音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
一応、昨日の試験前打ち合わせの内容を軽くまとめたメモを持ち、僕は予定どおりマルフォイ邸へと戻った。
応接室の暖炉から出てローブについた煤を払うと、部屋にはすでにクラウチと伯母上が待ち構えていた。
クラウチは先ほどの狼狽などおくびにも出さず、壁際に背筋を伸ばして立っている。僕が姿を現しても僅かに視線を向けただけで、声をかけることもなかった。
変な挙動を見せられても困るので、ありがたくはあるのだが……さすが一年間ダンブルドアを騙しきった人間といったところか。切り替えはしっかりできるらしい。
一方、伯母上は五ヶ月の時を経て、随分と回復されてしまった。
アズカバンを出たばかりの頃に比べれば頬にも血色が戻り、痩せこけていた身体にも多少肉がついている。何より、僕を見つけた途端、その顔には隠す気もない喜色が浮かんだ。
伯母上はぎらぎらと輝く瞳でこちらを睨めつけながら、口元を大きく歪める。
「ずいぶんと遅かったんじゃないか? まったく、待ちくたびれたわ──我が君がお待ちだ」
「それは失礼しました」
僕が軽く頭を下げると、伯母上は楽しそうに鼻を鳴らした。どうやら、ここから先に起こることを、既にご存知のようだ。仮にもあなたの甥なのだが……随分と嫌われたものだ。
横目でクラウチを見る。相変わらず表情は動かず、見事に取り繕っている。
僕も何も知らない顔をして、抱えていた資料を持ち直した。
「では、行きましょうか」
伯母上は待ってましたとばかりに身を翻した。彼女はさっさと扉を開け、廊下を歩き始める。僕はその後に続き、クラウチも無言のまま歩き出した。
広間の中には、すでに十数人ほどの死喰い人がおり、長いテーブルを囲むように座っていた。見覚えのある顔がほとんどだったが、普段の定例報告とは明らかに人数が違う。
部屋の奥にはヴォルデモートが座り、そのすぐそばに父が立っていた。
父の顔は蒼白だったが、怪我などはしていないようだった。「日記」の件がバレたからには、散々シバかれたのではないかと心配していたが……とりあえずは大丈夫そうだ。ひとまず心中で胸を撫で下ろす。
「来たか、ドラコ」
広間の奥から底冷えするような声が響く。
僕はいつもどおり頭を下げた。
「昨日の試験打ち合わせについて、簡単にまとめてまいりました」
抱えていた資料へ手をかけると、ヴォルデモートは細い指を僅かに上げ、それを制した。
「それは、今はよい」
でしょうね。素直に手を下ろし、続く言葉を待つ。
部屋はひどく静かだった。いつもの報告の場なら、ここから僕が余計な政策の話を始めたり、誰かがそれに口を挟んだりするのだが、今日は誰も何も言わない。興味深げな、あるいは案ずるような視線だけが、僕とヴォルデモートの間を行き来している。
ヴォルデモートはそんな周囲の様子を楽しむように、少しだけ口元を歪めた。
「……昨日、ポッターを神秘部へ誘い出すため、シリウス・ブラックを使った」
僕はあたかも初耳ですというふりをして、僅かに眉を上げる。
「ブラックを、ですか? それも神秘部に?」
「本物ではない」
ヴォルデモートは淡々と続けた。
「奴を神秘部で捕らえ、拷問する幻をポッターに見せたのだ。ポッターが愚かにも一人で飛び込んでくることを、立案者は期待していたのだが──」
そこで、赤い目が父の方へ向いた。
「──まったく、無駄骨だった」
父の顔が強張った。その瞳には恐怖がありありと浮かんでいた。
「我が君……」
「お前の父親は、随分と役に立たぬ策を用意したものだな」
ヴォルデモートは隣に立つ父の呻きを意にも介さず、吐き捨てるように言った。鋭い声音に、広間の空気が一段冷えた。
父はすぐに頭を下げる。それに倣い、僕もこうべを垂れた。
「申し訳ございません、我が君……」
ヴォルデモートは謝罪を無視し、どこか遠くを見ながら、平坦に話し続ける。
「……ポッターは幻覚を見ても神秘部へは来なかった。その代わりに、ダンブルドアへ確認を取ったそうだ」
クラウチから聞いたものと寸分違わない話だ。この先は十二分に読めた。
「……偽りの幻影では足りなかったらしい」
ヴォルデモートの声には、初めて僅かな苛立ちが滲んだ。
こちらへ視線が戻る。広間にいる死喰い人たちの何人かまで、つられるように僕を見た。伯母上だけは口元を楽しそうに吊り上げていた。
「故に、今度は
ヴォルデモートの赤い瞳が、まっすぐ僕を捉えた。そこには残忍な愉悦の色が揺らいでいた。
「賢いお前なら、もう分かっているだろう──そう、お前だ。ドラコよ」
僕は黙って続きを待った。
「お前を神秘部へと送り込もう。ポッターには、お前が俺様に捕らえられ、甚振られているところを見せる。ブラックよりお前に執着しているかは知らぬが──お前の苦しみが真のものだと分かれば、昨日よりは骨身に染みるだろう」
父が息を呑み、ヴォルデモートへ振り向いた。
「我が君、どうか──」
「承知しました、我が君」
その言葉を遮り、僕ははっきりと了承の意を示した。
一瞬、広間が静まり返った。
父は信じられないものを見るように僕を振り返り、伯母上はますます愉快そうに口元を吊り上げた。テーブルを囲む死喰い人たちの間にも僅かなざわめきが走ったが、僕が視線を向けるとすぐに収まる。
クラウチは何も言わなかった。
ヴォルデモートもすぐには言葉を返さなかった。赤い瞳を細め、僕の顔をじっと観察している。どうも、もう少し恐れたり、狼狽したりすることを期待されていたらしい。この筋金入りのサディストめ。
しかし、ここで取り乱したところで何の意味もない。今必要なのは、この計画が実際にどう進められるのかを把握することだ。
「それで、具体的にはどのような手順をお考えですか?」
僕が尋ねると、父がぎょっとしたようにこちらを見た。
……ヴォルデモートの眉が、ごく僅かに動く。
「そんなことを、貴様が気にする必要があるか」
相手の気分を害してしまっては面倒だ。僕は深々と頭を下げつつ、できるだけ下手に出る言い回しを考えた。
「もちろん、卑小な私にできることなど限られていましょう。しかし……一度我が父の策で上手くいかなかったそうですから、償いの意も込めて……細部を少々練っておいた方が良いかと愚考したもので」
実際、かなりガバい計画だったみたいだし。不確定要素が増えても困るのだ。
ヴォルデモートは目を細め、僕を睥睨した。
「……それで、貴様は何を考えている?」
「そうですね……ポッターに幻を見せ、私を神秘部へ連れて行く──しかして、その内容は? さらにその後、ポッターが来たとして、どう奴を動かすのが最善とお考えでしょうか?」
投げかけられた問いに、考えつく懸念点を並べる。
「一番気掛かりなのは、ダンブルドアのことです。昨日、ポッターは自らが先陣を切るのではなく、ダンブルドアに連絡することを優先したのですよね?」
「……そうだ」
「ならば、今度もまた同様になるやもしれません。何か策を立てねば、二の舞になるかと」
やや身の程知らずな進言に、広間の何人かがこちらを見た。ヴォルデモートは肘掛けに置いた指先をゆっくりと動かしながら、僕を見つめていた。
しばらく沈黙が続いたが、やがてヴォルデモートの薄い唇がゆっくりと歪んだ。
「ならば、選ばせなければよい」
「と、言いますと?」
「ポッターに伝えてやろう。ダンブルドアが神秘部へ姿を現したなら──」
赤い瞳が、愉快そうに細められる。
「その瞬間、お前を殺すとな」
……なるほど。僕は表情を変えないまま、頭の中で今朝ビンクへ出した命令を反芻した。どうやら、僕の生存確率は限りなく低くなってしまったようだ。……しかし、それでいい。
内心を完全に封じ込め、微笑を顔に貼り付ける。
「素晴らしいお考えかと。それならば、少なくとも簡単にはダンブルドアを頼れぬことでしょう」
できるだけ何事もなかったように頷くと、ヴォルデモート卿の隣で、父の顔からさらに血の気が引いていくのが見えた。
父は震える唇をどうにか動かした。
「我が君、どうかお慈悲を──」
「黙れ、ルシウス」
低い一言で、父の声が途切れた。
僕は父へ視線を向け、できるだけ落ち着かせるように小さく頷いた。
「父上、どうかご心配なさらないでください。きちんと計画を成し遂げることができれば、何も問題はありません」
もちろん、その罠を成功させるつもりはないが。
……父に酷なことをしていることは分かっている。本当に、申し訳ない。
けれど……その罪悪感が、きっとあなたを光の側へと歩ませると、信じている。
ヴォルデモートは、見つめあう僕ら親子をしばらく無言で眺めていた。
「……随分と落ち着いているな、ドラコ」
声には、先ほどまでにはなかった僅かな棘が混じっていた。
「決して恐ろしくないわけではありませんが……しかし、我が君、あなたのお役に立てる以上の栄光などございましょうか……」
できるだけ刺激しないよう、恭しく頭を垂れる。
ヴォルデモートはしばらく僕を見下ろしていたが、やがて鼻で小さく笑った。
「つくづく、父親に似て言葉の上手い奴だ」
「……恐縮です」
次の瞬間、ヴォルデモートが何気なく杖を振った。
何かが両腕へ巻きついたと思ったときには、僕の手は背中側へ強く引かれ、そのまま手首から肘の辺りまで魔法の縄でまとめ上げられていた。突然重心が後ろへ引かれ、危うくよろめきそうになる。僕はよりによって後ろ手に縛られていた。
腕の自由が一切利かない上に、広間の真ん中で十数人に見られていると思うと、状況の深刻さとはまったく別の方向から妙に恥ずかしくなってくる。なんというか、絵面がよろしくなくないか? そんなことを言っている場合ではないが。
ヴォルデモートの行いに、父が大きく息を呑んだ。
「我が君──」
一歩こちらへ出かけたところで、ヴォルデモートの赤い瞳が向けられる。父はそれ以上動けず、その場で身体を強張らせた。
少し離れた場所にいるクラウチもこちらを見ていた。表情は一切崩れていない。しかし、その視線だけは、縛られた僕の腕から離れなかった。
ヴォルデモートは、父やクラウチの反応など意にも介さない様子で杖を下ろすと、広間を見渡すようにゆっくりと視線を巡らせた。
「話は終わりだ。これから俺様が、ポッターに幻覚を見せる」
それから僕へ一瞥を向け、まるで物の扱いでも決めるような平坦な声音で言葉を続ける。
「その後、こいつを神秘部へ連れて行け。お前たちはそこで待ち伏せ、ポッターが現れたなら、先ほど命じたとおりに動け」
その言葉に応じ、伯母上やクラウチ、それから父を含めた数人が無言で頭を下げた。どうやら、実際に神秘部へ向かうのは十人にも満たない程度らしい。
つまり、僕はここで一度ハリーに餌として見せられたあと、彼らによって神秘部へ運ばれ、そこで正式に人質として配置されることになるのだろう。
ヴォルデモート本人は、ハリーが実際に動き出すまでは姿を見せないつもりらしい。肝心なところ以外は徹底して部下任せというか……まあ、諸々を考えれば合理的な判断ではある。しかし、ダンブルドアと激突させることは難しくなるかもしれないのは心配だった。
「ポッターが動けば、俺様も向かおう。それまでは殺さずに待て」
「仰せのままに」
何人もの声が重なった。……あれ、死喰い人たちはハリーに手を出さないのか?
新たに出てきた情報を頭の中で整理している僕をよそに、ヴォルデモートはそれ以上細かな説明をすることなく、細い指を僅かに動かす。
「出ろ」
死喰い人たちは一斉に立ち上がり、次々と広間を出ていった。……しかし、父だけはすぐには動かなかった。
蒼白な顔のまま僕を見つめ、何か言いたげに唇を動かしている。しかし、ヴォルデモートの赤い瞳が向けられた途端、その言葉は喉の奥へ押し込められたらしく、結局何も口にできないまま身体を強張らせた。
「……どうか、行ってください、父上」
僕ができるだけ普段どおりの調子で促すと、父の表情が僅かに歪む。
それでも逆らうことはできなかった。父は深く頭を下げた後、何度もこちらを振り返りたいのを堪えるようにゆっくりと踵を返し、そのまま扉の方へ歩いていく。
クラウチもその後に続いた。
普段どおりの落ち着いた表情を保っていたが、扉を出る直前に一度だけ振り返ったその目だけは、最後まで僕から離れなかった。
やがて重い扉が閉まり、先ほどまで十数人もの人間が集まっていた広間から、急に人の気配が消える。
残されたのは、僕とヴォルデモートだけだった。
……これは、なかなか、嫌な状況である。
先ほどまでは十数人もの視線に晒されていることを鬱陶しく思っていたのに、いざ誰もいなくなってみると、今度は静まり返った広間の広さばかりが妙に意識に残った。
ヴォルデモートは椅子からゆっくりと立ち上がると、杖を手にしたままこちらへ歩いてくる。
静かな足音だが、静まり返った広間にはよく響いた。
「さて──ポッターに見せるものを用意するとしよう」
来たか。
そう思った途端、先ほどまでどうにか押し込めていた緊張が、急に現実味を伴って喉の奥へせり上がってくる。
ヴォルデモートが杖を軽く振ると、僕の腕に巻きついていた縄が突然強く引かれた。身体ごと広間の中央へ引きずられ、踏ん張る暇もなく膝を床へ打ちつける。硬い石を通して鈍い痛みが足に走った。
どうにか体勢を整えて顔を上げれば、真正面でヴォルデモートが歪な笑みを浮かべていた。
「随分と静かだな、ドラコ。お前らしくもない」
赤い瞳が、先ほど父たちの前で向けられていたものと同じように、僕の反応そのものを楽しもうとするかのように細められる。
「父親の前では随分と立派に振る舞っていたが……俺様と二人になっても、まだ同じ顔をしていられるかな?」
僕はすぐには答えず、一度ゆっくりと息を吸った。
正直に言えば、怖い。
これまでだって、ヴォルデモートに殺されかけたことはあるし、磔の呪文を受けた経験だってある。──だからこそ、これから自分の身に何が起こるのか、ありありと想像はできていた。
逃げるつもりがないことと、恐ろしくないことは別問題なのだ。
心臓は先ほどから嫌になるほど速く脈打っているし、冷えた指先にはろくに力も入らない。
「……恐ろしいです」
素直にそう答えると、ヴォルデモートの眉が僅かに持ち上がった。
「ほう」
「それに、死ぬかもしれないのは分かっています。……それでも、お役に立てるならば」
できるだけ声を震わせないように言い切った。
ヴォルデモートはしばらく無言のまま僕を見下ろしていたが、やがてそれなりに気に入った答えだったのか、薄い唇を満足そうに歪めた。
「それでよい」
そう言って僅かに瞼を伏せた、その瞬間だった。
目に見える何かが起こったわけではない。それでも、目の前に立っているヴォルデモートの意識が急にここではないどこかへ伸びていくような、妙に落ち着かない感覚が広間の空気に混じった。
──ああ、今から、見せるのか。これを、ハリーに。
「ポッター」
ヴォルデモートの低い声が、誰もいない広間に響いた。
明らかに僕へ向けられた言葉ではない。
「昨日のような幻ではない。よく見ておけ」
背筋に冷たいものが走る。
ヴォルデモートは、僕の目の前で愉快そうに口元を歪めた。
「こいつを生かしておきたければ、神秘部へ来い。そして覚えておけ──ダンブルドアが神秘部へ姿を現したなら、その瞬間、こいつを殺す」
ヴォルデモートの杖先が、まっすぐこちらへ向けられた。
「クルーシオ」
……去年のクラウチは闇の帝王について、全く誇張していなかったようだ。
全身の骨という骨を内側から砕かれ、その隙間へ焼けた鉄でも流し込まれているような痛みに、声を抑える余裕など一瞬で消え失せた。身体を丸めようにも後ろ手に縛られた腕が邪魔をし、逃げ場を求めるように床の上でもがくことしかできない。
やがて、唐突に呪文が途切れた。
肺の中に残っていた空気をすべて吐き出していたらしく、しばらくは息を吸うことすら上手くできなかった。石床に身体を預けたまま、何度か浅く空気を取り込み、どうにか意識だけは手放さないよう努める。
「どうした、ドラコ」
頭上から、愉快そうな声が落ちてきた。
「先ほどまでの威勢はどこへ行った?」
返事をする余裕などない。
それを分かって言っているのだろう。ヴォルデモートは小さく笑うと、僕がまだ意識を保っているのを確かめるように杖先を動かした。
再び激痛が全身を貫く。
今度は悲鳴を上げたのかどうかすら、自分ではよく分からなかった。
痛みが引いたときには、先ほどより明らかに身体が重くなっていた。指先にはほとんど力が入らず、視界も僅かに揺れている。このままこれが続けば、そう遠くないうちに意識を失うだろう。
そう思った瞬間、ふと頭に浮かんだことがあった。
どう考えても、今する話ではないかもしれないが──けれど、この人と二人きりで、それも僕の話を聞かせられる機会など、次があるかどうかも分からない。
僕は重い舌を動かし、なんとか言葉を形作った。
「我が君──こんなときですが……いえ、こんなときだからこそ、お伝えしておきたいことがあります」
荒い呼吸の合間にどうにか言葉を押し出すと、ヴォルデモートは一瞬だけ意外そうに目を細めた。
訝しんでいるのは間違いない。ただ、それ以上に、どうやら面白がっているらしい。こちらがこの状況で何を言い出すのか、見物でもするような色が赤い瞳に浮かんでいた。
「……この期に及んで、まだ進言するつもりか?」
呆れたような声音だった。
「日頃は……伯母上の目などもあり……あまり思うように、提言差し上げられないもので……」
自分でも、こんなときに何を言っているのだろうとは思う。
けれど、これが最後になるかもしれない。できることは、できるだけしておきたい。
ヴォルデモートはしばらく僕を見下ろしていたが、やがて肩を僅かに揺らし、嘲るような笑い声を漏らした。
「つくづく、貴様は妙なところで図太いな」
杖を持つ手を軽く下ろす。
「いいだろう。言ってみろ」
許可を得たはいいものの、何をどう話すつもりだったのか、先ほどまで頭の中にあったはずの言葉が上手くまとまらない。全身を駆け巡った痛みの余韻が未だに身体の奥に残っていて、思考を巡らせようとするたび、意識の表面に薄い靄がかかるようだった。
それでも、何とかぼやける頭を働かせ、言葉を絞り出す。
「少し前……純血主義について、お話ししましたが……やはり、あまりに過激な主義主張では……我々の勢力を、安定して拡大するのは難しいと思います。もう少し……懐柔策を、ご一考いただきたいのです」
どうにか最後まで言い切ると、しばらく声が続かなかった。
ヴォルデモートは床に倒れたままの僕を興味深そうに眺めていたが、やがて以前の会話を思い出したらしく、僅かに顎を上げた。
「ああ、そうだ。似た話をしたな。……だが、聞いてやろう」
杖先がゆっくりと僕へ向けられる。
「貴様は、俺様の名が示す恐怖よりも有効なものがあると考えるのか?」
「……いえ……恐怖が、不要だとは……」
喋ろうとして、喉がうまく動かなかった。
一度咳き込んでから、片肩を床へ押しつけるようにして膝を立てる。後ろ手に縛られているせいで腕を使うこともできず、身体は思うように動かなかったが、それでも何とかふらつく上体を起こした。
このまま床に転がった状態では、まともに話すことすらできそうにない。
「……恐怖による支配だけでは、どうしても反感が残ります」
息を継ぐ。
「その反感を……一つ一つ叩き潰すにも、余計な労力がかかる。ならば……初めから、敵にならない人間を増やした方がいい。今は我々に賛同していない者たちにも……思わせればいいのです」
僕は霞みかける視界の向こうにある赤い瞳を見上げた。
「純血主義にも……一理あるのだと」
ヴォルデモートはしばらく僕を見下ろしていた。
次の瞬間、杖先が僅かに動く。
全身を引き裂かれるような痛みが一息に駆け抜け、喉から勝手に声が漏れた。後ろ手に縛られたまま身体が床へ倒れ込み、どうにか身を丸めようとしても、痛みはどこへ逃げても追いかけてくる。
どれほどの間、続いたのか分からない。
唐突に呪文が途切れ、僕は石床に額をつけたまま、浅い呼吸を何度も繰り返した。
「……それで、誰を取り込むつもりだ?」
小鳥の囀りにでも遮られたかのように、ヴォルデモートは話を続ける。まったく、容赦がなかった。
どうにか声を出せる程度まで落ち着くのを待って、僕は再び口を開いた。
「……前回の、戦争では……過激な思想についていけず……距離を置いた純血家も、多かったと聞きました……そうした人々や……今も、中立を保っている者たちです」
「それで?」
こちらの苦しみなどまるで意識していないような、平坦な声が返ってくる。
「彼らに……マグルと無制限に交わり続けることの……危険性を、周知するのです」
「どうやって?」
ヴォルデモートは僅かに首を傾け、続きを促した。
まだ霞みの残る頭の中から、使えそうな言葉を拾い集める。
「……いくらでも、ありますが……一番分かりやすいのは……やはり、子供でしょう」
そう言い終えたところで、ヴォルデモートの杖が再び持ち上がった。
嫌な予感が胸を過ぎる。
次の瞬間、四度目の激痛が身体を貫いた。
今度は耐えようと身構える余裕すらなかった。視界が一気に白く弾け、喉から何か声が漏れた気もするが、それが悲鳴だったのか、自分でもよく分からない。後ろ手に縛られた腕へ縄が食い込み、肩が無理な方向へ引かれている感触さえ、全身を覆い尽くす痛みの中ではほとんど意味を失っていた。
やがて、何の前触れもなく呪文が途切れる。
力の抜けた身体がそのまま床へ崩れ落ちた。
何度か咳き込み、ようやく空気を吸い込む。息をするだけでも胸の奥が痛んだ。
「……続けろ」
少し離れたところから、何事もなかったようにヴォルデモートの声が降ってくる。
……続けろと言うなら、もう少し話しやすくしてくれ。
もちろん、そんなことを口に出せるはずもなかった。
「大人の……魔法使いなら……自分の身を、守る術があります……でも、子供は……そうではない」
大きく空気を取り込もうとした途端、胸の奥が引きつるように痛み、思わず顔を顰めた。
「圧倒的に……数の多いマグルの社会に紛れ込み……魔法を使うことも、許されず……周囲から、異質なものとして扱われる……」
言葉を繋ぐたび、声が掠れていく。それでも、ここで止めるわけにはいかなかった。
「そうした子供が……傷つけられる実例は……探せば、いくらでも出てくるはずです」
「それを見せて、怯えさせるか」
「……恐怖を、煽るだけでは……足りません」
後ろ手に縛られたままでは床へ手をつくこともできず、肩と膝だけを頼りに、どうにか上体を起こす。
「その解決策を……提示できるのは、我々だけだと……同時に、示すのです」
ヴォルデモートから言葉はない。
「ダンブルドアをはじめとする……マグルとの融和派は……結局のところ、何の有効な手段も……講じていない」
一度言葉を切り、焼けつくような喉を無理に動かす。
「魔法省も……魔法の使用について、監視はするが……魔法使いの子供が、マグルの世界で……どう扱われているのかには、ろくに目を向けない……しかし、我々は違う」
「何をする?」
「すでに……手は、打ち始めています」
ヴォルデモートの姿をどうにか捉える。
「教育改革で……」
その瞬間、またしても磔の呪いが全身を襲った。
今度は、まともな悲鳴さえ上がらなかった。
呪文が身体を貫いた瞬間、もはや痛みを一つ一つ認識する余裕すらなく、全身が勝手に強張った。肺に残っていた空気まで押し出され、何も考えられないまま、ただ終わるのを待つしかなかった。
やがて苦痛が途切れたときには、身体から完全に力が抜け、僕は頬を冷たい石床へ押しつけたまま動けなくなっていた。
耳鳴りがする。
目を開けているのか閉じているのかすら、少し曖昧だった。
それでも、ヴォルデモートは何も言わない。
ただ、待っている。
続きを。
「……こ、れを……さらに、お、幼い子供まで……伸長させる……」
一つ言葉を出すたび、しばらく間を置かなければ次が続かなかった。
「就学前、支援とでも……言おうか……そこで……マグルの世界に、取り残された……魔法使いたちを、保護する……」
自分でも、ほとんど声になっていないことは分かっていた。
「そこ、を、発端に……調査を進めれば……さらに、酷い実例も……いくらでも、出てくる……」
乾いて裂けた唇を僅かに開き、気管から言葉を絞り出す。
「それを……隠す、必要は、ない……むしろ……広く、知らしめればいい……」
どうにかヴォルデモートの方へと視線を向ける。
「世論、など……じ、事実を、どう、見せるかで……簡単に……誘導できる……」
少なくとも、そこまでは口から言葉が漏れたように思った。
ヴォルデモートはすぐには答えなかった。
床に転がった僕をしばらく眺めている。その表情から何を考えているのか読み取るだけの余力は、もう残っていなかった。
「……なるほど」
やがて落ちてきた声だけが、妙にはっきり耳へ届いた。
「実にお前らしい」
もう十分だろう、と勝手に思った。もういい。もう限界だ。
しかし、目の前の男にそんな常識が通じるはずもなかった。
ぼやけた視界の中で、杖先が再び持ち上がる。
「クルーシオ」
身体を貫いた痛みに、もはや喉からはどんな音も出なかった。
一瞬だけ視界が真っ白に染まり、それから急速に暗くなっていく。遠くで自分の身体が床でのたうつ鈍い音がしたような気もしたが、それが本当に聞こえたのかどうかさえ分からない。
最後に残ったのは、頬に触れる石床の冷たさだけだった。
それすらも、すぐに消えた。