暗闇を走るのには慣れていた。
目の前に広がる黒はまるで、昔の自分のよう。
覆い隠すそれは目を盲くさせ、呼吸を浅くさせる。滴る汗すら身を離れた瞬間には感じる術を失い、幻であったかのように錯覚する。
「はぁ…はぁ…」
どれだけ走ったか。
呼吸に合わせ大きく上下する肩に、子鹿のように震える足。
目の前にはいつのまにか小さな星が落ちていた。
立ち止まり、膝をついてその小さな光を掬い上げる。
それはひどく熱く肌を焼いた。
それはひどく冷たく肌を凍り付かせた。
「…」
掬い上げた星を優しく胸元で抱きしめる。
それは、手の内側で強く瞬いた。
カラカラと音を鳴らし、光が体を蝕んでいく。
差せ!差せ!そこだ!ああ、届かない!足りない!全て見えているのに!
視界いっぱいに、あのレースの幻影が広がった。
ああ、私は………
“ピピピピ…ピピピピ…ピピピピ…”
「…んぁ?」
けたたましい電子音と共に、私はゆっくりと目を開けた。
なにか夢を見ていたような気がする。
“ピピピピ…カチッ”
寝ている間に汗をかいたみたいで、パジャマが少し気持ち悪い。
窓から見える景色はまだ早朝といった感じで、暗い青色をしていた。
「…さて、行きますか」
“フッ…フッ…”
早朝の街はまだ静かな眠りの中にいて、聞こえる物音といえば自分自身の息遣いくらい。
私は駆ける。川沿いの道を、ただひたすらに。
ウマ娘専用レーンを、駆けていく。
「はぁっ…!はぁっ…!ここッ…でしょ!」
私は一瞬大きく息を吸い込み、姿勢を落としてコンクリートを蹴りつけた。
一気に加速していく世界。
揺れ動く視界に映るのは、何人ものウマ娘たち。
抜け!抜け!抜け出せ!
胸の内で誰かが叫ぶ。
私はその何人もの
それでも。
「なんでよっ…!どうして追いつけないの!?」
前を走る彼女は私を置いて前へ走っていく。
歯を食いしばり加速していっても、足りない。追いつけない。
あぁ。また、負けた。
だんだんと失速していった私は、立ち止まって空を見上げた。
“フゥ…フゥ…”
自分の荒い呼吸がうるさい。
強く打つ心臓の鼓動が苦しい。
私は肩で息をしながら、胸のケースを強く握り締めて雲を睨んだ。
これは、私の日課。
誰もいない早朝に私は一人でレースをする。
メイクデビューのレースの記憶。
未勝利のレースの記憶。
OPのレースの記憶。
友人達との、模擬レースの記憶。
一つ一つ思い出して、私は彼女達と戦う。
それは、とても完全なシミュレーションとはいえない。ターフじゃない上に、相手はあくまで前の記憶のモノに過ぎない。
それでも、走ればわかってしまう。
今の私では彼女らに勝てない。
「どうして…」
思わず呟く。
この学園に入ってから、ずっとトレーニングを続けてきた。
必死に、昔を思い出しながら。
バランスを考えながら筋肉をつけて。
走るフォームを整えて。
レースの映像をいくつも見て。
私に足りないのは、何?
「…学園に行く前にシャワー浴びないと」
気づけば日が顔を出し始め、空は紫に染まっていた。
ドツボにハマりそうな考えを振り払い、私は来た道を戻るようにジョギングを開始する。
走るのに合わせるように、カプセルケースがカラカラと鳴った。
☆☆☆☆☆
「おはようございますカクタスさん!」
「あ、委員長」
相変わらず元気だなー。
私は目の前で笑顔をペカペカ光らせているウマ娘に挨拶を返しながら、そう思った。
朝からテンションバリ高な彼女は、少し前にLHRで行われた係決めで晴れて委員長になったサクラバクシンオー。
相変わらず委員長には謎のこだわりがあるらしい。
委員長と呼ぶと、彼女は「ええ、学級委員長ですとも」と満足げに鼻を鳴らした。
うーん、ドヤ顔可愛い。みんなは委員長をバクちゃんとかバクシンオーちゃんとか呼んでるけど、私は委員長って呼んだ時の彼女の反応が好きで以前からそう呼んでいる。
…初対面の時思わず委員長って呼んじゃった時は少しやらかした!って思ったけど、彼女はすっかり忘れているらしくて一安心。
「おはよう、今日はいつにも増して元気だね」
「ええ!今日は放課後に選抜レースがありますからね!良い結果を残すためにも、張り切っていきましょう!バクシーン!」
ばくしーん。
私の返答に満足したのか、彼女は「それでは!」と言って席に帰っていく。
私はその背中をじっと見つめ、強く手を握りしめた。
そう、彼女のいう通り今日からチーム勧誘やトレーナースカウトが始まる。
私が思うに、ここは一つの分岐点。
以前の私と同じか、そうじゃ無いかの。
昔の嫌な記憶が蘇る。
レースで負け続けて、スカウトも誰にもされなくて。
すぐにスカウトされた委員長を羨ましく思ったりもした。
「今度は、委員長に並んでみせるよ」
負けない。負けたくない。
今度こそは自信を持って彼女のライバルと言えるように。
そのために入学からのこの一ヶ月間、トレーニングを続けてきたんだ。
他の子達の才能は凄くて、私なんかでは叶わない。
昔から英才教育を受けてきたような子には、私の一ヶ月程度では当然追いつけないだろう。
わかってる。
わかってるけど、それでも私は勝ちたいんだ。
それに、私には他のウマ娘達とは違う本番のレース経験がある。
レース展開、マークの仕方、前に出るタイミング。数年のブランクで掠れていた勝負勘が最近だんだんと戻ってきているのを私は感じていた。
重賞を勝ったこともないようなウマ娘の経験だけど、無いのとはまるで違う。
最近は走り方の癖一つから修正して綺麗な走りができるようになってきた。
前だと、私は今日ではトレーナーが決まらず模擬レースに出続けていた。
それに対して、彼女は今日でもうスカウトされて模擬レースには出なくなっていた。
今度は私もきっと。
“カラカラカラ”
その時、胸のケースが小さく鳴った。
致命的な何かが欠けているような、言われもない違和感が身を襲う。
このままでは、なにも成し遂げられない。
直感的にそう感じる。
最近、この感覚に襲われることが多くなった。
特に朝のレースシミュレーションの時などは、毎回のように感じている。
何かが足りない。
私は胸のカプセルケースをギュッと握りしめた。
いったい何が、足りないの?
「…ちゃん。…タスちゃん?カクタスちゃん!」
「ぅあっ!?ハイ!」
いきなり話しかけられて思わず私は大声で返事をしてしまった。
横を見ればクラスメイトの子が心配そうな顔で私を見ていた。
「大丈夫?」と聞いてくる彼女に、私は慌てて大丈夫だと伝える。
選抜レースの事悩んでるの、顔に出ちゃってたかな。
「怖い顔してたかな」
「してたしてた。…でもわかるよ、私も不安だもん」
彼女は苦笑して私の手を握った。
クラスを見れば、同じように切羽詰まった顔をしている子が何人かいる。
まあ、仕方ないだろう。
今日は彼女達にとって初めてのレースになるのだから。
それは無論、私を気遣ってくれた目の前の彼女も同じ事で。
私の手を握る小さな手を、私はじっと見つめる。
それは少しだけ、震えていた。
☆☆☆☆☆
前のレースが終わる。
非公式の物であるとはいえ学園主体で行われる大規模なイベント、かつ公開練習ということもありそこには多くの人が集まっていた。
普段の模擬レースとはまるで違う、レースをしていないウマ娘達やトレーナー陣、外部から観に来たウマ娘ファンでザワザワとやかましい異様な雰囲気。
ウマ娘達に話す余裕は無く、緊張した面持ちでただゲートを見つめていた。
まあ当然だろう。
新入生からすれば初の観客付きレースである上に、このレースで私たちの数年間が決まるというのだから。
明日以降、トレーナーが決まらなかったウマ娘達は模擬レースを自主的に行う事になる。
トレーナーの中にはそれを見にきて契約する人もいるが、選抜レースに比べて見にくるトレーナーの数は確実に減る上に、大手のチームは今日で確実にいなくなる。つまり、後に長引けば長引くほど数少ない質の低いトレーナーの取り合いになるのだ。
メイクデビューまではまだあと数ヶ月ある。その点で言えば、今焦ってトレーナーをつける必要はないかもしれない。
それでも、トレーナー付きで練習を積んだ上でデビューした者とそうでない者の間には、大きな実力の溝が生まれてしまう。初期ステータスで負けてしまうのだ。
故に、年に4回しかない選抜レースの次を待つ余裕など、新入生にはない。
自分の運命のほとんどは今日で決まると、そう確信してしまっているのだ。
それにもしも…もしもの話だが、本格化を迎えた時に未だトレーナーがついていなければ。
私たちはデビューすることができない。
それは、もはや絶望と言っていい。
だからみんな緊張しているし、何より怖がっている。
そうでないのは、自分に絶対の自信がある者だけ。そう、例えば。
すでにレースで一着を取り、応援席側に回ってこちらに手を振る彼女。
サクラバクシンオーのような。
「はは…知ってはいたけど、なんていうかすごいなぁ…委員長は」
思わず苦笑する。
圧倒的すぎて、もはや周りが可哀想になってくる。
影すら踏ませない当然の一着。二着とは2バ身ほど離れていた。
デビュー前でこれなんだから、本当にとんでもない話だ。
…さて、私も気合を入れるか。
『5番 イースターカクタス』
視界に映る金属の柵が懐かしい。
後ろで閉まるゲートの音も、なにもかも。
私にレースの世界に帰ってきたことを自覚させる。
そっと目を閉じる。
集中。
集中。
集中。
集中。
“カラカラカラ”
集中…また胸騒ぎだ。
気のせいだ。
気にするな。
今は、目の前のレースに。
ライバルに勝つために。
この先勝ち続けるために。
私は今日、過去の自分に勝つんだ。
私はゆっくりと目を開いた。
遠くまで続く芝、青く広い空。
胸騒ぎはスッと消えていった。
ほら、なんの問題もないじゃないか。
“カシャン!”
ゲートが開くと同時に私は飛び出す。
得意の戦法を生かしやすい位置へ。
横一列から少し下がり、ウマ混みの中でも至って冷静に。
よし、イメージ通り体が動く。
周りのウマ娘の動きを読んでマークする相手を決めた私は、静かに中団に紛れていった。
視界の端で幻影が叫ぶ。
差せ!差せ!そこだ!ああ、届かない!足りない!全て見えているのに!
イースターカクタスにその声が届くことは、なかった。
一回2話あげたんですけど、これじゃ無いなと思ったんで書き直しました。
その場の流れに任せて書いてるとこうなるんだなぁ。
しおり付けてくれてた方、申し訳ないです。
描き直してるうちに設定ちょっと変えました。