音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
前世のことを思い出しても、僕の生活は──いや、僕自身は、大して変わらなかった。それもそうだろう。見ないように目を逸らしていただけで、過去はいつでも僕とともにあったのだから。
確かに自分が死んだ瞬間の再体験はそれなりにインパクトがあったが、PTSDのように意識を占拠できる経験には使い所もある。自身の思考を二重三重に偽ることを目的とした閉心術の観点から見るならば、むしろかなりのアドバンテージだとすら言えた。今まではハリーや「原作」に関する最重要機密はただ心の奥にしまっておくことしかできなかったが、これからは前世の記憶がファイアウォール……いや、こちらの心を覗こうとする相手に対する囮になってくれる。
万が一、閉心術で築いた最初の防壁を突破されても──そして、その防御の厚さを不審に思われたとしても、隠し通そうとするに足る過去があると分かれば、誤魔化しは効く。普通に考えれば、純血一族の嫡子にとって、自身にマグルとしての記憶がある以上に隠したいことなんてない。そのショッキングな殻の下に、かつて手に入れた「物語」の断片や、ハリーの話から導いた推測は安全に隠れることができる。たとえ闇の帝王に心を開かれてしまったとしても、「物語」を封じた器である僕の破滅は、「物語」そのものの露見よりも早く訪れるだろう。死人に口なし、だ。
予想もしていなかった副産物ではあったが、ラッキーだった。闇の帝王が復活した今、彼の敗北を予言し、導いてくれさえする「物語」の情報が漏れるなんてことは、文字通り死んでも避けなければならない。それに、隠さなければならないのは音割れBBだけじゃない。今まで「物語」の世界を生きて手に入れた情報から紡いだ僕の推測は、恐らく結末への核心に迫りつつある。そちらだって、僅かたりとも勘付かれるわけにはいかない。
ハリーから聞いた話では、闇の帝王はハリーの血を使って復活したそうだ。つまり、彼の母、リリー・ポッターの守護をその身に入れたということ。闇の帝王はそれがハリーの防衛を緩め、自分の身を守ることに繋がると考えたのだろうが……登場人物である彼よりも俯瞰して情報を整理できる僕からすれば、事がそう簡単に運ぶとは思えない。
その共感力のなさゆえか、闇の魔術に偏重した見識のせいなのか。闇の帝王の愛の魔法に対する理解はあまりにも即物的だ。ハリー・ポッターという個体を防衛する呪文は、その物理的な一部──つまり血にも宿り、それを取り込むことで、防衛線の内側に自身を滑り込ませられる。そう推測したのだろう。
僕の考えは違う。児童文学のストーリーにおいて、献身的な母の愛が仇を守るというのが考えにくい、というメタな理由もあるが……何より愛の呪文の目的と対象についての認識が異なる。
リリー・ポッターのかけた「愛の魔法」は非常に厳密な代償の呪文だ。その目的と対象──すなわち魔法の価値交換の天秤に何が置かれているかは、揺るぎないものでなくてはならない。リリーを犠牲にハリーを守る。一対一の命の交換の上に、他の人間を挟む余地はない。
高度な呪文をどれだけ強くかけることができるかは、対象定義がどれだけ厳密かに大きく依存する。そして、対象をどれだけ適切に定義できるかは、その呪文をかけた人物が要求をどれだけ適切にシミュレートできるかにかかっている。僕からすると、闇の帝王はリリー・ポッターの呪文に関して、その辺りの理解が乏しいように思える。
リリー・ポッターは身を投げ出して呪文をかける際に、極めて厳格に指定したことだろう。「自分の命と引き換えに、ただハリーの命を守れ」と。でなければ、そもそも成立しないのが愛によって……感情によって効果対象を指定する代償の魔法だ。であれば、闇の帝王の思惑はおそらく逆効果だ。彼が取り込んだハリーの血は、敵を守るどころか、その内側からハリーの守護を存続させる。ハリーの命が再び闇の帝王に脅かされたとき、守りはその役目を全うするだろう。
つまるところ、闇の帝王は自らの守りを固めるどころか、敵のバックアップになってしまったわけだ。その事実は、今まで僕が抱えていたある懸念を解消してくれる。ハリーもまた、闇の帝王のバックアップになってしまっているのではないかという懸念を。
十四年前のハロウィーン、闇の帝王が跳ね返った自らの呪いによって消し飛ばなかった理由は、残念ながら今の僕の知識にはない。しかし、この四年間で徐々にその手法の輪郭だけは明らかになっていた。
闇の帝王は、恐らく精神的実体──魔法界風に言うなら霊魂──を分割し、保存する術を知っている。それが死の呪文を受けてもなお、物理的実体を取らない形で彼をこの世に縛り付けたのだろう。幼き日の彼の記憶を再現してみせたトム・リドルの日記は、まさに
リドルの日記が破壊されたにも関わらず、闇の帝王は帰ってきてしまったのだから、その分割体は複数あることになる。そして、ハリーが見せる闇の帝王との精神的繋がりは──まさにハリー自身が分割体を宿していることを暗示しているのではないか。それが僕の懸念だった。
そうであれば、ハリーの中にある霊魂を破壊しなければ闇の帝王を倒すことは叶わない。リドルの日記がいかにして破壊されたのかを考えるならば、そのときハリー自身も無事では済まないだろう。それは……絶対に許容できない。
しかし、闇の帝王の今回の行動で話は大きく変わってくる。この希望は、まるでクライマックスに用意されたどんでん返しの布石だ。
これらの要素を踏まえて、未来のストーリーラインはかなり明瞭になった。
日記などという平凡な代物すら分割体にできるのであれば、普通は探すのに難儀するだろう。そこらの小石を
しかし、ハリーは闇の帝王の思考を覗ける。この世でもっとも彼の精神と深く繋がるハリーこそが、闇の帝王の霊魂のかけらたちを破壊する道のりの羅針盤になってくれる。
さらに、そのうちの一つ──つまりハリー自身は、他ならぬ闇の帝王自身が身に取り込んだ愛の魔法によって命を守られている。いざ分割体を破壊しなければならない段になっても、その呪文がハリーを保護する。闇の帝王はハリーを殺そうとする過程で、自らの霊魂のかけらを破壊することになるのだろう。
……完璧だ。まったく、よくできた物語だ。
まだ断定できない部分は数多くある上に、ハリーの持つ守護が闇の帝王以外からの攻撃に効くかは分からない。防御すべき外敵の対象が増えれば魔法の効力は薄まりかねないし、吸魂鬼やバジリスクなんかが彼に危害を加えられたことを考えるなら、「効かない」という可能性の方が高いだろう。気を抜けばハリーが害され、物語の根本が揺らいでしまうことには変わりない。
でも、「ハリー・ポッター」がおそらく主人公の犠牲で終わる物語ではないという予感は、これからの障壁に挑む上では大いに心強い。彼が守られていると信じられればこそ、僕もこちらの側で戦う覚悟ができるというものだ。
ダンブルドアとの話し合いのあと、残ったホグワーツの日々はつつがなく過ぎた。マクゴナガル教授のもとには再度出向いたが、そこでも予想していたような叱責と決裂はなかった。ただ、僕の身を案じる言葉を二、三貰っただけ。彼女自身、そこに話が至るのを避けているようですらあった。
正直拍子抜けした部分もあった。どこか、がっかりしたような気すらした。でも、まだマクゴナガル教授の「いい生徒」でいられるなら、こんなに嬉しいことはない。この状況はとても素敵なモラトリアムだった。
闇の帝王が戻ってきたという話をダンブルドアが公然としてしまったために、悪名高い家系出身のスリザリン生に対して怯えるような、疑うような視線を向ける子供たちもごく僅かにはいたが……それは仕方ないだろうし、無視できる程度だった。無関係なスリザリン生が闇側に向かわざるをえないレベルまで対立が深まらなければ、はっきり言ってどうでもいい。……僕も随分と学校内の空気に無神経になったものだと自嘲は漏れるが、一例一例に細かく気を回せる余裕がないのは変えられない事実だった。
ダンブルドアの予想では、しばらく闇の帝王陣営は表立った襲撃をしないだろうということだし、学校全体の雰囲気を「子供と親は別」という方向にコントロールする猶予はあるだろう。つぶさに事案を解決できずとも全体的な潮流は掌握したい。いや、する。
幸いなことに現在までで、寮間の断絶はほとんど埋まりつつある。できればこの「物語」が終わるまで、最低でも闇の帝王による被害が表面化するまで、ホグワーツを外の対立構造から切り離す。それができれば、少なくとも子供たちが手を汚さざるをえない状況は避けやすくなるし、戦後の遺恨は埋まりやすくなる。
卒業したあとは目が届かなくなってしまうのが痛いが……あと3年はホグワーツに縛られる身として、今の僕にできることはあまりに少ない。どうか彼らが闇の勢力に関わることのないよう祈るばかりだ。
もっとも、ダイレクトな関係者、すなわち死喰い人の家族はそう悠長にも言っていられない。家に帰れば闇側の人間と即座に、かつ強制的に顔を突き合わせることになるのだから。基本的な「闇側に関わらせない」という方針は他のスリザリン生と同じだが、そこには積極的な努力が必要になる。
ホグワーツにいる間にビンセントとグレゴリー、それにノットのもとにお父上たちから手紙が来ることはなかったし、夏休みの間にもそれらしき話をふくろう便で送ってくる子はいなかった。だが、家に死喰い人がいるのにホイホイとその情報を外に漏らすわけにはいかない、という推測だってできる。僕には新学期が始まるまで、彼らが本当に無事に過ごせたか確かめる術はなかった。
元々そこまで影響力の範囲が広いわけではないが、ホグワーツにいない僕はつくづくやれることがない。
オマケに夏休みに我が子を迎えた父は、完全に僕を闇側の勢力に関することから切り離そうとしているようだった。彼は一度だけ僕に「何も心配することはない」と言ったきり、闇の帝王が帰ってきたという噂について触れることはなかった。
……そして、僕も闇の帝王の復活について、わずかたりとも聞き出せなかった。正確には、聞こうとすることすらできなかった。
僕は、ルシウス・マルフォイに「闇の帝王の側につくのはやめてくれ」と言えなかった。遠回しな言い方でも、態度でも、それを告げることはできなかった。
理由は探せばいくらでも出てくる。今直接的にそんなことを口にすれば、どんな方法で闇の帝王にバレるか分かったものではないし、父が完璧に転向するまで説得できなければ、つまりダンブルドアに対して下手に出ていいとまで思わせられなければ、光の側に入ることはできない。
説得できる可能性が現実的な域に達していないのに、中途半端に行動すれば待つのは破滅だ。
……けれど、何より、どうしても……どうしても言えなかった。長期的に見て僕はハリーの側が勝つことを期待しているし、そのために動くつもりだ。だから、父の偏見に満ちた闇側の思考を完全に放置してしまうことにはデメリットしかない。父のためを思うなら、今のうちから達成可能な目標を定めて布石を打っておくべきだ。
頭では分かっているのに、いざ行動に移すとなると無理だった。父を前にすると、口が笑えるくらい動かなくなってしまうのだった。
だから、僕は父から現状を把握することは諦めた。絶対に後悔することになると分かっていても、その道を選ばなかった。父を責めずにいられるなら、なんだってできる。いや、する。
代わって情報を得るため、夏の間ファッジ大臣のもとに頻繁に通い詰めた。元々今年度から完成した「闇の魔術に対する防衛術」の指導計画が使われる予定でその準備もあったし、ダンブルドアの意向に沿うように適宜ファッジの思考の方向をいじらなければならない。
今のところ、ファッジはそれなりに上手く動いてくれている。巨人の実態調査は魔法省が直接動くことを嫌ってダンブルドアに投げたようだが、吸魂鬼の管理制度強化は成し遂げられた。しかも、それは早々に成果を上げた。
その網にかかったのは、今年度ファッジが「防衛術」の教諭職に推薦する予定だったドローレス・アンブリッジだった。彼女は見下げ果てたことに、吸魂鬼を使ってファッジに不利な証言をしているハリー・ポッターを襲撃し、彼を犯罪者に仕立て上げようとしたそうなのだ。
彼女以外の魔法省職員に容疑が上がったのであれば、他の線……死喰い人が勘付かれることなく手引きした可能性を考えるところだが、この女はまさにそういう愚かな策を弄しそうな人物だった。
冬に人狼に関する法律の改正を試みた際、アンブリッジがどれだけ悪意ある条文を挟もうとしていたかは思い出すまでもないし、そもそも「反人狼法」の起草者はこの女だ。ハリーに吸魂鬼をけしかける、なんて感情的には到底許し難い。短絡的に悪意を振り撒くくせにやり口が妙に周到で説得が極めて困難。僕の苦手なタイプだ。
しかもこの女、去年一年で作り上げた『防衛術』の指導計画を無視して、実践を一切排した授業をやろうと考えていたのだ。ファッジがダンブルドアの下で生徒が攻撃呪文を学ぶのを好まないという理由はあったが、間違いなく彼女の私情も含まれている。どうやらアンブリッジは自分より下の立場にある人間を無力化しいたぶるのが何より好きらしい。
できるだけ彼女の意見を反映させないよう手は尽くしたが、ファッジの意向で事件後もアンブリッジの探してきたスリンクハードのゴミみたいな本が教科書に指定されてしまった。見てろ。そのうち教科書検定制度を作ってやるから……とは思ったものの、魔法大臣の影響を完全に検定から排除することはできないだろう。魔法界はおしまいである。
仕方なく、僕は過去の資料を切り貼りして全学年分の教科書を用いる必要がない板書案を作るはめになった。作業中、ビンクが非常に険しい顔をすることになったのは言うまでもない。
とにかく、アンブリッジが排除されてくれるのは万々歳なのだが……去年のスキーターの反省もあるし、彼女はこのままそこらで大人しくしてくれる人間でもないだろう。これから闇の勢力が魔法省に影響を及ぼすようなことがあれば、アンブリッジのような自分のためだけになりふり構わない人間は貴重だ。
絶対にホグワーツに来てほしくないので今すぐ助けるような真似はしないが、適当なところで手を差し伸べれば……そして、彼女の望みが何か見極めることができれば、使い所があるかもしれない。
僕はビンクにアンブリッジの身辺調査を依頼しつつ、ファッジに「今回の吸魂鬼襲撃は大した問題ではない」と思わせる方法を考え始めた。誠に心配にはなるが、ファッジの僕に対する信頼は高まっている。あくまで「容疑」に留まっている人物なら、魔法界のガバガバ司法と魔法使いたちの平和ボケした価値観に乗じていくらでも弁護できるだろう。
それにしても、今年一年の『闇の魔術に対する防衛術』教諭は闇祓いが交代で行うことになったらしいが……大丈夫なのだろうか。担当者全員に例の呪いの効果が降りかかりでもしたら、ただでさえ人員が必要な闇祓い局は大きな痛手を被ることになる。
もし闇の帝王に質問ができるのであれば、どうやってこんなピンポイントに効果的な嫌がらせを思いついたのか聞いてみたいものだ。
こうして僕の夏休みは過ぎていったが、ファッジのところに通い詰めることで父のことを考えないようにしよう、という試みはあまり上手くいっていなかった。肝心の父が僕と同様に、頻繁にファッジの元に出入りしていたのだ。
もともとファッジと父は仲が良かったが、明らかにそれだけが理由ではないだろう。大臣の執務室で顔を合わせるときの表情がそれを物語っている。まず間違いなく、父は闇側から命令を受けて魔法省に出向いている。しかも、狙いはファッジ大臣
父はファッジ大臣が十階以下の部屋に出向くとき、必ず九階で彼を待つ。そう、神秘部で。
神秘部とはその名の通り秘密のベールに包まれており、扱っている事柄すら全く世間に明かされていない。しかし、伝説的な噂話はそれなりにあるし、歴史上に何度か登場する彼らの名前からどういった事態の対処にあたったのかは窺い知ることができる。
時間や霊魂、生死──そういった、魔法でしかそれに操りうる実体を与えられないもの、それがおそらく神秘部の管轄範囲だ。
……が、そこまで分かった瞬間に闇側勢力の狙いの対象は拡散していく。
逆転時計……は確かにすごいものではあるが、扱いが難しく制限も多い。闇の帝王は霊魂の分割に加えて、さらに自身の強度を高めようとしているとか? ダンブルドアがトレローニー教授の能力を確信するに至った最初の予言なんかもありそうだが……そもそも予言の存在を知っていたとしたら、実物はいらないのではないか? 実在することだけを知ってて、内容は知らないだなんてありえるのだろうか。
夏休み恒例の、今年の最初の事件探しも難航していた。正確に言うと、事件に見当はついてもそれが一年間にどう関わるのか読みきれずにいた。
ハリー近辺に注目するなら、吸魂鬼事件がそれに当たるのだが……あれはほとんどアンブリッジが主犯で決まりだ。ファッジの部屋に出入りしている父は、つまり闇側の勢力は吸魂鬼の管理が強化されたことをその日のうちに知っていた。魔法省に父が潜伏している今、自らの手を汚してハリーを襲撃する旨味も、アンブリッジをスケープゴートにするメリットも、そこまで大きいものではない。
しかも、計画は完全に失敗した。たまたまハリーのところに遊びにきていた上級生のセドリックが、代わりに吸魂鬼を追っ払ってしまったそうなのだ。僕の知らない間に二人は随分と仲良くなっていたらしい。
ハリー・ポッターの襲撃が失敗に終わった割に、父は悔しがる様子を見せなかった……どころか、事件があったこと自体に意外そうな顔をしていた。ファッジの手前取り繕っていた可能性はあるが、僕の前でも大して態度は変わらなかった。身内の前ではかなり感情がストレートに表に出る人だし、これは白だろう。
アンブリッジは元々『闇の魔術に対する防衛術』教諭になる予定だったし、彼女自身が今年一年のギミックだった、という線も考えられる。……が、その場合、父の動きとの関連性が薄くなる。強いて言うなら「魔法省」繋がりくらいだ。じゃあ、途中でアンブリッジは闇側に近づいて、魔法省で何かやらかすはずだったのだろうか?
彼女を排除できて喜ぶべきなのか、それとも物語の筋が大きく変わってしまったことに怯えるべきなのか……今は圧倒的に後者が恐ろしかった。ただでさえ情報不足で、それなのに物語のエンディングまでの道筋はある程度見えた状況で、これは非常にまずい一手になる可能性は否定できない。
もし盤上を正確に把握し、大きく動くことができるなら、話は全く別なのだが
……そう悶々としているうちに、夏休みの最後の日は訪れ、そして僕に機会は巡ってきた。
その日の朝、例年から随分遅れてホグワーツからの手紙はやってきた。
朝食の終わった席で僕はビンクから、トレイに乗ったもはや見慣れた様式の封筒を受け取った。
もう明日は新学期だというのにこんなギリギリに届けるとは、一体何があったのだろうか。まさか入学準備のある新入生にまでこの日程で届けたわけじゃないよな?などとぼんやり思いながら封を開けていた僕は、両親からの視線に気付くのが遅れた。そのまっすぐこちらに向けられた眼差しに顔に何かついているのかと手をやるが、違うらしい。二人の表情にはどこか期待がこもっていた。
「あの……どうかされましたか?」
頭を傾げる僕に、母はなぜか佇まいを整えながら首を振った。
「いいえ。……早く開けてごらんなさい」
促されるまま、封筒の中身を確認する。なんの変哲もない羊皮紙が二枚。学校開始のお知らせと、忌々しいスリンクハード著『防衛術の理論』が載った教科書リスト。予想していた通りその二つで終わりだ。
僕の様子を窺っていた二人の表情は、僕が羊皮紙二枚を封筒から取り出すと険しいものへと変わった。
「それだけ? お知らせと、リストだけ?」
「ええ、はい……うん、そうです」
母の訝しげな声に、どこか不穏なものを感じながら中に入っていた手紙ごと封筒を渡す。母は手紙は一瞥しただけで、まるで何かが隠されているはずだとばかりに封筒の中に手を入れた。
「もう何も入っていないのか?」
封筒を検分する母を見つめながら、父は僕に妙に緊迫した声で語りかける。
「監督生のバッジは──入っていないのか」
それで、ようやく僕は二人が何を期待していたのかに察しがついた。そうだ。今年、僕は五年生──監督生が選ばれる学年だ。
ああ、じゃあダンブルドアが気を回してくれたのだな。ありがたい。即座にそう思った。
監督生は、原則として寮監が選ぶことになっている。父と仲がよく縁故を重要視するスネイプ教授は、いくら僕のことが気に食わなくても、ルシウス・マルフォイの息子を監督生に選ばないなんてことはしないだろう。いままで僕らの間には色々あったものの……スリザリンにおいて家格は何より優先される。そこに逆らうスネイプ教授ではない。
だから、圧力をかけたのはきっとダンブルドアだ。ファッジや闇の帝王の手前、僕とダンブルドアの対立構造は強固にしておくに越したことはない。スネイプ教授だって内心僕を監督生にしたくないだろうし、そこまで抵抗せずに頷いたことだろう。
裏の事情は分かりきっている。
なのに、なぜか妙に顔が熱い。
別に自分が監督生に選ばれなかったことは何とも思わない。ザビニは絶対にありえないだろうが……クラッブでも、ゴイルでも、ノットでも、誰が監督生になった姿を見るのが本当に楽しみだ。ザビニはともかく、みんな上級生らしく責任感ある子たちだし、下級生の面倒を見ているところもよく見る。きっとみんなに慕われる、いい監督生になることだろう。
でも──父と母を、失望させてしまった。
親バカな二人は当然僕が選ばれるものだと疑っていなかっただろうし、ダンブルドアとの事情なんて二人は知る由もない。当然ながら説明もできない。
父と母の期待を裏切ったと思うと、胃が捩れる思いがした。思わず、視線を下げて何もないテーブルの上を見つめる。今は二人の顔を見る勇気がない。
父が席を立つ音が聞こえる。普段と違ってずいぶん荒々しい立ち方だ。
叱責に備えて身を固くする。しかし、僕の耳に飛び込んできたのは、予想していない言葉だった。
「セブルスと話をしてくる」
「え?」
思わず顔を上げて父を直視する。ビンクに外出用の外套を持ってくるよう指示する父の顔は、非常に険しかったが……そこに僕に対する怒りはなかった。
いや、というか、息子が監督生に選ばれなかったという理由で、寮監のもとに乗り込むつもりなのか?
「ま、待ってください。ホグワーツに出向かれるのですか?」
「いいや、今日は丁度セブルスと会う予定がある。まだ早い時間だが──まあ、いいだろう。ナルシッサ、新学期の準備は任せて問題ないかね?」
全然よくない。しかし、母もまた眉根に皺を寄せながらしっかりと頷いていた。
「ええ、いってらっしゃい」
いや、夫の暴走を止めてくれ。頼むから。父はいよいよ食堂の暖炉に煙突飛行粉をつかみ、足を踏み入れようとしている。慌てて席を立ち、側に駆け寄った。
「父上、待ってください。おそらくスネイプ教授のせいではないですし、他に適任がいましたから。グレゴリーとビンセントなんて本当に立派に──」
しかし、父は宥めるように首を振り、優しく粉をつかんでいない方の手で僕の背を叩いた。
「そう卑屈にならなくても大丈夫だ。お前はもっと自信を持たなければ。
お前が選ばれないなんて、絶対に有り得ない。こんなにいい子が! 大丈夫だ。私がきっちり話をつけてくるから」
「父上──本当に大丈夫ですから──」
僕の言葉を最後まで聞くことなく、父は憤然と暖炉の中に姿を消した。
どうしよう。今までもそういうところはあったが、父を完全にモンスターペアレントにしてしまった。しかもスネイプ教授相手に。明日彼に会うのが怖くて仕方がない。
呆然としていると、そばに母が近寄ってきた。控えめに、慰めるように肩を撫でてくれている。
「母上……」
情けない声をどう受け取ったのか、母もまた勇気づけるように微笑んだ。
「心配しなくて大丈夫ですよ、ドラコ。お父様がきっちり話してくださるはずだわ」
いや……そういうことじゃなくて……
結局その日の午前は、呆然としたまま荷造りをして終わったのだった。
父はいつまで話をしているのだろう? 再び家の食堂で、昼食も終わった僕と母はテーブルから離れることなく、彼を待っていた。
想像できる話の展開が恐ろしい。
スネイプ教授には、直接僕とダンブルドアの関係を言ったわけではない。しかしルーピン教授の件で、僕がかなりダンブルドア寄りだということも気づいているだろうし、去年の叱責はかなりこちらの本質を見抜いていた。認めたくはないが。
監督生の件は、ダンブルドアの意向を通しただけだろうが……その意図はどこまで語られたのだろうか。単にマルフォイは向いてないと強弁しただけ? それともファッジとの件についてまで? 後者だった場合、ダンブルドアはかなりスネイプ教授を信用していることになる。一年生のときから、そのようには言っていたが……
スネイプ教授の陣営は、僕から見れば本当の意味ではっきりしているわけではない。今日の父との用事だって、闇側に関することではないのか────
そう考えていたとき、不意に食堂の暖炉が緑色に輝いた。ようやく父が帰ってきたのかと素早く席を立つ。
しかし、僕の目に飛び込んできたのは父ではなかった。
緑色の炎の中から現れたのは、骸骨のように痩せた背の高い……青白い肌の男だった。細長く、赤く輝く目。蛇のように平らで切れ込みのような鼻。
それは、紛れもなくヴォルデモート卿だった。
即座に頭を下げたのは、ほとんど本能だった。心の準備ができていない段階でこの人と目を合わせてはならない、と脳が凄まじい勢いで警鐘を鳴らしたのだ。
後ろで母の息を呑む音が聞こえる。僕も母も声を出せない様子を見て、闇の帝王はわずかに笑みを漏らした。
侵攻に備えろ。偽りの心を作り上げろ。怯えた、無力な、ただの子供になりきれ。
再び、緑色の炎が暖炉の下の床を照らした。足音が二人分。傅いているため、姿は見えないが……一人は父だ。
「我が君──どうか──」
父の懇願するような声を聞いて、急速に頭が冷えた。この人が、僕のためにヴォルデモート卿に何かをお願いしなければならない状況は、絶対に回避しなければならない。
闇の帝王はどこか楽しげな声色で語った。
「ルシウス、お前の息子はよく躾けられている。誰が主人か、しっかりと理解しているようだ」
僕は恐る恐る、といった様子で顔を上げた。
「お目にかかれて光栄です……我が君」
声にはうまく情けない震えが乗っていた。
赤く輝く瞳と目を合わせた瞬間、何か圧のようなものが胸を侵すのを感じる。この人──常時こんな感じで開心術を使っているのか。正直相手に心を見ていると隠すつもりは全くなさそうだが……恐るべき熟練度だ。
だが、
こちらの内心の安堵を知る由もなく、闇の帝王はちっぽけで弱々しい子供を見て、唇の片端を上げた。
「そう怯えなくてもよい。なに、少し気になっただけだ。
──ダンブルドアは、どうしてもお前を監督生にしたくなかったらしいな」
そこで、誰かがローブの裾を翻し闇の帝王に歩み寄った。
「ファッジへの牽制のためかと。其奴はせいぜい主席程度の知能を持つだけの子供です」
声を聞いて、はじめて父と共に来た人がスネイプ教授だと気がついた。いや、それにしても、この人は僕を庇っているのか? まるで、ヴォルデモートの興味を逸らそうとしているかのようだ。
ヴォルデモート卿は少しだけ笑みを潜ませ、再び僕をすがめ見た。
「ダンブルドアは俺様を監督生にするのは止められなかった。まあ、あのとき、奴は校長ではなかったが……
ルシウスの目が曇っているわけではないのであれば、ドラコは学年一の成績で、先生方の覚えめでたく、周囲の生徒にもよく慕われているのだろう? ダンブルドアは随分と無理を通したわけだ」
スネイプ教授は唇をきつく結び、微かに頷いた。彼の表情からは、何を考えているのか窺い知れない。別に僕をヴォルデモートから遠ざける必要はないのに。それどころか、むしろ……この状況は願ってもないチャンスだった。
ヴォルデモート卿は静かに僕の方に歩みを進めた。後ろで父の顔が強張るのが見える。
「お前については、クラウチとワームテールから話を聞いている。ファッジに取り入るのが上手いそうだな。そして、たいそう仲がいいとか──ハリー・ポッターと」
付け足された言葉の部分の声色は、低く冷たいものだった。先ほどまでの愉快そうな雰囲気はぐっと薄まり、場に緊張が走る。
返事を返す前に、素早く父が口を開いた。
「我が君、それは私がそうさせたのです。時勢を見誤った、愚かな私の過ちです」
ああ、だめだ。それはいけない。父の言葉を遮るように、僕は声を上げた。
「いいえ、違います。父は関係ありません。ただ──ただ、友達でした。ごく普通の、同級生として」
ヴォルデモート卿の目がすっと細まった。怯え・保身・恭順・誠実さ──その他、今の状況に適した感情たちで心を覆い、その瞳を見つめ返す。
「しかし我が君、あなたが生き、ここに帰られたと分かった今、どうしてその友情が続きえましょうか……」
部屋に沈黙が落ちる。まるで吸魂鬼が一匹食卓についているような、底冷えする静けさだった。
ヴォルデモート卿はしばらく僕の内心をじっくりと値踏みした後、ようやくふっと笑みをこぼした。
「いいや、よい。今まで通り、友人でいるがいい。しかし──奴の様子を知らせるのだ。漏らすことなく」
これまた……幸運な提案だ。これで大義名分を持ってハリーのそばにいることができる。
「できるな?」
「思し召される通りに」
望んだ通りのか細い返事に、ヴォルデモート卿は残忍な笑みを浮かべた。
おそらくヴォルデモート卿の話はここまでなのだろう。しかし、
「それだけでなくとも──そこまで大きなお役には立てないかもしれませんが、ダンブルドアを追い落とすお手伝いでも──コーネリウス・ファッジを唆すのでも──ご随意のままに。いつでもお申し付けください。どうせファッジは学期中にも私を呼びつけるでしょうから……報告も頻繁にできるかと」
ヴォルデモート卿は少しだけ笑みを潜め、再び調べるように僕の瞳を覗き込んだ。しかし、それは先ほどよりも遥かに短く終わった。
「よくできた息子だな、ルシウス」
ヴォルデモート卿はそれだけ言って微笑むと暖炉に歩み寄り、緑色の炎の中に姿を消した。
後に続き暖炉に踏み入ったスネイプ教授は、一瞬だけ表情の読み取れない瞳で僕を見て──しかし、何も声をかけることなく、主人の後を追った。
ようやく、マルフォイ邸の食堂にいつもの雰囲気が戻った。まるで先ほどまでの出来事が嘘のようだが、衝撃は大きい。時間にしては数分に過ぎなかっただろうが、数年分の寿命が縮んだ心地だ。
大きく息を吐いていると、父が何処かおぼつかない足取りで近づいてきた。その顔に浮かんでいるのは──間違いなく恐れだ。呆気に取られているうちに、父は強く僕を抱きしめた。頭に回されたその手は、微かに震えていた。彼は、心の底から息子を案じているようだった。
「ドラコ……すまない」
微かな声が頭の上から聞こえる。どう考えても場違いなのに、その様子になぜか心底安堵してしまった。
「何も、一つだって、謝られることはないです。僕は大丈夫ですから」
僕は心の底から思ったことを口にした。
その日の夜、僕は一枚手紙を書いた。それを自室の机の天板に貼り付け、木の板と同化するように変身させる。僕に何かあれば呪文が解け、両親がこれを見てくれるだろう。
この手紙が読まれないのが一番だが……できることはしておかなければならない。もう、僕は物語の中心に一歩を踏み出してしまったのだから。使えるものは、なんだって使う。
なんの変哲もない机の天板を撫でる。なんだか、今ならなんだってできるような気がした。