鴨志田先生が心身不調による療養に入ったということが担任の口を通して語られ、あの予告状騒ぎは過熱した。
鴨志田先生の功績に嫉妬した教師による脅迫事件だ。
いやいや、例の転入生が秀尽学園でもついにその本性を露にしたのだ。
とんでもない、ついにあの副会長が鴨志田先生と一戦交えたのだ。あの頬の傷がその証拠だ。
何も知らない生徒達はあれやこれやと憶測を飛ばす。その憶測の中に僕を犯人だとするものもあるのは仕方ないと思うべきか、それとも雨宮さん達に向かう好奇の目が僕に向けられる分減って良かったと思うべきなのか。
何にせよ、僕はそれから数日はクラスメイトの好奇心、バレー部からの敵愾心をどう捌くべきかと頭を悩ませることになった。
そんな混乱が少しずつ収まってきた頃、半ば生活習慣と化した生徒会室での読書に精を出していた僕の下に珍しい来客があった。
「や、最近は周囲が騒がしいけれど困ったことは……無いわけないよね」
「……そっちほどじゃない」
眼鏡を曇らせながらインスタントコーヒーを啜るのは噂が噂を呼んで他学年にもその名を轟かせる雨宮さんだ。人目につかない教室の鍵を渡していたものの、校内の新聞部にずっと後をつけ回されては落ち着いて利用することも出来ないと一時的に避難させてくれと頼られたのだ。
「僕は去年も似たようなことがあったからね、疲れはするけど慣れたもんだよ」
「頼もしい」
「頼もしい、と言って良いのかは微妙なところだけどね」
話をしながら、僕も雨宮さんも本のページを捲る。彼女の読んでいる本は、『大怪盗・アルセーヌ』? 図書室に入っている本だけど、女の子にしては随分と渋いチョイスだ。
「雨宮さんも結構本を読むの?」
「それなりには」
「そっか。僕は本を読むのが好きでね。その本も読んだことがあるから、良ければ後で感想会でもしようよ」
僕の提案に雨宮さんは本に視線を落としながらコクリと頷いた。コーヒーが好きで本も読む、なかなか趣味の合う友人を見つけられた気がする。僕は表情には出さないものの、内心ウキウキとした気分で手元の本を読み進めていた。
「副会長には迷惑を掛けた」
「迷惑……?」
しばらくの沈黙の後、徐に口を開いた雨宮さんが告げたのは謝罪。謝られる筋合いに心当たりが無いわけではないが、それでも半信半疑だったのでとぼけてみせる。
「予告状のこと。あなたがやったわけじゃないのに」
「そう言ってくれるってことはあれは君達の仕業なのかな?」
聞き返すと雨宮さんは肯定も否定することも無く、ただ視線を下に落とす。あまり公にしたいことでは無いということなのかもしれない。
別に僕としては問い詰めるつもりもないし、あれが僕の仕業とされてもそれはそう思われるような普段の僕の行いにこそ問題があるのであって雨宮さん達が悪いわけでは無いと理解しているので責めるつもりも無い。
ただ、一つ気になることはある。
「答えたくなければ言わなくても構わないよ。だけど一つ教えて欲しい。鴨志田が今休んでいる件、あれは不法な尋問、拷問、その他肉体的、精神的苦痛を与えたことによるものかな?」
「それは違う! と、思う……」
僕の言葉に慌てたように本から目を上げて反論する雨宮さん。思う、と言ったということは彼女自身も鴨志田が今休んでいる件の効果を確信出来ていないのだろう。この時点で少なくとも彼女は鴨志田が今休んでいる件に大きく関わっていることは確定したわけだ。それを誰かに言おうとは思わないけれど。
「そっか、少なくとも雨宮さんは鴨志田に危害を加えていない、ないしは加えたつもりは無いってことだね。それだけ分かれば良いよ。僕は変わらず君達の味方だ」
「……良いの?」
「良いのも何も、僕も君も鴨志田に悪いことをした訳じゃないし。僕も君も何も知らない、そうでしょう?」
雨宮さんはポカンとした顔で僕を見ていたが、理解が追い付くとホッとしたような笑みを見せた。
「何も知らない僕の勝手な独り言だけどさ。君は取引に見合う、いやそれ以上の成果を挙げてくれたと思うよ」
再び本に視線を落としながら、僕はそう呟く。あの予告状の内容を思い出してみれば、鴨志田は自らの罪を自白することになるんだろう。方法は分からないけれど、雨宮さん達はそれが可能な手段を持っているか、知っている。ただそれはあまり大勢には知られたくないか、あまり信じてもらえないような内容であろうことは彼女の口が重いことから想像がつく。なら僕が出来ることはこうして何も聞かず彼女を労ってあげることくらいだ。彼女達も僕の知らない方法で戦ってくれたんだろうから。
その後、僕は本を読み終えた彼女と『大怪盗・アルセーヌ』に関する感想会を開いた。常人には盗み出すことは不可能と思われる厳重に守られたお宝を盗み出した彼の鮮やかな手口、それを構築する彼のあらゆる分野に精通した知識について僕なりの私見を交えて話せば、彼女はアルセーヌの怪盗としての揺るぎ無い美学を語る。着目する点は違えど、いや違うからこそその洞察の深さに互いに熱く語り合ってしまった。
「ありがとう、今日はとても楽しかったよ。良ければまたこうやって感想会をしたいね」
「こちらこそ。また話がしたい」
「うん、話したくなったらいつでも生徒会室においで」
満足そうな顔をした彼女と別れ、僕もご満悦な気分で帰路につこうとした。
「海藤くん」
そんな僕の気分を一撃で底値に持っていくような声が僕の背中に掛けられた。
「……どうかなさいましたか、校長」
「校長室に来たまえ。話がある」
普段は滅多に校長室から出ることもない、それどころか彼がその椅子から立った姿を見たことがないとすら言える黄色いハンプティダンブティこと校長先生、彼が渋面でこちらを睨み付けていたのだった。
彼に付き従って校長室に連行されると、彼は質の良さそうな椅子にどっかりと座り込み、額から流れる汗を拭いながらこちらを睨み付ける。
「君は鴨志田先生の療養について何か知っているだろう」
「急に連れてきて何ですか」
校長は何やら確信を持っているような口ぶりだが、全く知らないことを知っているだろうと言われてもさっぱりだ。
「あの悪質なイタズラは君の仕業だと噂になっている」
「数ある噂の一つがそこまで強い根拠になるとは僕には思えないですけどね」
「鴨志田先生と喧嘩をした君が彼を脅したに違いない!」
口角泡を飛ばす勢いの校長をどうどうと宥めすかす。数日前は大人としてこれほど見下げ果てた人だと思ったが、どうやら底値はまだまだ下にあったようだと評価を下方修正する。多少確執があるとはいえ、噂話なんていう薄い根拠で犯人を決めつけ、尋問まがいなことをするのはどうかと思う。
「僕が鴨志田先生に何をしたと? それに僕がやるとすれば自暴自棄になって今まで集めた証拠を無差別にばらまくくらいですよ。直接手を出すなんてリスクの高い真似はしません」
「それでも……、それでも君が何かしたことは間違いないはずだ!」
「何でそこまで躍起になって僕を犯人にしたがるんですか。あれですか、以前僕が話したリスクが現実になりそうだからって慌ててます?」
ここまで校長が僕を執拗にあげつらう理由としてはもうそれくらいしか無い。鴨志田が心身不調で休んだ。この間にもっとも動きやすくなって更に校長にとってリスクのある行動をする人間といえば僕だ。僕が以前話した学園の評判を地に落とす最悪のシナリオを現実にしかねないと恐れた彼は少しでも僕の行動を制限しようとしたのだと考えるのが自然だ。
僕の指摘が図星だったのか、校長はぐっ、と喉を鳴らして黙り込んだ。マジかよ。
「だが、もし犯人でなかったとしてもあの悪質なイタズラを防げなかった罪は君にある!」
「お言葉ですが生徒会は生徒達による自活機関の一つですよ。生徒達の意見を集約し、権利を行使するだけです。警察では無いんですけど?」
というか警察にしたってこの程度のイタズラを本気で止められる訳が無い。被害者といえるのは鴨志田ただ一人。それにしたって根拠の薄い抽象的な悪口だけのあの予告状で名誉毀損まで問えるのだろうか。法律には詳しくないから分からないけれど、あれがしかも校内だけにしか広まってない上に朝の間に鴨志田自身が片付けて長い間人目に晒されたわけでもない。
「まあそこまで本気なら是非警察を呼んでください。そうしたら事実関係は多少なりとも明らかになるでしょうし」
そんなことが出来るわけがないと知っているので挑発的に言ってやる。仮に警察が事情聴取に来たところでそのときは僕がこれまでのことを証拠付きで包み隠さず話すだけだ。それに鴨志田が休んでいる理由については何一つ知らないので校長の得になることは何も無い。
「それで、警察をお呼びになりますか?」
再度問いかけてみるが、校長は視線を忙しなく彷徨わせるばかりでなにも言わず、そのまま肩を落とした。
「……これで満足かね? 君のやったことは学園の信用を失墜させ、多くの学生達だけでなく、この学園のスポンサー達にも泥を塗る行為だ」
力無く呟いたその姿からは、先程までの怒りがすっかり抜け落ちてしまったようだった。彼は僕のせいで学園に不利益が生じると考えているみたいだが、残念ながらそれは勘違いだと言わざるを得ない。
「あなたのしていた行為そのものが既にこの学園の看板に泥を塗りたくる行為でしたよ。学園の信用を思うのでしたら僕が去年告発した段階で事態を重く受け止め、対策すべきでした。遅かれ早かれ事は明るみに出ます。そうなったとき、校長はどうなさるおつもりですか?」
「……ワシの在任中に何故こんなことが」
僕の質問には答えず、頭を抱えて現実逃避に走る校長。その気持ちは分からないでも無いが、それを言うなら生徒側の意見にももう少し耳を傾けておくべきだっただろう。そもそも、ここまで鴨志田を好き勝手にさせたのは実績欲しさにその専横を黙認した校長にも非があるのは確かなんだから。あるいは秀尽学園の看板を一身に背負わされた鴨志田のプレッシャーを考えると、過度のストレスが彼の暴走の理由の一つになっていた可能性もある。
「どうすれば良いんだ、ワシは」
「きちんと説明責任を果たすしかないと思いますが」
そう言えば更に悩みは深まったようで、悲壮感漂う表情で僕に縋るような視線を向けてくる。
「君は今回の件、犯人が誰か心当たりがあるんじゃないかね?」
「校長の考えでは僕が犯人じゃないんですか?」
もちろん心当たりはある。というかその人物とさっきまで話していたくらいだけど、それを素直に教えてやるつもりはない。その程度には僕の校長に対する信頼は無くなっているし、雨宮さん達に対する信頼は強くなっている。多少の泥くらいは被っても良いと思うくらいには。
「それでは万が一警察が来たときにはワシは君を最有力容疑者として話すことになるが?」
「校長の中では最初からそうなっているのですからそうすれば良いじゃないですか。その結果、僕が退学になるのだったら仕方ないですね。大学なんて別に高校に通わなくても受験できますし、両親には謝らないといけないですけど」
僕が口を割ることは無いと悟ったのか、校長の顔に滴る汗が量を増していく。これ以上話すことは無いだろうし、ここにいても仕方ないな。
僕は項垂れたままの校長先生に背を向けて校長室を後にする。出たところで心配そうにこちらを窺っていた雨宮さんと目が合う。帰り際に僕と校長の姿を見て心配してくれたんだろうか、もしくは僕が口を滑らさないかが気になったか。どちらにしても安心して欲しいと目配せしておく。その意味がきちんと伝わったかは分からないが、彼女はペコリと小さく頭を下げたのだった。