音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
ハリーがユーハースト・バーンに来てから、数日が経った。シリウスが屋敷にいるときには二人で話していることも多いが、彼は相変わらず日中に外出することがあり、そうなるとハリーは僕のところへやってきた。
僕らはもっぱら宿題をしたり、魔法薬学の予習をしたり、庭でクィディッチの練習をしたりして過ごした。僕の箒も、検知不可能拡大呪文をかけたトランクの中に入っていたので、久々に引っ張り出すことになった。去年はあまり練習ができていなかったので、腕は大いに鈍っていたけれど、それでもニンバス2001は優秀だ。
限られた範囲に幽閉されているからだろうか? ホグワーツに入学した頃には考えもしなかったことだが、僕はクィディッチ……というより、箒で空を飛ぶことが好きになり始めていた。
ハリーはダーズリーとかいう伯父伯母のもとから離れられた開放感のせいか、見るもの全てに嬉しそうだった。さらに、その瞳にヴォルデモート卿の気配を感じることもない。去年はただ目が合うだけでも気が抜けない気分になっていたので、これは大いにありがたい。
こうして過ごす日々は、びっくりするほど穏やかなものだった。
……まあ、ハリーがそばにいる間は、ヴォルデモート関連の準備がまったく捗らないという問題はあったが。僕が何か書いていると横から覗き込んでくるし、自分の部屋に戻れば、少しもしないうちに扉が叩かれる。隠し事をするには、あまり向かない生活だ。
そうして一緒にいたものだから、ハリーが僕の行動範囲に違和感を持つのにも、時間はかからなかった。
「ねえ、この屋敷の外には出られないの?」
ある日の午後、箒から降りて庭を歩いていると、ハリーがそう尋ねた。僕が上空を飛んでいるときも、神経質に境界を確認していたのに気付いたのだろう。
「ひょっとしたら、君は出られるかもしれないけど……」
そこまで答えて、話していいものか少し迷った。客観的に見れば、あれは立派な人権侵害だし、これからもダンブルドアに導いてもらわなければならないハリーに、あまり悪感情を抱かせるのはよくないかもしれない。
……しかし、この一ヶ月ほどでのあの老人の所業を思い返すと、積極的に庇う気にもなれなかった。
まあいいか。知られて困るようなことをしている方が悪い。
「ちょっと、そこで見ていてくれ」
ハリーをその場に残し、庭の端へ向かう。右足を持ち上げ、つま先が境界を越えようとした途端、何もなかった空間から鎖が現れた。
足首に巻きついたそれに脚を引き戻され、慌てて倒れないように踏ん張ろうとしたが、すでに左脚も絡め取られていた。あえなく尻餅をついたときには、右手首にも冷たい金属の感触があった。
「ドラコ!」
ハリーの声に、安心させるように左手を上げる。
「大丈夫だよ。こっちに来て見てごらん」
駆け寄ってきたハリーに、右手を差し出す。鎖の繋がった幅の広い黒い腕輪を見たハリーは、目を丸くしたまま、僕の顔と足元の鎖を見比べた。
「何これ? いつから囚人になったの?」
その言葉に、苦笑いを浮かべながら首を振る。
「ダンブルドアが素敵なプレゼントをしてくれてね。安全な場所から出ようとすると、こうなるらしい」
そう説明しつつ、両手を後ろについて身体をずらす。ずりずりと這うように境界線から離れると、ようやく鎖が緩み、そのまま消えていった。
ハリーが伸ばしてくれた手を借りて立ち上がり、服についた草を払う。
結構な勢いで鎖が出現するんだよなあ。うっかり「安全な場所」から出そうになっても、バランスを崩さないように訓練すべきなのかもしれない。箒に乗っているときにこれが出てどうなるかは未知数だし。最悪の場合、そのまま落ちて死にそうだ。
ぼけっとそう考えていた僕は、ハリーの様子をちゃんと確認していなかった。
「……君はこれを黙って受け入れたの?」
思ったよりも低い声に顔を上げると、ハリーは眉をきつく寄せていた。
母に余計なことを吹き込まれるよりはましだったから、というのが本当のところだったが、そんなことを言えば、何を吹き込まれるのが困るのかという話になるだろう。……鎖を見せたのは、少し軽率だったかもしれない。
「……まあ、『あの人』に目をつけられた生徒が心配な気持ちは、わからないでもないし?」
できるだけ軽く言ったつもりだが、ハリーの顔はさらに険しくなった。
ヴォルデモートのことを匂わせるのは失敗だったか。こういう言い方は、さらに彼に罪悪感を抱かせてしまったかもしれない。
「だからって……」
しかし、ハリーはそれ以上何も言わず、まだ掴んでいた僕の手をそっと離した。
屋敷へ戻る間にこちらから何度か話しかけてみたが返事は短く、夕食の時間になってもさっきまでの調子には戻ってくれなかった。
夕方になって帰ってきたシリウスと三人で食堂に集まり、クリーチャーがスープを運んできてくれたところで、ハリーが口を開いた。
「シリウス……ドラコの趣味の悪い鎖のことは知っていたの?」
シリウスは唐突な言葉に目を少し見開いたあと、眉を寄せた。
「……ああ。見たのか?」
「今日、庭で……飛ぶ時の様子がちょっとおかしかったから。ダンブルドアは……何でそんな強引なことをするんだろう? 人を家に縛りつけるなんて……」
そうだそうだ。僕もまったく同じ意見である。
僕とダーズリー家に幽閉された自分を結びつけて考えているらしいハリーに心の中で同意しながら、スープを口に運んでいると、シリウスと目が合った。
彼は少しの間こちらを見ていたが、やがてハリーへ顔を戻した。
「ハリー、君の気持ちは分かる。私だって、両手をあげて賛成したわけではない。しかし……こういう手段でもないと、ドラコはヴォルデモートのところに行く可能性があると、ダンブルドアは考えたのだろう」
瞬時にハリーは顔をしかめてこちらを振り返った。
僕はスプーンを口元に近づけたまま、余計なことを言わないでくれとシリウスへ目で訴えたが、彼は完璧に僕を無視して話し続けた。
「神秘部から学校に戻った直後にも、親のために医務室を抜け出して、ヴォルデモートのところへ嘆願に行こうとしていたとマクゴナガルが話していた」
「……そんなことしてたの? 僕はあの日、もう危ないことはやめてよって何度も言ったのに?」
ハリーの顔がさらに険しくなる。もう十分だろう。頼むからこれ以上暴露しないでくれ。
答えを待つハリーの目から逃れようと、僕はスープへ視線を落とした。しかし、それで話が終わるはずもなかった。
「この屋敷に来てからも、境界にかけられた魔法を弄って自分の手を焼いたうえに、それをスネイプからヴォルデモートへ伝えさせて、忠誠を示そうとしていた。……ダンブルドアからしたら、これくらいの拘束でなければ安心できないのだろう」
くそ、僕の所業を全部言われてしまった。ハリーがどんな顔をしているのか、横を向かなくても分かる気がする。
だってさあ! あのときは僕だって拷問されたてほやほやで、正気じゃなかったんだよ! 色々ありすぎて、少しばかり判断力を欠いていたというか……まあ、今同じ状況に置かれたとしても、似たようなことをもっと巧妙にやっただろうとは思うが……
「……手を焼いたって何? 大丈夫なの?」
ハリーに低い声で尋ねられ、僕は慌ててスプーンを置き、両手を上げて見せた。
「もう跡形もないよ。ハナハッカのエキスがあればすぐに治る程度だったし。……それもダンブルドアは、入手させないようにしたんだよ? 手が使えれば、仕事をしすぎるかもしれないからって」
なんとかお情けをいただこうとしたセリフだったが、返ってきたのは随分と冷たい返事だった。
「……ひどいかもしれないけど、自業自得じゃない?」
ハリーは僕の手を確かめるように見ていたが、それから顔へと視線を戻した。
「それに、この屋敷に来てから君、なんだかずっと疲れているように見える」
「別に疲れてなんか……ただ眠いだけだよ」
寝ている割に疲れが取れていないのだから、ハリーの指摘はあながち間違ってもいない。しかし、このまま拷問の後遺症だという話に流れるのはまずい。そんなことを聞いて、ハリーが気に病まないはずもない。
返答に困っていると、シリウスが口を挟んだ。
「去年、過労死寸前まで働いていたとも聞いている。その反動じゃないか? それに、休み中の学生がよく寝るのは普通だろう」
シリウス……ありがとう。先ほどは余計なことを言ってくれるなと思ったが、ハリーの心の負担を軽くしたいという点では、僕たちも共同戦線を張れるのかもしれない。
僕はその言葉に頷いたが、ハリーの表情は晴れなかった。何か言いたそうに僕らの顔を見比べたあと、小さくため息をつき、手元のスプーンを取り上げただけだった。
夕食のあと、ハリーは当たり前のような顔で僕の部屋までついてきた。扉を開けると、もう断りもなく一緒に入ってくる。
「何、暇なの? 勉強したら?」
それなりにすげない言葉をかけたつもりだったが、ハリーはまったく聞く様子がない。
「今日は昼に頑張ったし。それに、夏休みに夜まで勉強するなんて、君かハーマイオニーくらいのものだよ」
そう言って、ハリーはベッドに腰を下ろした。それでいいのか、魔法薬学Eめ。
追い返すつもりもなかったが、こちらの都合を聞こうという気は、いよいよなくなってきたらしい。
……弟とかがいたら、こんな感じだったのかもしれないな。
仕方がないので、僕は文机に向かった。ハリーがいる前で、昼間考えていた政策案の続きを書くわけにもいかない。まだ残っていた魔法史の宿題を取り出し、書きかけのレポートを広げる。
しばらくは何も話しかけられず、僕もそのまま羽根ペンを走らせていた。しかし、ようやく一段落を書き終えたところで、背後から声がした。
「君の調子が悪いのって……磔の呪いのせい?」
ペン先を紙から離し、振り返る。ハリーはベッドの端に座ったまま、こちらを見ていた。
……ああ、やっぱり、その話をしに来たのか。
「いや……本当に、単に疲れてるだけだよ。体感として、あの呪文は痛みを与えるだけの魔法だと思うけど、そんな後遺症があるものかな?」
「分からないけど、でも後遺症がないわけじゃないだろう? 去年聖マンゴに行ったときに会った人は、磔の呪文をかけられ続けて、正気を失ったって……」
思ってもみなかった話を引っ張り出され、返答に窮してしまった。ハリーは実例を見たことがあったのか……ひょっとしてネビルのご両親だろうか? 誰にせよ、それは十分に心配の種になって然るべきだろう。
「まあ確かに本調子ではないかもしれないけれど、本当に……大したことはないんだよ。それに、君が来てから騒がしくて、結構頭が冴えてきている感じもするし」
冗談めかして言ってみたが、ハリーは少しも笑わなかった。緑の瞳からは不安と、それ以上に強い自責の念が伝わってくる。
まさか、僕がヴォルデモートに捕まったのは、自分のせいだと思っているのだろうか。全て分かった上で僕が選択したことなので、百パーセント因果応報なのだが……それを説明しておいた方がいいのかもしれない。
そう考えて羽根ペンを置き、椅子ごとハリーの方へ向き直った。
「……ハリー、神秘部での件だけど……実は僕の父は、『あの人』に対して結構なやらかしをしていてね。彼は一番効く罰を父に与えたがるだろうから、家に戻れば息子の僕もそれなりに酷いことに……まあ、磔の呪い込みで、なるだろうとは事前にわかっていたんだよ」
ハリーの眉が寄ったが、ひとまず最後まで聞いてもらいたかった。
「ホグワーツに残ることもできたかもしれないが、そしたら父がさらに罰を受けることになるだろう。だから、自分で選んで行ったんだ。
僕にとっては、単なる取捨選択に基づいた取引で、それ以上でもそれ以下でもなかった。むしろ、君が来てしまったことの方が想定外だったというか……
だから、君が気にすることは少しもない」
しかし、ハリーは頷かなかった。ベッドの上についていた手が固く握られ、その目はこちらを見据えた。
「僕が君を助けに来ないと思っていたの?」
低く押し殺したような声だ。言質を取るような問い方に、僕は慌てて首を振った。
「そういう意味じゃなくて……ビンクが先にダンブルドアに伝えるはずだったから……」
言いかけたところで、これは墓穴を掘っているかもしれないことに気がついた。しかし、一度口から出た言葉は取り消せない。
ハリーは瞬きもせず、すぐさま言葉を重ねてきた。
「ダンブルドアが来たら、君は死ぬはずだったのに?」
息を継ぐ間もない問いかけに、僕は思わず視線を泳がせた。
「いや、その条件がついたのは、ビンクに命令した後の話で……」
「そうなるだろうって、君は予想してなかったの? そもそも、あそこで死ぬ予定だったって自分で言ってたよね?」
かつての自分の迂闊な発言が、今になって恨めしくなってきた。
さらに続く質問攻めに、なんとか言い訳を絞り出す。
「いや、まあ、最悪の場合、そうなるだろうと考えていたってだけで……実際、リーダー格の死喰い人の息子を殺すのはまずいって、『あの人』も考えていたと思うよ? 磔の呪い以外で再起不能になりそうなこともされなかったし……」
できるだけ軽く答えたが、ハリーの表情を見て、もう少し真面目に言うべきだったと後悔した。彼は明らかに怒っている上に、その目は水気を帯び始めていた。
「いいや。僕は君が拷問されるところを見た。君は、自分が生き残れるって……思ってなかったよ……」
声がかすれ、ハリーは唇を噛んだ。それでも、目から僅かに溢れた涙が頬を伝って落ちるのを、止めることはできなかった。
僕の身体は弾かれたように椅子から立ち上がったが、何をすればいいのか、頭の方ではまったく思いつかなかった。ハリーは片手で顔を拭い、こちらから目を逸らしている。気に病むことはないと伝えたかっただけなのに、なんでこんなことになってしまったんだろう?
とりあえずそばへ行き、ハリーの隣に腰を下ろして、その背に手を添えた。何か言わなければと口を開いたが、結局出てきたのは、ありきたりな謝罪の言葉だけだった。
「ごめん。悪かったよ、本当に……考えなしだった……」
いや、本当に生き残れるだろうという、楽観的な予想がなかったわけではない。ヴォルデモートが僕を殺すことの不利益も、いくつか考えてはいたのだ。
しかし、それをまた説明したところで、ハリーが納得してくれる気はしなかった。
背中に添えた手を少し動かすと、ハリーは目を乱暴に擦りながら顔を上げた。
「じゃあ、約束して」
「何を?」
「もう危ないことしないって、約束してよ!」
返事をためらったのはほんの僅かな間だったが、それでも、ハリーに疑いの念を抱かせるには十分だったらしい。
「……分かった。約束する」
なんの意味もない誓いをしてしまったことは、自覚していた。
「口先ではそう言えるんだね。守れるとも思っていないくせに……」
そんなことはないとは、さすがに言えない。これ以上嘘を重ねてどうするというのだろう。
ハリーはまだじっと僕を見ていた。その目には僅かな安心もなく、涙も溜まったままだ。僕は背中に触れていた手を動かしながら、これ以上何を言えばいいのか、途方に暮れていた。
少し迷ったあと、僕は手を離し、その場で白い犬の姿に変わった。
ハリーが驚いてこちらを向いたところへ近づき、濡れた頬に首元の毛を擦り付ける。人間のまま涙を拭いてやろうとするよりは、まだ受け入れてもらいやすいだろうと思ったのだが、幸い、押しのけられることはなかった。
しばらく、ハリーは黙ってされるがままになっていた。そのうち、頭に置かれた手が思いっきり毛を掻き回し始めた。
随分と乱暴な撫で方だなあ、と思っていると、今度は胴に腕を回された。そのままぐいっと抱え込まれ、一緒にベッドへ横倒しになる。腕にはかなりの力が込められていて、僕がもう少し華奢な犬だったら、背骨がへし折られていたことだろう。
もぞもぞと脚の位置を探っていると、後ろからくぐもった声がした。
「……君が僕の言うことを聞いてくれないなら、僕も君の考えなんて気にしないから」
それだけ言って、ハリーはさらにしっかりと毛皮に顔を埋める。拗ねた子どもの捨て台詞みたいだなと思いながらも、茶化すことではないとは、さすがにわかっていた。そもそも犬の姿では、返事のしようもないのだけれど。
どうやら、彼は僕を離すつもりがないらしかった。ロックされたような形のまま大人しくしていると、背に感じていた不規則な呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
しばらくして、それが寝息に変わったのを確かめ、僕は頭を持ち上げた。
明かりを消しておきたいのだが、ハリーの腕ががっちりと胴に回っていて、抜け出せない。身体を捻ってみると、かえって腕に力がこもった。……このまま無理に動いていたら、締め落とされてしまいそうだ。
仕方がないので諦めて、どうにか寝やすい位置に収まった。やっぱり、突然大きな弟ができたような気分だ。
あーあ、十五歳の少年を泣かせてしまった。君が悪いことなんて何もないのに。
どうにかしてあげたいと感じないわけではない。しかし、僕にできることは、あまり残っていないように思えた。
……やっぱり、君と仲良くなるべきじゃなかったのかもしれないなあ。一年生のとき、ホグワーツ特急で頭をよぎった考えが思い出された。
でも、そばで助けてあげたくなってしまったんだ。君はあまりにも、いつも一生懸命だったから……
背後のハリーを起こさないように少しだけ身じろぎしてから、目を閉じる。
珍しく、その日は睡魔がなかなか訪れなかった。