私は心の中で悲鳴を上げた。
おかしいじゃないか。
大外なんて行けば行くほど負けに近づくってのが常識なんじゃないの?
思わず止まってしまいそうになる足を必死に回して、私はグングンと近づいてくる10番に追いつかれないよう願う。
ああ、足が重い。
なんでこんなに。
練習ではこんなじゃなかったのに。
『ゴールドシップがどんどん上がっていきます!アイシーペイル苦しいか!?』
うるさい。
わかってるのよ、もう抜かれないことが不可能なことくらい。
もうスタミナがない私と、大外に逸れて全員抜きとかいう意味がわからないことをしでかす彼女じゃ、天と地がひっくり返ろうと彼女が勝つ。
わかってる。
それでも!私だって勝ちたいんだ!
踏ん張って、前を向いて走る。
だけど。
そんな願いすら無常に、影は迫る。
私の右側に、それはピッタリと張り付いた。
いやだ。
負けたくない。
私が一着になるんだ!
…右、側?
私はふと違和感を覚えた。
背中をひんやりとしたものが走って、頭が理解を拒否する。
それでも私は、それを振り切って横を見た。
ああ。
ああ。
見なければよかった。
それは幽鬼のようにゆらりと。
いつのまにか、私の横に並んでいた。
私の、
なんで。
なんでそこにいる。
おかしいじゃないか。
抜けてきたのは10番だけだろう。
そこにアンタがいるはずがない。
だって。
『ここできた!5番!イースターカクタス!』
アンタは最後尾にいたはずでしょうが。
それはまるで、魔法を見ているようだった。
10番が大外からとんでもない勢いで位置を上げていくのに会場のほぼ全員が注目する中。
俺はずっと彼女を見つめていた。
だから、気づけた。
始まりは、彼女がするりとウマ込みに潜り込んでいった事だった。
まるで自殺行為のようなそれを目にして7番は大きく目を見開く。
当たり前だ。
普通に考えて、垂れたウマの団子なんて無理してでも避けるものなのだから。
しかし俺と7番が真に驚き目を見開いたのは、その後のことだ。
彼女がウマ込み最後尾の3番、パスシルディの横に並ぶ。
3番は走ることに必死でそれに気づかなかった。
でも、前の二人は違う。
突然の乱入者に前の1番と8番は一瞬後ろを振り向いた。
その時だ。
振り向いた瞬間の二人の間、姿勢の変化でできた小さな隙間に。
すでに彼女は、いた。
呼吸の狭間を読んだかのように完璧なタイミングで、彼女は二人を抜いていた。
そしてそのまま、当たり前のようにウマ込みの中を前に進んでいく。
スルスルと死角を、意識の裏を縫うように。
その澱まぬ走りは1番も8番も、2番も9番もまるで存在しないかのように感じさせた。
観客の誰もがゴールドシップに夢中で気付かぬ中、それは実に静かに起こり…気づけば彼女は、先頭を走る4番に迫っていた。
「あのウマ込み、超えてきたのか?」
「内側に運良く隙間でもあったのかもな…にしても良く加速するスタミナ残ってたなぁ、周りはあんなにヘロヘロなのに」
「レース展開に差しがうまいこと働いたんだろうな」
「ああ、どうりで」
横の同僚が何か言っていたが、耳に入っては来なかった。
俺はただひたすらに彼女を見つめる。
ああ、なんてウマ娘だ。
あれはやろうと思ってできる物じゃない。
あんな光景は見たことがない。
あのウマ娘の才能は計り知れない。
きっとあのウマ娘が育ちレースに出始めたら、とんでもない何かを成し遂げるに違いない。
俺は拳を握りしめた。
『ゴールドシップ完全に抜け出した!4番、5番が追いますが…距離がどんどん開いていきます!なんという末脚だ!これは決まったか!』
わかる、分かってしまう。
彼女では届かない。
必死の表情で走るイースターカクタスを置いて、レースは無常にも進んでいく。
全員を抜くだけでは終わらず、ゴールドシップはさらに加速して後続との距離を離していった。
その理不尽とも言える強さに、誰もが息を呑んだ。
5番にペースを乱されて、大外を抜けるという手段を取らざるを得ない状況にさせられて、それでもなお彼女は圧倒的だった。
そして10番だけではなく、見るからに限界な4番も。
差し上がってきたイースターカクタスと激しく競り合い、決して譲らない。
ウマ込みを抜け出した時のイースターカクタスの得体の知れなさ、大外を回るゴールドシップのカリスマ的な強さ。
アイシーペイルは、それらに根性一つで抗っていた。
『イースターカクタス追い縋るが抜かせない!アイシーペイルを抜かせません!』
その姿を見て俺は、あるウマ娘の言葉を思い出した。
─────
ああ…全くその通りだ。
恐ろしい話だ。
計り知れない才能を持っていようと負けてしまう。
それがここ、中央なのだから。
『今ゴール!一着は10番ゴールドシップ!二着、4番アイシーペイル!三着に5番イースターカクタスです!』
とんでもないレース展開、そして熱い競り合い。
会場の湧き様はもはや重賞レースもかくやという具合だった。
誰もが興奮気味に叫んだ。
ゴールドシップを讃える声を。根性を見せたアイシーペイルを讃える声を。
二着と数バ身は離して勝利したゴールドシップが、どんなもんだとばかりに胸を張る。
そして、最後まで彼女と競り合い見事耐え切って二着をもぎ取ったアイシーペイルは、悔しさを滲ませながらもどこか満足げな顔でそれを見つめた。
イースターカクタスだけが、掲示板を眺め呆然と立ち尽くしていた。
☆☆☆☆☆
夕暮れ。
すでに多くの人はいなくなり、先ほどまでの熱狂が嘘のようにレース場は静まり返っていた。
トレーナー陣はまだ外で勧誘を行っている。
俺を、除いて。
「ふぅ、疲れました…全く誰も彼もスプリントスプリントと…やや?」
「ああ、君は短距離の…」
そこにやってきたのは一人のウマ娘。
ピンク色の目が特徴的な活発そうな彼女は確か…サクラバクシンオー。
先ほど長距離レースでヘロヘロになりながら12着に沈んでいたが、それよりもさらに前の短距離で楽々の逃げを見せつけていたのが強く記憶に残っている。
そういえばなんでこの子は長距離に出てたんだ?
短距離が得意だろうに…自分の限界を試したかったのか?
にしても極端すぎると思うが…。
首を傾げていると、サクラバクシンオーが俺に話しかけてきた。
「トレーナーさんはなんでまだここに残ってるんです?」
「少し、忘れられないレースがあってな」
「そうですか」
「ああ」
なんてことはない会話。
そして、沈黙がその場を包む。
目の前のウマ娘はこの空間に気まずさなんて微塵も感じていないようで、ただじっと俺の顔を見ていた。
俺としてはけっこう気まずいんだがなぁ…。
そう言えばこの子はなんでここに帰ってきたのだろうか。
…あぁ、勧誘がひと段落して人のいないところに休憩しに来たのかもしれないな。
だとしたら俺は邪魔だろうな。
「休憩しに来たのか?すまん、移動する」
「ああいえ、そう言うわけではないので大丈夫です!」
そういうわけではないらしい。
じゃあ、なんでそんなに俺の顔をじっと見てくるんだ。
圧をかけられているようにしか感じないんだが…。
「…トレーナーさんは私をスカウトしないのですね?」
さも当然の疑問のように、彼女は言ってきた。
スカウトするのが当たり前かのように。
感じたのは、礼儀正しさの向こうにある絶対の自信。
こりゃ敵わないわけだ。
彼女のあまりにも大物な言い様に、面白くなってしまって俺は思わず吹き出す。
いきなり笑い出した俺に彼女は呆気に取られたようで、変なものを見るような目でこちらを見てきた。
いやでも、こんなの笑わずにはいられないだろう。
その発言が自信過剰でもなんでもないただの事実だっていうのだから。
ああ、きっと彼女はもっと強くなるんだろうな。
彼女のトレーナーになれる人が羨ましくて仕方ない。
俺は笑いをなんとか抑えながら彼女に答えた。
「ハハハ…ふぅ。いやぁ、あんな四方八方に誘われてちゃ俺みたいな木っ端のトレーナーは見向きもされないだろうと思ってな」
そう。
予想通りというか、選抜レース後彼女の元には多くのトレーナーが押しかけた。
それこそ名前の知られた大きなチームすら声をかけていた。
まあそれも当然だ。
彼女もまた、底知れないウマ娘なのだから。
きっと凄いところに所属したんだろ「ああいえ、今日来たスカウトは全部断ったので!」うな。
いや待て。
「全部断ったぁ!!?!?」
「はい、お断りさせていただきました!」
「そんな元気に言われても」
いやいや嘘だろ。
あれ全員断ってたらもう声かけるトレーナー誰もいないんじゃないか。
…でも、どうして断ったんだ?
「彼女のレース、覚えてますか?」
俺が疑問を口にするよりも前に、サクラバクシンオーはそう聞いてきた。
応援席のとある一点を、見つめながら。
そこには、一人の少女が座っていた。
黒髪を左右でローツインテに分けた、一人のウマ娘が。
そう、それこそが俺がこのレース場を離れられなくなってしまった理由。
中距離第一レース三着、イースターカクタス。
「覚えてるさ、忘れられるわけがないだろう」
彼女はレースが終わった後あそこに移動して、俯いたまま動かなくなってしまった。
一着を取ったゴールドシップと少し話したようだったが、それ以降は誰と話すわけでもなく。選抜レースが全て終わった後、他のウマ娘がチーム勧誘やスカウトをトレーナー達にされる中、彼女に話しかけるトレーナーは誰一人としていなかった。
一着を取ったゴールシップの話題性に掻っ攫われた部分があるのは認める。
執念の二着を掴んだアイシーペイルの引き立て役のようになったのも事実だ。
だがそれ以上に、
彼女は運良くウマ込みの隙間を見つけられたとそう思われている。
多くの人にとって彼女は、『掛かったウマ娘に万全の状態で勝てなかったウマ娘』なのである。
だから彼女は三着という好順位であったにも関わらず、見向きもされなかった。
「ほう?でもその割にスカウトはなさらないんですね?」
「したいさ、したかった…でも!」
そして、彼女の異常性に気づいたトレーナーは。
「
彼女の異常性に気付けたのは、えてして優秀なトレーナーばかりだった。
これがもし中堅トレーナーであったらすぐにでも彼女をスカウトしただろう。
自分がその才能を、輝かせてみせると。
でも。
「俺には思い浮かべられなかった!彼女の走りをより高みへ導く手段が!」
彼女の今日のレースは新入生とは思えないほどの完成度であった。
教本通りの美しい姿勢。
絶妙な仕掛けのタイミング。
周りに流されないペース管理。
付け焼き刃ではない駆け引きの技術。
どれもこれもが高水準で、とても新入生のものではない…どころか、姿勢とペース管理に関してはそこらのシニア級と引けを取らないものだった。
他にしても一定の技量は超えているし、あと足りないのは新入生ゆえ始めたばかりの体づくりだけと言っても過言ではない。
その上、あの魔法のようなウマ込みの抜け出し術だ。
しかし、
ゴールドシップはまだしも、二着のアイシーペイルに勝てていればまた違ったのかもしれない。
だが彼女は負けてしまったのだ。
だから、優秀なトレーナーたちは優秀であるからこそ。
「彼女の底知れない才能を、開花させられる未来が見えなかった!」
彼女を導くことはできないと、そう理解してしまった。
なんとも皮肉な話だ。
無力感ばかりが募っていく。
レースの終盤、俺は分かってしまった。自分ではイースターカクタスのトレーナーになれないと。
だからこそ悔しくて、情けなくて。
俺は拳を握りしめたんだ。
「よかった…あなたには、カクタスさんがそう見えていたんですね」
そう言って彼女が振り返った時。
なぜか、初めてしっかりと目が合ったような気がした。
どこからか風が吹いて、サクラバクシンオーの髪を揺らす。
夕暮れの少しくらいレース場の中、そのピンクの瞳は俺をじっと見据えてきた。
それはとても美しく澄んでいて。
「初めは委員長たるもの全距離で模範とならねば、と思っていました。ええ、その思いは今でも消えてませんとも。しかし、今日のレースを見て新たな思いが生まれました」
「トレーナーさん、もしも…もしもですが」
「私がいつか彼女に
俺はきっと忘れないだろう。
担当ウマ娘と、初めて出会ったこの日の夕暮れを。
人混みを抜けるのは昔から得意だった、ってね。by前の記憶がうまいこと活かされたけどモブにすら負けちゃった系主人公
そういえば、バクシンオーが夕暮れ時にわざわざレース場に戻って来たのはしょぼくれてるイースターカクタスを迎えに来るためです。