音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
ユーハースト・バーンに到着してから、数日が経った。屋敷はどんどん綺麗になっていっていたが、精神的な住み心地は変わらず、寝つきは悪くなるばかりだった。
もっとも、屋敷の主人たるシリウスは決して理不尽に乱暴で無慈悲な人ではなかった。初日の夕食のことは翌日以降も蒸し返されなかったし、明らかに気の合わない居候に何かを強いるわけでもない。二年前、叫びの屋敷でペティグリューへためらいなく杖を向けていた姿から受けた印象は、かなり局所的というか、極まった状況下でのものだったと言えるだろう。
……そもそも、ペティグリューがしでかしてきたことを思えば、あの反応は常人の域だったのかもしれない。しかし、僕もまた、ペティグリューと同様に闇側に両足を突っ込んでいる。父を庇ってヴォルデモートに従おうとしている子供など、彼が好くはずもないだろう。そう考えると、相変わらず僕らの間には地雷が埋まりまくっていると言える。できることならこれ以上お互いに踏み込みすぎることなく、この夏を終えたい。
そうすると、まずは家の中の揉め事を減らすことが肝心だ。あの気まずい夕食の翌朝、僕は早速クリーチャーに「できるだけシリウスを刺激するようなことを言わないでほしい」とお願いした。
クリーチャーは大いに不満そうだったが、僕のためだと言うと頷き、それからは声に出してシリウスを罵ることはなくなった。……シリウスが背を向けた途端、唇だけがもごもごと動いていることはあるが……まあ、喧嘩に発展しなければ、なんだっていい。
最愛の女主人が植え付けた思想をどうにかしたい思いもあったが、現主人に対する憎しみが強すぎて、これはまったく上手くいかなかった。かなり早い段階で、僕はクリーチャーに考えを改めてもらう試みを放棄した。
日中は、クリーチャーと屋敷の掃除をして過ごした。クリーチャー自身はあまりいい顔をしなかったが、僕は結構掃除が好きだ。自分が存在していい場所が、増えるように感じられるから……
作業の合間には、クリーチャーが昔の話をしてくれた。ヴァルブルガ大伯母上やブラック家の客人のこと、カシオペア大伯母上が住んでいたこの屋敷の家具の由来などなど。相槌を打つと嬉しそうに続きを話してくれるのだが、ヴァルブルガ大伯母上の立派さを語るために、息子の不出来さを持ち出すので、これには大いに神経をすり減らされた。
シリウスが近くにいるときは、話が怪しい方向へ進む前に、次はどこを綺麗にしようかと尋ねた。幸い、この屋敷は掃除する場所に事欠かなかった。
シリウスは、僕について回るクリーチャーを見て、まったくいい顔をしなかったが、意外なことにほとんど口を挟まなかった。もとより、彼は昼間に家を空けていることも多い。無実が認められたあとの手続きなのか、騎士団の用事なのかは知らないが、留守の間はいつ口論が勃発するかビクビクしなくて済んだ。
そうして屋敷があらかた片付くと、今度はすっかり暇になってしまった。
杖なし魔法の練習もできないことはないし、マダム・ボーンズへの政策案や、ヴォルデモート卿にどう自分を売り込むかなど、考えることは沢山ある。けれど、全部どうにも緊急性がなく、ヴォルデモートに言葉で小突かれ続ける一年を送った身としては張り合いに欠けた。
夏
シリウスが出かけた日の午後、屋敷の守りがどういう仕組みなのか、調べて回ってみることにした。別に今すぐ脱出する気はないし、その動機を与えるつもりもダンブルドアはないだろう。(この屋敷には『日刊予言者新聞』すら配達されていなかった。)しかし 、まあ、万が一、ということもある。
少し草を刈った庭を横切り、敷地の境界線へと向かう。庭の端っこから来るときに通った道へと手を伸ばすと、何もない場所で掌が止まった。押してもびくともしない。とりあえずそれらしく触り、杖なしでできる範囲で解析の魔法をかけてみた。
……うーん、よく分からん。人避けなどの一般的な魔法はなんとなく感じ取れるが……この精度を欠く状態で、呪文に傷をつけることなく分析して解除するのは難しいだろう。
他の場所でも何かが分かることはなかった。……なら、地面のほうはどうだろう。これらの魔法はこの敷地にかけられているが、この敷地自体が変容したならば? 僕が通れなくても地面を外へ動かして、そこから境界を曖昧にすることならできるかもしれない。こういった変化術は、僕の最も得意とするところだ。
しゃがみ込んで道すれすれの地面に両手をつき、頭の中で道と庭の境界が混ざりあうイメージを思い浮かべる。すでに魔法がかけられている物体に呪文を上書きするのは技術がいるが、思ったよりも手応えがあった。触ったところ周辺から一、二メートルほどの土が僅かに盛り上がる。そのまま形を保ってぐいぐいと外へ押し延ばし、道の土に溶かし込もうと試みる。数センチの間は順調に見えたが、やがて先端が何かに当たり、その後ろから続く土が潰れたように盛り上がり始めた。
もう少し力を加えると、接触したところから熱い風が吹いた。顔を背けつつも動きを確かめる。ミシミシと嫌な音はしていたが、土はまだわずかに前へ進んでいた。これなら、もう少しいけるだろうか?
地面をさらに押し延ばした途端、両手へ強い反発が返ってきた。境界に触れた地面の亀裂から白い蒸気が噴き出し、ついていた両手を包んだ。
慌てて手を引き、呪文を止める。気づけば土は割れ、あたりの草は茶色く縮れていた。立ち上がって後ずさると、境界の向こうの地面も僅かに皺が寄るようにずれ、草花は萎れてしまっている。
……やりすぎたか? まだやれそうな気もするが、バレない程度に穏当に、とは絶対にいかないだろう。これ以上無計画にいじって屋敷の守りを本格的に壊してもまずい。崩れた土を靴の先でならし、散った芝を寄せてみたが、明らかに何かあった感じが残ってしまった。シリウスが庭の端まで見に来ないことを願って、僕は引き返した。
屋敷へ戻って居間に入った途端、玄関の扉が開く音がした。まさかもうバレたのかと思ったが、すぐにシリウスが怒鳴り込んでくる様子はない。顔を出してみると、彼は両手に紙袋を抱えて玄関ホールに立っていた。その顔に怒りの色はない。
思わず内心で胸を撫で下ろす。クリーチャーはまだ上階にいるらしく、僕は近づいて手伝おうと手を差し出した。
「お帰りなさい。お持ちしますよ」
しかし、僕の手元で止まったシリウスの視線が、あっという間に厳しいものに変わった。
「……その手はなんだ」
随分と恐ろしい声音に、慌てて彼の視線を追い、自分の右手を見下ろす。そこには真っ赤に腫れ、水脹れにびっしりと覆われた手のひらがあった。手の甲側にも赤みは滲んでいる。──いったい、なんだこれは?
間違いなく先ほど庭でやらかしたのだろうが、全く気づかなかった。慌てて引っ張り出した左手も似たようなものだった。
衝撃のまま両手を見比べているうちに、シリウスがまだこちらを見ていることを思い出す。まずい。これは、気を害してしまっただろう。
「申し訳ありません」
手を引っ込め、裾を引いて覆おうとしてみた。しかし、このビンクが選んだシャツは僕の身体にぴったりで、指先がどうしても出てしまう。
冷や汗が背中を伝うのを感じる。どう説明したものか焦っていると、シリウスはしかめっ面のまま、口を開いた。
「……自分で気がつかなかったのか?」
その口調は予想外に落ち着いたものだった。思わず顔を上げると、彼は少し悲しげに眉を寄せて僕を見ていた。
……もっと怒られるだろうと思っていたので、すぐにはうまい返答が出てこない。
「……分かりませんでした」
つい、率直に答えてしまった。こんな傷にも気づかなかったとは、我ながらどうかと思うのだが。
「痛くないのか?」
「痛くは……ないですね。少し、皮膚がつっぱる感じはしますけど」
僕は裾に隠した手を動かした。ここ数日、雑巾を絞ったり棚を拭いたりしていたので、手が荒れたのかと思っていた。
「以前から、怪我をしても気付きづらい体質なのか?」
「……いいえ」
シリウスはしばらく僕をじっと見ていた。それから、裾に中途半端に覆われた手の方へと視線を落とす。
「磔の呪いの後遺症かもしれない。極度の苦痛を受けたあまり、痛覚が鈍麻してしまったか」
……それは困った。現に今、かなり実害を被ってしまった。治るのだろうか?
「手を見せてくれ。……ここではやりにくいな。向こうに行って座りなさい」
居間へ促され、僕は椅子に腰を下ろした。シリウスがそばへ来たので、シャツから手を出す。彼は傷に触れないよう袖口を引き上げ、手首まで確かめた。
治癒呪文をかけられると、少し皮膚が引きつる感じがした。赤みはいくらか引いたものの、水脹れはしっかり残っている。シリウスは反対の手にも呪文をかけたが、そちらも同じだった。
「これだけでは治しきれないな。……ハナハッカが必要だ」
「申し訳ありません、お手数をかけて」
シリウスは一度こちらを見たが、何も言わず、棚から包帯を呼び寄せた。再び右手首を軽く掴まれ、僕は指を伸ばしたまま待つ。傷を覆うように包帯が巻かれ、左手も同じようにぐるぐる巻きになっていった。
「それで、なんでこんな怪我をしたんだ?」
左手の包帯を巻きながら、シリウスが尋ねた。
……どんな言い訳がベストなんだろう。屋敷にあった呪われた品に触れた、というのはどうだろうか? いや、どの品か確かめられれば終わりだ。杖なし変身術の失敗とか? それにしても、動物もどきにまでなれる僕が、何をどう間違えれば両手を焼くのだろうか。いっそマグル式でオーブンを使おうとして失敗したとか?
すぐには良い言い訳が思いつかず、口ごもってしまう。
少し挙動不審になった僕に対して、それでもシリウスは怒らなかった。
「外へ出ようとしたのか?」
険のない言葉に、僕は顔を上げた。シリウスは手当てを続けていたが、こちらが答えるのを待っている。
もっと怒られるかと思っていたのだが……先ほどから調子を狂わされっぱなしだ。
再び僕は素直に──しかしちょっとだけ本当の意図を隠して答えた。
「……庭の境界の地面を、少し動かしてみました」
シリウスは少しだけ眉を寄せたものの、視線で続きを促す。
「僕は通れなくても、土なら外へ伸ばせるかもしれないと思って、試してみたくって。途中までは動いたんですが、急に蒸気が出てきて……おそらく、そのせいかと」
そのまま、反省していますと言わんばかりに包帯の巻かれた手へ目を落とした。
シリウスはため息をつき、残っていた端をテープで留めた。
「外へ出たくなる気持ちは分かる。……私も、閉じ込められるのは好きじゃない」
そう言う彼は、少し苦い顔をしていた。
「しかし、どんな呪文かかっているか分からないところを、力ずくで破ろうとするのは愚かな行為だ。次も火傷で済むとは限らない」
「……はい」
「さあ、手当は終わった。その場所を見せてもらおう」
両手を離され、僕は椅子から立ち上がり、そのまま庭へ案内した。
境界まで来ると、シリウスは足を止めた。茶色になった芝と、僕がならした土を見比べ、顔をしかめる。
「これで、
「……最初は、少しのつもりだったんです」
シリウスは返事をせず、しゃがんで地面へ杖を近づけた。何かを確かめるように杖先を動かし、それから立ち上がって、道の先へ向ける。
「外側に張った守りと、敷地に残っていた古い呪いが干渉したんだろう。地面ごと押し動かそうとしたせいでな」
シリウスはもう一度地面を見てから、僕へ顔を向けた。
「これを、杖もなしにやったのか?」
「……はい。マクゴナガル先生のおかげで、変身術は得意なので。それなら少しは試せるかと思いまして」
彼の視線が、僕と盛り上がった地面との間を行き来する。そのまま大きなため息が漏れた。
「君の杖を預かったときに、聞いておくべきだったな」
……聞かれないことに答える道理はない。
もちろん口には出さず、大人しくしていると、シリウスは僕の頭を軽く小突いた。
「境界のことはダンブルドアに報告する。火傷と、痛みを感じていないこともだ」
「わかりました」
もっと色々と言われる覚悟をしていたが、シリウスはそれだけで屋敷の方へ歩き始めた。僕もその隣へ並ぶ。
最初の恐ろしい表情を見たときはどうなるかと思ったものの、意外と話は通じるらしい。外へ出たかったことを咎められなかったのは、ありがたかった。この人が相手なら、何もかも隠そうとする必要はないのかもしれない。
そんな甘い考えのまま、僕は短慮にも口を開いた。
「……シリウス。ダンブルドアへなのですが、僕が闇の帝王のもとへ戻ろうとしていたという体で、報告していただけませんか。スネイプ教授を通じて、あちらへ話を通せると伺っていますので。火傷を負ってまで帰ろうとしたと分かれば、少しは忠誠を信じていただけるかもしれません」
シリウスは何も言わなかった。僕の手を見て、それから顔へ視線を戻す。続きを待っているのかと思い、僕は考えながら口を開いた。
「ただ、痛みを感じにくくなっていることは、伝えてもらわない方がいいのかも……でも、磔の呪いのせいなら、それでも戻ろうとしていたというのは、むしろ──」
「君は正気か?」
シリウスは足を止め、今までにないくらい厳しい視線でこちらを見ていた。
「自分を拷問した相手に、その傷を知らせて取り入ろうと言うのか?」
……しくじったな。シリウス・ブラックに闇側を利用するという観念は理解されないと、予想しておくべきだった。内心を隠し、申し訳なさそうな表情を作る。
「……すみません。忘れてください」
しかし、シリウスはその場から動かなかった。
「ヴォルデモートは君を拷問したんだぞ。まだ、まともに痛みを感じられないほどに。それを利用して気に入られようだなんて、どうかしている!」
僕は思わず閉口した。正常な感性だと思うが、それを僕に向けることにはあまり意味がない。しかし、そのことを説明し直しても、よい結果にはならなそうだった。
「なぜ、そこまでしてあいつに取り入る必要がある?」
これにも答えない方がよい気がした。両親の話をすれば、また初日の夕食と同じことになる。しかし、今度こそ彼は引くつもりがないようだった。シリウスは僕をしっかりと見据えていた。
嫌々ながら、僕は口を開いた。
「……母は、今もマルフォイ邸に残っています。僕が離反したと思われれば、殺されるかもしれませんから」
「それは、君の両親の自業自得だ」
とても冷たい声だった。
「自ら望んでヴォルデモートに与したのだ。その結果まで、子供が引き受ける必要はない」
……この先は、何を話しても平行線だろう。
両親に責任があるかどうかを論じたいわけではない。僕が二人を見捨てることは決してないという、それだけのことなのだが、それが彼には受け入れられない。ならば、ここで納得してもらうのは諦めた方がよかった。
さて、どう返せばシリウスの気は済むだろう。反論は論外だし、ショックを受けて傷ついた顔でもしておく方が、これ以上責めにくくなるかもしれない。
僕は眉を下げ、視線を落とし、哀れましい子供を装った。
「……ごめんなさい」
そのまま頭を下げて屋敷へ向かった。部屋に戻って、しばらく顔を合わせずにいれば──。
「待て」
玄関まで来たところで、シリウスが前へ回り込んだ。扉の前を塞がれ、僕は足を止める。
「その謝罪はなんのためだ。君は、私の話を聞いていたか? ルシウス・マルフォイは、自分を守るために君をヴォルデモートへ差し出したんだぞ。君を人質にさせて、自分の立場を守ろうとした。その結果が、その手だ」
「……そうですね」
「それがわかっていて、なぜまだ奴を庇う?」
顔を上げると、シリウスは僕をじっと見ていた。こちらの言い分を一つずつ潰してでも、考えを変えさせたいらしい。
とても厄介な相手だった。ただ腹を立てているだけなら、僕の適当な落ち度を差し出して、気の済むまで責めてもらえばいい。最後に許しを乞えば、大抵はそれで終わる。
ところが、この人はこちらの意見を求めてくる。大人しく聞いていても駄目で、同意しても駄目だというのだから、どうしたものだろう。
「君は、父親のしたことをどう思っているんだ?」
「おっしゃることは、分かっています」
「私に同意しろと言っているんじゃない。君がどう思っているのかを聞いている」
分かっている。しかし、正直に答えれば怒るだろうに。
僕は包帯の巻かれた両手を身体の前でぎゅっと握った。少なくとも、この家で暮らしている間は、シリウスと言い争うわけにはいかない。父を責める言葉も使わず、彼に納得してもらうには何と言えばよいのか。
シリウスがさらに口を開こうとしたところで、背後の扉が開いた。
「恥知らずのご主人様が……」
僕は振り返った。クリーチャーが扉の隙間からこちらを見上げていた。
「ご両親のためを思う、お優しいドラコ坊ちゃまを責める……ああ、奥様がお聞きになったら、なんとおっしゃるか──」
「すみません!」
シリウスが何か言うより先に、僕はクリーチャーを抱え上げた。そのまま脇を抜け、玄関へ飛び込む。クリーチャーは驚いて何か言っていたが、聞いている余裕はなかった。
少なくとも、これ以上ここで喋らせてはいけない。それに、この機会を逃したら、今度こそいつ部屋へ戻れるか分からなかった。
両腕でクリーチャーを抱え直し、階段を駆け上がる。部屋へ入って足で扉を閉め、ようやく彼を下ろした。
しばらく扉に耳を当て、外の様子を伺ったが、追ってくる足音はしなかった。
結局、その日、シリウスが部屋を訪れることはなかった。
翌日の午後、朝早くから外出したらしいシリウスは、ダンブルドアを連れて帰ってきた。
二人でどこへ行っていたのかは知らないが、僕の話をしていたことくらいは分かる。居間へ呼ばれて向かうと、ダンブルドアはいつもの微笑みを浮かべ、シリウスは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。できれば、前者とだけお話ししたいところだ。
ダンブルドアはあいさつもそこそこに口を開いた。
「昨日の事情はシリウスから聞かせてもらった。スネイプ先生は決して喜ばぬじゃろうが、彼を通じて、君の望むようにヴォルデモートへ伝えてもらおう」
おや、いいのだろうか? 僕はちらりとシリウスを見たが、彼は腕を組んだまま、何も言わなかった。
「ありがとうございます。とても助かります」
「ただし、今後も君のそのような振る舞いを放置するのは、教職者としてあってはならぬことじゃろう。そこでこちらも、少し工夫をすることにした」
ダンブルドアがローブから取り出したのは、黒々とした鉄製の腕輪だった。幅が広く、飾り気もないそれは、どちらかというと片手用だけの手錠のようにも見える。ずいぶんと趣味が悪い。
「これは?」
問いに対し、ダンブルドアは頷いた。
「君を危険から守るためのものじゃ。これを付けておれば、安全な場所から出ようとすると鎖が現れて身体を拘束する。さすれば昨日のように、防御魔法へ無理をさせずに済む。ああ、安心しなさい。普段は姿を消しておるから、邪魔になることはない」
そういう問題ではない。これは奴隷的拘束ってやつでは? 僕の人権はどこにいったんだ? あと、「安全な場所」という抽象的表現が含意することはなんなんだ? まさかホグワーツに戻ってもこれをつけるのか?
呆れながら腕輪を眺めていると、横からシリウスが口を挟んだ。
「ダンブルドア。私は、この子を鎖で縛ってほしくて相談したわけではありません」
昨日のことがあったのに、なんて感動的なことを言ってくれるのだろうか。しかし、ダンブルドアは全く意に介した様子がなかった。
「わかっておる。しかし、杖を預かっても出ようとしたのじゃろう?」
「だからといって……」
「次も火傷で済むとは限らぬ。君が四六時中そばについておくこともできまい」
シリウスは苦々しげに顔をしかめた。ダンブルドアはその返事を待たず、僕へ腕輪を見せる。
「必要なときには、シリウスが拘束を解けるようにしてある。この夏、君を預かるのは彼じゃからのう」
なるほど、鍵まで渡しておくわけだ。なかなか行き届いている。僕の意見を聞くという手順だけが、すっぽり抜け落ちているようだが。
「……未成年の生徒に、勝手にそんなものを着けていいんですか?」
「お母上の許可が必要なら、わしからお願いしてもよいが」
ダンブルドアは、いかにも親切そうに首を傾げた。
「その際には、事情をお話しせねばならぬ。磔の呪いで痛みを感じにくくなった息子が、両手を焼いてもなおヴォルデモートのもとへ戻ろうとしておる。さらには、その火傷も後遺症も、忠誠を示すために使いたいと望んでおる、と」
僕はダンブルドアをすがめ見た。
「……このことを日刊予言者新聞へ垂れ込めば、あなたの教師生命を終わらせられそうですね」
「それは、君がわしをホグワーツから追い出したくない気持ちに賭けるとしよう」
ダンブルドアはにこにこと笑って言った。
……この狸じじいめ。閉心術を一切使わずにダンブルドアの目を見つめるが、校長は飄々とした態度を崩さなかった。
シリウスのほうを見ても、仏頂面が返ってきただけだった。腕輪を持つダンブルドアの手を睨んでいるが、先ほどのように口を挟もうとはしない。
「さて、手を出してごらん」
差し出された手の上へ、僕はできるだけゆっくりと右手を乗せた。
ダンブルドアは包帯を避けて腕輪を当て、手首へ回した。金属の端が合わさると、その輪郭が曖昧になり、皮膚へ溶け込むように消えていく。冷たい感触も、すぐになくなった。
手を裏返し、指先で触れてみる。何もない。
「……凝っていますね」
「普段の生活に差し障りがないようにするのは、少々骨が折れたのう」
そこまでして僕を閉じ込めておきたいのか。呆れはするが、魔法としては面白い。着ける相手を僕以外にしてくれれば、もっと素直に感心できたのに。というか、ハリーに付けといてくれよ。……ダメだな。こんなものをつけられる正当な事由がある生徒はあまりいないだろう。
しかし、身体に巻きつく鎖なら、変身した場合はどうなるのだろう。白い犬になっても僕だと分かるのか、そもそも犬の身体にも同じように巻きつけるのか。確認しておく必要はありそうだ。
手首を回していると、ダンブルドアは満足したらしく頷いた。
「では、セブルスにはわしから話しておこう。君は、まずその手を治すことじゃ」
「よろしくお願いします」
報告さえしてもらえれば、今日のところは十分だった。
ダンブルドアを見送って居間へ戻ると、シリウスはまだその場に立っていた。僕の右手へ目を向け、それからじっとこちらの顔を見る。
「……本当にいいのか?」
「何がですか?」
「あの鎖だ」
「ああ。不本意ではないとは言えませんが、それでも、構いませんよ」
僕が答えると、シリウスは眉を寄せた。
ずいぶんと気にしてくれていたらしい。昨日あれだけ怒っていたのに、共感できる辛さを見つけると同情してしまうのは、彼の良いところでもあり、弱点であるようにも思えた。
「外へ出なければ、何も起こらないんでしょう?」
右手を軽く振ってみせたが、シリウスの表情は晴れなかった。何か言おうと口を開き、結局、腕を組み直す。
僕はもう一度、何も見えない手首へ目を落とした。
翌日、シリウスが出かけるのを待って、僕は庭へ出た。
「少し試すだけだから、心配しないでね」
ついてきたクリーチャーに断ってから、白い犬へ姿を変える。四本の脚を順に動かしてみたが、特に不自由はなかった。前脚を見ても、白い毛に覆われているだけだ。
そのまま庭を横切り、先日、地面を動かした場所へ向かった。焦げた芝を避けて立ち、境界の向こうへ片方の前脚を伸ばす。
途端に、宙から鎖が現れた。
前脚へ巻きついたそれを引き戻そうとしたところで、胴にも一周する。慌てて踏ん張った後ろ脚まで絡め取られ、僕はあっさり草の上へ転がされた。
「ドラコ坊ちゃま!」
クリーチャーが駆け寄ってきた。僕は頭を持ち上げ、問題ないと伝えようとしたが、口から出たのは短い鳴き声だけだった。
「ああ、坊ちゃま! 今、クリーチャーが……ですが、どうすれば……!」
頼りない声を出したせいで、かえって心配させてしまったらしい。クリーチャーは鎖へ手を伸ばしては引っ込め、僕の周りをぐるぐると彷徨い始めた。こちらも身体を起こそうとするのだが、前脚も後ろ脚も使えないので、どうにもならない。
感じないからわからないのだが、別に痛みがありそうな感覚はない。鎖の感触も、金属というよりちょっと硬いゴムに近かった。ただ、地面に転がったまま首だけ動かしているというのは、あまり見栄えがよろしくないだろう。どうせなら、もう少し威厳のある姿勢で縛られたかった。
クリーチャーの動きが、ふいに止まった。
顔を上げると、少し離れたところにシリウスが立っていた。僕とクリーチャーを見て、それからもう一度、僕へ目を戻す。
僕はまだ自由に動く尻尾を振ってみたが、シリウスはぴくりとも笑わなかった。口を引き結んだまま近づいてきて、僕のそばへしゃがむ。鎖に向けて杖を動かすと、身体を締めていたものが緩み、そのまま消えた。
ようやく脚を伸ばせる。僕は立ち上がり、境界から離れて人間の姿へ戻った。服についた草を払いながら顔を上げると、シリウスはまだしかめっ面をしていた。
「私に、ダンブルドアがしたことを正しいと思わせないでくれ」
それだけ言うと、シリウスは踵を返して屋敷に戻っていった。