音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
月曜日の放課後、僕は今日までの件について、ダンブルドア宛にまとめた。
封をした報告書は、やはりいつも通りにマクゴナガル教授へ預ける。教授は宛名をじっと見つめた後、「預かっておきます」とだけ言った。
最近、僕がダンブルドアへ連絡を取ろうとするたびに教授は悲しそうな顔をする。けれど何かを言いかけても、結局そのまま口を閉ざす。
以前なら眉を顰め、その場で何をしているんだと問い詰められていただろう。でも、今は何も言われない。ダンブルドアに止められているのだろうか。
今回、僕はいよいよヴォルデモート卿の復活を隠蔽するために本格的に動くことになった。今まではファッジの逃避を受け流していただけと言い訳をしていたが、これからは明確な誘導に入っていく。
──君のしでかしたことは大間違いだ。もう何もするな。──今度こそ、ダンブルドアがそう書いてくるのではないかと思った。
しかし、その日の夜やって来たメモに、そんな言葉はなかった。
──君のおかげで助けられた。ありがとう。
しばらく、手の中で揺れるメモを眺める。大きく息を吸って、真ん中で二つに引き裂いた。
静かにカーテンを引いてベッドから降り、部屋の中央にあるストーブの差し込み口を開けて紙片を放り込む。片方が薪の手前に引っかかり、火の届かないところで止まった。
右手を入れ、その紙を奥へ押し込む。熱された金属に小指が触れ、鋭い痛みが走ったが、そのまま薪の間まで押しやった。
紙に火が移り、燃え尽きるのを確かめてから、ゆっくりと手を引いた。
メモを燃やしても、何かが変わるわけではない。
僕はこれまでと同じように学校で過ごし、決められた土曜日にはヴォルデモート卿への報告のためにマルフォイ邸へ戻った。
魔法省の声明が『日刊予言者新聞』に掲載された後、ヴォルデモート卿はひどく満足そうだった。
「ファッジは、クラウチが脱獄を企てたと信じこもうとしているのだな?」
「はい、我が君。少なくとも現在は、その可能性を中心に捜査を進めるつもりのようです」
「自分で考えついたつもりでか」
「そのように思っているかと」
ヴォルデモート卿は喉の奥から嘲笑を漏らし、椅子の背へ深く身体を預けた。
「よくやった、ドラコ」
猫撫で声の褒め言葉に、広間の端に座っていた伯母上は露骨に不愉快そうな顔をした。それでも、以前のように声を荒らげることはなかった。
まだ一人で長く立っていることも難しいらしい。頬はこけたままで、椅子から身を起こすときにも、肘掛けへ手をつかなければならなかった。
「……我が君、今の私では、十分に動けないのも事実です。我が君がお望みなら、しばらくはその子供の策を見届けましょう」
伯母上は、それだけ言うのにも耐えがたい屈辱を感じているようだった。僕を睨みつけた後、忌々しそうに顔を背ける。
父は報告の間、一度も口を挟まなかった。
ヴォルデモート卿から退出を許されると、父は僕と一緒に広間を出た。応接室まで戻る間に何度かこちらを見たが、何も言わない。
暖炉の前に着いたところで、ようやく口を開いた。
「次に戻るときも、必ず先に知らせなさい」
「分かりました」
父はまだ何か言おうとしていた。しかし言葉は出ることなく、結局は軽く肩を叩いて口を閉ざした。
もう関わるなとは言われない。僕にそう命じることが、今やヴォルデモート卿へ逆らえと言うのと同じになってしまったことを、父も理解しているのだろう。
その後も、同じ生活が続いた。これはもはや日常なのだ。
しかし、二月のある土曜日は、いつもと様子が違っていた。
煙突飛行ネットワークを抜けて応接室へ降り立つと、クラウチ・ジュニアが待っていた。これは初めてのパターンだ。椅子にも座らず、暖炉から少し離れたところにただ腕を組んで立っている。
僕が灰を払って暖炉から出ようとした、そのとき──上階から男の苦悶に満ちた叫び声が聞こえた。長く引きつった声が途切れ、すぐにまた上がる。床や壁を通してもはっきりと聞こえるほどだった。
──落ち着け、父上の声には聞こえない。しかし──
僕はまっすぐ応接室の扉へ向かった。
「待て」
背後から声をかけられたが、そのまま取っ手へ手を伸ばす。扉を開けようとしたところで、クラウチが先に回り込み、行く手を塞いだ。
「今日はもう戻れ、マルフォイ」
昨年、別の男の声で同じように呼ばれたことを思い出す。顔を見てみると、クラウチは以前よりずっと感情を表に出していた。
「僕は今日、定例報告のために来たんですが」
「その報告なら私から我が君へ伝えておく」
上階から、再び叫び声が響く。クラウチは僕と扉の間に立ったまま動かなかった。
「今は我々死喰い人の用件について話しておられる。君が関わることではない」
……アズカバンから戻って以来、クラウチはずっと僕のことを見ていた。
屋敷で顔を合わせるたび、少し離れたところからこちらの様子を窺っている。ヴォルデモート卿に気づかれたくないのか、目が合えばすぐにいつもの無表情へ戻るが、気づいていないふりをするにはあまりにも回数が多かった。
一体、何がしたいんだ。この人は。
クラウチはどこか苦しげに眉を顰めた。
「君には……こんなことは向いていない。自分でも分かっているだろう」
……誰のせいで、こんなことになっていると思っているんだ。
この人がヴォルデモート卿を復活させなければ、僕だって今頃、ヴォルデモート卿の元へなんて通ってはいない。父の身を案じて発狂しそうになりながら、光と闇の両陣営の間でイカれた綱渡りなんてしていない。
「ご心配ありがとうございます」
苛立ちを押し殺し、できるだけ丁寧に答えた。
「けれど──あなたがそれを言うのですか?」
向けられていた暗い瞳が揺れる。それは明らかに動揺だった。
クラウチから目を逸らし、もう一度扉へ手を伸ばす。その腕を横から強く掴まれた。
「君の父親は、君が守るに値しない」
低く押し殺した声だった。僕は扉に手をかけたまま、クラウチを振り返った。
「それは僕が決めることです」
腕を掴む指に、さらに力がこもった。痛みはあったが、振りほどこうとはしなかった。
「それに、どのみち報告には行きます」
クラウチの目を見返す。
「生意気な手下が叫び声を聞いて尻尾を巻いて帰ったと知れば、我が君はさぞお喜びになるでしょうね」
クラウチは口を開きかけたが、何も言い返さなかった。腕を掴んでいた指から、少しずつ力が抜けていく。
その指を引き剥がし、扉を開けた。クラウチを応接室に残したまま、叫び声のする広間へ向かう。しばらく廊下を進んだところで、後ろから足音がついてきていることに気づいた。
広間の扉を開けると、聞こえていた叫び声が直接耳に叩きつけられた。綺麗に磨き上げられた床の上で、一人の男──死喰い人のエイブリーが身体を丸めてのたうち回っている。その前には、杖を向けたヴォルデモート卿が立っていた。
父は無事だった。少し離れたところに立ち、わずかに眉を寄せて床の男を見下ろしている。
……喜んでいいのか分からないが、よかった。分かっていたが、叫んでいたのは父ではない。屋敷へ連れ込まれた無辜の人間でもなかった。
ヴォルデモート卿がこちらを見た。赤い目に一瞬だけ苛立ちが浮かんだが、すぐに細い唇が緩む。
「ああ、ドラコ。よく来た」
しかし、本当に僕が来たことを歓迎しているわけではないだろう。弄んで楽しむ相手が増えたことを喜んでいるようにしか思えなかった。
椅子に座っていた伯母上が、頭から足元までゆっくりと僕を見た。ファッジの件以来、以前よりは認められているらしい。それでも、その視線から値踏みするような色は消えていない。
父とは一瞬だけ目が合った。顔には何も出ていなかったが、僕がここへ来たことを喜んでいないのは分かった。すぐに視線を外し、何事もなかったようにヴォルデモート卿へ向き直る。
今日はスネイプ教授も部屋の中にいた。彼だけは、僕が入ってきても一度も顔をこちらに向けなかった。
「この男は、俺様に誤ったことを教えた」
ヴォルデモート卿は、床に倒れているエイブリーへ再び杖先を向け、囁くように言った。
「神秘部に勤める無言者が
杖先がわずかに動く。エイブリーの身体が大きく跳ね、途切れかけていた悲鳴が再び広間に響いた。
「ルシウスはよく働いてくれたぞ。服従の呪文を使い、無言者を神秘部へ送り込んだ。しかし……全くの無駄だったな? 結局、役に立たず壊れてしまった」
頭を殴られたような衝撃が走った。
父が、誰かに服従の呪文をかけ、その人間が発狂するまで操ったということか?
いや、とうに分かっていたはずだ。父が死喰い人として動く以上、僕の知らないところで誰かを傷つけることもある。僕がここへ通い続ければ、その犯罪に加担することになる。分かっていたのに……
胃が痙攣する。吐き気が喉元までせり上がって来ていた。
「どうした、ドラコ?」
ヴォルデモート卿があやすような声で笑った。
顔には出していないつもりだったが、ほんのわずかな動揺まで見逃してはくれなかったらしい。
「ルシウスも、その男を始末するのは嫌がったのだ。結局、この愚図が片づけたが」
杖先がもう一度動いた。エイブリーは声を上げようとしたが、もうまともな悲鳴にはならなかった。喉の奥から掠れた音を漏らし、床の上で小さく身を震わせる。
「まったく、お前たち親子は、揃って
ヴォルデモート卿は愉快そうに言った。
僕は父の方を見ることができなかった。胃の奥のものを吐き出さないよう、ただ奥歯を噛みしめた。
僕が黙り込んでいると、ヴォルデモート卿はさらに愉快そうに目を細めた。視線は床のエイブリーではなく、しばらく僕の顔に留まっていた。
「だが、考えてみれば──」
杖先がわずかに下がり、エイブリーの鼻先へ向けられる。
「誤った情報を持ち込み、俺様の時間を浪費させた者を、これ以上そばに置いておく必要があるのだろうか?」
エイブリーが息を呑んだ。
試されている。それがヴォルデモート卿の声から何となく分かった。僕がどう反応するのかを見ているのだ。赤い瞳が再びこちらを向き、口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「ええ、当然の報いですわ、我が君」
ベラトリックスが喉の奥で笑った。
「一度ならず、我が君を欺いた愚か者です。こんな無能であれば……」
「どうか……どうかお許しください……我が君……」
エイブリーは床へ手をつき、ヴォルデモート卿の足元へにじり寄る。
「どうか、もう一度だけ……必ずやお役に立ってみせます。何でもいたしますから……」
声は震え、途中から啜り泣きに変わっていく。ヴォルデモート卿は縋りつこうとする男を見下ろしもせず、僕がそれを見ているか確かめるように、こちらへ顔を向けていた。
一瞬だけ、目を閉じた。
エイブリーの泣き声も、父がしたことも、今は考えるな。この感情は何の役にも立たない。無感覚になれ。
侵攻に備えろ。偽りの心を作り上げろ。冷静で、有能な、闇の帝王の配下になりきれ。
目を開き、一歩前へ出た。
「恐れながら、我が君」
ヴォルデモート卿の目がこちらを向く。僕はエイブリーを見下ろし、できるだけ平坦な声で続けた。
「この男が失態を犯したのであれば、別の形で償わせてはいかがでしょう。二度と口を利けぬ人形にした後でも、果たせる役目はございましょう」
エイブリーの啜り泣きが止まった。ベラトリックスも笑みを消し、僕の言葉を待っている。
「話せぬようにした上で、脱獄囚に襲われたと見える程度に痛めつけ、魔法省に発見させるのです」
そこまで言っても、ヴォルデモート卿は口を挟まなかった。
「確かこの男は……かつて、死喰い人に服従の呪文で操られていた被害者だと主張し、処罰を免れた人間だったかと。その男が、今回の脱獄直後に襲われたとなれば──魔法省を、脱獄囚が過去の関係者へ報復を始めたと考える方に動かせるかもしれません。我が君がお戻りになられたわけではなく……ただ復讐を望み、脱獄したのだと」
ファッジの顔を思い浮かべる。あの男なら、与えられた分かりやすい説明へ飛びつく。
「魔法省は何か証拠を引き出そうと躍起になることでしょう……少なくともただ殺してしまうより、我々が本当に進めていることから捜査の目を逸らす役には立つかと」
ヴォルデモート卿は、すぐには答えなかった。
赤い瞳が僕の顔を眺めている。先ほどまで浮かべていた笑みは、わずかに薄れていた。僕が怯えて黙り込むのを待っていたのだとしたら、ご期待には沿えなかったらしい。
「……まったく、小賢しい子供だ」
吐き捨てるように言い、ヴォルデモート卿はエイブリーへ目を落とした。
「だが、その案は要らぬ。わざわざ魔法省へ、こちらの証拠となりうる
エイブリーが床へ伏したまま、恐る恐る顔を上げる。
「喜べ、エイブリー。寛大にも、俺様は此度の失態を許してやろう」
「あ……ありがとうございます……我が君……」
エイブリーは何度も床へ額を押しつけた。
「……愚考でございました。失礼いたしました」
僕も深く頭を下げ、そのまま本来の報告へ移った。
一通り話し終えると、ヴォルデモート卿はつまらなそうに頷いた。
「よい。下がれ」
「我が君」
それまで黙っていたスネイプ教授が、そこで初めて口を開いた。
「私もホグワーツへ戻ります。ドラコと同行させていただきたく」
「好きにしろ」
スネイプ教授が頭を下げる。
「バーテミウス」
続いて名を呼ばれ、扉のそばにいたクラウチが姿勢を正した。
「ルックウッドを、もう一度ここへ呼んでこい」
「承知いたしました、我が君」
僕は再び一礼し、広間を出ようとした。父の横を通り過ぎたとき、ほんの一瞬だけ目が合う。
先ほどまでヴォルデモート卿に対し完璧に隠されていた罪悪感が、その目に浮かんでいた。
──僕に知られてしまったことを、苦しんでいる。
胃が重く落ち込む。それでも立ち止まることはできず、そのまま扉の外へ出た。
応接室へ戻ると、後から来たスネイプ教授は何も説明しないまま、暖炉の前に立った。
「ついて来い」
煙突飛行粉を炎へ投げ入れ、緑色に燃え上がった暖炉へ足を踏み入れる。
「ホグワーツ、我輩の居室」
教授の姿が炎の中へ消えた。
僕も煙突飛行粉を取り、あとに続いた。
しばらくして回転が止まり、出口へと吐き出される。灰を払いながら暖炉を出ても、先ほど作り上げた無感覚さは残ったままだった。
先に戻っていたスネイプ教授が、扉を背にこちらを振り返った。
「いい加減にしろ、マルフォイ」
前置きもなく、苛立ちの満ちた低い声で叱りつけられる。
「お前はとうに、自分の領分を越えている。闇の帝王はお前が少々頭を働かせたところで、思いどおりにできるような相手ではない」
「思いどおりになんて──」
「エイブリーのような男にまで憐れみをかけ、あの方の前へ出る必要がどこにあった?」
その言葉で、どうにか押し込めていた感情が一気に戻ってきた。
「……じゃあ、あなたが何かしてくれるんですか?」
気づいたときには、声を荒らげていた。
「ずっとあそこにいたあなたが何をしたって言うんです? エイブリーが殺されそうになっているのも見ていただけだ!」
「声を落とせ」
「闇の帝王が好き勝手に人を傷つけるのを止めているのは、誰だと思ってるんですか!」
教授の顔が、はっきりと怒りに歪んだ。
「それが思い上がりだと言っているのだ!」
彼は杖を一振りすると、黒いローブを翻し僕との距離を詰める。
「闇の帝王は、もとより今すぐ大規模な攻勢に出るつもりなどなかった。お前があの方を止めたのではない。今はただ、気まぐれにお前の案へ乗っているだけだ!」
吐き捨てるように言われた言葉が、静まり返った居室に響いた。
なぜ、教授がここまで怒っているのか全く分からない。去年の夏、空き教室での詰問が脳裏によぎった。あの時も、この人の目的は不明瞭だった。
教授は何を考えている?
僕は、黒い瞳の奥を見つめた。
次の瞬間、シャツの襟をつかみ上げられた。
反応する間もなく後ろへ押され、背中が壁へぶつかる。顔を上げると、スネイプ教授がすぐ目の前から僕を睨みつけていた。
「我輩に──お前の
首元が締め付けられ、息がつまる。
「それって、何ですか?」
「気づかれていないつもりか? 開心術だ!」
怒鳴られても、何を言われているのか分からなかった。
「身につけたばかりの術を、賢しらに見境なく使いおって──」
「──待って、待ってください。練習したこともないです。僕はそんなこと、しようとしてません」
スネイプ教授の指に、さらに力がこもった。
「無意識にやっているとでも言うつもりか?」
低くなった声に、先ほどとは別の苛立ちが混じる。
「ならば、貴様は自分の力すら制御できていないということだ! 骨の髄まで愚かだな、マルフォイ!」
「でも……」
いまだに何を指摘されているのか、うまく理解できない。しかし、なんとか反論を頭の中で継ぎ合わせる。
「闇の帝王にも、同じように目を合わせていましたが……あの方は何もおっしゃいませんでした」
スネイプ教授は反論しかけ、わずかに口を閉ざした。首元をつかむ手から、少しだけ力が抜ける。
その沈黙で、少なくとも僕が完全にでたらめを言っているわけではないことは分かった。
「だ……だったら……いいじゃないですか」
混乱したまま、どうにか言い返す。
「気づかれないなら、何も問題は──」
「違う! このどうしようもない馬鹿者が!」
スネイプ教授の大声が、それを遮った。
「闇の帝王が気づかなかったのは、お前があの方を凌いでいるからではない。十五歳の子供が自分の心へ手を伸ばしているなどと、初めから考慮にも入れていないからだ」
教授は僕の首元をつかんだまま、さらに顔を近づけた。黒く油っぽい髪が顔に当たる。
「あの方がお前を警戒し、本気で心を探ればどうなると思う? お前の術など簡単に破られ、浅はかな企みがすべて暴かれるぞ!」
「あなたに何が分かる!」
スネイプ教授は怒鳴り返さなかった。首元をつかんだまま、黒い瞳が僕の顔を見つめる。表情から先ほどまで露わだった怒りが引き、代わりにひどく冷たいものが浮かんだ。
「ああ、分かるとも」
わずかに唇を歪め、低く静かな声で言う。
「お前が、あの愚かな父親の罪に一喜一憂していることくらいはな」
息が詰まった。スネイプ教授は、僕の反応を確かめるように続けた。
「だが、残念だったな。すべて無駄だ。ルシウスは結局、お前の知らぬところで死喰い人としての役目を果たす。お前がどれほど救おうとしても、あの男はまた誰かを傷つける」
やめろ。
「それどころか、お前の努力は闇の勢力を余計に勢いづけているだけだ。いずれ、お前の身近な人間を殺すための力になる」
耐えきれず、目を逸らそうとした。
その瞬間、首元をつかんでいた手が離れ、今度は顎を強くつかまれた。無理やり顔を戻され、スネイプ教授が僕の瞳を正面から覗き込む。
しまった。そう思ったときには、もう遅かった。
黒い瞳の奥から何かが入り込み、僕の意識を押し開いた。
──温かな日差しの満ちた部屋で、父上は差し出されたティーカップを受け取り、笑う。
「お前は、人の気持ちがよく分かる子だね」
本当? 本当に──
──次の瞬間、父の姿が溶ける。日が翳る──薄暗い、蛍光灯に照らされた部屋──どこからかニュースに混じり、啜り泣きが聞こえる──
左の頬に鈍い痛みが走った。
僕は床に膝をついていた。目の前には、落としたガラスのコップが粉々になって、蛍光灯の灯りを反射し、きらきらと光っている。
頭上から、怒鳴り声が降る。
「──人のことを、見透かしたような目で見るな!」
目が、蔑みきった目が僕を見る──
「やめろ!」
無我夢中で腕を突き出す。何かが弾けたような感覚とともに、目の前から景色が消えた。
同時に、僕は両手でスネイプ教授の胸を思いきり突き飛ばしていた。
顎をつかんでいた手が外れる。教授は大きくよろめき、後ろにあった机へ手をついて、どうにか倒れるのを免れた。
立っていられず、僕はその場に崩れ落ちた。床へ両手をついたまま、浅い呼吸を繰り返す。スネイプ教授がこちらをじっと見つめているのが気配で分かった。
「……今のは何だ?」
スネイプ教授の声には、初めて明らかな困惑が混じっていた。
どこか頭の奥底が冷えていく。なぜか、口元に笑みが広がるのが分かった。
「……教授」
床を見つめたまま尋ねる。
「耳は、大丈夫ですか?」
「……何を言っている?」
スネイプ教授の返答を聞いて、
安心したせいだろうか? なぜか何もかもがおかしく思える。いや、元から滑稽な話なのだが。
喉から、勝手に笑い声が漏れた。
僕は床に手をついたまま顔を上げ、スネイプ教授に笑いかけた。
「……申し訳ありません」
「今の男は誰だ?」
答えず、ただただ笑う。自分でも、なぜこんなに笑えるのか分からない。
「開心術のこと、本当に自分で気づいてませんでした。完全に無意識だったんです」
スネイプ教授は、気味の悪いものを見るように眉を顰めた。
「いつからですか? 僕はいつから、こんなことをしてました?」
「……夏の休暇中に身につけたのではないのか?」
「いえ? 違います」
すぐに答えた。
「僕は、開心術を覚えようとしたことなんてありませんから」
笑っていることにも耐えられなくなり、両手で顔を覆う。
どうして、僕はこんなことができるのだろう。
前世の僕は魔法使いではなかった。当然、開心術など使えるはずもない。しかしそのとき身につけていた習慣が、魔法を持ち、すべての記憶を取り戻した今の身体で、開心術として表れたということなのだろうか?
「……先ほど見えた男は誰だ?」
教授が再度尋ねた。何も答えずにいると彼はしゃがみ込み、僕の両手を払いのけて首元を掴み上げる。暗い瞳が再びこちらを捉えた。
意識の表面に、先ほどと同じ力が触れるのを感じる。しかし、今度は何の記憶も引き出されなかった。押し入ろうとする力を、反射的にすべて遮断できているのが分かった。
やがて、スネイプ教授が先に目を逸らした。
「……僕には、何が起きているのか分かりません」
壁へ手をつき、どうにか自分の足で立つ。
「でも、まあ……これからは注意します。それでいいでしょう」
「……注意する、だと?」
スネイプ教授の声に、また苛立ちが戻った。
「自分の力すらまともに扱えぬ未熟者が、闇の帝王のなさることへ首を突っ込むな! ……ああ、今のお前と話しても無駄だ。出ていけ!」
僕は何も言い返さず、部屋を出た。背後でものすごい音を立てて扉が閉まる。
寮へ向かって歩きながら、どうにか頭の中を整理しようとした。
いや、これは全く悪いことではない。
無意識のままでも闇の帝王に気づかれないレベルで使えているのだ。閉心術の方も、油断しなければスネイプ教授からだって侵入を防ぐこともできる。これからきちんと扱い方を覚えれば、もっと──
そこで急に胃が激しく痙攣した。
口元を押さえ、近くのトイレへ駆け込む。個室へ入るなり膝をついて、胃の中のものをそのまま吐き出した。