのように、自分の記憶が読み取られている感覚がする。今回見られているのは、クィディッチの記憶だ。箒をどのように動かせば効率よく動けるか、箒から振り落とされないための筋トレを皆で頑張って笑いあったこと、ウッドのしごきがキツくてチェイサー三人娘とシャワーを浴びながらでぺちゃくちゃ文句を言いあったり、ウィーズリーの双子がしかけた悪戯に引っかかり毛むくじゃらの脚が生えてわさわさ動くスニッチに気づいてあわてて投げ捨てたり、胸の成長に合わせて下着を新調する際にマダム・マルキンから「またかい?」と言われて恥ずかしかったこと。

 様々な記憶を覗かれる中、ハリーの精神は羞恥心に焦がされた。よもやバストのサイズまで事細かに覗くのではあるまいなと考えたのがいけなかった。スネイプは紳士……とはいえないかもしれないが、それでも立派な男性である。それに胸のサイズを知られるのは、いくら教師とはいえ思春期女子としては黒に近いダークネスブラックだ。

 否定、拒絶、嫌悪。それの感情をひとまとめにして、鉄檻で覆われたハートに鍵をかけ、赤い槍が格子状に突き刺さり、ハリーの心を閉じきった。これによって、ハリーの心はスネイプの干渉を断絶する。

 ばちん、と弾ける音とともに、スネイプの手から杖が天井へと舞い上がった。片方の眉をあげて感心したような不愉快そうな表情を浮かべたスネイプは、落ちてきた自分の杖をキャッチすると、息を切らして額の汗を拭うハリーへぶすっとした顔で声をかける。

 

「成功だ」

 

 それはよかったと言う余裕はハリーにない。

 心という、鍛えようにもその手段がわからない場所のトレーニングをしているのだ。こうして負荷をかけることが成長へつながるのだろうということすら、確信を持っているわけではない。

 

「っもう、もう一度、お願いします……」

「……、……そうか」

 

 続けて今の成功を完璧にものにするため、もう一度開心術をかけてもらうことにする。

 いやな顔をしたスネイプは「我輩とてポッター殿の記憶など、見たくて見ているわけではないのだが」といやみを言いつつも、杖を構えて魔力を練っている。ヴォルデモートの思うようにさせてたまるものか。その一心で、ハリーはスネイプの杖から放たれた魔力反応工を胸の中央で受け止めた。

 

「否定せよ、拒絶せよ……。我輩への、心を閉じるのだ……」

 

 ゆったりと呪文を唱えるように繰り返すスネイプの声を聞きながら、ハリーは己の心の中を暴かれる。心中の奥底へしまいこんだ秘密を覗かれる。

 ホグワーツ城を初めて見た感動。一年生の頃の、自分から人を遠ざけておきながら寂しいと感じてしまった空ろな気持ち。賢者の石の試練に打ち勝ち、ロンとハーマイオニーというかけがえのない親友を手に入れた幸福感。吸血鬼クィレルの哀れさと命がけの戦い。そして自分の運命を知ったこと。

 学校中の生徒に頭のおかしい殺人鬼だと疑われて、自分の心が思ったより堅牢ではないと思い知らされた二年生。大人も全員が立派な偉人などではなく、自分たちの延長線上の存在であることを刻み込んだハンサムガイ。秘密の部屋へ至る死闘、老いたヌンドゥやバジリスクとの戦い、そして復活したクィレルとの殺し合いと、復活を果たした若きヴォルデモート(トム・リドル)とジニーの命をめぐった争い。

 誤解ではあったがシリウスとのいざこざと身体的な成長で、自分が女性として成長してきたことを自覚した三年生の頃。闇祓いたちの戦いを見て、もっと上へと向上心を持ったこと。ワームテールという、許せない存在がいたこと。シリウスが自分の愛する家族になってくれたという幸せな思い出。

 様々な国からやってきた、新たな友人と鎬を削った四年生の六大魔法学校対抗試合。様々な試練と、それを乗り越える愉しみ。初めて本気でハーマイオニーと喧嘩したこと。そしてダンスパーティでロンと踊り、楽しい時間を過ごした。そしてロンと、そしてぼくは――

 

「――ッ、『プロテゴ』!」

「むっ」

 

 そこから先は、見せてやるわけにはいかない。自覚するわけにはいかないのだ。

 大声で盾の呪文を唱えたハリーは、自分の心へ干渉していたスネイプの力が弾け飛んだことを自覚する。いくらハリー相手でも彼は教師であり、こめる魔力には加減をしていたのだろう。よってファンブルした際に本気で弾いたハリーの魔力が逆流現象を起こし、スネイプの術式を通して彼の中へと流れ込んでしまう。

 要するに日本魔法風に言えば、呪い返しに似た状況へ陥ったのだ。

 

「……これ、は……」

 

 ハリーの頭の中に、見覚えのない光景が見えてくる。

 景色自体はよく見ている。いつだったかロンを武装解除で池へ突き落とした、ホグワーツの中庭だ。脂ぎった前髪を垂らして顔を隠すように、猫背の青年がひょこひょこと歩いている。

 鉤鼻に髪質、そして陰鬱な表情。間違いない、若かりし頃のセブルス・スネイプだ。

 そこでハリーは自分が、逆流現象によってスネイプを『開心』していることに気づいた。せっかくなのでこのまま流れに身を任せて見れるだけ見てしまおう。別に日頃の恨みとか、八つ当たり気味のストレス解消とか、スネイプの若い頃に興味があるとか言う浮ついた理由では断じてない。ありえない。清廉潔白である。

 いやしかし、まさかこんなレアモノが見れるとは思わなかった。目元のしわなどなく、青白いながらも肌にはつやと張りがある。目つきもスレ始めているものの、しかし若者特有の光が宿っていた。はっきり言って今とは別人と言ってもいい。……うむ。決してハンサムではないが、悪くない。思ったより悪くない。

 思春期の少女目線で勝手に品定めを終えると、スネイプの隣に彼と同じスリザリン生とレイブンクロー生が一人ずつやってきた。幼さから見て、おそらく後輩なのだろう。

 二人ともびっしりとメモの書き込まれた魔法薬学の教科書を開いており、スネイプに意見を求めているようだ。鬱陶しそうにしながらも、目つきの悪い長髪のレイブンクロー生が発した問いかけに素直に答えてやるあたり、スネイプも満更ではなさそうだ。艶やかな黒髪のスリザリン生が尊敬の目でスネイプを見ていることに気づいたのか、照れ隠しに鼻を鳴らしているあたり、可愛いところもあるじゃないか。

 ――どうしてあんな大人になってしまったのか。実にもったいない。

 

『よぅスニベルス、ボーイフレンドかい?』

 

 素直じゃないながらも楽しんでいるであろう彼にかけられた、嘲るような声。

 その声を聞いてスネイプと後輩二人の顔が曇った。特にレイブンクローの後輩は噛み付くような怖い顔をしている。その視線の先にいるのは、二人の青年だった。その顔を見て、ハリーは心臓を鷲掴みにされたような気分になる。

 艶やかな黒髪を流して、切れ長の瞳を愉しそうに細めるハンサムな青年。その隣には、つんつんと好き勝手に跳ねる黒髪と、丸眼鏡をかけたハシバミ色の瞳の青年。間違いない。ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックだ。

 にやにやと嫌な印象を受ける笑みを浮かべるジェームズの隣で、似たような笑みを浮かべるシリウス。生きた時代の彼らを見ることができるうれしさはあるものの、しかし何だか嫌な予感がする。

 

『黙れよポッター、ちょっかいかけてくるな』

『おいおい先輩に対してなんて態度だよ。お前に用はない』

 

 不愉快そうに食って掛かった茶髪のレイブンクロー生へ杖を向けると、ジェームズは躊躇なく武装解除の呪文を飛ばした。対抗してすばやく杖を抜き放ち盾の魔法を唱えたレイブンクロー生は、しかし魔法の展開速度を優先させたことで盾の強度が足りず、盾を魔力反応光に突き破られて直撃してしまう。きりもみ回転して吹っ飛んでいったレイブンクロー生を見送ったハリーは、父親の行ったことに対して愕然とした。

 なんだこいつ、なにやってんだ。

 友人が池へ突き落とされた光景を目の当たりにして、スリザリン後輩の少年が慌てて駆け寄ろうとする。しかしそれは若かりしシリウスが立ちふさがることで妨害した。よく見てみれば、この二人はかなり似ている。シリウスのほうがいくらかハンサムではあるが、少年の方も悪くはない。どちらかといえば可愛らしい顔立ちだ。

 その切れ長の瞳が、まったく同じ色に染まっている。憎しみと、嫌悪。そして妬みだ。

 

『おっと、どこ行くんだよ』

『っどけ……! 邪魔だよ、親不孝者……!』

『……へぇ、そういうこと言っちゃう』

 

 少年の言葉がシリウスの怒りに触れたのか、迷わず杖を取り出した彼は少年へ何がしかの呪いをかける。スリザリンの少年は反応すらできずに腹へ魔力反応光を受けてしまう。彼は苦悶の呻き声とともに膝を突くと、ゲーゲーとなめくじを吐き出し始めた。

 その姿を見て大笑いする周囲の生徒たち。若きシリウスが喝采を受けて嘲笑する顔がよく見える。しかし、彼の目だけが笑っていない。スリザリンの少年を本気で軽蔑しているようだ。

 それにしても、とハリーは周囲をつまらなそうに見遣る。

 まったくもって下らない光景である。ハリーは自分の父親のことを愛しているが、しかしこれはやりすぎだ。なるほど、スネイプが父親を超えて娘である自分までも嫌う気持ちもわかる気がする。

 スネイプも後輩二人にひどいことをされたからなのか、血色の悪い顔色を更にひどい色へ変えて、怒りの声を上げながら魔力を練る。その魔法式を視て、ハリーはギョッとした。『結膜炎の呪い』だ。いくら敵対していようが、同じ学校の生徒へ向けるような呪いではない。

 しかしその呪文は不発に終わった。ジェームズがすばやく杖を振るい、『武装解除』でスネイプを吹っ飛ばしたからだ。無様にごろごろと転がり、情けない悲鳴を上げるスネイプの姿はあまりにも惨めであった。

 

「……なんだよこれ」

 

 ハリーが呟く中、スネイプが空中でもがく。

 武装解除されて杖がその手にない以上、彼が何かをすることはできない。これではもはやただのイジメだ。先ほど軽率に記憶を見続けようと思った自分を恥じた。どちらにしろ、開心術とは気持ちのいいものではないらしい。

 ジェームズがスネイプのズボンをずり下ろして晒し者にしようとしたとき、女子生徒の甲高い声が中庭に響き渡った。

 

『やめなさいよ! 『フィニート』!』

 

 停止呪文によってスネイプの浮遊が終わり、彼が尻から地面へと落とされた。痛みに呻いた若きスネイプの向こう、杖を振り回しながらツカツカと歩み寄ってくる女子生徒が怒りの声をあげている。

 その顔を見て、ハリーはハッとした。セミロングに伸ばした緋色のさらさらした髪の毛、形のよい眉毛。鼻の形も毎朝鏡で見ている。そしてアーモンド形の目には、かつてのハリーと同じくエメラルドグリーンの瞳。

 髪色とヘアスタイル、そして瞳の色さえ隠してしまえば体型や制服の着方までを含めて、ハリーとそっくりな外見の少女がそこにいた。ハリーはうるさい自分の胸を押さえて少女を見遣る。

 

『リ、リリー……』

『ポッター! また貴方なのね。ホントろくでもないことしかしないんだからっ』

『いや、これはだねリリー。スニベルスが、アー、えっとだなぁ』

 

 ばつの悪そうな顔で彼女に言い訳をするジェームズは、ちらちらと気になっている様子が垣間見える。そこでハリーは彼がリリーに気があることに気がついた。無論のこと若きシリウスもそのことを知っているようで、ニヤニヤといやらしい笑みを隠しもしない。

 リリーの後ろからやってきた男子生徒が、ずぶぬれのレイブンクロー生に肩を貸して歩み寄ってくる。すでに傷だらけの疲れきったような顔は、ハリーに一瞬で誰かを知らしめた。

 

『おいムーニー! 君が連れてきたのか!』

『僕としては、君たちの喧嘩がエスカレートした結果、またマダム・ポンフリーの世話になるんじゃないかと思ってね。彼女はシリウス以外で君を止められる人材だろう?』

『だからって君は、』

『ちょっとポッター黙ってなさい!』

『い、イエスマム』

 

 騒がしい中、ハリーは嫌な顔をしていた。

 ハリーは自分が純真無垢な少女だとは思っていない。しかし、たとえ本当の両親でなくとも自分の母親になる少女が、若き父へ嫌悪と侮蔑の目を向けているというのは耐えられるようなものではない。

 ここから本当に彼らが結婚して、ハリー・ポッターという男の子が生まれるのだろうか?

 とてもではないが、ハリーにはそういう未来を幻視することはできなかった。

 

『くっ、この……!』

『セブルス、大丈夫? ほら、しっかり立って』

 

 腰を抑える若いスネイプに、リリーが手を貸す。彼女の様子から、スネイプには一定の信頼感があるようだ。しかし助け起こしてもらったスネイプは、恥ずかしそうに顔を背けて礼を言わない。この頃から既にひねくれていたのだろうか。

 一方でその様子を見ていたジェームズの顔が険しくなり、ハリーはそこでこの三人の関係性に気づいてしまった。そしてジェームズがスネイプに食って掛かる理由も自ずと悟る。

 ――親の三角関係なんて、知りたくなかった!

 愕然としていると、若いスネイプがリリーの手を振り払う姿が見える。ショックを受けたような顔をしたリリーに向かって、少年が口を開いた。

 

『よ、余計なことをするなッ。この――』

『おわァァアアーっ!?』

『うぐぉ!?』

『きゃあ!?』

 

 リリーに向かって何かを言おうとした途端、吹っ飛んできたレイブンクローの後輩がスネイプにぶつかって、それにリリーをも巻き込んで三人は団子になって転がってしまう。

 レイブンクロー生が吹っ飛んできた方を見れば、杖を振りぬいた姿勢のまま顔を青くして硬直しているジェームズの姿があった。その高い鼻が折れて血がでているところから、多分ではあるがスネイプとリリーのやり取りに憎悪を向けることに夢中になっている隙を突かれてレイブンクローの少年に殴られ、反撃したといったところか。

 レイブンクロー生が悪態をつき、慌てたスネイプがリリーを気遣う。リリーはリリーで頭を抑えて悶絶していた。

 

『むぎゅぅえええ……! 後頭部はあかん、あかんて……!』

『リリー、しっかりしろ! 女子としてその呻きはいかんし、妙な訛りが出てる』

 

 場が混沌を増し、収拾がつかなくなってきた。

 リリーを慰めるスネイプはズボンが下ろされてグレーのパンツが丸見えになったままだし、やらかしてしまったジェームズは今にも倒れそうな顔色としてシリウスに心配されている。仕返しに呪いをかけようと杖を振り回すレイブンクローの後輩を若きリーマスがなだめ、スリザリンの後輩が一人寂しくなめくじを吐き戻す。

 見ているだけで居た堪れなくなる光景だ。

 

「……これどうすればいいんだ」

「我輩と共に現実へ帰るというのは、いかがかね」

 

 思わず吐いた独り言へ返事が返ってくる。

 ジェームズと同じような顔色へさっと変色し、ハリーはその顔を振り向かせる。

 そこには天使のような笑みを浮かべたスネイプが仁王立ちしていた。若くて可愛い少年の方ではない、育ちすぎた蝙蝠みたいな中年男性になった方のスネイプだ。にっこりと笑んでいるが、目だけが太陽から遠く離れた銀河のように冷たく笑っていない。

 人間怒りすぎるとこんな表情になるのかと思ったハリーは、少年スネイプと中年スネイプを見比べる。そこでは自棄になったジェームズがスネイプへ杖を向け、パンツをずり下ろしたところだった。

 

「見んでいい」

「ぐっ!?」

 

 ばちんと平手打ちを食らったかと思うほど勢いよくハリーの視界がふさがれた。

 教授の名誉を思って、感想は言わないでおく。後輩やリリーが絶叫する声もまた聞き流すことにした。ついには取っ組み合いの殴り合いを始めたヤングジェームズとヤングスネイプを視界の隅に収めているうちに、ハリーはスネイプに連れられて肉体が消滅していくことに気づいた。喧嘩する子供たちの姿が消えゆき、ついには揺らぐ幻のように記憶の世界から消え去った。

 

「――――、」

「……あ、あの? 先生?」

 

 開心術の世界から帰還すると、ハリーは自分のブラウスが大量の汗で湿っていることに気づいた。リリーの介入によってただの子供同士の喧嘩と成り果てたが、それ以前の光景を思い出すとどうしてもうこうなってしまう。

 誇り高き自分の父親、ジェームズ・ポッターの晒したあの醜態はなんだ。

 

「傲慢な男だったろう」

「ぐっ!」

 

 ぼそりと囁くスネイプの言葉を否定する材料がない。

 愛する父親を侮辱されたというのに反論できないストレスがハリーへ襲い掛かった。

 

「鼻持ちならない、目立ちたがり屋の、いけすかない、お調子者」

「う、ぐ……ぐぐぐ……」

「挙句、意地を張ってリリーへ怪我をさせた愚か者」

「ぐぬぬ……」

 

 悔しいが、まったく持ってその通りである。

 おそらくあれは、ハリーと同年代の頃だろう。気に入らない奴にちょっかいをかけて、後先考えない手段で攻撃し、誰かに阻止され、それを何とかしようとしてまた立場を悪くする。……あれではやってることがスコーピウス・マルフォイと同じではないか! ハリーは自分の父親がスコーピウスと似てるとか絶対に嫌である。小物なんてレベルじゃない。

 ねちねちといじめてくるスネイプの言葉を聴きながら、ハリーは唸るしかなかった。

 

「本日の課外授業はここまで。寮へ帰りたまえ」

「えっ」

「不愉快で素っ頓狂な声にグリフィンドール一点減点」

 

 突然の減点に、ハリーは慌てて帰り支度をする。スネイプが怒りの表情を浮かべているため、これ以上彼の前に居ては何をされるかわかったものではないからだ。

 だからだろうか。ハリーはスネイプの瞳の奥に、懐かしさを感じる色があることを見逃してしまっていた。

 

 また別の日、ハリーはハーマイオニーとロンを連れて聖マンゴ病院へと訪れていた。

 ウィーズリー氏への見舞いを済ませ(お土産にマグル製のホッチキスを持っていったところ、飛び上がらんばかりに大喜びして傷口が開いたため担当癒者に激怒された)、ハリー達は廊下を歩いてゆく。

 着いた場所は特殊魔法癒療病棟と呼ばれるフロア。ひと気がなく、物寂しい雰囲気が病院特有の不気味さを増している。ロンが見せている情けない顔をハーマイオニーと二人でくすくす笑いながら、目的の待合室へとたどり着いた。

 そこには赤みがかった色合いのタータンチェックのシャツを着て、ベージュのスラックスを履き、ヌンドゥが飛び跳ねたイラストがプリントされたパチモンくさい帽子をかぶった老人が座っていた。

 

「おお、よく来たのうハリー。それにミスター・ウィーズリーにミス・グレンジャーも」

「こんにちは、ダンブルドア先生」

 

 誰あろう、アルバス・ダンブルドアその人だ。

 ハリー達は彼の姿を見てずいぶんと似合わない格好をしていると思ったが、それを顔に出す真似はしなかった。仮にも校長先生である。礼を失するわけにはいかないのだ。

 

「それじゃあ、早速じゃがはじめるとしようかの」

「……あの、校長先生。大丈夫なんでしょうか?」

 

 ハリーに手を差し伸べたダンブルドアに、ハーマイオニーが恐る恐る声をかける。

 ちょうど扉を開けて出てきた癒者へ挨拶をしてから、ダンブルドアはハーマイオニーへ向き直った。きらきら輝くブルーの瞳を細めて、微笑んで問いに答える。

 

「何も心配することはない。あっちをこちょこちょ、こっちをチョコチョコするだけじゃて。優秀な癒者がそろっておる、三〇分もかからんじゃろう」

 

 この返しに、それでも安心できないのかハーマイオニーの表情は晴れない。それに対してハリーが彼女の肩をたたき、笑顔を見せて言う

 

「なに、別に手術しにいくわけじゃないんだ。ただの検査だよ、検査」

「それでも心配だよ」

 

 ロンがそう言うと、確かにハリーも心配になる。

 今回聖マンゴへ来たのは、なにもウィーズリー氏のお見舞いに限った話ではない。

 昨年から彼女自身の持つ身体についての疑問を解決するための魔法的な精密検査があるのだ。寿命に関することは現代癒学でも

 ハリー・ポッターが――『ハリエット』がヴォルデモートの作り上げた人造生命体である事実は、ここにいる人間以外では手の指で数える程の人数しか知らないことだ。

 最強の闇祓いアラスター・ムーディは防衛上知っておく必要があった。解呪の模索には日本魔法における呪いの専門家ソウジロー・フジワラにユーコ・ツチミカドが協力している。そして身内といってもいい二人には当然教えてある。恩師リーマス・ルーピンに、愛しの家族シリウス・ブラック。

 これにダンブルドアとハーマイオニー、ロンを加えた程度が、ハリーの正体を知る人物だ。

 中年の女性癒者に連れられ更衣室へ入ったハリーはローブを脱ぎ、ブラウスのボタンをはずしてゆく。スカートのジッパーを下ろしてすとんと床に落としながら、彼女は思う。

 以前の自分なら、自身の正体など誰にも言えなかっただろう。それは間違いない。

 ルーピンにシリウスは、もともと彼女の正体を知っていた節がある。ポッター夫妻と親友であるならば、生まれた子供が男の子であることを重々承知していたからだ。ハリー少年ではなく無傷のハリエットが残されており、その上で夫妻の遺体の惨状を知ったならば、賢い二人はヴォルデモートがポッター家に何をしたか自ずと気づくだろう。

 ダンブルドアからムーディに知れるのも理解できる。ほとんどの闇祓いに対して親交があり信頼の厚い彼が知ってさえいれば、ハリエットに関係する闇の出来事に関して適切な行動が取れるだろうからだ。

 ただし、ハーマイオニーにロン、そして解呪のためとはいえソウジローとユーコに対して知らせるかどうかは別問題だ。この四人にだけは、ハリーが自分の口で打ち明けた。無論、ウィーズリー夫妻やローズマリー・イェイツといった他の親しい人たちへ知らせることも考えてはいたが、むやみに広めるものでもない。それに彼らは『ハリエット』が作り物だと知ったところで態度を変えるような人間たちではないことも、ハリーはよく知っている。

 

「ずいぶんと、変わったもんだ」

 

 検査用の患者衣に着替え終えたハリーは一人呟く。悪い気はしないのが不思議だ。

 日本のジンベイみたいな患者衣は、少しでも動けばふとももがぎりぎりのところまで丸見えになるくらい丈が短い。ユカタみたいな構造であるため、胸元も開放的で傍から見るとばかみたいな格好だ。この下は何も付けていないのだから、ちょっと……いやだいぶ恥ずかしい。少し照れているハリーを見て、たっぷりした腹を揺らして笑う中年女癒に連れられて検査室へ向かった。

 まずは採血。よぼよぼの爺さん癒者がぴかぴかに磨かれた清潔な杖をハリーの二の腕に押し当てる。すると赤みがかったシャボン玉がふくらみ、その中にハリーの血液が注がれていった。

 注射器代わりだろうかと興味を持つも、そのシャボン玉はふわふわとどこかへ運ばれてゆく。血染めのシャボンが五つほど作られたあと、ハリーは看護師のおばさまから何かのジャーキーを手渡された。食べてみたところ、ずいぶんとコショウが利いておりかなり辛かったが、何とかそれを喉の奥へと送り込む。すると体の心から熱いなにかが全身へ広がっていく感覚を覚えた。看護師さん曰く、血液を増やす効果を持つ魔法生物の肉だそうだ。……何の魔法生物かは聞かないでおいた。調べて見た目を知りたくない。

 次に舌を出してくれというのでべーっと出したところ、杖先で首筋をさすられる。すると蛇口をひねったかのようにトロトロと唾液が出始めた。気色悪いと思いつつも、看護師のおば様がクリスタル製と思わしきフラスコでハリーの唾液を溜めていく。その後に渡された魔法薬の味は、自分の唾液と同じだった。 

 

「ふごふご……むにゃ……」

「先生は患者衣を脱いで横になってくれと言っておりますわ、ポッターさん」

 

 本当にこの爺さん大丈夫かなと思いながらも、ハリーは薄布を取っ払う。

 生まれたままの姿ではあるが、御歳三桁を越えているらしいジジイ相手に恥じらいも何もあったもんではない。一応の礼儀として胸を隠しながら、ハリーは寝台へ横になった。

 

「ふがふが」

「痛かったら教えてくれとのことですわ」

 

 爺さん癒者が杖を持ち、ハリーの身体のあちこちを指し示してゆく。

 くすぐったくはあるが痛くはない。そしてこの場にいる癒療関係者が全員ハリーの身体を注視しているので、だいぶ恥ずかしくなってきた。思わず要所を手で隠したところ、痩せぎすの若い女癒に「隠さないで下さい」と言われてしまった。

 特に気になるところはなかったようで、満足そうに頷いた爺さん癒者はモゴモゴ意味のなさそうな事を呟きながら、検査室を去っていった。もう患者衣を着ていいのだろうか。とりあえず衣を羽織りながら身体を隠していると、恰幅のいい老魔女が検査室へ入ってきた。

 その助手らしき年若い魔女が分娩台のようなものを押してきたのを見て、ハリーは今後一切の恥じらいを捨てる覚悟が必要であることを悟った。幸いにしてこの部屋にいる癒療関係者も女性ばかりだ。

 やるしかないのだ。

 

「……ハリー、なんか魂が抜けてるわよ」

「女に生まれなきゃよかったぜ」

「何いってるんだハリー……」

 

 あらゆるところを見られた。

 なんていうか思春期の十五歳にはキツい体験であった。

 いまのハリーは、患者衣のままローブを羽織った服装である。若干露出の激しい状態ではあるが、この待合室にはダンブルドアの計らいで誰も来れないようになっている。そのため、ロンが恥ずかしい思いをするくらいなのでたいした問題ではない。

 この後は皮膚に少々残っている傷跡を消してくれるらしい。あまり気にしたことはなかったが、内臓関係を調べる際にガタイのいい中年男性の癒者が「レディならお肌を美しくしなきゃいけないワ」とくねくねしながら忠言してくれたため、せっかくならということで治療を決めたのである。特に昨年切断された足の傷を治すための準備に時間があるらしく、こうして暇な時間ができてしまったのだ。

 

「そういえば、さっき癒者から話を聞いてたダンブルドアが悩んでたぜ」

「あの人が?」

 

 ハリーがハーマイオニーとぺちゃくちゃとお喋りをしていたところ、ふと思い出したようにロンが口を挟む。それに対してハリーは、あの老人が案外老いた人間らしいところがあることを思い出し、思わず問いかけた。

 

「え、なに。悪い話?」

「いや、そうじゃないみたいだぜ。癒者の話が聞こえてきたんだけどさ。ハリー、君ったらまったくの健康体みたいだぜ」

「なにそれ? ものすごーくいい話じゃない!」

 

 ロンの言葉に、ハーマイオニーがうれしそうな声をあげる。

 なんの異常もないことはいいことなのだ。しかしその表情を曇らせたのはハリーだ。どうしたのかと二人が聞けば、ハリーは苦虫を噛み潰したかのような顔で言う。

 

「今回は、ぼくの寿命がどれくらいあるかの検査だったよね」

「そうだね。でも健康だったなら、普通の状態って事だろ?」

「まさにその通りだ。でも、ぼくがヴォルデモートなら、人形にそこまでの寿命は与えない。長くて二〇年……ホグワーツ卒業程度の間生きていれば、役目は果たせるからだ」

 

 あくまで自分を無機物であるかのような物言いにハーマイオニーとロンは眉をひそめたが、ここで噛み付いては話が進まない。ハリーも二人の気持ちがわかっているのか目で謝りながらも話を続ける。

 自分のために怒ってくれる友人を無碍にするほど、もうハリーも子供ではないのだ。

 

「じゃが、結果としてハリー。君は健康そのもの。少なくとも十七や二〇で寿命を迎えるような肉体の損耗はしておらん。医学的にも、癒学的にもの」

「……ええ」

「本来ならば喜ばしいことじゃ。しかし、……じゃが、しかし……そうであるならば、あやつが。ヴォルデモートの思惑が読めないのじゃ」

 

 ダンブルドア含め、ハリーたちを不安がらせるのはまさにそこである。

 元々二〇世紀現代の魔法界における魔法学レベルでは、人間の寿命や魂、脳についての理解はほとんど進んでいない。一六〇四年にマンゴ・ボナム医師が書いた『魔法族の脳と魂における関連性』という著書が、現代における最新の学術書だ。

 十八世紀終盤に、ボナムの設立した聖マンゴ魔法疾患障害病院に勤めるアンティノウス・ブラック医師が提唱した『純血魔法族の魂とそれがもたらす崇高な魔法』がでっち上げだった以上、現代から四〇〇年近くの時代を遡る必要があるほど研究が進んでいない分野でもある。

 しかし恐らく、ヴォルデモートが闇をもたらし悪が跋扈した暗黒時代。ほんの十数年前の数年間のことであるが、その期間で驚くほど癒学的研究は進んでいる。特に午後からハリーが受けるように、傷を治すことに関する分野は数世紀ほどの技術革新があったと言われているのだ。

 であれば、研究者としても優秀なヴォルデモートのことだ。何かしら掴んでいるのかもしれない。

 哀れなマグルやマグル出身の魔法族、または混血の魔法族を用いた人体実験によって、ある程度の脳や魂における研究を進めているのかもしれない。あまりにもおぞましい悪の所業は、癒療的見地から見れば一種の教科書になってしまうのは魔法史が明らかにしている。

 だからこそ恐ろしい。

 癒学の研究は、一度技術革新があれば一気にレベルが飛躍するのだ。もしヴォルデモートがその知識を手にしていて、なおかつその未知の技術をハリエットへと流用していればこちらとしてはお手上げである。棍棒を握ってぶーぶー唸るサルが、重火器に身を固めた特殊部隊に勝てるかと問うようなものだ。

 ハリーやダンブルドアが恐れているのはそこである。『あの外道が超技術をハリエットに仕込んでいるのかどうかもわからない』のだ。むしろ、肉体の残り稼動年数(じゅみょう)が少ないとわかったほうが対処方法を探せるだけマシなのである。

 

「悲しいことに、ヴォルデモートの発想力は我々を大きく上回る。こと、悪辣で邪悪なアイディアにいたってはわしでも想像がつかん」

「自分が狡賢いってことはわかってるんですね」

「だめよハリー」

 

 思わずハリーの口をついて出た言葉に、ハーマイオニーが注意を飛ばす。

 ダンブルドアへの負の感情を増幅させる呪いは健在なのだ。『ハリエット』と言うシステムのひとつとして組み込まれているため、思わず彼へのキツい物言いが飛び出すことが多い。

 眉を上げて、ダンブルドアへ頭を垂れるとくすくす笑われた。

 

「よいよい、まぁ事実じゃからの。さておいて、ハリーや」

「はい」

 

 ブルーの瞳をきらきらさせたまま、ダンブルドアは厳かに言う。

 

「何かあれば、すぐわしへ連絡せよ。君の愛する家族、シリウスでもよいの。よいな、ハリー。些細なことであっても、必要と感じなくとも、不思議なことであればなんでも言ってほしい」

「……ええ」

「迷惑などとは思わんし、わしらは君に頼ってほしいのじゃ。君のことが大好きだからこそ、君の力になりたい。それは君の親友たちも同じじゃろうて」

 

 ダンブルドアの言葉に、ハリーは微笑んで頷いた。

 二人の親友もまた首肯し、笑みを浮かべてくれる。子ども扱いしないでくれと怒る気持ちはわいてこない。ハーマイオニーとロンは当然として、これでもダンブルドアは真摯にハリーのことを心配しているのだ。それがうれしくないはずはない。

 それに、子供扱いされて怒るのが真の子供であると彼女は知っているのだ。

 

「よいなハリー、用心せよ。なにせ、」

「どれほど警戒しても、しすぎるということはない」

 

 ダンブルドアの言葉を引き継ぐように言えば、彼は半月型の眼鏡の奥で、その瞳を細めた。

 変な意地は張るまい。いまはヴォルデモートのことをどうにかするのが、一番早く解決すべき問題だからだ。

 

「まったくもってその通りじゃ、ハリーや」

 

 満足そうに頷いたダンブルドアは、白く長いヒゲの奥でにっこりと微笑んだのだった。

 




【変更点】
・ハーマイオニーも聖マンゴへ
・ブラック家への到着タイミングと、迎えに来る騎士の変更
・さらっと原作より重傷だったアーサー。退院できず
・クリスマス休暇中にロングボトム家と会わず
・スニべルスにも友達くらいいたさ
・ハリエット健康体

【オリジナルスペル】
「ウォークス、透き通れ」(初出・56話)
・声に関する魔法。酷い訛りも美しいクイーンイングリッシュに翻訳する。
元々魔法界にある呪文。ホグワーツでは訛りのある子へ悪戯に使われることもある。


お久しぶりでございます。
私事が片付いたため私は自由だ。そちらは活動報告で。
今回は聖マンゴへのお見舞いとスネイプの過去、そして健康診断です。アンブリッジがいなくてもロックハートがいる。五巻の登場人物はほんとテンション高いぜフゥハハァ。子供たちには言っておりませんでしたが、アーサーの傷はだいぶ深かったので原作より見舞いのタイミングなどがズレた結果、聖マンゴでネビルと会っていません。……何ヶ月も血まみれのアーサーを放置したからね、重傷なのもシカタナイネ。
次回はDAメンバーの仕上げと餅カエル大暴れ。ハリーズブートキャンプは善良なホグワーツ生をバトルジャンキーへと魔改造できたのでしょうか。
ところで活動報告の方には出していますが、ハリーの誕生日絵も描いていたりしました。お納めください。
【挿絵表示】


※間違いを修正。原作の思い出が強すぎて改変部分を忘れる体たらく。

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