音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
六月の終わりの日差しの中。人っこ一人いないホグワーツの正門前で、僕はトランクの横に立ってダンブルドアを待っていた。ほかの生徒たちはとっくに駅へ向かってしまっている。今頃は、混み合ったホグワーツ特急の中で、夏休みの予定について話し合っていることだろう。
僕もいつもどおり、あの列車で帰りたかった。入学して以来、夏休みをウィルトシャーの屋敷で過ごさなかったことなどないし、さほど親しくもない親戚に預けられるというのは気が重い。しかも、その相手があのシリウス・ブラックなら尚更である。
滞在先はブラック家の家屋だと聞いているが、正直なところ、あの一族の趣味にはあまり期待できなかった。五歳の頃に訪れたのが最後だが、ヴァルブルガ大伯母上の住んでいたグリモールド・プレイスの館など、いまだに覚えているほど陰気だったし。多少居心地が悪くても暮らしていく自信くらいはあるが、せっかくの夏休みをそんな覚悟で迎えたくはなかった。……この一年、我が家がヴォルデモート卿のアジトになっていたことを勘案しなければ、だが。
もっとも、列車に乗らずに済んだことに、ほっとしている部分もある。神秘部の件以来、友人たちとはどうにも気まずかった。向こうは気を遣ってくれているのだろうが、それが分かるからこそ、長々と顔を突き合わせるのは少々つらい。そういう意味では、この采配は悪いことばかりではなかった。
しかし、それにしてもハリーまで帰ってしまうとは。
ダーズリー家へ戻らなければならない事情があることくらいは、僕にも察しがついている。恐らく、あの家には何らかの守りの魔法がかかっているのだろう。そうでもなければ、ダンブルドアがわざわざ、あんな虐待的な家庭に彼を帰し続けるとは思えない。
でも、シリウスの機嫌を取るのに、ハリー以上に適した人間はいないはずだ。……いや、もっと正確に言えば、彼さえいてくれれば、シリウスの関心はほとんどそちらへ向かうだろう。二人が仲良くやってくれていれば、僕がどう振る舞うべきかなんていちいち考えずに済みそうだった。それを期待できないのは、なかなか憂鬱なことだ。
しかも、この夏はビンクもそばにいない。
ダンブルドアによれば、屋敷しもべ妖精を連れていくことは認められないらしい。彼らの魔法は、魔法使いの張った守りをすり抜けてしまう。そのうえ、ビンクは僕付きとはいえ、あくまでマルフォイ家に仕える妖精だ。父や母から命令を受けたとき、僕の言いつけがあるからと拒めるとは限らない。
だから、ビンクには母のもとへ行ってもらうことにした。
──姿を隠したまま、母上の様子を見ていてほしい。何かあったら、ダンブルドアに知らせて。それから、体に気をつけて、危ないことは絶対にしないでね。闇の帝王に目をつけられるようなことだけは、ないように。──
別れ際、僕の言葉にビンクは何度も頷いていた。それでも、その目はずっと僕の顔を心配そうに見上げていて、こちらまで胸が痛くなった。自分は大丈夫だからと言い聞かせて送り出したが、あまり納得してもらえた様子はなかった。
しかし、母のそばにいてくれるのはありがたい。魔法省の職員が出入りしているとはいえ、屋敷の中で何が起きているのか、こちらには分からないのだから。ビンクがいてくれれば、少なくとも何かあったことすら知らずにいる、という事態は避けられるだろう。
城のほうから足音が聞こえ、顔を上げた。ダンブルドアが、いつもの微笑みを浮かべてこちらへ歩いてくる。こちらの気も知らず、随分と機嫌がよさそうだった。いや、知った上であの顔なのだろうが。
「待たせたのう。それでは、行くとしよう」
僕はトランクの取っ手を握り直したが、差し出された腕を取る前に、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「ハリーは夏の間、シリウスのところには来ないのですか? 彼らにとっては、それが一番嬉しいことだと思うのですが」
「いずれはそうなるじゃろう。しかし、良い機というものがある」
ダンブルドアは穏やかに答え、それ以上は何も付け加えなかった。それがいつなのかは、教えてくれるつもりはないようだ。
僕は小さく息をついて、差し出された腕を取った。次の瞬間、身体が四方から押し潰されるような感覚に包まれ、ホグワーツの門が視界から消えた。
足の裏が地面に触れ、僕はダンブルドアの腕から手を離した。少しよろめいたが、トランクに手をついてどうにか踏みとどまる。顔を上げると、周囲には木々が生い茂っていた。枝の間から差し込む陽光が、足元の細い道をまだらに照らしている。どこか見覚えのある小道だ。
ダンブルドアについて歩き始めてから、ようやく思い出した。ここはノーサンバーランドにある、キールダーの森だ。
四年ほど前までは、カシオペア大伯母上のお見舞いに、たまに訪れていた場所だった。ブラック家の中で未婚のまま生涯を閉じた老女が一人住まう家があったのが、この場所だ。ブラック家の家屋の中ではかなりましな趣味のところだったはずだ。
しかし、道端に傾いて立つ標識まで来たところで、僕は首を傾げた。雨風にさらされて朽ちかけてはいたが、この標識には覚えがある。確か、このあたりから屋敷が見えたはずなのだが……木立の向こうを覗いてみても、それらしいものは見当たらなかった。
ダンブルドアは構わず先へ進んだ。僕もトランクを引き直し、その後を追う。
やがて彼は足を止めると、ローブから小さな紙片を取り出した。
「これを読んでおくれ」
受け取って目を落とす。そこには、どこかで見た覚えのある筆跡で、一文だけが書かれていた。
──シリウス・ブラックとドラコ・マルフォイの隠れ家は、キールダーの森、ユーハースト・バーンのほとりにある。
記憶の中から筆跡の主を引っ張り出す。これはシリウスの字だ。ということは、忠誠の術までかけてあるのか。
紙片から顔を上げると、先ほどまで木々しか見えなかった場所に、見覚えのある屋敷が建っていた。
大きすぎない──まあ、マルフォイ邸と比較して、大きい屋敷など、このブリテンにはそうない──落ち着いた外観の建物だった。ツタが増えたように感じるものの、壁も屋根も記憶にあるものとほとんど変わっていない。
ただ、庭は随分と様子が違っていた。テニスコートほどの広さの庭には草が伸び放題になっていて、以前は手入れされていた植え込みとの境目も曖昧になっている。大伯母上がいた頃、こんな状態を放っておくことはなかっただろう。 彼女が亡くなってから、もう四年近く経つのだったか。屋敷がそのまま残っているだけに、かえって誰も暮らさなくなってからの長さを感じた。
ダンブルドアは少しだけ宙にある壁を押すような仕草をした後、屋敷へと歩みを進めた。彼に促されるまま境界を跨ぎ、少しだけ草を刈ったらしい小道を進むと、玄関の前でシリウスが待っていた。
こちらを一瞥した彼に、僕は控えめに笑みを向けた。
「シリウス、校長室ぶりですね。大変ご迷惑をおかけしますが、この夏お世話になります」
できるだけ丁寧にしたつもりの言葉にシリウスは短く頷いた。それから、すぐにダンブルドアへ顔を向ける。
「守りの呪文は、大丈夫そうですか?」
「うむ。問題なく働いておる」
「誰かにつけられたりは?」
「それもない。ひとまずは安心してよいじゃろう」
二人のやり取りを聞きながら、僕はトランクを足元へ置いた。
「境界の仕掛けも確かめておいた。屋敷の呪文と干渉しておらぬかはもう一度見た方が良いが、ドラコが一人で外へ出ようとした場合にも、ちゃんと反応するはずじゃ」
ダンブルドアは、そのままの調子で嫌なことを付け加えた。
侵入だけではなく、脱走にも対処済みということか。まあ、当然といえば当然だ。校内から抜け出そうとしたこともバレているのだから、何もせずに夏休みへ送り出してくれるはずはなかった。……でもこれじゃあ、まったくの監禁じゃないか? 児童虐待では?
拗ねて益体もないことを考えている僕をよそに、シリウスは頷いて玄関のほうへ身を向けた。
「中へどうぞ。まだあまり片付いてはいませんが」
ダンブルドアは微笑みつつも首を振った。
「いや、今日は遠慮しておこう。この後、また少しロンドンへ戻らねばならぬのでな。シリウス、君も司法関係の手続きで呼ばれることがあるじゃろう。そのときは、改めて連絡する」
「分かりました」
ダンブルドアは僕らを順に見て、にこやかに言った。
「さて、今まで不運にも共に過ごす機会なく暮らしておったとはいえ、君たちは紛れもなく家族じゃ。この夏、君たちが絆を育み、仲良く過ごしてくれることを期待しておる」
家族と言っても五親等ですよ、などと言えるはずもなく、ダンブルドアは軽く手を上げると、返事を待つこともなく門へ向かってしまった。その背中を見送りながら、僕はシリウスに何と言ったものか考えていたが、答えを出すより先に、ダンブルドアは門の外で姿を消した。
玄関前に、僕ら二人だけが残された。
シリウスと目が合った。彼は何か言おうとして、一瞬ためらったようだった。……どう扱えばいいか、判断しかねているのだろう。こちらも似たようなものなので、あまり気まずそうにしないでいただけると助かるのだが。
「……入ってくれ」
結局、シリウスはそう言って扉を開けた。僕は礼を述べ、トランクを引いて屋敷の中へ足を踏み入れた。
玄関を入ったところで、埃っぽい空気に思わず鼻を押さえた。廊下には窓から日が差していたが、その明かりの中に細かな埃が漂っている。壁際の棚には物を動かした跡があり、シリウスも多少は片付けようとしたらしい。しかし、屋敷全体に手が回るまでには、まだ時間がかかりそうだった。
「そのトランクは、君の部屋に運ばせよう。クリーチャー!」
シリウスが声を上げると、奥の扉が開いた。出てきた小さな姿を見て、僕は目を見開いた。
「ああ、マルフォイ家のドラコ坊ちゃま!」
年老いた屋敷しもべ妖精は僕を見上げ、嬉しそうに皺だらけの顔をほころばせた。毛のぼうぼうと生えた耳を揺らして近づいてくるその姿には、確かに覚えがある。ヴァルブルガ大伯母上が亡くなって以来だから、もう十年ほど会っていなかったことになるだろう。
しかし、その格好はどうしたことだろうか。以前から老いた屋敷しもべ妖精ではあったが、これほど汚れてはいなかったはずだ。肌には垢がこびりつき、身にまとった布も、もともと何に使われていたのかさえ分からない有様だった。
「本当に久しぶり、クリーチャー……どうしたの、その格好は?」
クリーチャーは自分の身体を見下ろした。それから、申し訳なさそうに手を布へこすりつけ始めたが、どちらも汚れているのだから、それで綺麗になるとは思えなかった。
僕はシリウスへ顔を向けた。
「どうして、クリーチャーはこんな状態なんですか?」
「こいつがそれを望んでいるからだ」
シリウスはあっさりと言った。
望んでいるって……そんなことがあるだろうか。クリーチャーを見ても、彼は何も答えず、まだ手をこすり合わせている。少なくとも、僕の前でこの格好をしていることは気にしているようだった。
「……クリーチャー、お風呂に入ってきてもらえる? 一人で入れる?」
クリーチャーは返事をする前に、ちらりとシリウスを見た。今の彼の主人の前で、僕に頼まれたからといって、勝手に持ち場を離れていいものではないのだろう。
シリウスはうんざりしたように息を吐いた。
「ああ、わかった。……行け、クリーチャー!」
クリーチャーは頭を下げると、廊下の奥へ引き返し、扉の向こうへ姿を消した。その後ろ姿を見送っていると、シリウスが続けた。
「こいつには、許可なく屋敷を離れたり、ここのことを誰かに話したりするなと言ってある。君についても同じだ。そこは心配しなくていい」
「……分かりました」
安全のために必要な指示なのだろう。それには異論はなかったが、先ほどの言い方がどうにも頭から離れなかった。クリーチャーに風呂へ入るよう言うことが、それほど面倒なのだろうか。
……いや、来たばかりで口を出しすぎるのはよくない。これからしばらく、同じ屋根の下で暮らすことになるのだ。初日から機嫌を損ねて、その後ずっと居心地の悪い思いをするのは避けたかった。
「よければ、クリーチャーがお風呂に入っている間に、少し掃除しましょうか」
僕が尋ねると、シリウスはこちらを見た。一度、僕のトランクへ視線を落としてから、少し言いにくそうに口を開く。
「それは構わないが、魔法はなしだ。……杖は預かってもよいと、ダンブルドアから言われている。そもそも、休みの間、未成年が校外で魔法を使ってはいけないことは知っているだろう」
それは知っているが、魔法使いの家でどれだけ厳密に守られている規則だろうか。ここには成人した魔法使いも屋敷しもべ妖精もいるのに、誰が魔法を使ったかなど、どうやって判断するというのだろう。
しかし、シリウスは手を差し出して待っていた。規則の運用について議論をする余地はないらしい。
「どうぞ」
僕はローブから杖を取り出し、その手へ渡した。シリウスは少しこちらの顔を窺ってから、受け取った杖をしまった。
もっとも、杖がないだけで何もできなくなるほど、僕も準備を怠ってきたつもりはない。この世界に来てから十五年以上、あの一本の棒切れに何もかもを依存するなどというボトルネックについて、転生者として何も考えなかったとでも思われては困る。……もちろん、その考えを、今ここで教えて差し上げる必要は全くない。
「では、掃除道具はどこにありますか?」
「……マグル式でやるつもりか?」
シリウスは意外そうに言った。魔法を使うなと言われた以上、それしかないと思うのだが。
「ホグワーツにも、そういう罰則があることはご存知でしょう? 意外と箱入りではないですよ、僕は」
まあ、僕はそんな罰則を受けたことはないが。こういったところで健気さをアピールしておくという打算だって、がっつりある。
シリウスは少し眉を上げたが、それ以上は何も言わず、廊下脇の物入れを指した。中には古い箒やバケツが入っている。使えそうなものを取り出し、僕はまず棚上から埃をはたき落とし始めた。
どうせ、この夏を過ごす場所なのだ。少し手を動かして居心地がよくなるなら、そのほうがいい。少なくとも、歩くたびに埃を吸い込まずに済む程度にはしておきたかった。
クリーチャーが戻ってきたのは、床から掃き集めた埃を捨て、棚を拭き始めた頃だった。
「ドラコ坊ちゃま!?」
その声に振り向くと、彼は目を剥いて僕の手元を見ていた。身体の汚れが落ちたおかげで、先ほどよりは随分と顔色がよく見える。身につけていたボロ切れも、普通のタオルに交換したらしい。
「お風呂に入れた? よかった。もう少しで、ここは終わるから──」
「坊ちゃまに掃除をさせるなんて……お客人を、マルフォイ家の坊ちゃまを、奴隷のように働かせて……」
クリーチャーは僕の言葉を聞かず、ぶつぶつと呟き始めた。その目は、廊下の向こうにいるシリウスへ向けられている。
シリウスの顔が険しくなるのを見て、僕は慌てて雑巾をバケツへ戻した。
「シリウス、クリーチャーに僕の部屋を見せてもらってもいいですか?」
シリウスはしばらくクリーチャーを睨んでいたが、やがて頷いた。
「……ああ。上の部屋だ」
「ありがとうございます。クリーチャー、トランクをお願いできる?」
彼はまだ何か言いたそうだったが、僕が玄関脇に置きっぱなしにしていたトランクを示すと、すぐにそちらへ向かった。僕は掃除道具を壁際へ寄せ、クリーチャーについて階段を上がった。
割り当てられた部屋は、窓から庭を見下ろせる場所にあった。ベッドと机、それに衣装箪笥が置かれていて、広さにも不満はない。ただ、こちらも窓枠や家具の上に、薄く埃が積もっていた。
それを見たクリーチャーは、トランクを置くなり、すぐに掃除を始めた。机の表面から埃が消え、窓が開き、ベッドの上ではシーツがひとりでに外されていく。
先ほど僕が廊下で費やした時間を考えると、少しばかり複雑な気持ちになる。まあ、その間に彼は風呂へ入れたのだから、無駄だったわけではない。
「ありがとう、クリーチャー」
彼は深々と頭を下げ、それから、まだ気になるところがあるらしく窓際へ向かった。僕は邪魔にならないよう扉のそばへ寄り、部屋が手際よく整えられていくのを眺めていた。
それから少しして、夕食のために階下へ降りると、テーブルの上に大きな紙袋が置かれていた。キッチンはまだ使える状態ではないらしく、シリウスが外で食事を買っておいてくれたのだという。
袋からハンバーガーの包みとポテト、それに紙カップの飲み物が出てくる。袋に印刷された見覚えのあるロゴを、僕はしばらく眺めてしまった。
それはどこからどう見てもマクドナルドだった。こちらに来てからも、ごく稀に出かけたマグルの街で看板を見ることくらいはあったが、まさかブラック家の屋敷で食べることになるとは思わなかった。ハリー・ポッターの世界にもあるのかと驚いた記憶が蘇ってくる。
……前世で初めて食べたのは、大学生のときだった。アルバイトの給料が入って、それで昼食を買ったのだ。その朝は父親の弁当と母の昼食は作ったが、自分の分はおかずが足りなそうだと思い、作らずに大学へ行った。確か、何を食べるかは、家を出るときにはまだ決めていなかった。昼休みに大学のそばで、一番早く食べられそうなものだった。
別に、たいした買い物ではない。それでも、自分で働いて得た金で、誰にも断らずに好きなものを買えたことが、ひどく嬉しかったことを覚えている。
「……妙に嬉しそうだな」
顔を上げると、シリウスが意外だという気持ちを隠しもせずにこちらを見ていた。……迂闊なことに、思ったより顔に出ていたらしい。純血貴族のお坊ちゃんに対する当てこすりの側面もあったはずが、こんな反応を返してしまうのはまずかっただろう。
なんとか表情を平静の範疇に収め、口を開く。
「ああ……珍しくて。普段は、こういったものを食べる機会がありませんから」
「君はマグルのファストフードを知っているのか?」
「ええ、マグル学で少し……」
答えてから、しまったと思った。そもそも僕はマグル学を取っていない。履修している友人から聞いたということにすれば通るだろうか。それにしたって、授業でどこまで扱うのか大して知らないものを、よくもまあ口にできたものだ。
しかし、シリウスはそこを問い返さなかった。自分の前へ飲み物を引き寄せながら、僕の顔を見ている。
「やはり、君は嫌がらないんだな」
「食事ですし……美味しければ、何でもありがたいですよ」
そう答えて、僕は断りを入れてからハンバーガーの包みを開いた。今の返答も、純血一族の嫡子としては大いにどうかと思われるかもしれないが、シリウス相手にそこまで気を遣うところではないだろう。
「君は、どう見ても差別主義者ではない」
食べ始めようとしたところで、シリウスが言った。僕は手を止め、向かいの顔を見た。
「リーマスやハーマイオニーへの接し方を見れば、それは分かる。彼ら自身からも、たっぷりと聞かされた。しかし、それなら……父親へのあの従順さは、何なんだ?」
表情を維持するのには、かなりの努力が必要だった。
正直、その話は勘弁してほしかった。僕が父を見捨てないことは、何を言われたところで変わらない。シリウスが納得してくれないことも、今までのやり取りで十分に分かっている。ならば、わざわざ互いに嫌な思いをする必要はないだろう。
けれども、黙って食事に戻るわけにもいかなかった。この家に来てまだ半日も経っていないのだ。できるだけ当たり障りのないことを言って、穏便に話を終わらせたい。
……しかし、当たり障りのない返答って、何だ?
シリウスを納得させるだけなら、父に逆らえないのだと言ってしまうのが一番簡単なのかもしれない。つい昨日、大人たちが揃って用意してくれた説明にも合う。けれど、それでは父に何もかも押しつけることになるし、シリウスが僕を父から引き離そうと張り切ってしまっても困る。
では、僕にも多少は純血主義的な考えがある、と答えるべきだろうか。先ほどの彼の見立てを訂正することにはなるが、父に従っている理由としては分かりやすい。
……いや、それはそれで、この夏の残りがすべて思想矯正の時間になりそうだった。食事のたびにマグルの文化について感想を求められるようになっては、たまったものではない。
どちらにしても、父について踏み込んだ話を始めずには済まない気がした。何かほかに言い方はないものかと考えているうちに、随分と間が空いてしまった。
シリウスは僕を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……話したくないか。まあ、時間はたっぷりある」
そう言って、自分の食事へ目を戻した。
そこで、部屋の隅から低い呟きが聞こえた。
「アズカバン帰りが、坊ちゃまに悍ましいマグルどもの食事を食べさせる……心ないご主人が、お優しいドラコ坊ちゃまを責める……ああ、奥様がご覧になったら、なんとおっしゃることか……」
シリウスの手が止まった。顔を上げ、クリーチャーのほうを見たかと思うと、椅子を引いて立ち上がる。そのまま大股に歩き出したのを見て、僕も慌てて席を立った。
「ちょ、ちょっと、待ってください」
テーブルを回り、二人の間へ入る。シリウスは杖を抜いてはいなかったが、こちらへ向かってくる足を止めなかった。
……なんだか、二年くらい前にも似たような構図になった覚えがある。そのときは、僕の背後には鼠にそっくりな男がいた。
「そこをどけ」
「待ってください。クリーチャー、そんなひどい言い方はしないで。お願いだから」
振り返ってそう頼んだが、クリーチャーは僕の陰からシリウスを睨んでいた。これでは、僕が彼を庇うために立ったようにしか見えない。
「いいか、君は知らなかったかもしれないが、こいつはヴォルデモートに私を売ったんだ」
シリウスは嫌悪に満ちた表情で、さらに一歩近づいた。僕は顔を上げ、その言葉の意味を考えた。
「何……どういうこと? クリーチャー?」
「クリーチャーは、ミス・ナルシッサとミス・ベラトリックスとお話をしただけです!」
クリーチャーはしわがれた声で答えた。僕は彼を見下ろしたまま、すぐには言葉を返せなかった。僕の前の囮作戦が、今更ながら脳裏によぎる。
「母上に、シリウスの情報を話したの? それが『あの人』に伝えられたの?」
母が僕の知らないところで、そんなことをしていたのだろうか。それとも、話を聞いたのはベラトリックス伯母上で、母もその場にいただけなのか。クリーチャーの顔を見ても分からない。彼は口をもぐもぐと動かしていたが、答えを聞くより先に、シリウスが言った。
「さあ、これで分かっただろう。クリーチャー、お前には罰が──」
「ま、待ってください……」
思ったよりずっと情けない声が出た。シリウスの目が僕に向いた途端、頭の中で、もう長いこと聞いていなかったはずの声が重なった。
まずい。明らかに自分は動転している。さっき余計なことを思い出したせいだろうか。ここはあの家ではないし、目の前にいるのはシリウスだ。そんなことは分かっているのに、怒った顔を見上げていると、次に彼が何をするのかということばかりが気にかかった。
「クリーチャーは、ちゃんと指示を出せば守れるでしょう? もう、誰にも話さないようにしてあると、さっき……」
「だから何だ。こいつが何をしたか、今説明しただろう」
「分かっています。でも……クリーチャー、もう主人の命を危険に晒すようなことはしないだろう?」
背後へ問いかけても、すぐに返事はなかった。お願いだから、ここはスムーズに頷いてほしかった。何か言ってくれれば、それを理由にこの話を終わらせられるかもしれないのに。
シリウスは僕越しにクリーチャーを見ていた。僕は彼の前から動けないまま、言葉を探した。
「シリウス、クリーチャーはあなたに隷属しているんです……お願いだから、自分より弱い立場のものを傷つけないで……」
「弱い立場?」
シリウスの声が大きくなった。
「母が生きていたとき、こいつがどれだけ私を虐げて楽しんでいたか、君は知らないだろう」
僕は即座に口を閉じた。
ヴァルブルガ大伯母上がシリウスをどう語っていたかは、僕だって知っている。僕には優しかったあの家が、シリウスにとって同じだったはずがない。自分の考えを否定され続けるのがどれだけ辛いことなのか、それくらい、分かっていたつもりだったのに。
その家で彼女に仕えていたクリーチャーが、どちらの側にいたのか。先ほどまでの言葉を聞けば、考えるまでもないことだった。
「申し訳ありません……」
なんとか声を絞り出して謝ると、シリウスはきつく口を結んだ。しかし、それで僕が退くと思われても困った。彼にひどいことを言ったのは確かだ。それでも、今ここでクリーチャーの前から離れることはできなかった。
「……でも、クリーチャーは、あなたの言うことは聞くはずです。もう裏切らない、そうでしょう? クリーチャーも、お願い……」
自分でも、同じことばかり繰り返しているのが分かった。こんな調子では、シリウスを説得できるわけがない。内通していたのは事実らしいし。落ち着いて話さなければと思うのに、口を開くと謝罪か懇願しか出てこなかった。
……やっぱり、誰かと一緒に暮らすのは苦手だ。その人が何をしたら怒るのか、どこまで怒るのか、まだ分からないうちはどうしてもこうなる。初日から気をつけていたはずなのに、何をしているのだろう。
シリウスは僕の顔を見つめていた。やがて眉を寄せ、何か言いかけたが、そのまま大きく息を吐いた。
「……もういい。クリーチャー、戸棚の下に戻れ!」
クリーチャーは身を縮めた。それから僕へ一度頭を下げると、足早に部屋を出ていった。廊下の向こうで倉庫の扉が開き、閉まる音が聞こえる。
僕はしばらく、その方向を見ていた。追いかけようとしないのを確かめてから、ようやくシリウスへ顔を戻した。
「……すみません。感情的になって、差し出がましいことを言ってしまって。あなたのことも、まだよく知らないのに……」
シリウスは、今度はすぐには答えなかった。僕の顔を見て、それから食卓へ目を向けて深々とため息をついた。
「……もういい。今日は疲れただろう。食事をしたらもう休みなさい」
僕がした振る舞いを考えれば、とても寛大な言葉だった。これ以上謝り続けても、かえって困らせるだけかもしれない。僕は頷き、そのあとは黙ってハンバーガーを口に押し込み、部屋を出た。
上階へ戻ると、クリーチャーが整えてくれた部屋は静かだった。ベッドの脇に、運んでもらったトランクが置かれている。
荷解きをしておこうかと思い、留め金を外したが、服を取り出しかけたところでやめた。この調子で、二ヶ月間シリウスが僕に耐えられるとは到底思えない。急に出ていってほしいと言われたとき、また詰め直すのは面倒だろう。必要になったものから出していけば、それで済む。
寝巻きだけを引っ張り出して、トランクを閉じた。着替えてベッドに入り、明かりを消す。今夜はもう、何も考えずに寝てしまいたかったが、睡魔はなかなか訪れなかった。
五巻の時も思ったのですが、その巻の出だしが一番話が出てきづらい! がんばります。