ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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8.半人間の末路

 

 

 

 ハリーは吐き気を催していた。

 DAという集会を行った罰則として、アンブリッジの下着を洗濯しているからだった。ほかのメンバーは、例の闇の魔道具としか思えない羽根ペンを用いた書き取り罰則であることを考えると、申し訳ない気持ちにもなり、酸っぱい匂いのするブラジャーをつまんでいることもあって、胃の中のすべてを戻してしまいそうだった。

 アンブリッジが新しいホグワーツ校長として就任したニュースは、学校中を駆け巡った。信じたくないと感じた人間が大多数を占めていたのは、当然のことだろう。同時に、ホグワーツ校舎から新校長とは認められず、校長室へ入れずにアンブリッジが床に転がって両手足をバタバタと動かして癇癪を起していた姿も学校中に広まっている。

 教育令なる決まり事も、次々とホグワーツに敷かれた。不純異性交遊を防ぐため男女はお互い三〇センチ以上近づいてはならない教育令、魔法省の定めるカリキュラム以外の勉強を禁ずる教育令、教師が自身の教える科目に関する内容以外の情報を生徒に与えることを禁ずる教育令、アンブリッジへの悪口雑言を禁ずる教育令、アンブリッジに会う際は逃げずに微笑んで可愛らしく挨拶することを義務とする教育令、数えればきりがない、下らぬ意味のない命令がホグワーツのすべてに敷かれていた。

 こうなってはもはや、ホグワーツは教育機関として破綻している。ホグワーツ教育令第二十三号によると、アンブリッジは魔法省の定める基準に満たない教師を解雇する権限を有するらしい。魔法省の定める基準とは、すなわちアンブリッジの気分だ。ハリーにとってあまり面識はないものの、占い学のトレローニー教授がかつて使用していた私室には、いまハリーが洗ったばかりのアンブリッジの私服が所狭しと干されている。ハリーにはさっぱりわからない趣味だが、アンブリッジは部屋干しした衣服の隅々までフローリスのホワイトローズを吹き付けることを好むらしい。マグル製品だというのに愛用するとは、相当なこだわりがあるようだ。上品な香りも、ボトル四本ほどを使い切って部屋に充満させると悪臭になることをハリーは思い知った。

 

「こんな調子で、ぼくはOWL試験を受けられるんだろうか?」

「おかえり、ハリー。でも不思議と、授業は受けられるのよね。不気味だわ」

「ああ、ただいま。それはね、ハーマイオニー。アンブリッジ曰く、授業を受けるのは学徒の権利であり、それを奪う権限はわたくしにはありませんわ。まあ、戦闘訓練などというたわけたことをしない限り、わたくしは学業を阻みませんわよ。……だってさ」

「思いっきり阻んでるじゃないのよ、あの××××女。××してやりたいわ、××××」

「ごめん聞き取れなかった。ああ、結構。いや、いい。言い直さないで、聞きたくない」

 

 アンブリッジの不思議なところは、こういう点だ。ヴォルデモートへの恐怖から自制心という良心のブレーキが吹っ飛んでしまったファッジによって、彼女には過剰なまでの権限が与えられている。

 生徒への体罰が許される時代は、はるかな過去に置いてきたはずである。中世のような価値観が途絶えていない魔法界においても、子供への暴力といった悪徳は許されない時代になっているのだ。だというのに、アンブリッジはそれを正当で子供の教育に必要なものだと、大真面目に考えている。おそらく彼女の家庭環境に問題があったのだろうが、被害をもたらされる側としては知ったこっちゃない。その辛かった出来事を他者にも強要するのは、あまりにもナンセンスだ。

 

「やあハリー、ハーマイオニー。今しがた一〇〇点の減点を喰らったところさ」

「やあボス、そして真のボス。ガマガエルと目が合っちまったのが運の尽きさ」

 

 同じ声が違うセリフを吐き出しながら、獅子寮の談話室へとやってくる。フレッドとジョージの手には包帯が巻かれており、その白が徐々に赤く染まってゆく様に気づいたハリーとハーマイオニーは、あわててふたりを暖炉前のソファへと座らせた。

 平気だからと突っぱねる双子を杖で脅して、二人は彼らの手の甲の治療を開始する。ただでさえDAメンバーの一員ということで目を付けられているのに、反抗的な態度を隠しもしないために双子のウィーズリーは、アンブリッジにとってすっかりお気に入りになってしまった。あの血を吸ってインク代わりにする羽根ペンは、どうやら何度も使用していると傷が残るようになっているらしい。こんなものをマクゴナガルが発見した日には、ホグワーツの一角が怒りで爆発してしまうかもしれない。

 

「それとハリー、君は終生クィディッチ禁止らしいぜ。無論、僕たちもだけどね」

 

 今すぐにハリーの怒りがホグワーツの一角を爆破してしまいそうな様子を見て、ハーマイオニーが慌ててハリーを抱き寄せる。炊きつけるなと双子をにらみつけると、ふたり同時にへらりと笑った。

 憤りを隠しもしないフレッドと比べると、ジョージは幾分か落ち着いていたが、それでも怒りに燃えていることは隠しようもなかったようだ。ハーマイオニーが魔法薬の材料箱から持ち出してきたマートラップの触手からエキスを抽出し、ジョージの手の甲へと優しく塗り付ける。彼はその際の痛みに顔をしかめるものの、どうやら具合がよくなってきたようで、脂汗は引いたようだ。

 

「グリフィンドール生には、クィディッチという危険なスポーツを許すわけにはいかないんだってさ! あんのクソババァ、ついに越えちゃいけない一線を越えやがったな」

「クィディッチが危険だったら、なにをしたって危険でしかないさ。あんな刺激的なスポーツ、ほかにないね。あのババァの頭にブラッジャーをふたつとも叩き込みたいよ」

 

 どうしてハリーまでクィディッチ禁止にされてしまったのかはわからないが、こうなっては黙っていられない。すぐにでもアンブリッジを叩きのめして、学校から追い出さねばハリーにとっての平和な日々は消え去ってしまう。クィディッチのできない人生、それは想像だにできない地獄だろう。考えるだけでも恐ろしい。

 しかしジョージがどうやってアンブリッジをとっちめるのかと問うてくれば、その答えをハリーは持ち合わせていなかった。

 

「DA活動がバレた時点で、もう詰みだったんだろうか」

「おやおや、我らが偉大なるボスのハリー様らしくもない発言だね」

「まあまあ、無理を通して道理を叩き壊すのが君ってやつだろう?」

「かよわい乙女に向かって、どういう言い草だよ」

「「ゴリラがなんだって?」」

「ハリー杖をしまって、ふたりは怪我人よ」

 

 次の日の朝、ハリーは眠気を押し殺しながら鏡の前で髪を梳く。

 アンブリッジによってほとんどの私物を没収されてしまったが、身嗜みを整えることに口うるさい彼女は、ハリーから化粧品や鏡を取り上げるような暴挙は行わなかった。いま使っている手鏡は、シリウスのくれた《両面鏡》だ。アンブリッジが血眼になって探している人物からの贈り物にして連絡手段を、彼女が見抜けなかったというのはハリーにとって痛快なことであった。昨日の夜も彼とお喋りしていたことをアンブリッジが知れば、どれほど悔しがることだろう。

 《マダム・ダイヤモンドのシャープな櫛》を私物入れに戻し、ハリーは思案する。フレッドとジョージが何か悪だくみをしているということは察することができたが、ハリーとハーマイオニーでは二人を止められそうにもない。ロンでは止めるどころか、一緒になって悪だくみに参加することだろう。こういう時こそパーシーがいればと何度も思うのだが、彼はホグワーツを卒業してしまった。しかも魔法大臣付き秘書であるため、助けは期待できないだろう。

 ハリーはハーマイオニーと別れ、亜空間から透明マントを引っ張り出してかぶると、急ぎ足で廊下を歩いて変身術の教室を目指す。その途中でアンブリッジ親衛隊の皆々様とすれ違ったが、だれひとりとしてハリーの存在に気がつく者はいなかった。グレセント・クライルがぶーぶー唸る姿をスコーピウスが笑っている様に舌を突き出して見送ると、その後ろを歩いていたドラコがこちらを振り向く。声を出していただろうかと思ったが、そんな阿呆な真似はしていない。だというのに、ばっちり目が合っている。

 アンブリッジの部屋にて戦った際に、彼もまた油断ならない男であることを再認識していたというのに、うっかりしていた。まさか、視線を感じて振り向くとは!

 

「どうした、ドラコ?」

「誰かに見られていた」

 

 やっぱり視線を感じていやがる。

 つかつかと高級な靴を鳴らして歩み寄ってくるドラコを前に、ハリーは走って逃げるかどうかを迷った。その逡巡があだとなり、もう彼は目の前にまで迫ってきた。

 極力気配を殺して壁に張り付くようにして避けるも、まさに目と鼻の先にドラコの顔がある。これ以上近寄られると、胸が当たる。そんなマヌケで恥ずかしい発見はされたくないので、暴れまわる心臓の音を押しつぶすように胸を押さえて、じっと息をひそめる。

 ……やけに顔が近い。ルシウス・マルフォイの若いころと瓜二つなのだろう、薄い灰色の瞳がよく見える。ちくしょう、よく見ればかなり整った顔立ちをしている。スリザリン女子の人気をほぼすべて一人でかっさらっている理由は、決して家柄と金だけではない。どことなく顔のパーツがシリウスに似ているのは、ブラック家の血も流れているからだろう。正直言って、清潔にしているシリウスはハリーの好みのド真ん中にいる顔立ちだ。つまりドラコも、好みの顔をしている。だが相手は、ドラコである。彼だけは違う。彼を異性として見るなど、ばかばかしい。ありえない。笑ってしまいそうだ。いや笑ったらバレる、我慢するんだハリエット。

 ハンサムボーイを前にした思春期の少女特有のサガであると言ってしまえば全世界の女性から失笑を買うかもしれないが、ハリーにとってかなり苦しい時間が終わりを告げたのは、彼女の背後に飾られていた絵画から、わめき声が飛び出したからだった。

 

『じっくり私を見つめて、何か用かね! よもや敵か! このカドガン卿にお任せあれ!』

「……絵画なんかに用はない、失せろ」

 

 絵画のカドガン卿が騒ぎ出すと、うっとうしく思ったのかドラコは吐き捨てて踵を返した。不思議そうな顔をするスコーピウスと、お菓子をむさぼるクライルを連れ立ってドラコは去っていく。

 助かった。バクバクとやかましい心臓を抑えながら、ハリーはその背を見送った。

 目の前にいる手柄を逃す大間抜けめ、二度と来るなバーカ。そう内心で罵倒すると、勘の鋭い彼はまたもこちらを振り向く。どれだけ感覚が鋭いのか、とあきれたハリーは、今度こそこの場から立ち去ることを選んだ。本当に愛おしきアイドル・アンブリッジ親衛隊の隊員たちに見つかれば、日が暮れるまで面倒なことに付き合わされるだろう。

 変身術の教室前にたどり着いたハリーは、ドアをノックする。「どうぞ」とマクゴナガルの声が聞こえれば、するりと扉を開けて教室の中へと入りこんだ。それからようやく透明マントを脱げば、誰もいないはずなのに扉が開いた不自然な光景に目を丸くしていたマクゴナガルが呆れたように溜息をつく姿が目に入る。

 広い変身術の教室には、マクゴナガルとハリーの二人しかいない。五年生にもなれば、もう卒業は間近だ。今年度も残すところ、あと三ヵ月だ。それはつまり、ハリーは残り二年しかホグワーツにいられないということだ。

 そう、この月曜日は進路指導のお時間なのだ。

 

「おかけなさい、ポッター」

「はい先生」

 

 てっきり変身術の教室内で行うものだと思ったが、その教室のさらに奥に設置されている扉をくぐって、マクゴナガルの私室まで通される。シックな調度品でまとめられている、じつに大人の女性の部屋である。アンティーク趣味ではなく、かといって地味でもない。落ち着いた色合いの部屋は、ハリーにとって安心できるものであった。

 椅子に座ると紅茶を用意され、勧められるまま一口だけいただく。ダージリンのよい香りが鼻を通り、さらに心をゆったりリラックスさせる。ハリーはレモンを入れず、ストレートで飲むタイプだ。マクゴナガルが綺麗な琥珀色にレモンをほんの少し垂らす姿を見ていると、ふいに彼女の口が開かれる。

 

「O.W.L.試験まで、あと一ヵ月ほどです。どうですか、ポッター。勉学の方は、はかどっていますか?」

「まあ、いまこうしてノイローゼになっていないことを見ていただければ」

 

 冗談めかして言うと、視線だけをこちらへ向けられる。

 変身術の教室ではなく彼女の私室へ通されたのだから、くだけた物言いでも構わないだろうと思ったのだが、どうもそうではなかったらしい。相変わらず、身内びいきをしない教師だ。

 

「よろしい。あなたは多少、いえ結構……だいぶ落ち着きのない女性ですけれども、しかし優秀な魔女であることは確かです。ですので、六年生および七年生へ進級するにあたって、ほとんどの科目は自由に継続することができます」

「ほとんど?」

「ポッター、あなた古代ルーン文字学は習得できたのですか?」

「うぐッ」

 

 実はそうなのである。

 ハリーはほとんどの科目を優秀な成績「E・期待以上」で納めており、それは同じ科目で考えれば、勉学における学年上位一〇位以内の常連である監督生たち(ただしロンは除く)と並び立つほどの成績なのだ。

 そして三年生からの選択科目である、古代ルーン文字学。これはゲルマン人の魔法族が使用していた、文字通り古代の文字体系である。日本魔法では武術における体の動きを呪文として扱い、魔法を発動させる技術がある。それと似たようなもので、古代ゲルマン魔法族は文字ひとつを刻むだけで魔法の呪文として用いていたのだ。ただし、ハリーはこれをまったくといっていいほど習得できていない。現在の成績を計算してみると、おそらく「P・不可」だろう。

 情けない限りである。もちろん、勉強していないわけではないのだ。ルーン文字は刻むだけで効果を発揮することのできる魔法学問であるため、現代魔法において物体に魔法効果を封じ込めるという手間を省くことができる。たとえば地面に『Isa(イーサ)』のルーン文字を刻んでおけば、踏んだ者を氷の槍で串刺しにする即席トラップを造ることさえできるのだ。

 しかし残念ながら、ハリーはルーン文字を刻んでも上手に発動できたためしがない。バブリング教授はハリーの刻むルーン文字を見ても間違ってはいないし魔力の込め方も変ではないと言っていたので、こうなればもう単純にハリエットという少女にルーン文字との相性が悪すぎるのであろう。筆記だけならば「A・まあまあ」であるため、実技でダメになってしまっているというわけである。

 

「ええ、ポッターがルーン文字学を継続することは難しいとバスシバも言っていました。他に力を入れた方が、賢明でしょう」

「……残念です」

「こればかりは仕方ありません。そしてポッター、あなたが将来なりたい職業によって、受ける授業を決める必要が出てきます」

「うーん……将来、ですか」

 

 マクゴナガルの言葉に、ハリーは渋った声を出す。

 それを訝しく思ったマクゴナガルは彼女にじろりと目を向ける。

 

「ポッター、あなたは大人になった自分を想像したことがありますか?」

「正直に言うと、ないです。大人に成長できるまで、生きられるか分からなかったから」

 

 すべてはヴォルデモートに帰結する。

 マクゴナガルは、ハリーが《ハリエット・ポッター》ではなく、ただの《ハリエット》であり、闇の帝王が手ずから作り上げた人形であることを伝えていない。しかし不死鳥の騎士団団員であり、ジェームズ及びリリーと知り合いであったことから、生まれた時点でハリー・ポッターが男の子であったことを知っていても、おかしくはない。それが少女として生きているのだから、彼女は事情を察していると考えても不自然ではない。

 そして、厳しくも親身になって接してくれた人でもある。ある程度、ハリーが自分に未来がないかもしれないと考えていることを、察していてもおかしくはないだろう。

 

「それは今までの話です。ダンブルドア校長から、寿命に関しては心配ないとお聞きしましたよ。それから考えたことは、ありますか?」

「ないです。将来就く職業より、ヴォルデモートをいかにして滅ぼすかが、ぼくにとっては重要です」

 

 きっぱりと言い切ったハリーに対して、マクゴナガルは深々と溜息をもらす。

 結構な決意と共に意思表明したというのに、この反応はいかがなものだろうか。そう考えていると、マクゴナガルはハリーをじろりと見つめて言葉をこぼした。

 

「あなたが闇の帝王を倒したあとを想像してごらんなさい」

「だから、ぼくは――」

OWL(ふくろう)試験やNEWT(いもり)試験を受けていないことで、望む職業に就けず。あなたの勝気な性格では客商売も難しいでしょうから、ダイアゴン横丁で自営業を営むこともできないでしょう。するとあなたに就ける職業の幅は、この時期から準備している同期たちと比べると大きく狭まってしまいます」

 

 ハリーは、大人になった自分が丈の合わないボロの服を着て、ハグリッドに森番を手伝わせてほしいと懇願する未来を想像した。そしてハグリッドに叱咤されながら、切り倒した木材を汗水流して魔法生物たちのもとへ運ぶのだ。

 あわてて想像の世界を打ち消した。ハグリッドの仕事をばかにするわけでは決してないが、勘弁願いたい世界である。

 

「……で、ですけど。ほら、ぼくの戦闘能力なら闇祓いに」

「闇祓いに就職するには最優秀の成績が必要になります。最低でも五科目で『E・期待以上』が求められ、実際の戦闘力はもちろんのこと、厳正なる性格適正テストもあり、人格的に問題ない者しか採用されないのです。実際、我が校の卒業生で最後に採用されたのはアンジェラ・ハワードだけです」

「……」

 

 ぐうの音も出なかった。

 

「ポッター。勉強は好きですか?」

 

 ハリーはこれに対して、首を傾げた。

 別にハーマイオニーと違って、ハリーは勉強が好きだから真面目に学んでいるわけではない。ヴォルデモートを打ち滅ぼすためには、多くの知識が必要だから脳みそへ詰め込んでいるにすぎないのだ。

 魔法族にとって、知識はすなわち戦闘力に直結する。知らない魔法を撃つことはできない。学べば学ぶほど、知識を得れば得るほど、強くなれるのが魔法使いという生き物なのだ。

 

「まあ、好きと言える学生は稀でしょうね。ですがポッター、将来の仕事における選択肢というのは、あなた自身の行動によって増えたり減ったりします。それは分かりますね?」

「……なんとなく」

「なんとなくでも、わかっていればよろしい。就職への選択肢は、少ないよりは多い方が、はるかに得なのです。職業蔑視をするわけではありませんが。ところで、私は魔法省が認める資格である、魔法教育資格特A級を取得しています」

 

 突然なにを言い出すのかと思えば、ホグワーツに教師として就職するには、この資格におけるB級以上を取得する必要があるとのことだった。

 ボーバトンではC級以上、ダームストラングでは資格がなくとも就職できるとのこと。つまり、教師になれるならどこだっていいやと考えて資格を取らなければ、いざというときホグワーツに就職したいと考えても、資格がないため選ぶことさえできないということなのだ。

 

「ちなみに、この魔法教育資格を取得するには、魔法省の定める一定以上の成績が必要になります」

「つまり、学生時代に勉強をしてなかった人は、その時点で教育資格は取れない。だから、卒業してから教師を志しても、ホグワーツの教師になることもできない」

「その通りです」

 

 ひどく難しい話だが、ハリーはここでしっかり覚えておかねばならないと確信した。

 いまだにヴォルデモートを倒すことが第一目標であることは変わりないが、しかし倒した後のことは考えたこともなかった。流石に無職は嫌である。

 頭の中がオーバーヒートしそうなハリーは、マクゴナガルに助けを求める目を向けた。すると彼女はすでにこちらを見つめており、こうなるであろうことを予期していたかのようだった。

 

「しばらく、考える時間を与えましょう。進路指導は、また今度もう一度やります」

 

 マクゴナガルにそう通達されて、ハイそうですかと大人しく将来を考えるほどハリーは殊勝な女ではない。

 そもそも将来のことを考えるよりも二週間先にある大問題の方がハリーにとっては考えるべき題材であった。OWL試験である。ハーマイオニーはノイローゼになりつつあるし、午前中にはハッフルパフのサマンサ・マグワイアが追い詰められるあまり発狂して医務室へ運ばれていった。

 ハリーとて余裕があるわけではない。マクゴナガルには強気に言ったものの、やはり勉強しなければ知識は詰め込まれない。どうせなら一瞬見たものを即座に記憶できる優秀な頭脳で造れよヴォルデモートのクソ野郎。と呟いたことで、ロンから冗談でもそんなことを言うべきではないと本気で怒られてしまったくらいには、余裕がない。

 一番の問題は魔法史だ。とりたてて歴史に刺激や興奮を覚えないハリーは、ビンズ教授の授業を真面目に受けているわけではない。魔法薬学や変身術は、まだまだ頭に詰め込まないといけない。寸分のミスも許されない遊びの少ない学問だからだ。薬草学や天文学については、特に問題ない。「E・期待以上」は間違いないだろう。もう少し詰め込めばそれ以上さえ狙える。かといって、闇の魔術に対する防衛術や呪文学には、何の心配もないかといえば、けっしてそんなことはない。この二科目については、「O・大いによろしい」を取りたいのだ。徹底的に点数を稼ぐ必要がある。

 勉強だ。いま必要なのは勉強である。

 

「ごめんシリウス、いまマジでヤバいんだ。追い込み。来週なんだよOWL試験は。ロンの勉強も見てやらないと」

『そうか。だがハリエット、そんなに忙しいのなら、毎晩連絡せずともいいんだぞ』

「いいんだ、シリウスとお喋りできるのが今の最大の楽しみ。それだけは奪わないで」

『愛らしいレディに、そう言っていただけるのは光栄の極みだがね。ところで、なぜロンの勉強まで見てやるんだ? 彼が勉強してないのは、彼の責任だろう。君が睡眠時間を削る必要はない』

「ああ、うん。正確に言い直そう。ロンの勉強を見てるハーマイオニーが癇癪を起こしてロンを殺さないように見張るのが、ぼくの使命だ」

『オーケー、がんばれハリエット。次の夏休みには、うまいケーキ屋に連れて行ってやろう』

「愛してるぜシリウス」

『私もだ』

 

 ハリーは《両面鏡》を枕の下に隠すと、階段を降りて談話室へと戻った。夜一〇時だというのに、ソファは五年生と七年生が占領していた。居心地悪そうに寮へ引っ込んで行く下級生を無視して、ハリーは暖炉前に陣取っているハーマイオニーとロンの元へ小走りで歩み寄る。

 乱暴にソファへ尻を乗せると、ハーマイオニーから物理的に影響が出そうな睨みをいただいた。しかし反応してやる余裕もないので、放置して魔法史の教科書を開く。目当ては一六八九年に制定された国際機密保持法だ。これは非常に覚えることが多い。そして面倒くさい。一六九二年には国際魔法使い機密保持法の制定だ。最高にややこしい。覚えれば覚えるほど、当時の政治家がろくに何も考えていないことがよく分かる。

 そしてその考えなしの煽りを喰らうのは、現代の学生たちだ。肉体も魂もすべて滅んでしまえ。もしくは惨たらしくお亡くなりになれ。三〇〇年前の人間だからもういないのだが、ハリーは呪いの言葉を吐かずにはいられなかった。

 

「ハリー、ここのパセリ文書の記述どうなってんのか、詳しく教えてくれない? ジョセフィーナ・フリントが頭をつついてどうなるんだ?」

「ロン。自分でやれ。しかもジョセフィーナは一九世紀の魔法大臣で、パセリ文書が発行された一七世紀には、そもそも魔法大臣なんて役職はない」

「難しすぎるだろう!? フリントなんてスリザリンのクソ野郎だけで十分だ。なあハリー、親友だろ。ここ代わりに覚えてくれよ」

「君はぼくの頭をつつきたいのか? いいか。ロン。黙って、書いて、覚えろ」

「それができたら苦労しないよ! 親友なら助け、おーっとごめんよ。イライラして当たってたことを謝るよ、杖をしまってくれハリー。ほらハリー、ぼくの可愛いスニッチガール」

「ロン。次喋ったらハリーじゃなくて私が杖を抜くわよ」

「……」

 

 杖を持ち出すほどにイライラしているのは、なにもハリーやハーマイオニーだけではない。談話室の隅っこで『全身金縛り』を受けて転がっているコリン・クリービー少年は、勉強の苦悩で眉間にしわを寄せるハリーの姿を美しいと評してカメラを接写乱舞していたために、やかましいと怒鳴ったパーバティに呪われたのだ。姿の見えない弟デニスの方は、インク壺をひっくり返されたディーンの手によって獅子寮から放り出された。決して悪人ではないのだが、空気を読むことができない彼らは、いま試験に向けて勉学に励む少年少女たちにとっては、寝入りばなに鼻の穴に舌を突っ込んでくるパフスケインと大差ない。

 勉強は勉強を呼び、勉強すればするほど勉強が必要になる。

 ハーマイオニーは必要な勉強を全て済ませているらしいが、彼女が目指しているのは「O・大いによろしい」ではない。それ以上の、一〇〇点満点で一二〇点を叩きだすような成績を求めているのだ。ハリーとしてはそこまでこだわる必要はないが、しかし勉強しなければ脳みそは知識を蓄えることはできないので、勉強するのだ。

 談話室の壁に欠けられている振り子時計が深夜零時を告げると、いい加減休むかとほとんどの生徒が寝室へと引き上げていく。帰りたそうにロンがちらちらとこちらを見て鬱陶しいのでにらみつけて黙らせ、ハリーは再び羊皮紙へと羽根ペンを走らせた。

 

 試験まで残り三日である。

 ハリーは自信を持つために必要な勉強をすべて終えていた。ロンには最低限のやるべきことだけを指示して、あとは放置することに決めた。ハーマイオニーは根気よく教え続けているが、これ以上自分の勉強時間を削りたくはないし、彼の頭に詰め込むだけでは彼のためにならない。彼が自分から覚えようとしなければ、知識は結局身につかないのだ。

 なぜ考えをひるがえして指示を出したのかというと、この時期のホグワーツ恒例、OWL詐欺にロンが引っかかったからだ。レイブンクローのカーマイケルが脳を活性化する秘薬を売りさばいているところを、監督生であるハーマイオニーが発見して摘発した。呆れるハリーに借金を迫ってまでそれを買い占めようとしたロンは、我らが獅子寮の才女によって脳活性薬の正体が、湿気ったサンドマンの砂であることを知った。人体には無害だが、睡眠誘発の効果があるため扱いを間違えると危険である。ハーマイオニーの手によって哀れなレイブンクロー六年生から一〇点が減点されていく様子を眺めると共に、ウィーズリーの末弟は勉学の重要性を思い知ったようだった。

 ロンの目の間にあるティーカップには、毛むくじゃらの脚が八本生えている。そのたくさんの脚をせわしなく動かしながら、中身のアップルティーをこぼさずテーブルを行ったり来たりしている様はなかなか感心させられるものと言える。

 

「どうして、僕が、蜘蛛なんかの、まねごとを、しなきゃいけないんだ。くそっ、気持ち悪い。自分の魔法だぞ、信じられない。マーリンの髭……いや鼻毛だこんなもの」

「あなたにとって、一番安定する歩行のイメージが蜘蛛なんでしょう。試験に受かりたいなら、このまま進めたほうがいいんじゃないかしら。二本足はもっと難しいわよ」

「でも僕が世界で一番嫌いなモノが蜘蛛なのは、君なら知ってるだろ。『モートゥルードゥス』、踊りまわれ」

 

 ロンの杖先からシアンブルーの魔力反応光が飛び出してカップを包み込む。すると強靭な二本の脚が生え、陸上選手のように全速力でテーブルの上を駆けて逃げていった。慌てて手を伸ばすが、アップルティーは見事にラベンダー・ブラウンの顔へと飛び込んで彼女が金切り声をあげることになる。杖を抜いてロンのもとへ駆け寄ってきたラベンダーから、ロンが悲鳴を上げて逃げ去る後ろ姿をハリーは黙って見送っていた。

 昼食を終えてロンにかけられたくらげ足の呪いを解呪してから変身術の教室へ入ると、マクゴナガルが親の仇を見るような眼でキッとにらみつけてきたので、何も言わず大人しく席へと座る。隣にはドラコが羽根ペンをがりがりと動かしており、ハリーは先日のことを思い出してどきりとする。しかし彼は隣にハリーが座ったことに気づかず、一心不乱に羊皮紙へインクを走らせている。そっとしておくべきだろう。

 授業が始まれば、そこにはグリフィンドールもスリザリンもなかった。もはや教授たちも余計なことを言うつもりはないようで、魔法省が定める試験範囲から毎年どのような問題が出題されるかを事細かに解説している。ハリーはつい昨晩まとめた部分が紹介されていることに少しほっとして、ちらとドラコの方を盗み見た。くそっ、ぼくよりまつげが長い。いやそうではない、見るべきは顔ではなく羊皮紙だ。彼が懸命に書き連ねているのは、やはり変身術の内容である。しかしその中身はマクゴナガルが言っているものよりも、はるかに難易度の高いものであった。呆れるべきか尊敬すべきか、迷うところだ。きっとハーマイオニーしか彼の行動を理解することはできないとハリーは確信した。

 

「OWLは二週間にわたって行われます。午前中は筆記試験、午後は実技となります。愚か者がいないと信じて言っておきますが、あらゆるカンニングは無駄だと警告しておきましょう。《思い出し玉》や《カンニング御用達の自動解答インク》などの持ち込みは当然禁止です。不正が見つかれば、その場で試験会場を退出することを命じられます。これの意味が分からない者はいませんね」

 

 ネビルが手を上げて言葉の意味を問おうとしたが、それは隣のロンが完璧に妨害した。

 これだけ教授陣が口を酸っぱくして警告しても、毎年少なくとも一人か二人は、魔法試験局の目をかいくぐれると思う愚者がいるらしい。その生徒がどうなったのかをハリーは知りたくもないし、ネビルが質問をすることでマクゴナガルがどれほど鬼の形相をするのかも知りたくはない。

 神経質にOWL試験について説明するのは、なにもマクゴナガルだけではなかった。呪文学ではフリットウィック先生が、毎年必ずといっていいほど出題されている問題を《基本呪文集・五年生用》の中から、こっそり教えてくれたことで尊敬の視線を集めていた。スプラウト先生は実技において緊張のあまり失敗する生徒が多かったことから、授業中にも関わらず心が安定するイフユー葉を煎じた紅茶をふるまってくれた。不思議な味の紅茶を飲むと胸の奥があたたかくなり、実技の最中にはさみを汁で滑らせない握り方のコツを完璧に覚えることができた。

 

「結果は七月中にふくろう便で通達される。いまはベストを尽くすことだけを、考えるがよい。吾輩は「O・大いによろしい」を取った生徒のみ、受講の継続をゆるしている。諸君らにそれが取れるとまでは期待しておらんが、来年はこの中の……どれほどの顔が……残っているか。じつに、楽しみだ」

 

 スネイプのねっとりした視線と明らかに個人を狙った言葉を聞き流して、ハリーは魔法薬学の教室を出た。魔法薬学については「O・大いによろしい」を何とかしてもぎ取る自信があったが、この耳に残る声を聴いてしまえば、たちどころに自信の城は崩れ去ってしまった。

 泣いても笑っても、今日から六月になる。陽の光がやさしく城の庭を照らし、ハグリッドが木々の手入れをしている姿をよく見せている。湖の大イカが楽しそうに触手を揺らしている様が見れるようになると、ホグワーツ五年生にとってこれが指し示すことは、ただひとつ。

 普通魔法レベル試験、OWL試験が始まる。

 

「おい見ろよハリー、見物だぜ。アンブリッジのババァがぺこぺこしてやがる」

 

 試験前日。夕食の席で放たれたその言葉に、ハリーのみならずフレッドの声が聞こえた生徒全員が食事を中断して(教師の幾人かも顔を動かさずに目を向けたことだろう)、素早く大広間の扉を振り返った。生徒たちの無数の目が見たのは、大広間に繋がる扉の向こうで馬面の魔法使いや腰の曲がった老魔女がアンブリッジと話し込んでいる姿だった。

 ネビルが小声で「マーチバンクスだ」と言ったことで、彼らが魔法省の定める魔法試験局から派遣されてきた試験官であることに確信が持てた。アンブリッジがこびへつらうようにして話しかけているのは、マーチバンクスという老魔女だろう。

 

「ダンブルドアからの連絡がない! あれでマメな男だ、便りを欠かしたことはないんだよ! 私ゃ、あれが今ここにやってきて百味ビーンズを勧めてきたところで、驚きゃしないね」

 

 随分と声のデカい老魔女のようで、ジョージが差し出してきた《伸び耳》はその役目を果たせるか疑問だったが、アンブリッジがごにょごにょと何かを言った言葉がこちらへ届かなかったことで、ハリーは《伸び耳》へ懸命に自前の耳を寄せる。獅子寮のテーブルについていた生徒たちが、こぞってハリーの顔に耳を寄せることになった。

 

『そうなれば、必ずや捕らえますわ。ええ、必ずですとも』

「そいつはどうかね! あの子のNEWT試験で試験官をやったのは、この私なんだからね! あれほどの杖捌きを見せる坊主は、他に見たことがない! あんたじゃ無理だね、無理!」

『お、おほ。おほほ……』

 

 ハリーはマーチバンクス女史の寿命について深淵な考えを胸に抱いたが、それについて考えだすと魔法界の常識外れっぷりを再び味わうことになりそうだったので、頭の中から追い出すことに決めた。

 伸び耳から聞こえるアンブリッジの声色から察するに、いかに傍若無人なアンブリッジとはいえマーチバンクスには頭が上がらないのだろう。

 

『長旅でお疲れですわよね、お茶でも淹れさせますわ。職員室へご案内しましょう』

「私は平気だよ! 年寄り扱いするんじゃないよ、ちびっこドローレス!」

『そ、それは言わないお約束ですわ。おっほほ、オホホホホ。ホホ……』

 

 ロンが恐ろしい愛称を聞いてしまったことで耳の穴を小指でほじり始めたことをきっかけに、《伸び耳》へ耳を傾けていた生徒たちはそれぞれの耳へ杖を突っ込んで『洗浄』した。アンブリッジの学生時代の話など、聞きたくない。ちびっこって何さ? なにかの呪詛だろうか。

 マーチバンクス女史が元気な足取りで去ったあと、アンブリッジはぎろりと馬面の魔法使いをにらみつける。どうやらこちらの男性には、強く出れるようだった。

 

『わかってますわね。必ず、ポッターを落第させなさい』

 

 いますぐアンブリッジを禁じられた森へブチ込むべきか、ハリーは判断に迷った。

 同じく《伸び耳》で状況を盗み聞きしていたハーマイオニーが憤怒の声を漏らし、それに驚いて興味を持った学生たちが、それぞれ《伸び耳》で盗み聞きしている生徒へと耳を寄せる。フレッドとジョージが作り出した《伸び耳》はずいぶんな売れ行きのようで、大広間にいる生徒の結構な人数が耳を伸ばして、彼女らの会話を聞いている。そしてアンブリッジによる堂々とした不正の命令を聞いて、皆が同じく怒りを覚えていた。このOWL試験は、将来にかかわる大事な試験である。それを一人の大人の都合で台無しにするなど、あってはならないことなのだ。

 

『ふむん。ハリー・ポッターの採点を厳しくせよと?』

『そうですわ。彼女は、学び舎にいるには不適切な不良です。これは命令です。わたくしの命令は、ファッジ魔法大臣からの言葉に等しいのですわよ』

 

 滅茶苦茶なことを言っている。フレッドとジョージが怒りに立ち上がろうとしたところで、ハリーはちょっと待ったと声をかける。

 馬面の魔法使いが、アンブリッジの顔をじろじろと眺めている姿が見える。もし試験官側が不正をするのであれば、これはもうマクゴナガルへ報告して何とかしてもらうしかない。そう考えて話を聞き続けたハリーは、続く言葉にほっと胸をなでおろすことになった。

 

『お断りします』

『……あら、よく聞こえませんでしたわ』

 

 馬面の魔法使いがきっぱりと言った言葉に、ハリーもアンブリッジも己の耳を疑った。

 魔法省側の人間である馬面の魔法使いは、その面長の顔をいっぱいに活用して、アンブリッジに向けて嫌悪の色を示している。それを不快に思ったらしいアンブリッジは、今度は猫なで声を引っ込めて、唇を引き締めて強い口調で命令を下した。

 

『命令です、ポッターを落第させなさい』

『嫌だね。と申し上げたのです、アンブリッジ魔法大臣上級次官殿。私は三〇年以上を魔法試験局に勤め、公明正大な試験官として、学生たちを見守ってきた誇りがあります』

『…………その誇りと職を失うことになりますわよ、フォウリー』

『あらゆる不正は、許されません。それは学生だけではなく、我々大人たちもです。クソ喰らえだ、俺の前から失せろ』

 

 大広間から歓声とフォウリー氏を讃える声が爆発したことで、話を聞かれていたと気づいたアンブリッジが顔を真っ赤にしてその場から立ち去る。馬面の魔法使いは、沸き立つ学生たちを一瞥すると山高帽を軽く持ち上げ、何事もなかったかのように歩み去っていった。

 どっと嫌な汗をかいたハリーは、喜びの声を上げて背中をばんばん叩いてくるフレッドとジョージに手を上げて応え、笑顔で喜んでくれるハーマイオニーとロンに笑顔を返す。

 あの馬面の魔法使いが誇りある対応をしてくれたおかげで、アンブリッジの邪悪な企みは阻止された。もしファッジのように自身の保身ばかりを考えているような人間であった場合など、考えたくもない。

 こうなれば、もう意地でも素晴らしい成績を叩きだしてやるしかない。

 

『ランドルフ・フォウリーか。あの馬そっくりな爺さんだろう。よく覚えてるよ』

「知り合いなの?」

『いや、そういうわけじゃない。私のNEWT試験では、彼が試験官だったのさ。得意の『身体強化』を披露したら、眉一つ動かさずに「次」って言われたのをよく覚えているよ』

 

 その日の夜に、ハリーは心を落ち着けるためにシリウスとおしゃべりしていた。この《両面鏡》は本当に素晴らしい道具だ。これをくれたシリウスにはいくら感謝してもしたりない。

 寝室の誰もが緊張で眠れていないことを理解していたので、ハリーは人のいない談話室でこっそり鏡を持っているのだ。現在時刻は夜の一〇時。そろそろベッドに入ったほうがいいだろう。

 

「シリウスの時は、OWL試験楽しかった?」

『試験自体は楽しいものではなかったかな。だが、私はプロングズやムーニー、そしてワームテールと過ごす毎日は、テスト期間だろうと何だろうと楽しかった。君も、ハーマイオニーやロンといれば幸せだろう?』

「そうだね。そう、その通りだ」

『そう、それでいい。友は素晴らしい宝だ。もう寝なさいハリエット、明日は暴れてやれ』

 

 おやすみ、シリウス。そう言って、ハリーは鏡を懐にしまう。

 談話室から寝室への階段を上がって、自分のベッドへと静かに入り込む。隣のベッドでハーマイオニーがまだ起きている気配を感じたので、小さな声でおやすみと声をかけるが反応はなかった。まあ、聞こえてはいるだろうから別に構わない。

 ハーマイオニーもパーバティもラベンダーも、今だなかなか眠れていないだろう中で、ハリーはただひとり深い夢の中へと旅立った。夢の内容はおぼろげではあるが、フォウリー氏にニンジンをささげていたことだけは覚えている。

 

 試験当日。

 朝食の時間になっても、五年生は余計なおしゃべりをしなかった。呪文をぶつぶつと練習して小瓶を動かしているパーバティや、《呪文学問題集》を読みながらトーストを食べるもターンオーバーエッグをパンの上からテーブルに滑り落しても気づかないハーマイオニー、三つ目のマーマレードの瓶を落として割ってしまうネビル、ベイクドビーンズを乗せたスプーンを口に運ぶ途中でそれを皿に戻して《薬草全集》を鞄から引っ張りだし目的のページを見つけて安心しきった顔で何も乗っていないスプーンを口に運ぶ動作を繰り返すシェーマスなど、誰もかれもが奇妙な行動をとっていた。

 ハリーは普段より少なめではあるが、しっかりと朝食を取った。まず起き抜けの紅茶を一杯。小さめのエッグベネディクトを頬張り、ブラックプディングをトマト・ソテーと共に口にする。最後にマッシュルームのソテーを口へ放り込んで、それをミルクで流し込む。

 周囲のグリフィンドール五年生になんだあいつはという目で見られながらも気にせず、試験中にトイレへ行きたくならない程度の量にしておきながらも満足したハリーは、さっさと荷物をまとめて廊下に出た。朝食を食べ終えて教室へ向かう他学年の生徒を尻目に、寄ってきたミセス・ノリスとじゃれあって遊ぶことにした。

 教室へ向かう下級生から奇妙なものを見る目で見られているうちに、ハーマイオニーがハリーのもとへやってきた。ミセス・ノリスはさっとハリーの手から抜けて逃げて行ってしまったが、彼女の肉球の感触は充分にハリーをリラックスさせてくれた。猫はカワイイ、間違いない。

 

「よく余裕があるわね」

「今から詰め込んだって本番で忘れるだけだと思ったからね」

 

 全ての五年生と七年生が玄関ホールでうろうろする頃になると、時計が九時半を指し示した。寮ごとに大広間へと戻ると、朝食の際に寮ごとに四つに分かれる長大なテーブルはその姿を消し、代わりに小さな机が大量に設置されていた。一番奥にはマクゴナガルが唇をぎゅっと引き締めて立っており、生徒全員の着席を待っている。

 全員が席に座って羽根ペンを出すと、マクゴナガルは全員を一瞥した。幸いにして、不正なことをする愚か者はいなかったようだ。

 

「始めなさい」

 

 彼女の声が大広間に響くとともに、ハリー達の机の上に試験用紙が出現した。

 最初の問題は『浮遊呪文』に関するものだった。ハリーの隣に座っているアーニーがガッツポーズを取った姿がちらと見えた。彼はDA活動でこの呪文を得意としていたからだ。

 『元気の出る呪文』、『あぶく頭呪文』の強度を上げるためには魔法式のどこをいじればいいのか、『しゃっくりを止める反対呪文』を可能な限り書き連ねること、『離れた物を握る魔法』、『移動呪文』において対象が生物か無生物かの違いなど。

 DA活動で学んだり、教えたりした魔法がところどころに散見されてハリーは懐かしい気分になりながら、羽根ペンを軽やかに動かした。

 

「まあ、うん。思ってたより簡単だったわ。でもアレよ、『封鎖魔法』の魔法式って確かピュシス方式で間違いなかったはずよね?」

「正気かハーマイオニー! もう終わったことを言うな!」

「ピュシス方式で合ってるよハーマイオニー。フラウィウス・ユリアヌスが提唱したってことも書き加えれば完璧。君ならやってるとは思うけどさ」

「正気かハリー! 君あの訳わかんない問題書けたの!?」

「よかった! 私ったら書きすぎたのかと思っちゃった。記述で出たってことは実技でもやると思うけれど、杖の振り方はこう、ヒューン、パッパッでいいはずよね」

「間違いないね、それで正しい。っていうか、三年生の時には使えてただろうに。いまさら覚えなおす必要あるの?」

「ダメだ。この二人は僕には理解の及ばない生物に違いない」

 

 二時間をかけて筆記試験を終えると、また大広間へ戻る。するといつもの光景である四つの寮テーブルが元に戻っており、そこで昼食をとる。なかなか胃に食物を入れることができない者が多い中、ハリーはよろこんでタラのフライにモルトビネガーをどばどばかけて頬張っていた。ハーマイオニーとハリーがテストの手ごたえを確信している中、チップスをつまみながらロンは親友二人の言葉を理解することをあきらめている。

 シェパーズパイの最後の一切れを口にすると、昼食の時間も終わりを告げる。午後からは実技が待っているのだ。

 

「パーキンソン・パンジー、パドマ・パチル、パチル・パーバティ、ポッター・ハリエット」

「呼ばれた」

「がんばれよ、ハリー」

 

 マクゴナガルの声に呼ばれ、生徒たちの待機する小部屋から大広間へと歩み出る。ロンの激励がありがたかった。ウィンクを返して、ハリーは勇ましく試験会場という戦場へと歩みを進めた。

 扉のすぐそばに立っていたフリットウィック先生がトフティ教授のところへ行くようにと声をかけてくれたので、そちらへと目を向ける。馬面のフォウリー氏は、ハリーの担当ではなかったようだ。いまは隣でワイングラスを浮遊させているスコーピウスの実技テストを見ているようで、少し残念である。

 年老いて禿げた魔法使いが、しわがれた声でハリーの顔を覗き込む。

 

「ポッター。あの有名人かね? 可愛らしいお嬢さんだ。本当に女の子だったのだね」

 

 スコーピウスがからかうように嘲ってきたが、ハリーはそれに気づかなかった。ガラスが割れる音とスコーピウスの短い悲鳴が隣から聞こえてきたが、特に気にならない。

 ハリーがまったく緊張していないことを見て取ったトフティ教授は、よしよしと破顔した。

 

「さあ、ゆで卵立てを回転させてもらえるかの。君の好きなように、好きな魔法でな」

 

 にっこりとほほ笑むトフティ教授に頷くと、ハリーは杖を振るった。テーブルの上に転がっていたゆで卵立ては慌てたように直立すると、指揮者のように杖を振るハリーにしたがってくるくるとブレイクダンスを踊り始めた。

 大喜びで手を叩いてリズムを取るトフティ教授に合わせて、ハリーはこの呪文学の実技試験をとことん楽しむことに決めたのだった。

 

「ごちそうさま。ハリー、私談話室で待ってるわね」

「わかった、ぼくもこれ食べたら行くよ」

「な、なあ。ハリー。僕、どうして大皿を大キノコに変身させちゃったのかわからないんだ。『変色呪文』って、別に変身術の要素はないよな?」

「誓ってないよ。たぶんそれ、魔法式の構成が似てる『成長呪文』と間違えてるんじゃないかな。しかも、それも式を間違えて『取り換え呪文』が混じってる」

「しまった、それか!」

「マクゴナガル先生が昨年も『取り換え』る課題をやったって言ってたのを、間違って覚えてたんじゃない? ぼくもごちそうさま」

 

 呪文学の実技試験は、会心の出来だった。ワイングラスを『浮遊』させてジャグリングをしたり、ネズミの毛皮をオレンジ色に『変色』させたあとは、『変色』させ続けることでその毛皮に簡単なアニメーションを見せたことでトフティ教授は大喜びした。

 実技を終え、夕食をとったハリーは食後の紅茶を飲み干して、大広間からグリフィンドールの談話室へと戻る。談話室ではハーマイオニーがすでに教科書を読んでぶつぶつと鬼気迫る様子で下級生をおびえさせていたので、さっさと彼女との勉強の仕上げに入った。『取り換え呪文』の定義を単語ごとに交互に言い合ったり、百味ビーンズを『消失』させたり『出現』させあったりして、思う存分不安のもとをつぶしていくのだった。

 翌日、火曜日。ハリーは変身術の筆記試験を、多少は躓いたものの、間違ったところはないだろうという自信で乗り切ることができた。試験用紙を回収したマクゴナガルが満足そうに頷いたことで、ハリーは自分が変身術で「O・大いによろしい」を取ったことを確信する。

 昼食のミルクポリッジを腹に入れると、今度は実技試験だ。イグアナを『消失』させたり『出現』させたりしてトフティ教授を笑顔で頷かせることに安堵したハリーは、隣のハンナ・アボットが悲鳴を上げたことで試験が中断された。どうやらケナガイタチを『消失』させるどころか、フラミンゴに『変身』させた上に大広間中に『増殖』させてしまったらしい。

 マクゴナガルへ視線を向けると、頷いてくれたのでハリーは自分で対処することにした。フラミンゴの一羽を巨大な鳥かごに『変身』させると、杖を振って次々と哀れなフラミンゴたちを籠のなかへと叩き込む。最後の一羽が放り込まれると同時、ハリーは杖を振るって鳥かごごと、ピンクの毛玉たちを『消失』させた。これにはマクゴナガルもにっこりで、トフティ教授やほかの試験官たちからも拍手を送られたことで、ハリーははにかんでお辞儀をした。

 

「思ったより簡単だったわね?」

「正気かハーマイオニー!? あれが? あれが簡単!?」

「そうだね。『診断魔法』の魔法式が難しかったけど、最後はラシード式でいいんだっけ」

「正気かハリー!? そこ書けたのかい!?」

「合ってるわよハリー。それじゃ、談話室で待ってるわね」

「正気なのか……? もしや、間違うって言葉を知らない……?」

 

 翌日、水曜日。薬草学の筆記試験は、間違ったところはないとまで断言はできなかったが、答えに詰まったりはしない、まあまあの出来だったのではないかとハリーは考えている。 

 実技試験では《悪魔の罠》が登場し、これを無傷ですり抜けることが課題となっていた。ハリー達にとって、それは一年生の時にはすでに通った道である。実技に関しては、担当したマーチバンクス教授がにやりと笑ってくれたことでパーフェクトパーシーを獲得したと確信した。

「思ってたより簡単だったね」

「正気かハリー」

「そうね。懸念してた《ハグしたがりサボテン》も、難なく対処できたわ」

「正気かハーマイオニー」

「ネビルが落ち着いて抜け出したのを見て、スプラウト先生が満面の笑みだったよ」

「本当? やっぱり優しめの問題だったのかしらね」

「君ら正気じゃないよ」

 

 翌日、木曜日。闇の魔術に対する防衛術の筆記試験を楽に終えたハリーは、満点を取ったことを確信していた。アンブリッジが嘗め回すような眼でこちらを見ていたが、ハリーはこの試験中は努めてあのガマガエルを無視することに決めている。

 ふたたびトフティ教授がハリーの担当になり、杖捌きを披露することになった。『逆呪い』を完璧にこなして見せ、トフティ教授が放ってくる軽い妨害呪文を『盾の呪文』ですべて防ぎ切った。教授が要求するすべての呪文に問題なく答えていくハリーは、教授が物は試しにとOWLレベルをはるかに超えた、NEWTレベルの魔法を見せてくれと言ったことに気づかなかったくらい、絶好調だったのだ。

 

「見事、見事。ところでポッター。わしの親友、ティベリウス・オグデンが言うには、君は守護霊を作り出すことができるのだとか」

「はい、有体守護霊を」

「ほほう。三年生の時に君の実技を受け持ったフォウリーくんは、無形守護霊だったと言っていたが……どれ、見せてごらん?」

 

 ハリーは頷いて、集中する必要もなく杖を振るった。アンブリッジが禁じられた森に迷い込んで、ケンタウロスたちに拉致されて消えていったらどれだけ幸福だろう。

 

「『エクスペクト・パトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 杖先から銀色の魔力が噴き出し、それは蛇の尾を持つ雌雄同体の大鹿に姿を変えると大広間の中を駆け回った。試験官全員が振り返り、その銀色の姿を目で追う。大鹿がハリーのそばまで駆けて止まり、トフティ教授に念話で「ありがとうございました」と一礼をしてから霞と化して消え去ってゆく。熟達した守護霊使いは、おのれの守護霊に伝言を持たせることができる。それを知っていたハリーは、わざわざこの場でそれを披露したのだ。

 トフティ教授が大喜びで拍手し、「すばらしい!」と満面の笑みを浮かべた。ハリーは自分が闇の魔術に対する防衛術のOWL試験を、「O・大いによろしい」を取ったことを確信した。

 

「思ってたより簡単だったね」

「そうね、もっと命の危険がある魔法生物を対処するものかとばかり」

「そりゃあ、ハーマイオニーの戦闘力なら楽勝だからじゃないかな」

「あら。それを言うならハリーだって、対人戦闘ならよかったとか言ってなかったかしら」

「ひょっとして正気じゃないのは、僕の方なのか……?」

 

 試験が終わって大広間で夕食を食べている間中、ハリーはトフティ教授が手放しでほめてくれたことで有頂天であった。その隣でロンが不機嫌にしているのは、ゴブレットをカピバラに『変身』させるはずが、毛むくじゃらのゴブレットを作り上げてしまったからである。

 思わず嫌味で「ハリーはうまくできたんだな」と言えば、満面の笑顔で「うん!」と帰ってきたので、ロンは八つ当たりするのもばかばかしいと感じたのか一言謝ってから、目の前のローストビーフにかじりついたのだった。

 

 翌日、金曜日。古代ルーン文字学の筆記試験において、ハリーはOWL試験において初の壁にぶち当たっていた。難しい。難しすぎる。ルーン文字学を履修していないロンが、朝食の席で「僕は一日優雅に休むよ!」と言っていた顔が憎たらしい。

 長枝と短枝の見分けは流石につくものの、ハリーはヘルシンゲルーンを書くのがとても苦手だった。AとTを書き間違えそうになり、ハリーは己を落ち着けるために、昨晩おしゃべりしたシリウスの笑顔と言葉を思い浮かべた。

 

『ハリー。試験なんて、何とかなるもんだ。授業を聞いてれば楽に満点取れるだろ』

 

 幻想のシリウスの顔にインク壺を叩きつけてから、ハリーはいにしえの歌謡集の名前がハヴァマールであることを思い出し、試験用紙にがりがりと書き殴った。

 昼食の間、ハリーは他の五年生たちと同じように必死になって《ルーン文字におけるク・ホリンの流儀》を片手に持って読みながら、キューカンバーサンドイッチを食いちぎった。ハーマイオニーも余裕がないようで、ハリーとの間に会話はなく、ぶつぶつと何かを呟いている。

 午後になって、実技試験が始まった。マクゴナガルに言われたように、ハリーはルーン文字を使用するルーン魔術が大変ニガテである。ルーン魔術だけを用いて火を起こしたり、氷の柱を作り出すといった初歩的なことなら、ハリーも簡単にできる。しかしルーン文字だけでおもちゃの船を動かして水上を移動させたりといった、応用面においては非常に難しかった。

 

「思ってた通りに難しかったわ! エーフワズは協同とか協力って意味で、防衛なんかじゃないのに! アイフワズと間違えたのよ!」

「それならまだ配点低いから、いいじゃないか。モルモットにやる気を与えるためにケンのルーンを刻んだのに、無駄に健康的になった上に不屈の精神でぼくに立ち向かってきた。あれはウルの効果だ」

「それもまだマシよ。ああ、どうしようかしら……こんなこと……」

「……君たち二人も人間なんだなって、今月初めて思ったよ」

 

 土日はすべての時間を勉強に宛てた。

 新しい知識を得ることは苦ではないが、こうして勉強として頭の中に無理やり詰め込むことは好きではない。ロンがぶつくさ文句を言うが、彼が後輩になるなんて耐えられないので、なんとか勉強に付き合わせることに成功した。

 月曜日は魔法薬学だ。筆記試験ではポリジュース薬の必要な材料について少し迷ったものの、おそらく正確に記述できたのではないかと思われる(ハーマイオニーたちがこの薬を調合した際に、その場にいることができたなら結果は違っただろう)。なによりも、この場にスネイプがいないことはハリーにとってかなりの朗報であった。筆記試験だろうと実技試験だろうと、すぐ背後からのぞき込んで鼻で笑うあの腹の立つことさえしてこなければ、誰だって落ち着いて問題へ挑めるのだ。

 午後の実技試験ではネビルが過去最高の出来であると顔に書いてある姿を見送ってから、ハリーが挑んだ。《安らぎの水薬》の調合だ。不安な気持ちを静め、落ち着きと心の安らぎを与える魔法薬だ。適切な材料と正確な量を、正しい順序で大鍋に入れて煎じなければ完成しない、五年生にふさわしい難易度の魔法薬である。月長石の粉を注意深く計量し、バイアン草を絞ってエキスを取り出す。正しい順番を思い出しながら大鍋へ静かに入れてゆく。月長石の粉を静かに入れてから右回りにかき混ぜ、七分に調整した砂時計をひっくり返した。七分後に、右回転した分と同じだけ左回りにかき混ぜるのだ。その後にバイアン・エキスを二滴だけ入れるのだが、ハリーはエキスを垂らした直後に、砂時計が六分のモノに入れ替わっていることに気づいて悲鳴を上げそうになり、さらにその際に強く手が震えたせいでエキスが半滴ほど余計に入ってしまった。ヤバい! ロンみたいな感想を抱いたハリーは、しかし素知らぬ顔で大鍋をあぶる火の勢いを一定に保つことに必死になった。

 終わってみれば、理想的に完成した魔法薬からは軽い銀色の湯気が出るはずだが、ハリーの作り上げた魔法薬は、この世のモノとは思えないほどに美しい鏡面のような銀色の液体が完成していた。……確かに綺麗だけど、これ大丈夫なんだろうか。大鍋からフラスコに魔法薬を移しながらそう考えるハリーの不安をよそに、マーチバンクス教授が試験終了を告げたので仕方なく提出することにした。

 地下牢教室から出る際に魔法薬をスネイプに預けるのだが、きっとねっとり笑われるだろう。憂鬱な気持ちでハリーがフラスコをスネイプに渡すと、どのように嫌味を言ってやろうかと舌なめずりしていたスネイプが驚きに目を見開いた。嘘だろそんなにひどいのか、とビビったハリーがスネイプの顔を見上げると、さっさと行けと顎で示されてしまう。願ってもない申し出に、ハリーはフラスコを預けるとそそくさとその場を立ち去った。

 

「思ってた通り難しかったけど、まあ予想通りよね」

「ミスったかもしれない。いや確実にミスった。作る側が安らげない薬じゃないか」

「ハリーでもそんなこと言うんだなあ! ははは! そうだね、難しかったよね! はは!」

「う、うるさい。だまれよロン」

「ごめんよ! ははは! はは! は!」

 

 火曜日は自由選択科目のふたつめ、つまり魔法生物飼育学。ハグリッドの教師生活のためにも、悪い点数は取れない。筆記試験においては、アイルランドに多く分布する天馬の栗毛種をイーソナンというのだが、綴りを間違えたような気がする。しかしアクロマンチュラの記述においては満点以上の追加点さえ期待できる出来だったので、きっと帳消しになるだろう。

 午後の実技試験では、まず最初にハリネズミの中にまぎれているナールを見分けて捕獲するというものだった。ナールは見た目はハリネズミそっくりだが、桁違いに賢い魔法生物だ。野生のナールは、人間からの施しを決して信用しない。ミルクを差し出せば毒を仕込んでいると疑って襲い掛かってくるレベルだ。なのでハリーは、たくさんいるハリネズミどもに向かって今から貴様らを食べてやると言い放った結果、試験場にいる全てのナールがハリーに襲い掛かってきた。それをさっさと捕獲すると、ぽっちゃりしたメアリー・ラドフォード試験官が目を丸くしたあと大笑いした。

 次にボウトラックルの正しい扱い方(彼らの木を不用意に傷つけると目玉をほじくられる)、ファイア・クラブにエサやりと正しい清掃方法の実技(刺激しすぎると尻から火炎放射を噴かれる)、一角獣に正しいエサを与える実技(清らかな少女が相手だと露骨に甘えるというフザケた性質を持っている)が行われた。そのどれに対しても、ハリーは対処を間違えたつもりはない。ないので大丈夫だと思う。だから試験会場をちらちらと心配そうに覗くハグリッドは落ち着いてほしい。

 ラドフォード試験官が微笑んでもう行ってよろしいと言ってくれたことで、ハリーはほっとしてハグリッドにウィンクした。

 

「思ってたより簡単だったな……」

「ロンからそんな言葉が聞けるだなんてね。明日は雨かしら」

「うるさいハーマイオニー。でも、やっぱり、ユニコーンのいやらしさは我慢ならん。ハリーやハーマイオニーの手をべろべろ舐めやがって! なんだあれ!」

「まあ、馬だし」

「馬だからだよ」

「ロン、あなた黙ってなさい」

 

 水曜日は天文学であり、筆記試験は十分に書ききったつもりである。昨晩ハーマイオニーがしつこく木星の衛星に関する質問合戦を挑んできたため、綴りさえ完璧にできたつもりである。天文学の実技は夜中に行うため、午後は休みだ。

 ロンは選択科目の占い学があるので、ぶつくさ言う彼を笑顔で送り出して、ハーマイオニーが数占いの試験に挑む後ろ姿を厳かに見送った。

 ハリーはラベンダーやパーバティと優雅に紅茶を飲みながら、必死に実技試験で出そうな星座の予想を行った。星座図を見直すことに必死になっていたハリーたちは、占い学の試験を終えて不機嫌になっているロンが帰ってきたことで、ようやく時間の経過に気付く。その数分後に満足そうな顔のハーマイオニーがやってきたことで、両者のテストの出来が察せようというものである。

 眠くならないよう夕食は控えめにとり、ハリー達は天文台へとのぼった。生徒たちが望遠鏡を準備し終えるのを待ったトフティ教授は、今日は雲一つない静寂の夜なので頑張りなさいと激励をくれる。マーチバンクス教授がはじめと大きな声で叫ぶと同時に、ハリー達は必死になって望遠鏡を覗き込んだ。

 ただしい星座図になるよう、虫食いに空欄のある試験用紙へ書き加える試験だ。ふたりの老教授が生徒たちのまわりをゆっくりと歩いて回る中、ハリーは集中して星座図を整えてゆく。ハリーはあまり絵心のないタイプだが、星座図くらいならば満足いく出来で描ける。金星はうまく描けたので、オリオン座を美しく描いてやろう。

 一時間ほどが経過して、トフティ教授がしわがれた声でそれを宣告する。ハリーは満足いく出来になるように書けたので、あとは仕上げとして細かい部分を手入れするのみである。周りはまだ必死になってがりがりと羽根ペンを動かしている気配が伝わってくるので、中々の出来だと自画自賛できるくらいには、心に余裕ができた。

 だからだろうか、城の扉の一部が開いて、明かりが漏れたことに気づいたのは。迷惑な奴がいるものだと思いながら星座を見上げていると、ハリーはなんとなく、ぞわりと寒気を覚えた。背筋に嫌な感覚が走っている。悪意や、嫌悪。そういった負の感情を発する人間がいる時に、よく覚える感覚だ。

 

「……?」

 

 生徒たちの息遣いや、羽根ペンが羊皮紙をひっかく音、教授たちの歩く靴の音くらいしか聞こえてこない静寂の夜に、無粋なノックの音が響く。

 マーチバンクス教授が苛立たしげに息を吐いた様子が伝わった。ハリーはこの、イライラとした感じにノックする音が、どこの扉をたたいているのかを察してしまった。この聞き覚えのあるノックの音は、間違いなくハグリッドの小屋の扉をたたいた際に鳴る音だ。こんな時間にハグリッドを尋ねるのは誰だろうと思い、老教授たちの目を盗んでハグリッドの小屋へと視線を投げる。十人ほどの黒い影が、小屋から出てきたハグリッドに相対していた。小屋の明かりが、ハグリッドに話しかけている人物をよく照らしている。距離の関係上、顔までは見えないが、あの趣味の悪いショッキングピンクのカーディガンを着る人物など一人しかいない。アンブリッジだ。

 

「みなさん、テストは続いておりますぞ。残り二〇分」

 

 トフティ教授の言葉に、ハリーは最後の仕上げを済ませていないことに気づいてあわてて試験用紙にがりがりとペン先を叩きつけた。五分ほど急いで書き連ねると、満足して息を吐く。それと同時に、ハリーは敵意と殺意を感じ取った。

 試験中であることも忘れて、ハリーはハグリッドの小屋を見る。アンブリッジが自分の杖から、ハグリッドに向けて赤い魔力反応光を放った破裂音が響いたのは、それとほぼ同時であった。バーンという大音響とともに、ハグリッドに当たって跳ね返った失神呪文と思しき魔法が、黒い影のうち一人を吹き飛ばす。

 

「うそでしょう!?」

 

 ハーマイオニーが叫んだ声が聞こえた。トフティ教授が彼女を咎めようと近寄ったところ、今度は校庭が赤く照らされるほどの『失神呪文』が放たれる炸裂音が、連続して響き渡った。もはやこの場の誰もが、テストのことを忘れてハグリッドのことを心配していた。トフティ教授があわてて試験のことを思い出させようとしたが、しかし彼が不思議に思って校庭へ視線を移したところ、その光景に仰天してしまった。

 主人を守ろうとアンブリッジにとびかかったファングは、しかしアンブリッジが素早く振るった杖によって大きく吹き飛ばされる。それを見たハグリッドが怒りの咆哮を叫ぶが、アンブリッジの部下らしき人影たちがファングへ三本もの『失神呪文』を放ち、哀れな犬を気絶させてしまう。

 何故ハグリッドが攻撃されている? そんな疑問を抱く暇があればこそ、ハリーは天文台から身を乗り出して、飛び降りる姿勢に入っていた。自身に『身体強化』をかけようと懐の杖に手を伸ばしたが、ロンが抱きしめるように静止したことで、それはかなわなかった。

 

「なにするんだ、ロン! 助けないと!」

「だめだハリー! 君がアンブリッジの前に出たら、今度こそ退学にされる!」

「知ったことかよ! 友達を助けるほうが重要だ!」

「待って、マクゴナガル先生よ! 助けてくれるんだわ!」

 

 そう叫んだハリーのもとに、パーバティの叫び声が届いた。赤く照らされる校庭には、怒りに叫ぶマクゴナガルの姿があった。

 ハグリッドはファングを攻撃されたことで、本気で激怒しているようだった。ハリーは、魔法とかかわった頃から友達だった彼の、燃えるような怒りの姿を初めて見た。ファングへ魔法を放った人影たちへ素早く駆け寄ると、そのうちの一人の脚をわしづかみにして、乱暴に振り回す。彼の鈍器と化した人影は、仲間を三人ほどなぎ倒すと一緒になって放り投げられ、それ以降身じろぎすることはなかった。

 仲間をやられたことで怒りの声をあげる男たちに、ハグリッドがそれ以上の怒りをもって吠え掛かる。そこへ割り込んできたのは、マクゴナガルだ。ハグリッドを落ち着かせるように鋭く叫び、そしてアンブリッジへと顔を向ける。

 

「なにをするのです!? おやめなさい、ドローレス! 何の理由があって、彼を――『プロテゴ』!」

 

 生徒たちから、悲鳴が上がった。

 アンブリッジを静止するマクゴナガルに向かって、幾本もの『失神呪文』が放たれたのだ。それを杖のひと振りで防ぎ切ったマクゴナガルは、しかし二の句が継げぬように連続して色とりどりの魔力反応光を放たれてしまう。

 それらを見事な『盾の呪文』でしのぐマクゴナガルは、続くアンブリッジの叫び声に驚いたように身じろぎした。

 

「杖を取り出しましたわね!? 反逆者です!」

 

 あんまりにもひどすぎる言葉に、さすがのマクゴナガルも仰天したのだろう。そのすきを突かれて、六本もの『失神呪文』が彼女に突き刺さった。トフティ教授が「卑怯者!」と叫び、マーチバンクス教授が子供に聞かせられない口汚さで罵った。

 

「とんでもねえことを! きさまら、ただですむと思うなッ!」

 

 ハグリッドが絶叫した声は、びりびりと空気を震わせた。あまりの怒声に城内の者も気づき始めたのか、あちこちから乱暴に窓を開く音が聞こえてくる。

 人語を失ったかのように吼えるハグリッドに向けて、いまだに『失神』の光が突き刺さるものの、それをものともせず彼は拳を振るった。直撃した襲撃犯のひとりが、十メートルは吹き飛ばされ、仲間を幾人も巻き込んで倒れこむ。地面を砕いて突進したハグリッドは、アンブリッジの率いてきた男たちを次々と殴り飛ばす。

 アンブリッジが放つ魔法を次々と身に受けながらも、ハグリッドはファングを抱えて跳躍し、禁じられた森の中へとその姿を消してしまった。ただ一人だけ残ったアンブリッジは、なにやら英語になっていない声を漏らしている様子だった。

 

「……お、っと……試験は終わりですぞ。用紙をこちらへ」

 

 トフティ教授が試験の時間切れを告げるが、それを気にしている者は少なかった。

 ハリー達はあわてて試験用紙をトフティ教授とマーチバンクス教授に預け、望遠鏡を乱暴にしまい込むとなだれ込むように天文台の螺旋階段を駆け下りた。誰も寮には戻らず、校庭へと至る廊下を駆け抜ける。先頭を走るハリーが見たのは、フリットウィック先生に『移動』させられている失神したマクゴナガル先生と、マダム・ポンフリーの姿だった。

 

「マダム・ポンフリー! マクゴナガル先生は、」

「うるさいですよポッターァ! 怪我人がいるのです、お静かにッ!」

 

 ハリーの叫び声より、マダム・ポンフリーの怒声の方がはるかに大きかった。尻すぼみになったハリーの言葉は呑み込まれ、ふんと鼻を鳴らしたマダム・ポンフリーは、フリットウィック先生と共に医務室へと全速力で飛ぶように駆けていった。

 生徒たちが呆然とその後姿を見送っていると、ぎぃと扉が開いた音で皆が振り返る。そこには、息も絶え絶えの男たちの姿があった。アンブリッジの連れてきた下手人だろう。その証拠に、目がらんらんと輝いているアンブリッジが男たちに囲まれている。

 廊下に集っている生徒たちにぎょっとしたのか、一瞬だけ身じろぎをしたものの、アンブリッジはハリーを数秒だけ見つめてから、苦々しげな色を浮かべて部下を引き連れて立ち去っていった。生徒たちが杖を抜いて彼女に呪いをかけなかったのは、真っ先に襲いかかりそうなハリーが我慢していたからだ。

 ワインレッドの瞳を限界まで見開いてアンブリッジの後ろ姿を見送ったハリーは、その手に持っている望遠鏡を床にたたきつけて破壊した。

 

「…………かならず、報いを、受けさせて、やる。絶対に、絶対にだ……」

 

 怒りに震えた声でつぶやくハリーを連れて、ロンが獅子寮への道を先導した。怒りと不安に満ちながらも、生徒たちはぞろぞろと各自の寮へと帰ってゆく。

 感情が振り切れてぼろぼろと涙をこぼすハリーを気遣って、フレッドとジョージが彼女の肩を優しくたたく。アーニーが杖を振ってバラバラになった望遠鏡を『治し』たあと、ハーマイオニーにそれを手渡す。心配そうにハリーへ目を向けて、おやすみと一言だけ言い残して去ってゆく。

 シェーマスとディーンが先に談話室へ帰って、皆に先ほどの出来事を伝えていたのだろう。口々になぜハグリッドが襲撃されたのか、どうしてアンブリッジはこのタイミングで彼を逮捕しようとしたのだろうと疑問を交わしている。

 ハリーはそれらに興味を持たせることができず、ひとりさっさとベッドにもぐりこんでしまう。しかし談話室のざわめきが彼女を夢の中へ旅立たせることを許さず、ようやく眠れるころには騒ぎも落ち着いて同室のハーマイオニーたちが部屋へ戻ってくる頃であった。

 翌日、木曜日には魔法史が待ち構えている。最後の試験は午後からであるため、ハリーの苦手な教科であることに加えて、いまだに意識の戻らないマクゴナガル先生や、森へと姿を消したハグリッドのことが心配でならなかった。

 アンブリッジをいったい、どのような目に合わせてから惨殺するのが適切なのかを考えているうちに、ハリーはいつの間にか朝食を食べ終えていた。大広間の朝食の席に、平然と姿を現して大広間中から殺意と敵意の視線を受けながらも、優雅に紅茶を飲んで大きなげっぷをかますアンブリッジの精神は、驚嘆すべきものかもしれない。

 午後になり、ハリーは魔法史の問題と格闘していた。午前中のうちに、やれることはすべてやった。あとはこの苦手な教科をやっつけるだけだ。

 さあ行くぞ魔法普通レベル試験! ぼくたちの戦いはこれからだ!

 

「……思ってた以上に簡単だったね?」

「そうね、かなり手ごたえがあったような気がするわ」

「もはや何も言うまい」

 

 夕食を食べながら、ハリーはすっきりとした気持ちでハーマイオニーとお喋りをしていた。

 ヨークシャープディングを口にし、オニオンピクルスと共にスコッチエッグを丸々ひとつを一気に頬張る。もきゅもきゅと噛み潰して呑み込み、グレープフルーツジュースをごくごくと飲んだ。

 

「いやあ、すっきりした。試験が終わったと思うと気分が楽でいい」

「ねえハリー、ご飯食べ終わったら今日の魔法史の部分の復習をしない? 私、ボストン茶会事件で海に放り込まれたゴブリンたちの名前をちゃんと書けたか不安で仕方なくって」

「試験は終わったんだぜハーマイオニー、君は正気か?」

 

 デザートのアップルパイをミルクで流し込んで、満足したハリーは壇上にあがったフリットウィック先生が、マクゴナガル先生が聖マンゴ病院で意識を取り戻したことを発表する。偉大なる教師の無事を聞いて生徒たちが喝采を叫ぶ(一部はアンブリッジへの罵倒を行った)。

 ふくろうたちが家族からの手紙を運び、それぞれが受け取って嬉しそうな声をあげる。スコーピウスが父上がねぎらってくださったと喜ぶ声を聴きながら、ハリーはウィーズリーおばさんが書いてくれた手紙を読んで嬉しくなっていた。もう一通はシリウスからの手紙だったので、寝室に帰ってからじっくり読もうと思う。試験が終わった安心感もあってか、夕食の席を終えるとそれぞれの寮に向かって解散した。

 グリフィンドール談話室へ至る廊下を歩いている途中、ハリーは早いところ《両面鏡》でシリウスとおしゃべりしたくて仕方がなかった。それを分かっているのか、ハーマイオニーも微笑んでハリーとおしゃべりしていた、その時。

 

『ハリー!』

 

 すっきりとした晴れやかな気分でいたハリーはしかし、鞄から聞こえてきた叫び声に心臓がひっくり返ったような気持を味わった。思わず鞄を抑えたものの、鋭く低い男の声は周囲の生徒たちに聞こえてしまったらしい。いまのは誰の声だと訝しむ声が聞こえる中、ハリーは慌てて近場にあった女子トイレへと駆け込んだ。

 

「うそだろ、このタイミングで? なんで?」

 

 個室へ入って鍵をかける直前、ハーマイオニーが飛び込んできたのでハリーは彼女を受け入れ、そしてがちゃりと鍵をかける。ロンはきっと、女子トイレの前で待ってくれていることだろう。

 便器のふたを開けずその上に座り、ハリーは押さえつけていた鞄から手を離す。すると、やはり男の声が聞こえてきた。

 

『逃げろ、逃げるんだハリー……』

「シリウスからの手紙か?」

 

 あわてて鞄から、先ほど学校のメンフクロウが届けた手紙を取り出す。すると先ほど届いた封筒が空中に浮かびあがり、言葉を発した。薄い緑色の封筒は、いまやペーパークラフトのように人の顔に似せて動いて喋っている。このハンサム顔には見覚えがある。シリウスだ。

 次に聞こえてきた台詞を聞いて、ハーマイオニーは小さくシリウスの名を呟いた。

 

『ヴォルデモートに隠れ家が見つかった! 今すぐそこから逃げるんだ……! マクゴナガルだ、彼女に助けを求めるんだ』

「これ、シリウスからの手紙なのね……!」

『いいか、ハリー。死喰い人どもがそちらへ向かっている……! 暖炉を封鎖するか、逃げるんだ。いいな、ハリー。いいな……』

 

 そう囁いた手紙は、ぱたりとハリーの膝の上に落ちた。

 封を破いて中身を見てみれば、特に何も書かれてはいない。魔法で音声を封じ込めたものなのだろう。過去にドビーがダーズリー家でやらかした際に、ウィーズリーおじさんから似たような手紙をもらったことがある。きっとそれと同じ魔法だ。

 

「ハリー、これって……!?」

「わからない……。なんだこれ、シリウスが……? ヴォルデモートに……!?」

 

 ハーマイオニーが心配そうにハリーへ言葉をかけるが、しかしハリーは混乱の極みにあった。なぜこんな、唐突にこのようなことが起きたのか。シリウスのいるグリモールドプレイス十二番地は、さまざまな守護魔法によって守られている。いくらシリウスの血縁者が純血主義であったとはいえ、ヴォルデモートと親しくしていたわけではなかろう。それに、シリウスの血縁者はもはや誰一人として生き残ってはいない。

 さらに言えば、この手紙が本当に本物なのかもハリーには判断できないのだ。いくらなんでも、怪しすぎる。ふくろう便の時間にちょうど届いたということもそうだが、ここまでの一大事を、わざわざハリーに報告するだろうか。もしシリウスが本当にヴォルデモートに襲われたのだとしたら、考えるまでもなく不死鳥の騎士団案件である。未成年のハリーよりも、マクゴナガルなどの騎士団員に連絡した方が、より確実だ。

 ハリーの知る団員は、マクゴナガルとスネイプくらいだ。スネイプに伝えるしかあるまい。もし本当のことであれば、彼ならば動いてくれるだろう。

 しかし、ハリーはトイレの個室から出ようとした瞬間に、電撃のようにひらめいた。

 

「あっ、そうだ! ハーマイオニー! 《両面鏡》!」

「《両面鏡》って、確かシリウスがプレゼントしてくれたっていう?」

「そう、それ!」

 

 不確かな情報のまま行動することは、こと命のやり取りにおいては死へと直結する。

 ハリーは急いで、しかし丁寧に杖を振って空間を裂くと、そこにしまっている《両面鏡》を亜空間から取り出した。よく磨かれており、ハリーがこの魔法道具を大切にしていることをハーマイオニーは悟った。

 

「でも何でわざわざ確認を!? 本当だったら急がなくちゃ!」

「シリウスは、ぼくをハリエットって呼ぶんだ! ハリーとは呼ばない!」

 

 恋人じゃないんだから、とハーマイオニーは心底呆れた。

 

「シリウス! 聞こえる!? ねえ、シリウス!」

 

 女子トイレの中に、ハリーの切迫した声が響く。

 ハーマイオニーに言い返した手紙のシリウス偽物説の理由は、とっさに出てきたものだが、しかし後から考えてみれば判断材料として相応しい。シリウスはハリーが、本物のハリー・ポッターではないことを知っている。三年生の時、ヴォルデモートの作り出した紛い物であるという理由で、ハリーのことを殺害するかどうか葛藤していたのだ。

 今ではハリーのことを娘のように愛してくれているが、彼にとって、ハリー・ポッターは二人いる。亡くなってしまった男の子と、自分に懐いている女の子。軽々しく、何の理由もなくハリーとは呼ばないだろう。

 

『うおッ、なんだ!? ハリエットか!』

「シリウスッ! ねぇ無事なの!?」

『なんだ、何の話だ? そこまで声が大きいと聞かれるぞ、抑えるんだハリエット』

 

 鏡の向こうから、寝起きと思われるぼさぼさの頭で、タンクトップ姿のシリウスが顔をのぞかせた。間が抜けながらもハンサムなその姿に、ハリーは心の底から安堵する。

 安堵するのはいいが、しかしそうなると、この手紙はいったい何なのだろうか。

 そんなものは考えるまでもない。ここまで邪悪な詐欺を考えられる人間など、二種類しかいないだろう。アンブリッジか、死喰い人か。その二者択一だ。アンブリッジが考えたならば、なるほどこの悪辣でいやらしい手口は実に彼女らしい。しかしアンブリッジは、シリウスがヴォルデモートの忠実な配下であると信じ込んでいるので、この手紙の内容を考え着くことはあり得ない。闇の帝王に見つかっただの、そういう言葉が出るのは、シリウスが闇の勢力と敵対していることを知っているがゆえだ。そうなると、つまりこれは、死喰い人側の者が悪意を以って仕込んだ何か。ハリーをハメるための、罠だ。

 

「というわけでね、シリウス。君からヴォルデモートに捕まったっていう手紙が来たものだから、あわてて連絡したんだよ」

『……なるほどな。確かに、私ならば真っ先にマクゴナガルなどの騎士団員に連絡する。よく正しい判断をしてくれた、ハリエット』

 

 シリウスのねぎらいの声に、ハリーは心がじんわりと暖かくなる感覚を覚えた。しかし、考えようによっては、この手紙は恐ろしいものである。それと同じ考えに至ったらしいシリウスは、唸った。

 

『とりあえずその手紙は、マクゴナガルに見せなさい』

「いいぇえん。その必要は、ありませんわァン」

 

 落ち着いたシリウスの低い声にかぶせるように、ねっとりとした甲高い声が女子トイレに響く。その声の主を、ハリーはいやというほど知っていたし、この瞬間ほど頭の中が真っ白になったことはないと断言できる。即断したハリーは、その手に持っていた《両面鏡》から手を離してトイレの床へ落とす。それは床にぶつかって割れることなく、無言呪文で開かれた魔法空間の中へ滑り落ちた。声をかけられて、そのセリフを言い終えられるまでの短い間。その一瞬でこれを成し遂げたハリーは、心の中で喝采を叫んだ。

 トイレのドアが溶けるように消滅すると、女子トイレの個室前で、ショッキングピンクのローブを羽織った中年太りの女性が、仁王立ちしてにたにたと笑っていた。

 

「現行犯、ですわね。ポッター」

「あ、アンブリッジ……ッ」

「無礼者ッ! 校長先生、を付けなさいッ!」

 

 思わず名を呟いたハーマイオニーの頬に向かって、アンブリッジは張り手を繰り出す。それを彼女の手首を握りしめることで止めたハリーを見て、にたにたした笑顔を一瞬で真顔に戻したアンブリッジは、それを振りほどき、今度はハリーの頬を張った。

 トイレの床に倒れこんだハリーの腹に蹴りを入れ(動きはのろいので、腕で防ぐことは容易だった)、アンブリッジは恍惚とした表情でつぶやく。

 

「ついにこの時が来たわ。この、わたくしが……あの寂しくつまらない、わたくしは、もういない……ッ! いまここにいるのは、シリウス・ブラックを、逮捕する! 輝かしい、わたくしィ……ッ!」

「はい、アンブリッジ上級次官殿」

「よくやりましたわ、ドミニク! ポッターがトイレへ駈け込む姿を目撃したその功績は大きいですわよ! 次期闇祓い局の局長はアナタですわッ!」

「はい、アンブリッジ上級次官殿」

 

 アンブリッジの後ろに控えていた闇祓いドーリッシュと、ハリーの知らないツーブロックヘアーの黒人の闇祓いドミニクが、それぞれハリーとハーマイオニーの腕を締め上げる。

 懐を探られるのが嫌だったので、袖から杖を落として抵抗の意思がないことをアピールするも、黒人の闇祓いは用心深い男だったようで、弱めの『武装解除』をハリーとハーマイオニーにかけてきた。ハリーが落とした杖とハーマイオニーの鞄から彼女の杖が飛び出し、黒人の闇祓いの手におさまった。

 ここで抵抗するのは悪手でしかないだろう。アンブリッジ率いる二人の後ろでは、うつろな目で天井を見つめているチョウ・チャンの姿が見えるからだ。

 チョウ・チャンは明らかに正気だとは思えない。ハリーがその魔眼で見抜くと、アンブリッジと(パス)がつながっている。冗談だろうと目を疑うも、しかしその魔力式には見覚えがあった。死喰い人の青年、バルドヴィーノ・ブレオが使っていた、許されざる魔法。

 

「アンブリッジ! おまえ、チョウに『服従の呪文』をかけたな……!?」

「校長先生を付けなさいと、言ったはずですわよポッター!」

 

 ハリーのことを突き飛ばしたせいで、彼女を拘束していたドーリッシュも一緒に倒れこんでしまう。下敷きになった彼に小さくごめんとつぶやき、ハリーはアンブリッジをにらみつけた。

 

「答えろ! チョウのその様子は、明らかにおかしいぞ!」

「あらァ~ん? 『服従の呪文』んん~? そのような魔法をかけた覚えは、まーったく、これっぽっちも、これっぽっちも、ありませんわねぇ~」

 

 にやにやと笑いながら、チョウをその場に跪かせてソファ代わりにしたアンブリッジは、彼女の上にどかっと尻を乗せる。

 その様子を見て、尻餅をついていたドーリッシュが叫んだ。

 

「アンブリッジ上級次官!? そ、それはまことですか!」

「あら、ドーリッシュ。だとしたら、どうなんですの? アナタは魔法省の職員。でしたらわたくしの命令に従うのが、道理というものですわよね?」

「冗談じゃない! いいか。私が忠誠を誓ったのは、英国魔法省だ! 子供に許されざる呪文をかけるような犯罪者ではない! 『エクスペ――」

「『ステューピファイ』!」

 

 激昂したドーリッシュが杖を抜いて叫ぶも、それよりもハーマイオニーの杖を手に持っていた黒人の闇祓いの方が速かった。容赦なく同僚へ『失神呪文』を射出した彼は、胸の中心に赤い魔力反応光を直撃させてトイレの壁へと叩きつける。

 ドーリッシュの体がぶつかったことで便器が破壊され、ハーマイオニーが甲高い悲鳴を上げる間も水がばしゃばしゃと飛び出す。かつて一年生の時も、女子トイレでこのような光景を見たなと若干現実逃避しつつ、ハリーは苦いものを感じていた。

 アンブリッジが校長室へ入れなかったので、闇の魔術に対する防衛術の教務員用私室が、臨時的に校長室となっている。そこへ連れ込まれたハリーとハーマイオニーは、昨日ハグリッドを襲撃したのだろう身体のあちこちに包帯を巻いて怪我をしている闇祓いらしき男が三人と、椅子に座らされて息も絶え絶えのマリエッタ・エッジコムの姿を発見して、ハーマイオニーがその名を叫んだ。

 

「マリエッタ……!?」

「ぁ……ハリーね……ごめんなさい。『服従の呪文』には、勝てたんだけど……」

「いい、つらいだろう。それ以上しゃべるな」

「ごめんなさい……チョウを守れなかった……ごめんなさい……」

 

 全身に傷は見られない。物理的な外傷はなく、ここまで生命力を消耗させる術などハリーにはひとつしか思い当たらない。アンブリッジの奴は、『服従の呪文』のみならず『磔の呪文』まで使ったのだろうか。他に苦痛を与えるだけの魔法ならば、『磔』の原型となったという説がある『苦悶魔法』があるが、あれは『盾の呪文』で容易に防げる。マリエッタも『盾の呪文』についてはDA活動で散々練習したので、どのように咄嗟の状況であろうと張れるはずである。鬼教官ハリーが、活動中に何度も不意打ちテストを行ったので、間違いないだろう。

 『磔の呪文』で精神を疲弊させて『服従の呪文』で従わせる。第一次魔法戦争の頃に、闇の陣営が好んで使っていた手だ。拷問と支配の両方が行えるのだ。嗜虐心の強い魔法犯罪者たちには、うってつけだっただろう。つまり、同じく性根の腐ったアンブリッジにもぴったりの手段だったというわけだ。

 

「クソッ」

「ハぁリー・ポッターァァアア? アナタには、ファッジ大臣に対して、シリウス・ブラックとの内通容疑について洗いざらい説明してもらいますわん」

 

 アンブリッジの言葉に、ハリーは訝しそうに眉をひそめた。

 この学校には、いまや外部との通信手段はないはずである。他ならぬアンブリッジがそう取り決めて、教育令の第三十二号でそう取り決めているはずである。ホグワーツにあるすべての暖炉には《煙突飛行粉》の使用禁止のため、『転移不可』の魔法がかけられているはずである。これをかけることも解除することも、魔法省の許可が必要になるという、なかなかに特殊な魔法だ。

 ハリーが何を言いたいのか察したアンブリッジは、にたりと笑って言う。

 

「わたくしの部屋の暖炉だけは、禁じておりません」

「……教育令に違反してるな」

「おやおやおや、そーんなことはありませんわァん。教育令第三十二号、ホグワーツで教鞭をとる者及びホグワーツの生徒は《煙突飛行粉》の使用を禁じる。わたくしは校長先生ですから教鞭を取っておりませんのォ」

 

 ノォホホホホエヘラエヘラと爆発したように笑うアンブリッジを、ハリーは半目でにらみつける。詭弁もいいところだ。この女は自分で決めたことさえ、守る気はないのだ。

 アンブリッジが自分のデスクから麻布の袋を取り出す。ラベルには《煙突飛行粉》と書かれていた。黒人の闇祓いに袋を手渡し、アンブリッジはハリーの髪の毛を掴んで、強く床に押し付ける。膝を折って跪いたハリーは、髪を掴まれたまま暖炉へと向き直される。

 

「さーぁ、ドミニクぅ」

「ええ、アンブリッジ上級次官」

 

 黒人の闇祓いドミニクが《煙突飛行粉》を暖炉の中に投げ込むと、火の気のなかった薪がエメラルドグリーンの炎が巻き起こった。激しく燃え盛る火柱は暖炉の天井を舐め、行先を告げる声を今か今かと待ち望んでいる。

 ハリーに絶望しなさいと囁いて、アンブリッジは感極まったように裏返った声で命じた。

 

「ファッジ大臣の部屋へ、お繋ぎなさい」

「ええ、そうしましょうとも。――ノクターン横丁!」

 

 黒人の闇祓いが叫んだことで、エメラルドグリーンの炎がさらに激しく燃焼する。

 ハリーは己の耳を疑った。ノクターン横丁とは、あまり治安のよくない地域である。そんなところにファッジ魔法大臣がいるとは思えないが、闇祓いが叫んだ以上はそうなのだろう。

 そう考えたハリーは、しかし至近距離で聞こえてきたアンブリッジの言葉に身を凍らせる。

 

「えっ? ……は?」

 

 間の抜けた声を出すアンブリッジの反応で、ハリーはこれが不測の事態であることを悟った。一気に警戒心が跳ね上がる中、黒人の闇祓いは白い歯を見せつけて嗤った。

 そしてローブのフードを被ると、暖炉に向かってその場に跪いて言う。

 

「お待ちしておりました」

 

 エメラルドグリーンの炎の向こうから、同じ漆黒のローブにフードを被った男が現れる。

 暖炉の淵に手をかけ、粗暴な動きで出てきたその男は、フードをかきあげてその素顔を晒す。その顔を見たハリーは、苦い顔をした。知っている顔どころではない。喜んでハリーを殺したがる、彼女に恨みを持つ男だ。

 

「グレイバック様」

「ご苦労(ふおう)ドミニク(どみいう)。さすがは、(おえ)の息子だ」

 

 フェンリール・グレイバック。

 狼人間の中でもっとも残忍とされる男で、好き好んで人間を咬むことで狼人間へと変えようとする異常者だ。ルーピンを咬んだことで狼人間に変え、特に子供を咬むことを自分の使命であると思い込んでいる。

 彼はヴォルデモートの作る悪の世界の方がやりやすいので、彼に協力しているような根っからの魔法犯罪者である。そして死喰い人のローブを着ることを許されている、協力者だ。そんな危険人物を、アンブリッジが呼ぶはずがない。その証拠に、アンブリッジはわなわなと震えて後ずさっている。髪を掴んだままなので、ハリーは引きずられた。

 

「よォう久しぶりだなァ、メスガキィ。会いたかったぜぇ、ハァリィー・()ッターァア。お(あえ)に会うためだけに、随分(ういぶん)苦労(ふおう)したもんだァ……今度(こんお)こそ、お(あえ)を食ってやる。両方の意味(いい)でな」

 

 ハリーが斬ったせいで鼻の一部が欠けたまま、おかしくなった発音で語りかけてくる。

 ハーマイオニーが驚きのあまり目を見開き、拘束していたドミニクが手を離したので、動けないマリエッタとぼーっとしているチョウを背中に庇う。グレイバックが笑いかけたことでアンブリッジが短い悲鳴を上げると、驚きに固まっていた闇祓いたちが正気に戻り、慌てて杖を懐から抜いて、グレイバックへと向けた。

 

「なッ、何なんだ貴様!?」

「上級次官殿に近づくんじゃ――」

 

 鷲鼻の闇祓いがそう叫んだその瞬間、アンブリッジの誇る臨時校長室は血に塗れた。

 闇祓いに扮していたドミニクが、その腕を振るって鷲鼻の闇祓いの隣にいた禿頭の闇祓いの腹を貫いた。顔が毛むくじゃらに変貌し、右腕と右肩も共に狼のソレになっている。グレイバックほどではなくとも、彼も狼人間としての力を使いこなしているらしい。

 同僚がやられたことで動揺する鷲鼻の闇祓いが見たものは、臙脂色のローブを引き裂いて上半身を狼に変貌させたもう一人の同僚。あっと驚く間もなく、その刃物のような爪を振るわれて逆袈裟に切り払われる。ぐらりとよろけて膝をついた鷲鼻の闇祓いは、それでも杖を振るおうとするも、グレイバックが背中を蹴り飛ばしたことでついに倒れ伏す。

 ドミニクが貫いた腹から腕を引き抜き、禿頭の闇祓いがびくりと反射的に震える。そのままうつ伏せに床へ倒れ伏し、血と臓物を噴き出している腹の穴を、必死になって両手で抑えて呻く。暖炉で燃え盛るエメラルドグリーンの炎が沈下する時と、その惨状が出来上がったのは、ほとんど同時。それ以降、彼らが身じろぎすることはなく、か細い息遣いが部屋に響くのみであった。

 

「な……ッ、んなななな……ッ!? ドミニク!? ドミニク・ホジキンソン!? あなた何を……ッ、いえッ、あなた、狼人間!? そ、それにグレイバック! なぜあなたのような半人間がッ!? ど、どどどどど、どういうことなの!?」

「ニブいババァだな。まぁ、てめぇには用()ねえんだ、失せろよ」

 

 驚きのあまり訳の分からない言葉を口走るアンブリッジを、グレイバックは心底どうでも良さそうに振り払う。その一撃は特に攻撃的な意思を乗せておらずとも、アンブリッジの肥満体を吹き飛ばすには十分であった。

 誤算なのは、それでもアンブリッジがハリーの髪の毛を手放さなかったこと。幾本かをちぎられながらも、一緒に吹き飛ばされたハリーは、アンブリッジのクッションとなって臨時校長室の壁に叩きつけられる。灰の中の空気が一気に吐き出され、ハリーは床にはいつくばってせき込んだ。

 

「くひ。んっんー、いい眺め(ながえ)だ。ショーツは(くお)か。(おえ)は白が好みだな。もしくは穿くんじゃ(でぁ)あねーぜ」

「かはッ! げほっ、……気安く、見てるんじゃない、……クソ野郎」

「威勢もいい。そうでなくっちゃあなァ」

 

 大仰にローブを脱いだグレイバックは、汚らしいズボンだけを身にまとった、はちきれんばかりに胸毛の逞しい裸体を晒す。動物のように手入れのされていない髭面に、灰色の脂っこい髪が揺れている。

 ぶちぶちと異音を立てて首から上だけを狼に変えたグレイバックは、闇祓いとして潜り込んでいた狼人間の息子ふたりを従えて、下品に笑った。

 

「ヴォルデモートの野郎(やおう)には、すぐ連れて来いなんて言われたがな。(おえ)にはてめぇに、この(はが)の恨みがある」

「男前になったじゃないか。吐き気がする顔を見せるな」

 

 挑発的な軽口をたたくハリーに、アンブリッジが短い悲鳴を上げた。ゆっくりと歩み寄るグレイバックに恐慌をきたしているようだった。

 

「ハァリーちゃんよォ。てめぇを(おえ)の娘にしてやるよ」

 

 その言葉に、ドミニクと臙脂色ローブの狼人間がぴくりと反応する。

 この二人もグレイバックから息子と呼ばれていた以上、おそらくグレイバックに咬まれて狼人間と化し、親という彼に従っているのだろう。つまりグレイバックは、身動きのできないハリーを咬んで狼人間に変えるというのだ。

 

「その(あお)、ちーっとだけ味見させてもらうのも、悪かねぇかな。女を同族化させるのは初めてだが、犯して発散する楽しみまであるってェんだからなァ! もっとやってりゃあよかったかな!? ギャハハハハハ!」

「……下種野郎!」

「なんとでも言えや。てめぇに千切られたこの(はが)、その恨みを晴らすまで何度(あんご)でもブチ犯して、何度(あんご)でもブチまけてやる」

 

 舌なめずりをして女性の人権を無視する発言をしたグレイバックに怒りと殺意が沸くものの、アンブリッジが頑なにハリーの髪の毛を手放さないため身動きが取れなかった。

 せめて抱き枕のように身を寄せてくる、汗だくのアンブリッジさえいなければ!

 

「ひいいいい!? わッ、わたくしを守りなさいチョウ・チャン!」

「はい、アンブリッジ校長先生」

 

 恐怖をあおるため、ゆっくりと歩み寄るグレイバックにアンブリッジが発狂したかのように、チョウ・チャンへ命令を下す。いまだに『服従の呪文』を持続させているその実力は流石としか言いようがないが、今この状況では明らかにまずい。

 ハーマイオニーとマリエッタが悲鳴を上げ、チョウ・チャンを正気に戻そうとするが、ぼーっとしたまま彼女はアンブリッジとハリーの前へ躍り出た。グレイバックはそれを不快に思ったのか、舌を出してよだれを垂らす。

 噛みつく気だ! そう直感したハリーの起こした行動は早かった。

 グレイバックが顎を開いて頭を振りかぶる姿をスローモーションのように見ながら、ハリーは出来る限り姿勢を低くして脚を伸ばし、チョウ・チャンの両足を蹴り払った。重力に従って床に叩きつけられるチョウ・チャンと、アンブリッジが必死にしがみついたままなのでブチブチと千切られる、ハリーの髪の毛。

 そしてハーマイオニーとマリエッタが目にしたのは、支えにしていたハリーが身をかがめたことで、姿勢を崩してグレイバックの前に投げ出される、アンブリッジの体だった。

 

「ROAAARッ!」

「あぎゃッ!?」

 

 ハリーは頭を締め付けるような短い手が離れたことを知り、急いでチョウ・チャンの体を抱えてその場から飛びのく。そして恐怖に互いを抱きしめるハーマイオニーとマリエッタの元に来たハリーは、グレイバックの牙がアンブリッジの肩を貫いている光景を見てしまう。

 変なものを食べたような顔をしたグレイバックは、首の動きだけで八〇キロ以上はあるアンブリッジの体を放り投げた。ごろごろと転がされ、短い悲鳴をあげ続けるアンブリッジは、壁にどんと背中を打ち付けてなお、己の身に起きたことが信じられない様子で上ずった声を出していた。

 

「はぇ……!? あ、あぁあ……!? いまッ、いま、わたくし……?」

クソ(くほ)ったれが。クソ(くほ)まずいもん食わせやがっ――」

「いまッ!? わたくしをッ!? 咬ん、咬んだァあ!? うそよ、そんなことあってはならないわ!? うそよ、気のせいなんだわ!?」

 

 発狂したように口の端から涎をまき散らし、だらだらと脂汗を流してアンブリッジは叫び続ける。グレイバックが何かを言おうとするたび、聞きたくないとばかりに声量を大きくするその姿は、あまりにも哀れを誘うものであった。

 狼人間に咬まれた人間は、魔法族もマグルも問わず、ウィルスを体内に送り込まれて変質し、人間という生物の枠から追い出される。それは、「反人狼法」という狼人間は魔法界において職場で起用してはならないという法律を作ったアンブリッジ自身がよく知っているはずだ。

 

「こうなりゃあハリーちゃんよ、お友達(とおだい)もみんなまとめて、ブチおか――」

「ひあッ、ああああ!? ぐぶゥ、ぐッ、グレイバック! 命令よ! わたくしを咬んでいないと言いなさい! 早くッ! はッ、やくゥ! わたくしを純粋な人間だと言ってェェエエエエエ!?」

「うるっせェなクソ(くほ)ババァ!? そんなに叫びてぇならこうしてやるよ!」

 

 アンブリッジの喚き声に我慢ならなかったのか、グレイバックは彼女の腕を引っ張り寄せるとその贅肉にあふれた腕に、分かりやすく三度咬みついた。激痛にさらなる悲鳴を上げるアンブリッジを蹴り転がして、グレイバックは高らかに笑う。

 だらだらと血の流れる己の右腕と左肩を交互に見て、グレイバックたちを凝視し、ハーマイオニーとマリエッタ、チョウ・チャンを見つめる。電池の切れたおもちゃのように不可解な動きで小刻みに震えていたアンブリッジは、自分が狼人間になってしまったことをようやく認識したのか、うつろな声でつぶやいた。

 

「あたしが……、狼人間に……? 嘘よ、だって、そんなの。ひどいわ。あたし、スリザリンに入れたのに……ジェイミーやアラベラに虐められても、我慢したのに……マグルのパパに、殴られても……我慢して、頑張って勉強して、魔法省に入って、頑張ったのに、その結果が、狼人間……? 非ヒトってどういうこと……? えっ、待って。待って待って待って、そんなのって……ひどいわ。う、ひぐッ。そんッ、なのッ、てッ、――あッ、ああッ?」

 

 ぶつぶつと呟いたアンブリッジは、滂沱の涙を流し、嗚咽を漏らしながら、発狂したかのように、自室の扉に向かって突進した。ドアノブに手をかけることを忘れて衝突し、蝶番が壊れて轟音と共にドアごと倒れこむ。

 ぼさぼさになった髪を振り乱して強烈なアンモニア臭をまき散らし、起き上がったアンブリッジは狂乱して絶叫した。おぼつかない足取りで、闇の魔術に対する防衛術の教室を走り回った後、ホグワーツの廊下へと駆け抜けていった。

 

「あがッ、がァアぁあびゃああああああ!? わたァァァしィイイイがァァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!? うあぁぁぁぁん! うえぇえええええッ! うそッ、嘘よォォォおおおおお! 夢だわ!? これは悪夢なの! ひぐッ、えぐッ、認めないッ! 認めなァァァァァァいィイイイイイイ!? ぶびゃ、あびゃあああああああッ!?」

 

 廊下から聞こえてくる大音量の絶叫は、一人の人間の人格が崩壊したことを告げていた。狼人間になってしまったからには、もはやこれまでのような人生を送ることはできないだろう。しかしあの様子では、心が完全に壊れてしまったために、一生を聖マンゴ病院で過ごすことになることは、ほぼ間違いなかった。

 やかましいババァだと零したグレイバックは、お楽しみに戻ろうと意識をハリー・ポッターへと戻す。先ほどアンブリッジからアジア系の女子生徒を蹴って転ばせたところまでは確認していたので、さて、と顔を向けたその瞬間、グレイバックは野生の直観に従ってその場から飛びのいた。

 

「ち……ッ! 気づいたか」

「お、ぼ……!?」

 

 暖炉の近くまで飛びのいたグレイバックは、まともに英語を発することができなかった。ハリーはいつの間に手に入れたのか、杖を振り抜いた格好でこちらを睨みつけている。

 さっと目を向ければ、ドミニクは血まみれになって顔を抑えてうずくまっている。どうやら杖を奪われた上に両目を斬られたらしく、痛々しそうに声もなく苦しんでいた。もう一人の狼人間は首を斬られたようで、大量に血を流しつつも必死にその流れを押しとどめようとしている。喉ごと斬られたために、声も出ないようだった。

 そして、グレイバック自身。だらりと血の流れる感覚がある。額が割れている。上唇も斬られ、口を開くたびに激痛が走る。そして何よりも、また、鼻を斬られた。今度は縦に裂かれたようで、流れる鼻血が口へ喉へと流れ込んで、ごぼごぼとした水音ばかりが喉から飛び出す。

 

「でめぇェァア! ボッダーァアアア! よぐも、まだじでも、(おえ)(はが)をォ!」

「油断して、よそ見してたお前が悪い」

 

 杖から伸びている、魔力刃を逆手から順手に構えなおし、ハリーはグレイバックへ狙いを定める。怒りに沸騰したグレイバックは、狼人間としての身体能力を十全に活かして少女へと飛びかかった。

 負けじと『身体強化』を肉体にかけたハリーは、床を蹴って空中でグレイバックの爪を切り結ぶ。魔力刃をぶつかっても斬られずに鍔迫り合いを演じることのできる、狼人間の爪が異常なのか、ハリーは苦い思いを飲み込んだ。

 互いの体を蹴り飛ばして距離を取った二人の戦況は、空中に居ながらにして『射撃呪文』を撃ち込んできたハリーに有利であった。類まれなバランス感覚で、宙に浮いたままグレイバックは息子の一人である死喰い人を掴み取り、盾として掲げる。ハリーの放った『射撃』は、哀れな死喰い人の胸と右足を撃ち貫いてしまう。

 絶叫する死喰い人を仲間としてさえ思っていないのか、それを砲弾としてハリーに向かって投げつけてくる。狼人間の強靭な膂力で投擲された死喰い人は、ハリーが避けたことでアンブリッジの自室の壁に激突し、幾本もの骨が折れる音と共に血をまき散らして、二度と物言わぬ肉塊と化した。

 

「ぼ……ご、ァッ」

「グレイバァァァックッ!」

 

 避けられると思っていなかったグレイバックは、自身の名を叫んで突っ込んでくるハリーに向けて、思わず爪を振るう。しかしそれは『盾の呪文』に阻まれて、彼女の肉に届くことはなかった。

 杖を振るったハリーは、グレイバックの首を落とすつもりで魔力刃を生成する。『身体強化』の効果で風よりも早く振るわれた刃はしかし、超人染みたバランス感覚を以って回避されてしまう。

 完全に杖を振り切った状態で背を晒しているハリーに向かって、グレイバックが罵声と共に笑みを浮かべようとしたが、しかしその表情は一瞬にして凍った。ハリーのすぐ後ろ、グレイバックの直線上で。杖をこちらに向けている、チョウ・チャンの姿があった。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

「あがッ! がッ、ぼごォアアアア!」

 

 アンブリッジが発狂したため『服従の呪文』が解けたチョウは、正気に戻ってまず真っ先に、ハリーが死喰い人と思しき狼人間と戦闘している姿を目の当たりにした。そしてDAで訓練した内容を思い出しながら、渾身の力を込めて『武装解除』を放ったのだ。

 『武装解除』の赤い魔力反応光を胸に直撃されたグレイバックは、懐にしまい込んでいた杖がはじけ飛び、そして爪が硬質な音を立てて砕け散ったことでくぐもった悲鳴をもらす。

 頭が真っ白になりそうな怒りを爆発させてチョウへ飛びかかろうと目をやるも、それは彼の人生を大きく左右する大失態であった。ハリーから、目を離したのだ。返す刀でグレイバックへと魔力刃を振るったハリーによって、グレイバックは自身に迫る刃を避けることが不可能だと悟った。

 悟ったその瞬間、すこしでもダメージを減らそうと無理やりその体を床に倒れこませる。

 

「ぐッ、がァァあああああああああああああ!?」

 

 グレイバックは己の首を小娘の凶刃から守ることに成功したが、その代償は高かった。痛みに左肩を抑え、床を転がって少しでもハリー・ポッターから離れるグレイバック。

 少女の足元に転がっているのは、いままで多くの人間たちを引き裂いてきた自慢の左腕であった。激痛と喪失感に絶叫するグレイバックは、怒りに燃える目で少女たちを睨み殺さんばかりに睥睨した。

 

(おえ)のッ、腕ぇええええ!? 腕ェェがァあああああッ! ぐぞッ、でめぇ! グゾガキがァァ……ッ! 許せね(ゆぐでね)ぇ……! 許ざね(ゆぐざね)えええええッ!」

 

 ばしゃりと血をこぼしながら、グレイバックは完全に吹き飛んだ理性で懐に手を突っ込む。取り出したのは、狼を模した髑髏の仮面であった。

 乱暴にそれを装着したグレイバックは、咆哮を吐き出しながらも失った左腕をハリーへと向ける。その意図がわからなかったハリーは、次に起きた出来事に驚いて正しい対処を行うことができなかった。

 

「GAAAAHHHHH! ァァアアアアアアアッ、ボッダァァァアアアアア!」

「ん、な……ッ!?」

 

 失ったグレイバックの左腕、その断面がぼこぼこと泡立って盛り上がると、その次の瞬間にはむき出しの筋肉と血管で構成された新たな腕が飛び出してきた。その腕はタコの脚のようにぐちゃぐちゃな形になっており、咄嗟に『盾の呪文』を張って直撃を防ぐことが限界だった。

 先ほどまでとは段違いの衝撃によって、踏ん張り切れずに吹き飛ばされたハリーは、床を転がされて壁に叩きつけられる。肺から逃げ出した空気を求めて喘ぐも、そこへ吹き飛んできた鷲鼻の闇祓いの体が衝突する。身体の中心からごきん、という異音が響くとともに、ごぽりと口から赤い液体を吐いてしまったことで、ハリーは内臓を傷つけてしまったと悟る。

 しかし、その痛みを忘れるほどの甲高い悲鳴に、ハリーは肝を冷やした。

 

「きゃあああああああああ!?」

「ダメッ、マリエッタァ――ッ!」

「ぐッ、ハーマイオニー!? マリエッタ、チョウ!?」

 

 決して広いとは言えないアンブリッジの私室に、グレイバックの異形の左腕が広がり、彼女たちにも危害を加えたのだ。慌てて杖を振るって魔力刃でグレイバックの異形腕を切り裂くも、しかし大してダメージを与えられていない。

 女子三人の甲高い悲鳴はしかし、うち一人のそれがくぐもった悲鳴に変わると同時に、ハリーを覆い隠すように広がっていた異形腕がグレイバックの元へと縮んで戻ってゆく。

 仮面の下で荒い息を吐きだすグレイバックは、口の端から血をまき散らしながらハリーに向かって叫んだ。

 

「でめぇ、バリー・ボッダーァア……! これは、でめぇの責任(ぜぎいん)だ。でめぇが引き起こした、でめぇのぜいだァ!」

 

 痛む胸を抑えながら、ハリーはグレイバックに目を向けて驚きと怒りに眼を見開く。

 今まで喉を抑えて倒れ伏していたドミニクが、死力を振り絞って床に落ちていた麻袋から《煙突飛行粉》を掴み取り、暖炉へと放り投げる。瞬間、エメラルドグリーンの炎が燃え盛り暖炉を埋め尽くし、アンブリッジの自室を緑色に染め上げた。

 緑の炎を背負ったグレイバックは、妙な迫力をまき散らして、異形の左腕で締め上げたチョウ・チャンの姿を見せつけるように掲げる。気を失ってはいないが、異形腕の一本で口をふさがれているためくぐもった声しか聞こえてこない。

 

「ぐ、ごぼ……『神、……秘部』……」

 

 ドミニクが裂けた喉で、なんとか正しい発音で行先を告げると、グレイバックは迷わずエメラルドグリーンの炎の中へと飛び込んでゆく。その左腕に、チョウ・チャンを拘束したまま。

 

「来い、ボッダ―。『神秘部(じんびぶ)』だ……! 魔法省まで、このメスガギの死体(じだい)を、引ぎ()りに来いィ! 必ずお(ばえ)がッ、来い! がはッ、がァははは! ばばははははァァァアッ!」

「ちょッ、チョウ! ダメだ、待て! やめろグレイバック! グレイバァァァ――ック!」

 

 ハリーの絶叫に、留飲を下げたのか笑みを浮かべたグレイバックは、その身を回転させて消し去ってしまう。チョウ・チャンも共に消え去り、後に残ったのは喉から水音を響かせるドミニクと、絶命した狼人間の死喰い人。そして倒れ伏した二人の闇祓いに、呆然とするハーマイオニーとハリー、そして泣きじゃくるマリエッタだけだった。

 アンブリッジが絶叫して部屋から出ていったことで、騒ぎになったのだろう。生徒たちが押し寄せて部屋に駆け込んでくる騒ぎが聞こえる中、ハリーは沈下してしまった暖炉を見つめて、声にならない呻き声を漏らし続ける。

 油断していたつもりは一切なく、完全に殺害する気でグレイバックを相手取っていた。しかし、ここにきて、こんな手段に走られるとは、ハリーもまったく想定していなかった。悪意への想像力のなさが招いた、ハリーの失態。

 チョウ・チャンを、拉致されてしまった。

 

 





【変更点】
・アンブリッジが校長になるタイミングが、ほとんど年度終わり。
・フレッジョによる悪戯大暴れイベントが起きなかった。
・寿命の関係もあって、ハリーがまだ《闇祓い》を目指していない。
・《両面鏡》で愛しい家族とお喋り。最高のストレス解消。
・原作ハリーより、はるかに成績がいい。ちゃんと勉強してるからネ!
・ハリーが魔法史の試験で居眠りしない。死喰い人の罠が変更される。
・学校内でグレイバック襲撃。アンブリッジが自ら招いたようなもの。
・半人間アンブリッジの末路。一生を狼人間として生きることになります。
・チョウの拉致。神秘部へ助けに行かねば。

【オリジナルスペル】
「モートゥルードゥス、踊りまわれ」(初出・58話)
・移動の魔法。特定の対象を躍らせるという、面白い魔法。
元々魔法界にある呪文。ホグワーツ卒業生は全員、この呪文でパイナップルを躍らせている。


実は今回の話、プロットではグレイバック襲撃から始まっています。OWL試験が楽しくて楽しくて……、子供の頃、私はハーマイオニーに一番共感していました。絶対に勉強が楽しかっただろうなあ、と。ハリー・ポッターの愛読者の一部は、きっと同じことを考えていたことでしょう。私なら十二ふくろう取れるぞ、とね。
守りの結界があるはずのホグワーツへグレイバックが侵入できた理由は、内部の人間が招き入れたから。闇祓いに扮していた死喰い人に騙されていたとはいえ、アンブリッジの罪は重い。罪には報いを。彼女にとっては、ケンタウロスに拉致されるよりよほど絶望の終わりでしょう。
次回は、いざ神秘部へ。チョウ・チャンを助けられるのは、ハリーしかいないのだ。

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