音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった   作:樫田

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アズカバンの囚人、帰る

 クリスマス休暇が明けると、ホグワーツにはたちまち普段の騒がしさが戻ってきた。

 大広間では休暇中の出来事を報告し合う声が飛び交い、廊下では宿題を終わらせていない生徒が友人の羊皮紙を借りようと走り回っている。

 しばらく静かなウィルトシャーにいたから音の大きさに少し慣れないが、やっぱり学校はこうでなくては落ち着かない。

 

 休暇明け最初の昼食前、大広間に入るところで、ハーマイオニーに呼び止められた。なんだか、最近あまり見ていないくらい、とても嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「ひさしぶり、ドラコ! ねえ、あなた聞いた? ハリーとロン、仲直りしたのよ」

 思わず足を止めて、じっくりとハーマイオニーの顔を見てしまった。

「……本当に?」

「ええ。ちゃんと二人で話したらしいのよ」

 ハーマイオニーは、長い間頭を悩ませていた問題がようやく片づいたと言わんばかりに、ほっとした笑みを浮かべている。

「何があったの? 休暇に入る前の最終日、ハリーとウィーズリー家の人たちが急にいなくなっていたのは気づいてたけど……」

「まあ、色々とね。それでロンも、今まで自分がしてきたことを考えたみたい」

 あれ、君、ご両親と一緒にスキーに行ったんじゃなかったっけ? なんで事情を見てきた感じなんだ?

 詳しく尋ねようかとも思ったが、ハーマイオニーの表情を見るに、本人たちのいないところで話せることではなさそうだった。なら、無理に聞き出す必要もないか。

 

 何にせよ、本当によかった。僕がロンと話したことがどれほど役に立ったのかは分からないが、あのまま卒業まで意地を張り続けるような事態にはならなかったらしい。

 まあ、散歩の時のロンの心情を顧みるに、遅かれ早かれこうなると思っていたけどね? なんて心中で冗談を思う程度には、僕の気持ちを明るくさせてくれるニュースだ。

 昼食時に二人の様子を窺ってみると、仲直りしたという話はすぐに確認できた。二人はクリスマスプレゼントだろうか、何かクィディッチの雑誌らしきものを額を突き合わせて覗き込んでいた。以前はよく見た光景だが、その後二人が顔を見合わせて笑っているのを見ると、喧嘩の前よりもかえって空気が軽くなっているように感じる。

 

 ただし、ロンが僕に向ける態度まで、すっかり元に戻ったわけではない。

 午後、階段の踊り場で鉢合わせたとき、彼は一瞬だけ足を止めた。こちらを避けて通るのかと思ったが、少し顔を強張らせながらも口を開く。

「……ハリーたちなら、もう魔法薬学の教室に行ったよ。次、僕ら同じ授業だろ」

「ああ、ありがとう。助かるよ」

「……別に」

 ロンはそう言うと、僕を追い越して先へ行った。声は硬かったが、以前のような敵意はなかった。僕と親しくするつもりはなくても、少なくともみんなの前で露骨に対立しないよう努めているらしい。

 いやはや、気を遣わせて申し訳ないね。周囲の人間関係のバランスを見れるようになった上に僕を警戒してくれるロンは、はっきり言って最強だ。

 その日のうちに「勉強会」にも合流したようだし、これからどんどん精神面でも、戦闘面でも成長していってくれることだろう。とても楽しみだ。

 

 

 とはいえ、ハリーたちの問題が片づいたからといって、僕自身まですっかり晴れやかな気分になれたわけではなかった。

 今年のクリスマス休暇は、例年どおりマルフォイ邸で過ごした。屋敷がすでにヴォルデモート卿の拠点になっている以上、帰る前は休暇中に何度呼び出されることになるのかと身構えていたのだが……意外なことに、一度も顔を合わせなかった。

 

 それならのんびり休暇を楽しめたのかといえば、そういうわけでもない。父は屋敷を空けていることが多く、帰ってきても何をしていたのか話そうとしなかった。こちらから尋ねても、「お前が気にすることではない」「今は学校のことに集中しなさい」と、もっともらしい言葉ではぐらかされるばかりだった。

 僕を危険なことから遠ざけようとしているのだろう。それ自体はありがたい。ありがたいのだが……父がここまで徹底して隠そうとするのなら、絶対に何かある。

 

 そもそも、ヴォルデモート卿が何もせずのんびりクリスマスを祝っているはずがないのだ。相変わらず神秘部のことは何も耳に入ってこないし、僕が魔法学校教育法の制定にかかりきりになっている間にも、闇の陣営では別の計画が動いている。その中身どころか、計画がどこまで進んでいるのかさえ知らされていない現状は、どう考えてもまずかった。

 

 今週末には、第一回の魔法教育委員会に向けてファッジと打ち合わせをすることになっている。委員の顔ぶれや会議の進め方、最初に扱う議題についても確認しておかなければならない。三ヶ月かけて成立させた制度なのだから、動き出すところまで責任を持つべきなのは間違いない。

 しかし、本当にこのまま、教育法のことばかり考えていていいのだろうか。

 僕の知らないところで、もっと差し迫った事態が進んでいるのではないか。

 その不安は、見事に的中した。

 

 ──休暇が明けて数日も経たない木曜の深夜、アズカバンで集団脱獄が発生した。そのニュースを知ったのは、翌朝のことだった。

 ここ数ヶ月、魔法省からの連絡を確認するために早起きするのがすっかり習慣になっていた。その日もまだ大半の生徒が眠っているうちに寝室を抜け出し、人気のない談話室へ下りた。

 暖炉の火は消えかけており、窓の向こうでは湖の水が暗く揺れている。僕はいつものように屋敷しもべ妖精がテーブルに置いた『日刊予言者新聞』を手に取り、ソファへ腰を下ろした。

 

 一面を開いた途端、ひどく大きな見出しが目に飛び込んできた。

 アズカバンで大規模脱獄──凶悪犯十一名が逃走

 一瞬、書かれている意味が理解できなかった。

 記事によると、木曜の深夜、アズカバンに収監されていた十一人の囚人が一斉に姿を消したらしい。現場には激しい戦闘の痕跡がほとんどなく、看守である吸魂鬼たちからも、魔法省はまともな説明を得られていないという。

 

 紙面の半分ほどを、脱獄者たちの顔写真が占めていた。

 ベラトリックス・レストレンジ。ロドルファス・レストレンジ。ラバスタン・レストレンジ。アントニン・ドロホフ。オーガスタス・ルックウッド。そして、──バーテミウス・クラウチ・ジュニア。

 いずれも、闇の帝王が姿を消した後も忠誠を捨てず、アズカバンへ送られた死喰い人たちだ。

 

 記事を持つ指に力が入り、紙面の端がくしゃりと潰れた。

 僕が魔法学校教育法の草案を抱えて魔法省を走り回り、委員候補の機嫌を取り、ファッジ名義の記事を書いていた間に、闇の陣営ではこれほど大がかりな計画が進められていたのだ。

 当たり前ではある。僕は闇の印を持っていないし、まだ十五歳の学生でしかない。ヴォルデモート卿がアズカバンの襲撃計画を、いちいち僕に相談する理由などない。

 それでも、ここまで何も知らなかったという事実は、想像以上に堪えた。父が休暇中に何をしていたのかも、ヴォルデモート卿がどこへ出かけていたのかも、僕は全く把握できていなかった。

 

 しかも、脱獄したのは単なる協力者ではない。十三年以上アズカバンに囚われてもなお、闇の帝王への忠誠を失わなかった者たちだ。

 これまでヴォルデモート卿の周囲にいたのは、父をはじめ、一度は忠誠を否定して処罰を免れた人間が多かった。彼らには家も財産も立場もあり、戦いが激しくなることを避けたい理由があった。

 しかし、今回脱獄した者たちは違う。

 すでに多くのものを奪われ、長い年月を牢獄で過ごし、復讐する相手だけはいくらでもいる。彼らが闇の陣営へ戻れば、今までと同じような慎重さが保たれるとは思えなかった。

 自分が知らないうちに、闇の勢力の均衡は大きく変わってしまったらしい。

 膝の上に新聞を広げたまま、僕はしばらく動くことができなかった。

 

 

 僕の次に、談話室へ下りてきたのはクラッブだった。

 何か言わなきゃと思うが、うまく言葉を紡ぐことができない。ただ無言でソファに座ったまま新聞を差し出すと、彼は見出しを一読し、黙って受け取った。続くようにゴイルが起きてきて、その肩越しに紙面を覗き込む。二人とも大声を上げたりはしなかったが、写真の中でこちらを睨みつける脱獄囚たちの顔を、長い間じっと見ていた。

 

 やがてほかの生徒も談話室へ集まり始め、集団脱獄の知らせは瞬く間に寮内へ広がった。

 表立って騒ぐ者は少なかったが、誰もが落ち着きを失っていた。家から届いた手紙を何度も読み返す者、親の名前を小声で確かめ合う者、誰とも目を合わせず暖炉の前に座り込んでいる者。普段なら朝食へ向かう時間になっても、談話室に残って小声で話している生徒が多かった。

「『勉強会』はどうするんだ?」

 誰かがそう尋ねると、何人もの視線がこちらへ集まった。

 

 ここ数年、僕らは他寮の生徒とかなり親しくしてきた。昨年までなら学校内の変わった動きとして見過ごされていたかもしれないが、闇の勢力が再び動き始めた今となっては、それを快く思わない家も出てくるだろう。脱獄者たちが純血家系へ接触し始めれば、僕ら自身や家族にまで火の粉が飛んでくる可能性もある。

 

 何と答えるべきか考えていると、先にクラッブが口を開いた。

「こうなる可能性は、ある程度考えていただろう」

 低く落ち着いた声に、談話室が静かになった。

「大丈夫だと言い切るつもりはない。家によって事情も違うし、これから何が起きるのかも分からない。だが、俺たちがやるべきことは変わらない」

 

 クラッブは周囲の生徒をゆっくり見渡した。

「寮内で争ってはならない。それが最も俺たちの利に反する。そして、他寮の挑発に乗ってもいけない。誰かの家の事情を勝手に詮索しない。だが、何か懸念があれば一人で抱え込まず、俺たちか頼れる寮内の人間に話せ。……結束を崩さず、余計な争いを避けて、狡猾に振る舞う。それだけだ」

「『勉強会』も、今までどおり続けよう」

 ゴイルもクラッブの隣で頷いた。

「急に他寮との付き合いをやめたら、かえって何かあったように見える。それに、こういうときほど、安心して話せる場所があった方がいい。何か変わったことがあれば、その都度みんなで考えよう」

 

 二人の言葉で、談話室の緊張がなくなったわけではない。それでも、ひとまず何をすればいいのかは伝わったらしい。生徒たちは少しずつ食堂へ向かい始め、残っていた者同士でも、今日の授業について話す声が戻ってきた。

 まったく、本当に頼りになるな、この二人は。

 寮生たちの不安を全て取り除くことはできないだろうが、学校内のことは任せておいて大丈夫そうだ。

 

 やがて談話室に残ったのは、僕とクラッブ、ゴイルの三人だけになった。

「それで、お前はどうするつもりだ?」

 クラッブが新聞を畳みながら尋ねた。

「まず父に手紙を送るよ。家に問題がないか、確認しておきたい」

「確認だけにしておけ。少なくとも、一人で屋敷へ帰るな」

「ベラトリックスが僕の伯母だから?」

「それもある。だが、もっと問題なのは、脱獄した連中がどこへ集まるかだ。お前の家へ向かう可能性は高いだろう」

 やはり、クラッブも同じことを考えていたらしい。

 

「僕たちは、少なくとも学校にいる間は安全だと思う」

 ゴイルも、いつになく厳しい顔で言った。

「今、一番危ないのはドラコかもしれない。何か分かったら、自分だけで決める前に僕たちにも話してよ。君、全部決めてからしか教えてくれないことが多いから」

 耳が痛い。

「分かった。今は手紙を送るだけにするよ」

()()、か」

 クラッブは僕の言葉を繰り返し、じろりと睨んできた。さすがに誤魔化せそうになかったので、曖昧に笑って新聞を取り返す。

 どうやら僕は、二人に任せるだけでなく、心配される側にもなってしまったらしい。

 

 朝食を終えて大広間を出た後、人気のない廊下でロンに呼び止められた。

 ロンは壁際に立ち、ひどく強張った顔でこちらを見ていた。しばらく何と言うべきか迷っていたようだったが、やがて声を落として尋ねた。

「君は……知ってたのか?」

 何を、と聞き返す必要はなかった。

 

「正直に言おうか?」

 ロンは眉を顰め、黙って頷く。

「知らなかった。休暇中、何かが動いているとは思っていたけど、アズカバンのことは何も聞かされていない」

 口に出すと、自分が置かれている状況がいっそうはっきりした。

「今回出てきたのは、今まで僕が話をしてきた人たちとはかなり違う。これから闇側がどう動くのか、僕にも分からない。事態をコントロールできなくなるかもしれない」

 ロンの顔に、はっきりと恐怖が浮かんだ。脱獄者の中には、彼の家族と直接因縁のある者もいる。安心させるようなことを言いたかったが、今の僕には何の根拠もなかった。

 

 しばらくロンの顔を見つめたあと、僕はそれだけ告げた。

「だから、これからどうにかする」

 ロンが何か言う前に背を向け、その場を離れた。

 どうやって、とは聞かないでほしかった。今のところ、僕自身にも何をすればいいのか、しっかり定まっているわけではない。

 それでも、何もかもを賭けてでも、どうにかするしかないのだ。

 

 クラッブの指摘はもっともだった。マルフォイ邸には今、十年以上アズカバンに囚われていた死喰い人が何人も押しかけている可能性がある。

 母も心配だが、何より気がかりなのは父だった。屋敷の主人として凶暴な脱獄者たちを迎え入れ、今後の方針についてヴォルデモート卿から指示を受けているはずだ。休暇中に何度も出かけていたことを考えれば、今回の計画にも何らかの形で関わっていたのかもしれない。

 父は無事なのだろうか。

 授業へ向かう前、僕は急いで短い手紙を書いた。誰かに読まれる可能性を考え、ヴォルデモート卿や死喰い人については一言も触れない。

──今朝の新聞で、ベラトリックス・レストレンジの脱獄を知りました。父上と母上に危険がないか心配しています。明日、魔法省へ向かう前に、一度そちらへ戻った方がよいでしょうか。

 

 事情を知らない者が読めば、脱獄した犯罪者が身内にいる少年から、両親への安否確認にしか見えないはずだ。僕は手紙を家の梟に託し、そのまま午前の授業へ向かった。

 返事が届いたのは、夕食前だった。

 父の筆跡で書かれていたのは、たったの三文の言葉だけだった。

──こちらに問題はない。明日は予定どおり魔法省へ向かいなさい。家には戻るな。

 何度読み返しても、それ以上のことは書かれていない。

 しかし、本当に何も起きていないのなら、わざわざ帰宅を禁じる必要もないだろう。父は僕を危険から遠ざけるために、屋敷の状況を知らせまいとしているのだ。

 

 本当なら、今すぐ屋敷へ戻りたい。しかし、今日はまだ金曜日だ。授業を抜け出せば、当然、先生方にも生徒にも気づかれる。ベラトリックス・レストレンジがアズカバンを脱獄した当日にマルフォイ家の息子が学校から姿を消したとなれば、余計な疑いを招きかねない。明日はもともとファッジとの面会が予定されている。学校を出ても不自然には思われない。

 父のことを考えると、胃がよじれる。

 それでも、今は土曜の朝まで待つしかなかった。

 

 

 土曜日の早朝、僕は魔法省へ向かう予定の時刻より、五時間近く早く目を覚ました。

 すでに昨夜のうちに荷物はまとめてある。同室の子たちを起こさないように防音呪文をかけて素早く身支度を整え、暖炉に煙突飛行粉を投げ入れた。勢いよく上がった緑色の炎へ足を踏み入れ、できるだけ明瞭に行き先を告げる。

「マルフォイ邸、応接室」

 身体が回転し、いくつもの暖炉が目の前を通り過ぎていく。次に足が床へ触れたとき、僕は見慣れた応接室の暖炉の中に立っていた。

 灰を払いながら外へ出ると、物音を聞きつけた屋敷しもべ妖精が現れた。僕の姿を見るなり大きく目を見開き、何も言わずに姿を消す。

 程なくして、応接室の扉が勢いよく開いた。

「ドラコ!」

 父は部屋へ入ってくると、僕が怪我をしていないか確かめるように全身を見回した。無事だと分かっても、血の気のない険しい表情は少しも緩まなかった。

 

「なぜ戻ってきた。手紙を読まなかったのか?」

「読みました」

「なら、すぐに学校へ戻れ。魔法省へは予定の時刻になってから向かえばいい」

 取りつく島もない。ここまで来れば、少しくらい話を聞いてくれるのではないかと期待していたが、父に僕を屋敷へ留める気は全くないようだった。

「今日、魔法大臣と会うことになっています」

「知っている。だからこそ、余計なことはせず予定どおりに行動しなさい」

「あれほど大きな事件が起きた直後です。ファッジは間違いなく動揺しています。アズカバンの警備体制を変えようとするかもしれないし、ダンブルドアの話に耳を貸す可能性だってある。何も知らないまま会えば、こちらに不利な方向へ動かしてしまうかもしれません」

「お前が対処することではない」

 返事は早かった。父は僕の肩へ手を置き、そのまま暖炉の方へ向けようとする。指先に、普段より強く力がこもっていた。

 

「必要なことはこちらで判断する。お前は今までどおり、教育委員会のことだけを話せばいい」

「脱獄について尋ねられてもですか?」

「何も知らないと言えばいい。事実、そうなのだから」

 それは正論だった。僕には何も知らされていないのだから、余計なことを言わずにファッジの話を聞くだけでも構わない。後から父へ報告し、その上で次の対応を決めることもできるだろう。

 しかし。それでは遅いかもしれない。それ以上に、父がここまで頑なに拒む以上、普通に説得しても考えを変えてくれないことは明らかだった。

 ならば……父を動かすには、()()()()()()()()()しかない。

 

「……もし今日、僕がファッジへの対応を誤ったら、それを我が君はどうお考えになるでしょう」

 父の顔から、さらに血の気が引いた。

「僕はこれまで、ある程度、大臣の関係を任されてきました。あの人が脱獄をきっかけに我が君にとって不都合な行動を取れば、僕の責任だと判断されるかもしれません」

「ドラコ、それは──」

「闇の帝王が今後どう動くおつもりなのかも知らずに、魔法省へ行って、どうなるでしょう。何も知らされていなかったという言い訳が、あの方に通用するでしょうか?」

 父の顔から表情が消えた。肩に置かれていた手が、今度は僕の腕を強くつかむ。

 

 ……その目から伝わる怯えに、心臓を握りしめられているように感じた。それでも、ここで引くわけにはいかないのだ。

「自分が何を言っているのか、分かっているのか」

「……分かっています。だから、先にここへ来ました」

 しばらく、父は僕の腕をつかんだまま動かなかった。暖炉の中で、薪がぱちりと爆ぜた。

 長い沈黙の後、父は目を伏せた。

「……分かった。お前が来ていることを、我が君にお伝えする。だが、お会いになるかどうかを決めるのはあの方だ」

「ありがとうございます」

 

 父は扉へ向かいかけたが、足を止めた。振り返ったり、何か言おうとして口を開くが、何も言わずそのまま僕のところへ戻ってきた。乱れていた襟元を直すように手を伸ばし、途中でその手を僕の背へ回す。気づけば、僕はきつく抱き寄せられていた。

「父上……?」

「危険なことはしないでくれ」

 耳元で、父の息が浅く途切れた。

「頼む。何かを変えようとして、あの方に逆らうような真似だけはしないでくれ。お前を失うことになったら、私は……」

 続きは言葉にならなかった。

 僕はしばらく動けずにいたが、やがて父の背中へ腕を回した。自分が口にした脅しが、そのまま父の腕の力になって返ってきたようだった。

「……分かっています」

 そう答えることしかできなかった。

 

 

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