音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった   作:樫田

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快方へ?

 翌朝。眠ったことで多少スッキリした頭で、僕は今後シリウスとどう接するべきか考えた。

 昨日みたいに感情を制御できず醜態を晒すような真似は、もうしたくない。シリウスとしては、僕は父が原因でこんなことになっているのだから、現実を見て、父親から離れることを選べ、と言いたいのだろう。

 前提が間違っているし、結論も受け入れ難い。だから、とりあえず前提の部分は──父が僕に対し恐怖に満ちた躾を行っているという点については──ヴォルデモート卿に全ての罪を被ってもらうことにした。

 

 彼から磔の呪いをしこたま食らったのはシリウスも知っているし、この一年間恐ろしさたっぷりに振る舞ってくれたのも事実だ。

 ここまで日常生活の隅々まで影響が出ているのは、ややおかしいと感じられるかもしれないが、それにしたって闇の帝王がいかに脅威なのかを考えれば、突き通せる言い訳だろう。

 幸い、ヴォルデモートは僕が今まで濡れ衣を着せてきた人間の中でも、ダントツで自責の念を感じない人間だった。

 

 しかし、この用意した建前は活躍の機会をなかなか見せなかった。どうやらシリウスは、僕と積極的に顔を合わせ、説得しようとするのを止めたらしいのだ。

 

 あの恐慌状態の後、夕方になってもシリウスが僕の部屋にやってくることはなく、夕食に呼びに来たのはクリーチャーだった。曰く「ご主人様はそちらの方が良いとお考えです」だそうだ。

 全然吐き気は去っていなかったので、夕食はスキップさせてもらいたいとクリーチャーに伝えた後も、彼が僕の部屋に来ることはなかった。その代わり、クリーチャーが消化にいいチキンスープを盆に乗せてやってきただけだ。

 

 その朝、流石に顔を見せたほうがいいだろうと朝食の席に降りても、シリウスは昨日の件について蒸し返しては来なかった。明らかにむっすりとした表情ではあったが、手短に体調について聞き、その後は深く掘り返すこともなかった。

 

 さらに、僕自身もシリウスの前に顔を出せないことが増えた。……不眠の反動なのだろうか? 今度は、睡眠時間が一日の半分以上を占めるようになってしまったのだ。

 

 最初のうちは正常に戻ったかと安堵していたが、すぐにこれが全くいいものではないと気づいた。ぐっすり長時間眠れるのではなく、浅く、悪夢まじりの睡眠を、強烈な眠気に抗えず繰り返すようになってしまったのだ。長時間眠ること自体、かなり後ろめたさを感じるというのに、眠ったからといって調子が回復しないのは最悪だ。

 

 こんな様子を他人に見られたら羞恥のあまりに憤死してしまうとすら思ったが、ここでもシリウスは約束を破らず、僕の割り当てられた部屋に入ってくることはなかった。僕を心配したであろうクリーチャーが様子を見にくることはあったが、シリウスは本当に安全地帯を作る誓いを守ろうとしているらしい。

 

 とはいえ、この怠惰な生活を続けるのは耐え難い。二、三日経ったところでクリーチャーに頼み、朝から自分の部屋の外に出て活動してみることにした。

 なんとか七時には起こしてもらい、水がかからないよう手袋をして顔を洗い、朝食を摂って、本を読んで、負担にならない範囲で杖なし変身術の練習をして──そして、昼食の席で限界を迎えた。クリーチャーが料理を運んでくる数十秒の間に、僕は食卓に突っ伏して寝落ちてしまったのだ。

 

 

 何の夢を見たかは覚えていない。微かな物音に気づきゆっくり目を開けると、食卓には何も並んでいなかった。眠り込んだ僕に気づいて、クリーチャーが料理を下げておいてくれたのだろうか。

 

 目を擦りながら辺りを見渡すと、入り口にはシリウスが立っていた。少し驚いた様子で、その場から動かない。……ひょっとして、またあのときのようなことになるのでは、と思い気遣われているのだろうか。手間のかかるガキを押し付けられて、本当に申し訳ないことだ。

 しかし、僕の中にはあのときのような動揺はない。

 

「ごめんなさい。ちょっと眠たすぎて……」

 そう言ってもぞもぞと席から立とうとする僕を前に、シリウスはやはり苦々しい顔をした。それから少しだけ言い淀んだあと、言葉を選ぶのが手に取るようにわかる口調で話した。

「いや……座りなさい。君がどこで寝ようが、まったく構わない。この夏の間は、ここが君の家だ」

 

 ……本当にこの人、怖くなってくるレベルで穏やかになったなあ。一体、どういう心境の変化なのだろう。それともやっぱり、僕の見たときがたまたま荒ぶっている場面で、もともと世話焼きだったのだろうか。全然そんなイメージはないが。

 失礼なことを寝起きのぼんやりした頭で考えつつ、僕は上げかけていた腰を元に戻した。

 

 僕がシリウスに対して怯えていないことが伝わったのだろうか。シリウスはそのまま、ゆっくりと食堂に入って僕の前に座り、こちらをじっと眺めた。

「まあ、そもそも君が普通に生活できること自体、奇跡みたいなものだ。ヴォルデモートに拷問を受けた後で……ダンブルドアも、分かっていなかった変調が後から出てきているのだろうと言っていた」

「変調?」

 

 首を傾げると、シリウスは少ししまったという顔をして、口を開いた。

「……眠り過ぎてしまうのだろう」

 おや、そこまで把握されていたのか。ほとんど顔を合わせていないから、気づかれていないだろうと思っていたのに。恥ずかしさで、少し自分の顔が赤くなるのを感じる。

 

 そこへ、サンドイッチとスープをお盆にのせたクリーチャーがやってきた。彼は僕の前にお皿を置く際、少しだけ視線をこちらから逸らした。

 なるほど。クリーチャーから様子を聞いていたのか。

 

 僕の表情を見て、情報源を悟られたことを、シリウスは察したらしい。

「……悪かった。君が嫌なら、クリーチャーから話を聞かない」

 その言葉を聞いて、クリーチャーは口をへの字に曲げた。その瞳には後ろめたさと、本意に背く命令に従わされた憤慨が滲み出ていた。

「クリーチャー、僕のことを心配してくれていたんだね。ありがとう……」

 かけられた言葉を聞いて、クリーチャーは目を丸くした。しかし、何か不穏な台詞を口に出すこともなく、シリウスの前にも昼食を置いて、厨房の方に戻って行った。

 

 シリウスは、一連のやり取りがまるで存在しなかったかのように僕を見ていた。そういう態度が……いや、まあ、今はそういう感情を表に出すべき時ではないだろう。

「いいえ。あなたはこの夏の保護監督責任者だから、僕の様子を確認するのは当然です」

 合理的なことを言ったつもりだったが、シリウスはまったく納得した様子ではなかった。

 

「理屈の話ではなく。君自身がどうしたいのかを聞いている」

 こちらの自由意志を尊重しようとする、とても誠実な意図が見える。ここまで配慮してくれる人間に対し、恥ずべき状態であろうと自分の調子を隠し立てようというつもりにはなれなかった。

 

「別に、嫌ではないです。……体調のことは自分で報告しましょうか?」

 シリウスは少し眉を寄せた。

「まあ、それでもいいかもしれないが……しかし、はっきり言わせてもらうが、君は自分の痛みや苦しみに無自覚すぎる」

 じゃあ、どうするのがいいのかな。やっぱり寝起きのせいか、ぼやけた思考ではあまり冴えたアイデアが思い浮かばなかった。

 

「やっぱりクリーチャーに聞いていただいて、大丈夫です。でも、彼に乱暴なことはしないで……」

 後半を口にしてからしまったと思ったが、身構えたような反発は返ってこなかった。

「君は私をなんだと……ああ、くそ、わかった」

 シリウスはこの数日で何度か見た葛藤を見せた後、しぶしぶといった様子で頷いた。

 

 そこで、僕はふと気になっていたことを思い出した。

「そういえば、お願いしている身で催促するのは恐縮なのですが……ハナハッカのエキスはまだ届かないのですか?」

 その言葉に、シリウスはさっとこちらから目を背けた。……何なんだ、その反応は?

 

 黙って続きを促すと、彼は非常に言いにくそうに言葉を捻り出していた。

「実は……君が火傷を負った翌日、ダンブルドアに相談したときに……君の手の傷をすぐ癒してしまうことは、君のためにならないかもしれないと、あの人が……君は手が使えれば、いくらでも働いてしまうだろうから、休ませたいのならそうすべきではないと……」

 あの狸じじい。

 

「ダンブルドアって、僕相手だったら何をしてもいいと思っていませんか?」

 シリウスはまったく否めない、という顔をしたあと、少し沈黙してから口を開いた。

「明日、届くように手配しよう」

 

 翌朝、早速シリウスは小さな茶色の小瓶と、『日刊予言者新聞』を僕に手渡してくれた。

「新聞も、ダンブルドアは渡さないほうがいいだろうと言っていたが……しかし、手元に情報がない状況ほど、無闇に不安を煽るものはない」

 僕は自覚できるほどにっこりと笑い、シリウスからその二つを受け取った。

 

 

 部屋に戻り、新聞を広げる。

 一日分だけではわからないことも多いが、予想していたよりも公になっている惨事は多くないようだった。吸魂鬼の襲撃も、亡者の目撃情報もない。もっとも、吸魂鬼に関しては、去年監視体制が強まって離反個体がかなり削減されたのだから、頷けることではあるが……

 

 しかし、ページを捲るとたちまち、胃に煉瓦を詰められるような思いをすることになった。

 

 ──ロンドンで、エメリーン・バンスという女性が殺された。マグルの首相官邸のすぐ近くで──

 

 この人のことは、死喰い人たちの話で知っている。前の戦争で『不死鳥の騎士団』に所属していたはずだ。

 

 なるほど。確かに精神的には良くない。だからと言って、この状況に目を瞑ることのほうが、結果としてははるかに深い後悔を生むだろう。

 現状を正確に把握し、九月に備え、今後の動きを考えなければならない。

 

 神秘部の戦いで、父やベラトリックスを含め、多くの忠実な臣下をヴォルデモート卿は失った。まあ、数ヶ月もすれば脱獄されてしまうのは目に見えているが……しばらくはそちらの計画と並行して、仲間集めを行なっていくだろう。

 その中には、どうしても「質の悪い奴ら」が混ざってくる。去年のように隠蔽こそが闇の帝王の益となるという説得だけで、彼らのマグルやマグル生まれへと向ける残忍さを全て抑え込めるかは疑わしい。

 

 だから、求められるのは死喰い人たちからすれば迫害を進め、その鬱憤の吐口となるような政策だ。

 かつ、アメリア・ボーンズが死喰い人たちの動きを規制できるようなものになればいいが……どの程度まで、リスクを冒していいものなのだろうか。

 

 物語の終わりが──即ち、ヴォルデモート卿の破滅がいつ訪れるのか判れば、そのときまでの時間稼ぎさえできればいい。そういう観点からであれば、かなり精巧な、そして死喰い人に与えられることはないニンジンを吊り下げられる自信はある。

 ただ、現状においてはヴォルデモート卿の「魂の断片」がどのように破壊されていくのかまったく読めないため、どうも踏ん切りに欠けた。

 

 色々と考えた案については、綺麗に治った手でノートにまとめていっていた。ここでもシリウスが僕の部屋に来ないことが幸いした。彼は100%こんなやり方を理解しないだろう。というか、ダンブルドア以外、理解してくれる人はいないだろう。

 クリーチャーも僕の書き物を覗くようなことはしなかったので、悪巧みを盗み見られる心配はなかった。

 

 

 新聞を与えられてから、僕はかなり自制心を取り戻していくのを実感したが、眠気はなかなか消えてくれないし、悪夢による精神耗弱もしばしば起こっていた。

 しかし、そこで完全に解決とまではいかないが、一つの緩和策を見つけることができた。動物もどきの姿になっているときは、かなり悪夢を見づらかったのだ。

 もとより動物もどきになっているときの感情は、人間的ではないというか、単純だ。かなり身体感覚に支配され、心地いい場所であれば心地いい気分になれる。

 

 だから、僕はどうしても眠気に耐えられないときや、不安によって動悸がひどくなってしまったときには白い犬の姿になるようになった。

 初めは自分の部屋の中だけだったが、徐々にシリウスのいないときには食堂や、居間でも犬の姿で丸まって眠るようになった。最初はクリーチャーも少しどうしたらいいかわからないようだったが、そのうち、僕が変身すると、大きなクッションとブランケットを持ってきてくれるようになった。

 

 そして、ついにそれがシリウスにも見つかったのは、まっ昼間の庭だった。

 幽閉されているからといって運動をしないのは体に悪いと、散歩をしている途中、またもや耐え難い眠気が襲ってきた。僕は変身し、できるだけ寝心地の良さそうな芝生の上に横になり、そのまま目を閉じた。

 

 目の周りに眼鏡のような模様がある、トラ猫と遊ぶ夢を見た気がする。人の気配を感じて目を開けると、そこにはなんとも言い難い表情をしたシリウスが立っていた。

 

「……あまり変なところで寝るな。風邪を引くぞ」

 そう言うとシリウスは僕の体にくっついている草を払おうとしたのか手を伸ばし、そして、残り数センチのところでぴたりと止まった。その顔には「やってしまった」という感情がありありと表れていた。

 僕が触られることに怯えていたことを、思い出したのだろう。こんなにも気を遣わせてしまって、本当に申し訳ない限りだ。

 僕は宙で止まったシリウスの手に自分の頭を擦り付け、そのまま撫でさせた。収監されていた月日を思わせる、ごわごわとした手だった。

 

 シリウスは目を丸くして固まっていたが、少しすると大きくため息をついた。そのままかなり荒っぽく、草地についていた側の毛をはたく。身を捻って、あらかた綺麗になった毛並みを見ていると、最後にもう一度だけ頭を一撫でして、シリウスの手が離れた。

「さあ、中に入ろう」

 シリウスはそう言うと、僕の歩調に合わせて屋敷へと歩き出した。

 

 

 翌朝、朝食の席に降りると、シリウスが新聞を差し出してきた。いつもなら無造作に手渡されるそれが、今日は一拍遅れて僕の手に渡る。顔を上げると、シリウスはひどく厳しい顔をしていた。

 その理由は、紙面の大見出しを見ればすぐに分かった。

 

 ──神秘部事件の死喰い人ら、公判始まる ルシウス・マルフォイ氏ら

 

 その下には、魔法省が被告たちへの尋問を通じて、さらなる協力者の捜査を進める予定だと書かれていた。

 

 息が詰まった。

 ……正直に言えば、予想していなかったわけではない。現行犯で捕らえられた死喰い人たちが、いつまでも裁かれずに放っておかれるはずがないのだから。父の名前がいちばん目立つところに載るのも、当然といえば当然だ。それでも、活字になった父の名前を目にすると、胸の奥が縮むのを止められなかった。

 

 向かいで、椅子の軋む小さな音がした。シリウスが、わずかに身を引いたのだ。

 その顔を見て、ようやく気づいた。この人は、僕がこれを見ればこうなると分かった上で、それでも新聞を渡してくれたのだ。そして今、言いたいことを全部飲み込もうとしている。ルシウス・マルフォイについてなら、口にしたい罵詈雑言など山ほどあるだろうに。

 申し訳なさが、身のうちからじわじわと湧いてきた。

 

 ……こんなに迷惑をかけているのだ。少しは誠実に話をした方が、シリウスの思いに報いることになるのかもしれない。たとえ、それが平行線に終わるとしても。

 

 

 その日の夕食、僕は食堂でシリウスを待った。

 食卓に座る僕を見て、シリウスは少しだけ訝しげな顔をした。最近は本当に変則的な時間に眠ってしまうので、一緒に食事を摂ることは少ないのだ。

 クリーチャーが料理を運んできてくれるのを待つ間、僕は切り出し方を大いに迷った。父を庇いたがっている子供と見られるのは、あまり得策ではないだろう。

 しばし逡巡してから、ようやく口を開く。

 

「あの……新聞をありがとうございます。様子を知ることができて、本当に助かりました」

 シリウスはたちまち顔をしかめた。

「……父親の様子を知ることができて、か?」

 ためらいながらも、シリウスはそう言った。やっぱり、この人は本当に優しい。

「はい」

 素直に頷くと、シリウスは眉をひそめた。

「……理解できないな。あんな目に遭ってもなお、変わらずルシウスを慕うのか」

「誤解があると思うのですが、僕は父から暴力を受けたことも、折檻されたことも一度もないですよ」

 そのままヴォルデモートに全ての責任をなすりつけようと口を開きかけたが、シリウスの細められた目がそれを止めた。

 

「それじゃあ、ルシウス・マルフォイはどんなときでも君を愛していると示し続けたのか? 決して罰することはなかったのか? たとえ、君の振る舞いが奴の意にそぐわないときでも?」

 

 矢継ぎ早の質問に少し気圧されつつも、僕は頷く。

「……そうですよ。まあ、僕は父に叱られるようなことを、ほとんどしたことがないですが」

 出来の良い子なので、と冗談めかして浮かべた微笑みは、シリウスの返事でかき消えた。

「できなかった、の間違いじゃないのか」

 

 ……嫌なところを突かれてしまった。

 ああ、そうだ。僕は父に嫌われそうなことを、生まれてこの方、一度も口に出せたことがない。僕へ向けられる彼の愛が決して損なわれないよう、遠回しに、彼の望む形でしか、自分の意見を伝えたことがない。

 

 僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、シリウスはそのまま静かに話し続けた。

「……私の知っているルシウス・マルフォイという人間は、人に値段をつけるのが大好きな奴だった。純血主義と闇の魔術にどっぷり浸かった醜悪な価値観を持っていて、それに照らしてどこかしら優秀さを認めた人間を拾っては、蒐集品のように愛玩する。……セブルス・スネイプもそのうちの一人だった」

 シリウスの観察眼には、感服するしかなかった。確かに父は、そういうところのある人だ。

 

 しかし、それは父の弁護をやめる理由にはならなかった。

「……そうだったとしても、僕は父の宝物の中で、いちばん高い値がつけられていると思いますよ。……『あの人』の人質になるときに、父は僕を庇おうとしていた。『あの人』に歯向かってでも」

 

 僕の言葉にシリウスは眉間の皺をさらに深くしたが、大きく表情を崩しはしなかった。

「けれど君は……人間に優劣のレッテルを貼ることが、ナンセンスな行為だとわかっているはずだ。君の父親のお粗末な価値観の中で、生きる必要はない」

 

 至極真っ当な指摘だ。理屈としては、僕自身これまで幾度となく考えてきたことでもある。そして、その理屈は僕の感情を一ミリたりとも屈服させなかった。

「そうですね。……でも……それでも、僕はその価値を手放したくないんです。絶対に……」

 

 シリウスの顔が歪んだ。これが到底、他人に理解されない考えだということは、僕自身がいちばんよく分かっている。

「弱い、愚かな人間だと、蔑んでいただいて構いません」

 シリウスは僕のことをじっと見つめた。しばらく、食堂に沈黙が落ちる。

 

 少しして、シリウスは大きくため息をつくと、頭を振った。

「……しかし……これだけはわかって欲しいのだが……君のことを価値などで測れないくらい大事に思っている人間は、たくさんいる」

 そこでクリーチャーが食事を運んできてくれたおかげで、僕はその言葉に返事をせずに済んだ。

 

 この一ヶ月ほどで、その事実は嫌というほど思い知らされていた。しかし肝心なのは、僕にはその気持ちの受け取り方が、まったくわからないということなのだった。




※本話で描いている主人公の過眠や倦怠感、悪夢、自責的な思考は、うつ病の症状をモチーフにしています。
作中で主人公は、自分の状態を「怠け」だと捉え続けていますが、これは主人公の認識であって、事実ではありません。いくら眠っても眠気が晴れない、疲れが取れない、以前できていたことができなくなるといった状態は、本人の意志の弱さや怠惰によるものではなく、病気によって起こるものです。
こうした症状は、休息や気の持ちようだけで解決できるとは限らず、医療による治療が必要な場合があります。
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