音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
突然目の前に映ったものを認識した瞬間、ハリーは咄嗟に心を閉じようとして──そしてそれをすぐに後悔した。この状況から目を逸らしてはならない。シリウスがどうなっているのか確かめねばならない──
しかし、普段の夢とは違って、この幻はハリーの意識をしっかり掴んで離さなかった。一瞬だけ遠のいた棚に囲まれた景色は、すぐまた鮮明に目前に映った。
九十七番と書かれた棚の横、ハリーの名付け親はぐったりと床に倒れ伏して、弱々しい息を吐いていた。それでも、こちらに向かって頑なな目を向け、不服従の意思を示している。
ハリーは──いや、ヴォルデモートは長細く白い指でゆっくりと杖を構えた。シリウスの肩がわずかに強張る。
「クルーシオ!」
呪文を受けた身体がくの字に折れ、シリウスの叫び声が響く。動いた背中が棚にぶつかり、ガラス玉が触れ合う大きな音があたりにこだました。誰か、この物音を聞きつけて、ここに来て、シリウスを助けて──ハリーは必死で願った。
ハリーは、口がひとりでに歪んだ笑みを形作るのを感じた。
「さあ、お前が取るのだ……ヴォルデモート卿が待っているぞ……」
シリウスはまだ苦悶の呻き声を漏らしていたが、それでもなお、瞳に宿る意志は揺らいでいなかった。
「殺すなら殺せ」
微かな、しかし断固とした声だった。
シリウスの言葉に、ハリーはヴォルデモートがさらに苛立ち、苛烈な仕打ちをするのではないかと怯えた──しかし、存外ヴォルデモートは平静だ。いつものような額を割るような感情は流れ込んでこない。
「言われずとも最後はそうしてやろう」
冷え切った声が答えた。
「しかし、ブラック、まず俺様のためにそれを取るのだ……これまでの痛みが本当の痛みと思っているのか? 考え直せ……時間はたっぷりある。誰にも貴様の叫び声は聞こえぬ……」
ヴォルデモートが再び杖を構えたが──その先は分からなくなってしまった。誰かが大声をあげている──
それが自分の声だと気づいたとき、ハリーは机から手を滑らせて体勢を崩した。床に強かに膝を打ちつけ、ようやくここがどこだったのか思い出す。
「ハリー! 大丈夫か?」
ロンが床にくずおれたハリーのそばにかがみ込み、心配そうに顔を覗き込んでいた。
傷跡が燃えるように傷み、ハリーは咄嗟に額を抑えた。洪水のように周囲の情報が戻ってくる。祭りの後の和やかな空気はかき消え、空き教室の中に残っていた生徒は怯えた目でハリーを見ていた。
「何があった?」
先ほどまでロンと話していたクラッブが、険しい顔でハリーを軽々と引っ張り起こした。
すぐさま、今見たことを話してしまおうとして、ハリーは思いとどまった。指名手配中のシリウスと繋がりがあると知っているのは、不死鳥の騎士団と関わりのある人たちだけだ。今、他の人たちに話してしまっていいものなのだろうか。
言い淀むハリーに、クラッブの顔がさらに険しくなる。そこにハーマイオニーが割って入ってきてくれた。彼女は何か察してくれたようだった。
「ハリー、顔色が悪いわ。もう休んだ方がいいわ。医務室か……グリフィンドール寮に戻りましょう」
「僕──いや、うん──ごめん。あの……ロンとハーマイオニーはついてきて」
ロンは当たり前だという顔で先にドアを開けた。三人は周囲からの訝しげな視線を感じつつ、できるだけ急いで部屋を後にした。
もう夕食の時間だからだろう、人通りの少ない廊下を抜け、三人は誰もいない空き教室に飛び込んだ。
ハーマイオニーは杖を扉に向けて数度振った後、くるりと振り返る。
「ハリー、また何か見たのね?」
まだ整わない息のまま、ハリーはなんとか言葉を絞り出した。
「──シリウスがヴォルデモートに捕まった」
「何──えっ、シリウスだって?」
ロンが目を見開く。二人の顔に驚きと恐怖の色が広がった。
「でも──どこで、どんなふうに?」
ハリーは額をこすりながら、見た全てをなんとか二人に伝えた。神秘部のこと、ヴォルデモートが何かをシリウスに取らせようとしていること──口に出して説明すればするほど、ハリーの中に恐怖が積もっていった。
「奴は言ってた──最後には殺すって。いますぐ、シリウスを助けに行かなくちゃ」
ようやく話し終えたとき、沈黙が流れた。予想とは違い、二人の顔に広がっていたのは困惑だった。
「でも──ハリー……」
ロンが恐る恐る言った。
「なんだ? なんだよ?」
ハリーの大声に眉を下げながらも、ロンは言葉を続ける。
「ハリー、今はまだ夕方だぜ? 僕のパパとか、いろんな人が魔法省で働いているはずだよ。二人がそんな中どうやって──」
「知らないよ! ヴォルデモートのことだから、僕らの知らない呪文で忍び込んだっておかしくはないだろう! それに、いつも神秘部の中には誰もいないんだから──」
ハリーに気圧され、ロンは目を瞬かせた。代わって、ハーマイオニーが静かに語りかけた。
「あなたは神秘部に行ったことはないのよ。夢で見ただけだわ──」
「これは普通の夢じゃない! ヴォルデモートが見ているものなんだ!」
ハリーはハーマイオニーに詰め寄り、真正面から怒鳴った。ハーマイオニーは怯えていたが、それでも顔を上げてハリーをまっすぐ見た。
「ねえ、私、わからない──どうして今になって、そんなにはっきり見えたの? ハリー、あなたの閉心術は結構進歩していたって、あなた自身言っていたじゃない──」
一瞬だけ、先ほど感じた奇妙さが蘇る。しかし、それは胃の底から湧き上がった猛烈な苛立ちの前でかき消えた。
「シリウスが拷問されているんだぞ! 重要な事だから、こんなにはっきり見えたんじゃないか!」
ハーマイオニーはハリーのあまりの剣幕に、一歩下がった。
「それは、でも──それに──シリウスをどうやってヴォルデモートが捕まえたっていうの? シリウスはグリモールド・プレイスにいるはずなのよ」
「まあ、シリウスの気が滅入っちゃって、フラフラ散歩に行ってたとしても、そこまでおかしくはないかもしれないけど──」
口を挟んだロンは、ハリーとハーマイオニーの厳しい視線に、慌てて話を切り替えた。
「とにかく、一回確かめてみよう。シリウスがグリモールド・プレイスにいるかどうか」
ハーマイオニーは気を取り直したように頷いた。
「ええ、そうよ。何か方法が……」
「じゃあ何? ふくろう便でも送るっていうのか? その間にシリウスは殺されちゃうよ!」
苛立ちのあまり、ハリーの声が震えた。ハーマイオニーはすくみ上がり、慌てて首を振った。
「いいえ! そんなに時間をかけない方法を探すの──」
ハーマイオニーは少しだけ俯いた後、パッと顔を上げた。
「でも──そうよ、ダンブルドアに知らせればいいんだわ。そしたらポートキーでも、煙突飛行ネットワークでも、なんでも使ってくださるはずよ。そもそも、私たちだけで魔法省に行く必要なんてないんだもの。そうでしょう?」
とても真っ当な提案を受け、そこでようやくハリーは少しだけ我に返った。ロンとハーマイオニーが自分を心配そうに見つめている状況に、わずかに気まずさが走る。
「ああ──ウン。そうだね。そうするべきだ。今は夕食中だろうから、大広間にいこう」
ロンとハーマイオニーは頷きを返す。すぐさま三人は空き教室を出て、来た道を全速力で走り抜けた。
大広間に着き前のテーブルを見て、ハリーは胃がひっくり返るのを感じた。──ダンブルドアの席は空っぽだ。マクゴナガルも、ハグリッドもいない。いや、ハグリッドは最近城内で見かけない──けれど、二人はなぜ?
立ちすくむハリーたち三人の横を、億劫そうな足取りで誰かが通り抜けようとした。そこにいたのはトレローニーだった。慌ててハーマイオニーはトレローニーの進路を遮るように立った。
「あら、ごきげんよう。あたくしに何か──」
遮ってハリーは口を開く。
「トレローニー先生、ダンブルドア校長とマクゴナガル先生はどこですか?」
ハリーのわずかに震えた声に、トレローニーは怪訝そうに眉を顰めた。
「来週に試験がありますでしょう? 何やらそれの打ち合わせとかで、校長と副校長は、教育委員会と試験局の集まりに出ていらっしゃるそうですわ」
ハリーの胃が再び沈んだ。じゃあ、今ここにはダンブルドアもマクゴナガルもいない──
「いつ戻ってくるんですか?」
ロンの縋り付くような声に、トレローニーは肩をすくめた。
「さあ? 委員会は随分と長々と話をされるそうですから、今夜遅くか、明日ではございませんか? まあ、あたくしに言わせれば教育委員会なんていう、『眼力』を持たないものたちに、未来の神秘のとばりを見透かす術が理解できるとは到底思えませんけれど。そんな人たちがあたくしの授業や試験のやり方について口を出すなんて──」
ハリーはもう話を聞いていなかった。
二人はホグワーツにいない。しかしどうにかしないといけない。どうにか、今すぐダンブルドアと話をする方法を探さなければ──
「ねえ、ハグリッドを探しましょう。ハグリッドも騎士団だわ……ダンブルドア先生に連絡を取る方法があるはず……」
ハーマイオニーがハリーの耳元で囁いた。
「ハグリッドが禁じられた森の奥深くに行っていたら? それで探すのに時間がかかったら一体どうするんだよ?」
ハリーは鋭く囁き返した。
「それでも、他の先生に頼った方がいいかもしれないぜ。フリットウィックとか──」
突然額を寄せ合って話を始めた三人に、トレローニーは気分を害したように顔を顰めてツカツカと教職員用のテーブルへ歩き去った。
再びハリーは苛立ちが隠せなくなっていた。
「フリットウィックは騎士団じゃないし、シリウスのことも知らない。バレないように言いくるめて、それでまた時間がかかったらどうするんだ? 真面目に考えてよ!」
感情が込み上げて、最後は声が大きくなってしまった。ロンが眉を下げて口を閉じる。
顔を顰めてハーマイオニーが何か言いかけたところで、背後から低い声がかかった。
「何を『真面目に』考えるのだね、ポッター?」
後ろに立っていたのはスネイプだった。
──ああ、そうだ、スネイプも騎士団員だ。わずかに差し込んだ希望に、ハリーは少しだけ安堵した。スネイプの顔を見て心から嬉しいと思ったのは、生まれて初めてだ。
「往来を邪魔するグリフィンドールから一点減点」
それだけ言うと、スネイプはさっさと大広間の奥へ歩いて行った。
呼び止めようとしたハーマイオニーの手を掴んで、ハリーは囁いた。
「二人は小屋に行って、ハグリッドがいないかどうか探してきて。僕はスネイプに事情を話す」
「スネイプと二人で大丈夫か?」
「ハグリッドを探す方が人手がいるだろう。いいから行って! 見つかったらダンブルドアに連絡する方法を聞いて!」
ためらいながらもロンとハーマイオニーは頷き、大広間の外へと走っていった。
ハリーも早歩きでスネイプに追いつき、声をかける。
「スネイプ先生、あの、話したいことが──」
振り返ったスネイプは、ハリーをじろりと睨んだ。
「夕食前なのだがね」
焦ったさのあまり、ハリーは思わず呻きそうになった。なんとか堪え、声を潜める。
「──傷のことなんです。また見えたことがあって、それについて──」
スネイプは一瞬だけ、空の校長席の方をチラリと見た。そのまま、忌々しげに深々とため息をついた。
「ついて来い」
スネイプは素早く身をひるがえし、地下牢へとつながる階段に向かって歩き始めた。やはり廊下はほとんど人がいない。
こうしている間にも、シリウスは拷問を受けている。ヴォルデモートが痺れを切らしてシリウスを殺してしまうまでに、あとどれだけ時間が残っている? ハリーの胃には再び恐怖が渦巻いていた。
「あの──」
「ここでその話をするな」
辛抱できず話し始めようとしたハリーに対し、スネイプはぴしゃりと言った。ここで怒らせてしまっては厄介だ。しかし、ハリーの我慢の限界は近づいていた。
スネイプの研究室に着き、スネイプは先に中に入った。ハリーも後に続き、後ろ手に扉を閉めた瞬間口を開く。
「シリウスがヴォルデモートに捕まったんです! 神秘部で拷問されてる──何か──そこにあるものが必要だからって!」
スネイプはハリーの剣幕に眉を顰めた。
「それを見たのか? つまり、闇の帝王はブラックを使って君を誘き出そうとしているのかね?」
スネイプの見当違いな言葉に、ハリーは苛立ちを隠せなかった。
舌打ちしそうになるのを堪えながら、なんとかスネイプに経緯を伝えようと言葉を紡ぐ。
「僕?──いえ、違います。僕が片付けをしていたら突然、ガラス玉が入った棚が並んでいる部屋が見えて──そこでヴォルデモートはシリウスに何かを取り出させようとしていたんです──あいつ自身には取り出せない何かを!」
つっかえながら出た言葉に、さらにスネイプの眉間の皺が深くなった。
「幻を見たとき、君は眠っていたのかね?」
なんでそんなことを聞くんだ? 今、そんなことはどうでもいいじゃないか。しかし、ハリーは辛抱強く言葉を返した。
「起きてました。普通に──片付けをしてたんです。それで──」
「完全に覚醒していた?」
スネイプは言葉を遮り質問した。
「そうです」
意図のわからない問いに、ハリーは髪をかきむしりたくなった。それでも、なんとか堪える。スネイプを怒らせてはならない。
「それで、君はやすやすと闇の帝王が心に侵入するのを、許したというのかね?」
こんなときまで、閉心術の出来についてぐちぐち言うつもりなのか? スネイプは僕をいびって時間を浪費させたいのか? 絶望的な思いが臓腑を満たしていくのを感じた。
「最近はほとんど見ていません! 閉め出すことだってできるときもあった──でも、今回は重要なことだったから──」
「お前が見ようとして見たということか?」
今度こそハリーは舌打ちをした。しかし、それでもスネイプは視線を揺るがさなかった。
「僕──いいえ。今回は前触れもなかったから、一瞬閉め出してしまったけれど──いや、そんなことはどうでもいい!」
「どうでもいいかどうかは、我輩が判断することだ、ポッター!」
大声が研究室に響く。スネイプの目つきがさらに鋭くなった。ハリーはどうにか深呼吸して怒りを抑え込んだ。
「もっと正確に、闇の帝王の言っていたことを話せ。あの方はブラックに何を取らせようとしていた?」
「わかりません。ただ、あいつが触れることができないものを、シリウスは取ることができるって──」
その言葉を聞いた瞬間、スネイプの目に不可解な感情が過ったのを、ハリーは見た。
スネイプは妙に落ち着き払って口を開いた。
「他に違和感はなかったのか。今までに闇の帝王と繋がっていたときとは違う感覚は?」
スネイプの冷静さが、ハリーの焦燥をさらに高めた。この人は、この出来事が問題であると全く思っていないのだ。
「……感情があまり流れ込んでこなかったような──でも、それがシリウスを助けるのに必要ですか? 何でそんなことを聞くんですか?」
ハリーの苛立った態度に、スネイプは鼻で笑った。
「お前が知る必要はない」
ハリーは我慢の限界だった。
「……先にダンブルドアに連絡してください。今すぐに」
スネイプはハリーの抑え込んだ声も全く意に介さないように、落ち着いて答えた。
「それはできぬ」
「なぜです?」
ついにスネイプは答えることもしなくなった。ハリーは爆発しそうになりながらも、なんとか踵を返して扉へと向かう。
しかし、手をかけたドアノブはぴくりとも動かなかった。振り返ると、スネイプはまっすぐに杖を扉へと向けていた。
「……ここから出してください」
地を這うような声がハリーの口から漏れる。
「あなたを頼ったのが、間違いだった。他の騎士団を頼りますから……ここから出してください」
スネイプは苛立たしげに頭を振った。
「愚かな錯乱した学生を解き放てはしない」
「──いいから出せ!」
ハリーがスネイプにつかみかかろうとした瞬間、スネイプの杖先が動き──バーン!!と大きな音を立てて、ハリーは弾き返された。ひっくり返り、後ろの棚に強かに頭をぶつける。チカチカと目の前に火花が散った。
ハリーの前まで詰め寄ったスネイプは、青筋を額に浮かべて怒鳴った。
「この父親そっくりの大馬鹿者が! 少しは頭を使って考えるということをしないのか!」
ハリーはなんとか起き上がって杖を抜こうとしたが、鼻先にスネイプの杖が突きつけられていた。
スネイプは吐き捨てるようにハリーに言った。
「いいか、この状況を見てみろ。ああ、そうだ。今宵この城には我輩しか騎士団員はおらぬ。当然、それは闇の帝王も把握していることだろう。つまり、ダンブルドアが即座に事態を知るためには、
「それの何が問題なんだ!」
スネイプは怒りの混ざったあからさまな嘲笑を浮かべた。
「ダンブルドアが今すぐ魔法省に向かえば、我輩の裏切りが白日の元に晒され、間諜として動くことができなくなると言っているのだ。──いいか、これは貴様と我輩を試した絶好の罠となるのだ」
「罠だろうがなんだろうが、関係ない。シリウスを助けないといけない──」
立ちあがろうとしたハリーにスネイプは今度こそ激情し、杖をぐいと近づけた。ハリーの鼻に当たった杖先から、わずかに火花が散り、眉を焦がした。
「この救いようもない能無しが! この一年、我輩が貴様に教え込んだことを何一つとして役立たせることができぬとは──」
「何が言いたいんだ?」
言葉を遮ったハリーに、スネイプは歯軋りした。
「貴様が感じた違和感の意味を、少しでも考えようとは思わなかったのか?」
ハリーは一瞬怯んだ。何かがおかしいことは分かっている。でも──
スネイプは杖を構えたまま言葉を続けた。
「貴様が普段とは違い、心を閉じようとしてもできなかったのは、闇の帝王がそうあれと望んだからだと、わずかにでも思い当たらなかったのか? 眠っていたわけでもないのに、前触れなく幻覚を見たことに、意味がないと? どうやって普段生きているか分からないほど脳みそが働いていないようだな、ポッター!」
「でも、僕の気のせいかもしれない!」
ハリーは自分が涙声になっていることに、叫んでから気がついた。
「僕の閉心術が上手くいってないからだけかもしれない。そんな曖昧なことで──シリウスを見捨てるわけにはいかない!」
そのままスネイプの杖を押し除け、ポケットに手を突っ込んで杖を引っ張り出したところで二度目のバーンという音が鳴った。
ハリーは再び床に打ち付けられ、杖はスネイプの足元へと転がっていった。
スネイプはまた杖を振り、宙に長い縄が現れた。その縄は横たわるハリーをぐるぐる巻きにし始める。なんとかもがいて逃れようとするが、着実に腕と足が縛り上げられてしまった。
「いいか、万が一にもブラックがノコノコ屋敷の外に出て、囚われたのが事実であったとして──それでも貴様を魔法省に送る理由にはならない」
「お前にならなくても、僕の理由にはなる!」
言い返したハリーに、スネイプは見たことがないほど怒りで顔を赤くしていた。
「──この救いようもない思いあがりが! 闇の帝王を前にして、お前に何ができる? お前が神秘部に向かってどうにかできるとでも?」
「でも──でも、シリウスが、ヴォルデモートの望むものを渡してしまうかもしれないのに?」
ハリーの焦りがそんなにも面白いのか、スネイプは鼻で笑った。
スネイプが杖を振ると、部屋の隅にあった椅子が床を擦りながらこちらへ滑ってきた。続けてもう一度杖先が動き、縄に縛られたままのハリーの身体がふわりと宙へ浮かび、椅子の上へ乱暴に下ろされる。さらに机が目の前まで移動してきて、逃げ道を塞ぐようにぴたりと止まった。
スネイプがもう一度杖を振ると、右腕に絡みついていた縄だけがするすると解け、白紙の羊皮紙と羽ペンが机の上へ落ちた。
「手紙を書け」
スネイプは忌々しげに言った。
「貴様を魔法省には行かせん。しかし、ダンブルドアにふくろう便で手紙を送ることは許す。貴様は我輩を頼らず、ダンブルドアを探すことにしたと、言い訳がきくだろう。──手紙を書け」
ハリーはしばらく拘束をどうにかできないかもがいたが、右腕以外の縄は椅子に絡みつきぴくりとも動かなかった。スネイプは何も言わない。シリウスが今拷問されていることなど、この男にとってはどうでもいいことなのだろう。いや、むしろそれを望んでいるからこうしているのかも知れない──
しかし、ハリーにできることは他に残されていなかった。
震える手で、神秘部で見たことと、シリウスが危険に晒されていることを、できるだけ簡潔に羊皮紙へ書きつける。書き終わるまでにかかった時間はほんの数分だったはずなのに、ハリーにはひどく長く感じられた。
羽ペンを置くと、再び縄がハリーの右腕を肘掛けにくくりつける。書かれた手紙を手にして、スネイプは部屋を出た。
扉の外から、わずかに声が聞こえてきた。ロンとハーマイオニーだ。二人が戻ってきてくれた──つまりハグリッドは見つからなかったのかもしれない。それでも、ハリーは二人がこの扉を開けてくれることを願った。
スネイプの低い声と、それに答えるハーマイオニーの声がわずかに聞こえ、そして、廊下は再び静かになった。──三人とも、行ってしまった。
一人になり、地獄のような恐怖がハリーを襲った。──間違った方法を選び、シリウスを見殺しにしてしまった。ぎゅっとつぶった瞼の裏に、涙が染み出してきた。
スネイプはハリーを父親そっくりの大馬鹿者と言ったが、もしハリーがジェームズと似ていたら、スネイプを頼ったりしなかっただろう。シリウスが望んだとおり、父のように勇敢だったら、もっと賢い選択をして、シリウスを助けに行っただろう。
そもそも、誰かに知らせる役割を自分でしようとしたのが、間違いだったのかもしれない。ロンとハーマイオニーに連絡を任せて、自分はさっさと魔法省へ向かっていればよかった。なんでそうしなかったのか? ダンブルドアに知らせるのは確かに一番いい選択肢かも知れないが、そこには一ミリも保身がなかったと言えるか?
誰かに戦う役目を任せて、自分は安全なところにいられると、ほっとしていなかったか?
父さんは命をかけてヴォルデモートと戦ったのに、自分は臆病風に吹かれて、父さんの親友を見殺しにしようとしている。惨めさと罪悪感のあまり、吐き気がした。
いや、それでも──まだ諦められない。ハリーは悔し涙で濡れた瞼を瞬かせ、辺りを見回した。
何か──何かないか。いや、何かなくてもこの拘束から逃れられないだろうか。
手首を縄に擦り付けてみる。弛んだ気配はない。さらに強く擦る。弛まない。手首の皮膚が破れ、血が滲む気配がしたが、それでもハリーは構っていられなかった。
動く範囲で縄に爪を立て、そのまま縄の表面を爪で削り取る。爪と指の肉の間に繊維が食い込んだ。目をやると、縄の表面がわずかに毛羽立ったように見えた。いけるかもしれない。
しばらく爪で縄を削っていると、右手の人差し指の爪が途中から裂けてしまった。ハリーは気にせず、他の爪で縄を削り続けた。
そのとき、再び扉が開いた。戻ってきたのは、残念なことにスネイプだった。
スネイプはすぐにハリーの手元に気づき、眉間を押さえて深々とため息をついた。
「お前が解けるような呪文をかけておらん。無駄なことはやめろ」
そう言うとスネイプは杖を振った。縄が細く分かれ、指まで縛り付けられる。ついにハリーはぴくりとも手を動かせなくなった。
「……じゃあ、離してください」
ハリーの言葉を完全に無視し、スネイプは書斎机の椅子に腰を下ろした。そのまま何か仕事を始める。ハリーをいないものとして扱うことに決めたようだった。
シリウスの姿を見てから、何十分経っただろうか? もうシリウスは殺されてしまっているかも知れない。ハリーの中で、再びスネイプに対する怒りが沸々と沸き起こった。
「……あなたはシリウスが死のうがどうでもいいんだ。シリウスが嫌いだから」
スネイプは顔を上げようともしない。何かを書きつけている手は、わずかにも止まらなかった。
「……別にあなたがシリウスをどう思ってたっていい。だけど、僕は行かせてください」
今度もスネイプは無視した。
ハリーは我慢できず、大声を上げた。
「いいから行かせてくれ! 僕が死のうがあなたはどうでもいいでしょう?」
何かを書きつけていた羽ペンが、ぴたりと止まった。
次の瞬間、スネイプは勢いよく立ち上がり、机を回ってハリーにつかみかかった。
「つくづくお前にはうんざりだ!」
あまりの大声に、ハリーは耳鳴りがした。そんなハリーに構わず、スネイプは怒声を上げる。
「自分がどれほど人に守られているかも理解せず、そのすべてを無駄にするような真似ばかりして! 誰かが危険に晒されれば、自分が飛び込めばどうにかなると思い込む! お前が我々の何を知っていると言うのだ? 闇の帝王の脅威の何を──」
そのとき、研究室の暖炉が緑色に光った。輝く炎の中から現れたのは、ダンブルドアだった。
「ダンブルドア──」
ハリーは声をかけようとして、止めた。また暖炉が燃え上がる。
ダンブルドアの後に続き、暖炉から出てきたのは、シリウスだった。
生きている。見た限りでは怪我もしていない。元気そうだ────ハリーは安堵のあまり気絶するかと思った。
シリウスは部屋に入ると、ハリーにつかみかかるスネイプを見て目を剥いた。
「おい、スニベルス──その子に何をしている!」
スネイプは突進してくるシリウスをかわすように、素早く身を引いた。
シリウスは何も言えなくなっているハリーの手元に滲む血に気づき、さらに激しくスネイプを睨みつける。
「この愚か者が、貴様を救出しに魔法省へ向かうと言って聞かなくてな」
ダンブルドアが杖を一振りすると、縄は跡形もなく消えた。そのまま崩れ落ちそうになるハリーをシリウスが支えた。
「ハリー、大丈夫か?」
シリウスの問いかけに、ハリーは嗚咽を漏らしそうになりながら、なんとか言葉を紡いだ。
「──シリウス、僕──ごめんなさい。──助けに行けなかった。ダンブルドアに伝えようとして──」
「何? いや、大丈夫だ。ハリー、私は無事だ。君が見たのは幻覚だったんだから。君は正しい選択をした」
ハリーは自分の前にかがみ込んだシリウスに向かって、激しく頭を振った。シリウスが無事だったという安堵だけでは、胸の奥にこびりついた罪悪感は少しも消えてくれなかった。
「でも、本当は助けに行くべきだったんだ。真っ先にそうするべきだった──父さんだったらそうするはずだったのに」
喘ぐように絞り出した言葉に、シリウスが動きを止めた。
それまでハリーを宥めようとしていた手が宙で止まり、灰色の瞳が大きく見開かれる。ハリーはその表情を見ることができず、俯いたまま、血の滲んだ指先を握り込もうとした。
「ごめんなさい……」
掠れた声が床へ落ちた。
しばらく、誰も何も言わなかった。シリウスは何かを言おうとして唇を開き、けれど一度閉じた。その視線が、ハリーの擦り切れた手首から、傷ついた指先へと落ちる。
「……違う。違うんだ、ハリー。俺が間違っていたんだよ」
ようやく出てきた声は、先ほどまでとは違ってひどく静かだった。
「でも父さんなら──」
「ジェームズだったらどうしたかなんて、関係ない」
珍しくきっぱりと遮られ、ハリーは顔を上げた。
シリウスは苦しそうに眉を寄せていた。
「俺は……君にジェームズの代わりをさせたいわけじゃないんだ。大事なのは君なんだ。君自身なんだよ」
シリウスはそこで一度言葉に詰まり、困ったように視線を彷徨わせた。
「君と出会ってまだ短い。まだそんなにたくさん君を見ていないかもしれない。……君はジェームズとは違うところがいっぱいある。君はチェイサーじゃなくてシーカーだし……目も違う。瞳はハシバミ色じゃなくて、緑色だ。……ああ、でもそういう事じゃないんだ……」
シリウスは苛立ったように髪をかき上げた。それからもう一度、今度は逃げずにハリーをまっすぐ見た。
「君がジェームズと違うのは当たり前だ。それでいいんだ。君だから、大事なんだ」
その言葉を聞いた途端、ハリーの中で張り詰めていたものがとうとう切れた。
シリウスの腕がしっかりとハリーを抱きしめる。ハリーも咄嗟にローブを掴み、シリウスの胸元に顔を押しつけた。温かい。息をしている。あの冷たい神秘部の床に倒れていた姿とは違う。
止まりかけていた涙が再び溢れた。
少し離れたところでは、ダンブルドアが抱擁する二人を眺め、満足そうに目を細めていた。その隣で、スネイプだけはこの世で最も悍ましいものを眼前に見せつけられているかのように顔を顰め、露骨に二人から視線を逸らしていた。
────広間には、冷たい空気が満ちていた。
高い天井の下にいくつもの影が伸びているというのに、物音を立てる者は誰一人としていない。集められた死喰い人たちは皆口を閉ざし、広間の奥へ視線を向けることすら恐れているようだった。
「スネイプの報告によれば、ハリー・ポッターはダンブルドアに確認することを選んだようです。どうやら、閉心術の訓練により幻覚が見破られたものかと」
クラウチは広間の中央に立ったまま、手元の羊皮紙へ目を落とし、淡々と報告を読み上げた。
椅子に腰掛けたヴォルデモートは、何の反応も示さなかった。
ただ、その赤い瞳だけがゆっくりと動き、眼前の床に這いつくばる男へ向けられる。
それだけで、広間の空気がさらに冷え込んだように感じられた。
「我が君……」
ルシウスが恐る恐る顔を上げる。
「ルシウス」
ひどく穏やかな声だった。
「お前の策は役に立たなかったな? 主の宝を手放すことに精は出せても、主人の役に立つことはできないらしい……」
ルシウスの顔から血の気が引いた。
「我が君、どうか……私はいただいたものが何か存じ上げず……」
「黙れ」
静かな一言に、ルシウスは即座に口を閉じた。
ヴォルデモートはしばらく何も言わず、細い指先で椅子の肘掛けをゆっくりとなぞった。誰もその沈黙を破ることはできない。
やがて、薄い唇がわずかに吊り上がった。
「ならば次は、本物の餌を使う」
床に伏したままのルシウスの肩が、ごくわずかに強張った。
ヴォルデモートはそれを見逃さなかった。
「────お前の息子を」