音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
ホグワーツに並ぶうち一つの塔の天辺にある校長室では、早朝の眩しい朝日に似つかわしくない雰囲気が漂っていた。部屋の中には、厳しい顔つきをした魔法使いが二人立っている。一晩中働き、疲れた顔をしたマクゴナガルは、いつになく神経質そうな様子で微動だにせず、暖炉の近くに構えていた。部屋の主人であるダンブルドアは、つい先ほどまでハグリッドとマダム・マクシームが座っていた巨大な椅子を杖を一振りして消した。ダンブルドアはしばらくドアの方を眺めたあと、少しため息をついて、傍に立つマクゴナガルに語りかけた。
「──魔法省との折衝が必要になるやも知れぬが、巨人への偵察自体はすぐにでも叶うじゃろう。しかし、それがいつまでかかるか……夏の後、しばらくはハグリッドが不在になるだろう。魔法生物飼育学については、グラブリー-プランク先生にお頼みするしかあるまい──」
マクゴナガルは返事をしなかった。彼女はただ、唇をきつく結び、ダンブルドアをじっと見つめていた。静まり返った部屋に、緊張感が満ちる。振り返って、そのもの言いたげな表情を見たダンブルドアは、またしばらく思案するように目を伏せた。彼は少しかぶりを振ると、居住まいを正してマクゴナガルに向かい合った。
「待たせてすまなかった。ミネルバ、わしはあなたに問い質されなければならないことがあるようじゃ」
マクゴナガルは心の底から何かを願うかのように、ゆっくりと口を開いた。
「……ええ。ありますとも。アルバス……今回の件についてあなたは本当に、あの子に……ドラコ・マルフォイになんの指示もされていなかったのですか?」
その言葉に、ダンブルドアは全く驚くことはなかった。それでも、どこか痛みを感じるかのように瞼を閉じた。ダンブルドアは深く息を吐き、まだ終わらない長い一日の中で、一際疲れをあらわにして言った。
「……そうだ、と胸を張って言うことはできない」
マクゴナガルは目を見開き、さらに追及を続けようとした。しかし、言葉は出てこなかった。ダンブルドアの顔にありありと浮かぶ憔悴に、続けるべき話は一瞬見失われてしまった。
ダンブルドアはゆっくりと歩き、書斎の椅子にもたれかかるように腰を下ろすと、額を手に当てた。
「確かに今年、わしはあの子に何一つ指図はしなかった。いや、実のところ彼が入学してから、わしが行ってもらった命令とは片手で数えられるほどしかない。それも二年生のものが最後だった。
ハグリッドの所業を公にせぬこと。ロックハートを追い出さぬこと。そして……『秘密の部屋』の件について、深入りしすぎぬようにすること」
語り口から言い訳の気配を嗅ぎとったマクゴナガルは、ぎゅっと眉を顰めて、ダンブルドアを見つめた。
「そもそも、なぜ、あの子に何かしろと言わなければならなくなるのですか。彼は、確かにあの歳にしては優れた魔法使いです。でも、それは、同じ歳の子どもと比べたらに過ぎない。あの子は──あの子はまだ子どもです。あの子自身が望んでいようがいまいが、戦争の中で、自分の命に責任を持たせてよいほどに成熟しているわけではない!」
マクゴナガルの悲痛な非難に対しても、ダンブルドアは顔を伏せ、反論しようとはしなかった。しかし、彼のその弱りきった態度は、長い付き合いであるマクゴナガルにとっても、普通のことではなかった。ダンブルドアが答えに窮している。それが、彼が事態に何か深刻なことを見出している事実を、雄弁に語っている。マクゴナガルは心に何か冷たい塊が滑り込むのを感じた。
「……なぜです? なぜあの子は知らぬ間に、わたしたちが気づかなかった、茨の道に進んでしまうのです。私は……見落としてしまった。今年、あの子は大人しくしているように見えた……いえ、あの子はいつだって分かりやすくはない子ですから、そもそも、何が兆候になるかも理解していなかった、という方が正しいのでしょう。しかし、アルバス……あなたは、本当に気づいていなかったのですか? こうなることを」
ダンブルドアは僅かに手から顔を上げた。しかし、マクゴナガルの方を見ることはなく、視線はどこか遠くに投げ出されたままだった。
「ミネルバ……わしもまた、軽率だったことを認めなければならない。一年生のとき、初めて彼にハグリッドのことを
マクゴナガルは訝しげに眉を顰めた。
「……何がおっしゃりたいのです? 私も……良し悪しはともかく、あの子のそのような振る舞いは、勇敢さによるものだと思いますが」
ダンブルドアはふと、ガラスケースに入っていたグリフィンドールの剣を眺めた。ハリーがこの剣を携え、ドラコを連れて戻ってきたとき、ダンブルドアはこんな葛藤が生まれることを予想していなかった。あの頃、ドラコ・マルフォイという名前は後悔とは結びついていなかった。
「いいや、そうではなかった……彼に勇敢さがないとは言わぬ。だが……勇敢さとは、恐怖に打ち勝ち、一歩踏み出す力を生み出す意志だ。彼は──おそらく、命をかけて他者を救う行為を、勇気があったからできたわけではない。そこに感情の有無は関係ない。そうしなければならない。だから、そうしただけ。つまり……彼は、自身がすべきだと判断したことは、必ず行ってしまうのだ。たとえ、それが自らの死を招くことになったとしても」
マクゴナガルは、ダンブルドアが強く目を瞑っていることに気づいた。それは、まるで何かを記憶から掘り返しているような表情だった。ダンブルドアは、何かを誦じるように、僅かに弱さが混ざる声で話を続ける。
「行動指針に反して、彼の感性は至って平凡だ。二度ヴォルデモートと対峙したときはそうだった……きっと、ルーピン先生と、そしてクラウチと相対したときも同じだろう。ごく普通に痛みを感じ、死の香りに怯える……それなのに、簡単に命を差し出せてしまう。そうすべきだと、その意志が命じるだけで。そこに勇気を発揮すべき場である葛藤など、わずかも存在しない。
ダンブルドアは瞼を開け、どこか遠くを見た。その顔には悔悟だけが残っていた。
「もし、それに気づいていたら、わしは遥かに少ない知識だけを彼に与えていたじゃろう。彼が先の見えぬ中、自身の方針を早々に決めてしまわないように。わしには恐らくそれができた。だが──言い訳に過ぎぬかもしれぬが、彼と初めて話したとき、わしは命令以上のことを求めているつもりはなかった。しかし──彼はそこから私の意図を汲み、その線上で自分の判断で動くようになってしまった。驚くほど有益に、有効に、そして、ミネルバ、あなたが知るように、驚くほど自身の身を顧みることなく」
ダンブルドアの言葉はもはや懺悔に近かった。言葉を失うマクゴナガルに目を向けることなく、ダンブルドアは窓の外を見やっていた。
「わしは……彼が何か問題を知るだけで、それを解決しようとしてくれる状況に甘えた。昨年の七月から、彼とわしはほとんど言葉を交わすこともなかった。しかし、ときたま、彼から伺いが飛んで来ていた。今の状況は、こちらの思い通りのものなのかと。もはや、彼が我々のための行動を決めるのに、必要な情報はそれだけだった……そして、わしは彼がどのように動くだろうか、はっきりと分かった上で答えた。否と。分かっていたとも。わしが止めなくては、彼があらゆる手を使って、三大魔法学校対抗試合の影で動いているものの正体を突き止めようとすることを。申し開きはできぬ。わしは、去年と同様、わしが見落としていたものを、彼が見つけることを期待していた。そして、彼はその期待には沿わずとも、その後については申し分ない働きをした。──彼は、ヴォルデモートの復活に関する貴重な一人の証人を救った……」
そこで、ようやくダンブルドアはマクゴナガルの目を見た。その瞳に涙はなかったが、いつもの輝きは失われていた。
「わしは何の指示もしなかった。しかし……あなたの糾弾は正しいものじゃ」
マクゴナガルは、すぐには何か答えることができなかった。彼の性質を見失い、止めることができなかったのは自分も同じだったからだ。それでも、ホグワーツの教師として、何もかもを諦めるわけにはいかなかった。
「……でも、これからは違います。私たちは彼の性質を知った。危険から遠ざければ……つまり、自分の命を喜んで捨てるような場所に近づけないようにすれば、あの子を守ることはできるのでしょう? 少なくとも、あなたが彼に何かを求めることはもうないのですから。違いますか?」
ダンブルドアは顔を歪め、悲しげにマクゴナガルを見た。
「ミネルバ、それが一番厄介な部分なのだ。彼は決して、わしのために、わしの目的に叶うよう動いているわけではない。彼は彼の野望のためだけに生きているのだ。わしと意図が大まかに一致しているから、今はわしのために動いているように見えているに過ぎない」
「あの子の野望とは何なのですか。あなたが……どうにもできないことなのですか?」
「わしも明確に彼に尋ねたわけではないが、しかし……言ってしまえば、悪役を割り振られた人間から、その役割を引き剥がすことなのだろう」
マクゴナガルは、すぐにはその
「少なくとも、彼は父親が誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりしないように……そして、それでも罪が生まれてしまうときは、それが許されるように、全力を尽くすだろう。ヴォルデモートの下に馳せ参じた父の側で。このブリテン魔法界で最も危険な魔法使いの影響下で。我々にそれを止めるのは……難しい」
この事実は、マクゴナガルには受け入れ難いものだった。マクゴナガルは幸か不幸か、今までドラコの口から父親の話をほとんど聞くことなく、ここまで来てしまっていた。
「あの子はこれから、ルシウス・マルフォイのそばで、いや、『あの人』のそばで動くつもりなのですか? ファッジに取り入ったように?」
ダンブルドアは、沈痛な面持ちで頷いた。
「ああ、そんな……止めるべきです! なんとしても! これから戦いはあちこちで起こります! ルシウス・マルフォイのなすことに首を突っ込んでいれば、すぐにでも出くわすことになるでしょう。そのたびにあんな真似をしていれば、あの子はあっという間に死んでしまう! 引き止めるべきです! あなたがなさらないなら、私が説得します。もう二度と自らの命を捨てるようなことをしないように」
しかし、ダンブルドアは首を縦に振らなかった。
「ミネルバ、あなたには、あの子に縄をつけておくことはできぬ」
ダンブルドアの声は至って冷静だった。マクゴナガルは、心の底から信じられないという目でダンブルドアを見る。
「……なぜです?」
「ヴォルデモートが戻ってきた今、あなたはこの学校を離れることはできぬじゃろう。いや、それだけではない。彼という一人のために、他の生徒を危険に晒す様なことはできない。そうではないかね」
ダンブルドアは淡々と言葉を続けた。
「コーネリウスは、わしをホグワーツの校長職から除きたいと考えている。もうすでに、来期の『闇の魔術に対する防衛術』教師についての人事は魔法省が行う方向で話が進められているそうじゃ。そこからホグワーツでの権力を拡大していく様は想像に難くない。無論、わしもこの学校のためにできることはなんでもする……しかし、万が一わしがホグワーツを空けることになれば、子どもたちの守りは薄くなる。それを狙って奴らが何かを仕掛けてくる可能性は否めない。ヴォルデモートの復活を魔法省が認めていない以上、野放しになっている死喰い人が何か仕掛けてきたとき、対応を迫られるのはホグワーツの教職員じゃ。ミネルバ、あなたはその職責に背を向けることはできぬじゃろう。自分が生徒を守るべきだと知りながら、
ダンブルドアは心底残念そうに、マクゴナガルを見た。
「そして、あの子の前ではそんなことは見通されている。去年なら、あなたの脅しは通用した。彼はあなたがいなくなることを現実に起こりうることだと捉え、彼自身の行動を制限することができた。しかし、今や事態はまったく変わってしもうた……。
これはほとんど確信に近いのだが、ミネルバ、あの子はあなたに彼以外の生徒を守らせるためだったら、
先ほどからの話で、マクゴナガルにもダンブルドアの言うことがよく分かってしまった。しかし、彼女は匙を投げてしまうことだけはしたくなかった。
「そんな……そんな、だからと言って、諦めるのですか?
医務室でのあの子とあなたの言い争いは……あなたとファッジ大臣の決裂を避けるためだった。そうですよね? あの子は戦っている……私たちのために。あなたのために! それなのに、私たちはその献身に値しない者たちのもとにあの子が歩いてゆくのを、指を咥えて見ているだけですか?」
それでも、ダンブルドアの表情は変わらなかった。
「あなたには、説得は困難じゃ」
「……なぜ
「彼は、
ミネルバ、わしは心から思う。あなたほど生徒を思い、生徒のために身を粉にして職務に当たっている人はおらぬ。だが、それでは彼を引き止められぬ。彼があなたを尊敬しているのは、あなたが正しさを──平等さを持っているからじゃ。そして、彼は自分があなたの平等さのもとに庇護されるべき人間だとは、一欠片も考えておらぬ。わしには容易に想像できる。彼が自分はあなたにそこまで心配してもらえるほどの人間ではない、と言って、あなたの研究室を後にするのを。そのとき、あなたにできることは何もない」
ダンブルドアは慰めるように表情を和らげ、悲しそうにマクゴナガルを見た。しかし、マクゴナガルはその説得で投げ出すほど、簡単な魔女ではなかった。
「……アルバス、暗い時代にあって、全てを救えるわけではないことを私も分かっています。あなたのおっしゃる通り、私はあの子を説得できないかも知れません。しかし、それは十五歳の少年を、一人で闇側に間諜として立たせるのを許容する理由にはなりません! そこで引いて、私は自分が光の側に立っているなどと思い込むことはできない……」
マクゴナガルは強い光を宿して、ダンブルドアの瞳をまっすぐと見つめた。
「……『私には』と言った以上、あなたは、私にはない彼を説得できる手段をお持ちなのではないですか?」
ダンブルドアは答えなかった。しかし、その沈黙は言葉よりもはるかに雄弁に肯定を伝えていた。
「ならば、そうなさって下さい」
ダンブルドアは再び顔を歪め、手を額においた。
「ミネルバ、確かにわしはあなたとは違う方向から彼を説得しようとできるじゃろう。しかし、それは……彼を説き伏せようとするためには、その価値観から解体しようと試みねばならなくなる。彼自身すら深く考えることを避けてきた内心を暴き、矛盾を突きつけることでしか成し得ないじゃろう。そして、そういうやり方に耐え切り、意見を変えることができる人間はほとんどいない。彼は普段驚くほど聞き分けがいいところがあるが、ことこの説得に関しては……上手くいくかどうか」
マクゴナガルは、それでもダンブルドアを見てしっかりと頷いた。
「分かりました。だから──お願いです。どうか、あなたの全力をもって、彼の説得を
ダンブルドアは、しばらく黙ってマクゴナガルを見ていた。彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、マクゴナガルが立っている暖炉のそばへと歩み寄り、彼女に手を差し出した。マクゴナガルはピクリと肩を揺らしたが、ダンブルドアの手をしっかりと握った。ダンブルドアが杖を取り出そうとしたとき、マクゴナガルは口を開いた。
「『誓い』は必要ありません。私は、あなたがおっしゃったことはなされる方だと信じています」
ダンブルドアは、朝日に照らされたマクゴナガルの顔をじっと見つめ、頷いた。
「わしは、持てる知恵の全てをもって、ドラコ・マルフォイに我々の庇護を受けるよう、説得を試みよう」
二人とも分かっていた。「試みる」ことを超えて約束するのは、二人にとってほとんど不可能であると。
「一つお願いがある」
ダンブルドアは、扉に手をかけるマクゴナガルを呼び止めた。怪訝な顔のマクゴナガルに対し、ダンブルドアは静かに語りかける。
「ミネルバ、あなたは、無理にあの子にこちら側に付くよう、強く言わないでおいてほしいのじゃ」
「それは良心に反します」
即座に返したマクゴナガルに、ダンブルドアは苦笑を浮かべた。
「分かっておる……しかし、それがあの子を救うことになる」
訝しげな目を向けるマクゴナガルに、ダンブルドアは微笑む。
「彼が捨てられるのは彼が持ちうる全てだ。その中には、他者から向けられる愛情も含まれる。先ほど言うたように、もし、あなたが彼の身の安全と自らの退職を天秤にかけるなら、彼はあなたの中の自身の価値を下げることで、あなたを引き留めるじゃろう。そのとき、あなたたちの決裂は決定的になってしまう……あなたにそのつもりはなくとも」
マクゴナガルは言いたいことが喉元まで込み上げてきていたが、それをなんとかため息として吐き出し、頷いた。ダンブルドアもまた、安堵したように目を閉じた。
「あなたには、ただあの子を労って、あの子に心を配っていることを伝えてやってほしい。それはきっと……彼の大きな助けになるじゃろう」