「失礼します」
カラカラという音と共に開くドア。
私はプレハブ小屋にゆっくりと足を踏み入れる。
天井から吊り下がった電気は付いておらず、正面と横の壁にある大きな磨りガラスの窓から入る太陽光の黄色い光が優しくその中を照らしていた。
左手前のここから右に伸びるような形の長方形の小屋。
その中には穏やかな、寂しげな『静』があった。
「おお、これは凄い」
私に続いて入ってきた少女が、小さく感嘆の声を漏らした。
チラリと彼女を見、その視線の先に私も目を向ける。
なるほど、これは凄い。
思わず私も見惚れる輝きが、そこにはあった。
私たちが入ったドアから見て左、壁に沿う様に置かれた棚に置かれた幾つものレースのトロフィー。
それは美しい金銀の輝き。
頂点の輝き。
その金属光沢の中に、反射した私の顔が混ざりこむ。
幾許かの間、私はそれをじっと見つめた。
“ギシ…ギシ…”
歩みを進める。
部屋の真ん中に置かれた大きな机、それに合わせて置かれた5個ほどのパイプ椅子。
『私物棚』と書かれた板が貼り付けてある金属製の棚。
夏場用らしき扇風機と、冬場用らしきストーブ。
ガラス棚に入ったビデオデッキ、上に置かれたブラウン管テレビ。
生活感を感じる様々なものを横目に、私は進む。
「…菊花賞、か」
再び少女が呟く。
私たちは歩みを止めて壁にかけてあったボードと、横のホワイトボードを見つめた。
ボードにはプリントや連絡物、レースのチラシなどがピンで止めてあった。
どれも、今年のものではない。
ホワイトボードには、数人のウマ娘の名前…そして、彼女らの一週間のトレーニング予定やレース目標などが細かく書き込まれていた。
その一番上の段の日曜日には赤の二重丸。
丸の中に菊花賞、と達筆な字で書かれていた。
横には異なる筆跡で幾つかの応援コメントが書かれていた。
『頑張れ!』
『あんたなら勝てる』
『目にモノ見せる時』
『伝説を刻め!』
『トロフィー棚空きない、下段に置いてる段ボール誰か掃除』
『↑中身お前の私物だろ』
『『『『『『夢を、叶えて来い』』』』』』
ここにいない誰かの、日常の記録。
このプレハブ小屋を使っていたであろうウマ娘たちの、チームの面影。
静かな室内に、賑やかな少女たちの姿が見えた気がした。
私はボードをそっと撫でる。
その指先に、白い埃が付いた。
通った場所を振り返れば、机にも、椅子にも、扇風機にも、ストーブにも、テレビにも、そして…チームの軌跡を標すトロフィーにも。
眠りにつかせるように、まるで掛け布団にように。
埃が白く覆っていた。
“ギシ…ギシ…”
私は再び歩きだす。
レース雑誌が詰め込まれた小さな本棚を過ぎ。
その横に置かれた小さな冷蔵庫を過ぎ。
そのさらに横の水道を過ぎて、小屋の奥に辿り着いた。
私はそこで足を止めた。
目の前には、トレーナーと書かれたデスクが一つ。
埃を被って鎮座していた。
“ギシリ…”
床が軋み、小さな音を出した。
その音は本当に、とても、とても小さな音だった。
それでも、小屋の中ではやけに大きく響いたような気がした。
ああ。
この小屋はまるで、色褪せた写真のようだ。
ある日唐突に時が止まり、そのまま動くことがなかった…打ち捨てられた廃墟のようだ。
物悲しさの募る室内に差し込む光が、私たちの周りを漂う埃の塵をキラキラと照らす。
ノスタルジーを感じさせる、穏やかな光だった。
「…駄目」
留まっていたくなる。
留まらせていたくなる。
それでは駄目だ。
私は、それを壊しにきたのだから。
きっと誰かの『聖域』であったであろう…いや、今でもきっと『聖域』なのだろう此処を。
目の前の彼が残し続けた、残影を。
私は強く息を吸い込んだ。
喉の奥が、震える。
心の底が、震える。
それは罪悪感だろうか。恐怖心だろうか。
いや、これはきっと…禁忌感なんて呼ばれるモノなんだろう。
ああ、ごめんなさい。
「はじめまして。ベテルギウスの、トレーナー」
私は、ゆっくりと口を開き語りかけた。
それは穏やかな、よく晴れた春の日のことだった。
彼女に話しかけたのはほんの気まぐれだよ。
実験を一人で行う事、トレーナー無しで出走する事を許可してもらう為に生徒会長に直談判をしに行った時にすれ違った、ただそれだけの関係のクラスメイト。
最近ボロボロな姿が目立つ事で少し話題になっていた彼女に、話しかけてみることにしたのさ。
そこに少しの打算が含まれていたことはまぁ、認めよう。
確かに私は、生徒会が提示した『安全管理の為の実験協力者』という条件を満たすことができるのではないかと、ほのかに期待していた。
「やあカクタスくん、昨日ぶりだね。私が誰かわかるかい?…よかった、説明の手間が省けたね。そうだね…いや、単刀直入に言おう。カクタスくん、私と取引する気はないかい?」
彼女を初めてハッキリと認識したのは、選抜レースの時だったかな。
それ以前は、クラスメイトとはいえども交友関係もなかったので、『委員長君と親しいウマ娘のうちの一人』ぐらいの認識だったんだ。
あの走りは…ゾワリときたことをよく覚えているよ。
きっとあれを見た他の人達も、同じ感覚に陥っていたんじゃないだろうか。
…大多数の人間はそもそも気付けてはいないみたいだったがね。
まぁおそらく、
「えっと、話すのは初めて、だよね?アグネスタキオンさん」
「気軽にタキオンと呼んでくれたまえ。確かに話すのは初めてだ…が、しかし。私は君に親近感を持っているよ?
でもあの走りを見た時はそれと同時に少し、違和感も覚えた事を覚えているよ。
それが何に対するモノだったのかは、わからないけどね。
「えっ…?タキオン…さんってトレーナー、ついて、ないの?おかしい、そんなはずない…前でも癖強いことで有名だったけど、
「ああ、ついてないとも。残念ながら、私のようなウマ娘を育成したいなどという酔狂なトレーナーはこの学園にはいなかったみたいだね」
正確には私の
それよりも、小声で言っていた前とは何のことだろうね?
ああ、やはり。
話しかけたのは間違いじゃなかった。
私は思わず歪んでしまう口元を、手で覆いそっと隠した。
☆☆☆☆☆
タキオン…アグネスタキオンは私の中でもよくわからない存在だ。
前の時は深く関わることはなかったけど、それでも名前はよく聞いていた。
実験と称して薬品をばら撒いたとか、日々怪しい研究を行っているとか。
トレーナーによく世話を焼かれていただとか。
彼女は前の時、トレーナーとの関係が非常に特徴的だったことを覚えている。
研究バカでそれ以外が雑な彼女と、世話を焼くトレーナー。
トンチキな実験に付き合っては事件を起こす。
風の噂で聞いた話だけど、七色に光った事もあったとかなんとか。
とにかく、彼女のエピソードには必ずと言って良いほどにトレーナーがそのそばにいた。
同じクラスの私からしても、彼女は近付き難い存在だった。
選抜レースにも、模擬レースにも彼女は姿を現さず…授業への出席もおろそかだった。
それでも、そんな彼女が気を許したようにトレーナーと共に笑い合っていたのを見た時は、確かに彼女というウマ娘の
にも関わらずだ。
「ああ、いないとも。レース実習で私も同じ教室にいただろうに…まさか、ほんとうに気づいてなかったのかい?」
「あ、あはは…。ちょっと、必死すぎてたみたい」
今目の前にいる彼女には、トレーナーがいない。
これは一体どういうことだ。
何が起こってるんだ。
前との違いなんて、何もないはずなのに…
…?
…ぇ?
………………………ぁ。
「うん?どうしたんだいカクタスくん…カクタスくん?」
それは、ほんとうにたまたまのことだった。
廊下で話をしていた私の視界の端に、一人の人間とトレーナーが歩いている姿が映った。
それはトレセン学園ではよく見る光景で、誰も気に留めないようなことだった。
でも、そのトレーナーの顔を見て、気づいてしまったから。
そして、横を歩く選抜レースで共に走ったウマ娘に気づいてしまったから。
ああ、なんて悪夢だ。
冷や水を浴びせられたかのように、私の体温が指先から失われていく。
視界が歪んでいく。
私のせいで彼女からトレーナーを奪ってしまった。
彼女を支えるパートナーを、失わせてしまった。
ひどい耳鳴りのなかで、一つの声が響いた。
──────たった一人の行動が、学園に関わる全ての人生を左右しうるのだ
「私の、私のせいだ。私が足掻いたから、私が余計なことをしたから、私が水を差したから」
ああ、今わかった。
私は異物だ。
この世界の台本を乱す、醜いバグだ。
目の前の少女はトレーナーと共に賑やかな日常を過ごして。
レースでも成績を残して。
癖があって、でも強くて愛されるウマ娘になるはずだった。
私が、壊した。
「カクタスくんッ!…ふぅ、ようやくこっちを見たね。大丈夫かい?だいぶ混乱しているように見えたが…なにか不味いことを言ったかな」
不安そうに、申し訳なさそうにする目の前の彼女は。
少し癖のある…でも普通の少女だった。
どうせなら悪辣なマッドサイエンティストであって欲しかった。
「真っ青じゃないか、大丈夫かい?10人に聞けば10人が保健室に行った方がいいというくらいには酷い顔色をしているぞ、今の君は」
でも、どこまでも少女は優しげな少女でしかなくて。
私の我儘が人の未来を奪った。
レースをするということがどういうことか、分かってたはずだった。
それでもこんなに苦しいのは、きっと。
そこまでして私が何も得なかったからだ。
奪うだけ奪って。
私は何も変わらなかった。
今はそれがただただ恥ずかしかった。
「すまないね…でも、君には感謝してるんだ」
ごめん。
「昨日生徒会室ですれ違ったろう?その時選抜レースに出なかったことを詰められてね…あわや退学か、と思ったんだが」
ごめん。
「最近私が授業に出るようになったことで、姿勢に改善が見られると学園の説得に成功したらしい」
ごめん。
「君のおかげなんだ。あの時息抜きに選抜レースを見に行って、君の走りがどうにも記憶に残ってしまったから、私は君を観察するために授業に出るようになった」
ごめん。
「君のおかげで私は今でもまだ、此処にいられているんだ。そして、此処にいたいと思えたんだ」
本当に、ごめんね。
「だから…ありがとう、カクタスくん」
強く、強く手を握りしめる。
気を抜けば、自分の罪から目を逸らしてしまいそうで。
これが…これが、変わりたいと思った私がもたらしたもの。
「そんな私から感謝の印じゃないが…君に提案を一つ持ってきたんだ」
あまりにも非道いマッチポンプだ。
一人の少女のレース人生をメチャクチャにして。
諦める苦しさも挫折の悔しさも知っていたはずの私が。
貰えるものなんて、あるわけがない。
私はそれを断るため、口を開こうとした。
したはずだった。
「噂で聞いたんだが、自主トレを禁止されたそうじゃないか。それで…私の実験に付き合う、という形ではあるが一緒にトレーニングをしないかい?生徒会長もやけに濁してはいたが、私に君を気をかけて欲しかったようだしね」
トレー…ニング?
頭の中で。
声が、反響した。
─────「しばらくの自主トレを禁ずることで結論が出た」
“ドクン”
気づけば、私は喋りかけていた言葉を飲み込んでいた。
誰かが叫ぶ。
お前はバグだと。
罪を認め、謝罪し、諦めろと。
でもそれ以上に大きな声が、叫び声が響く。
ただ、走れと。
タキオンの言葉を自分の中で、噛み砕く。
実験の協力。
一緒に練習。
そうすればまだ、走れる?
そうだ。
走れる。
トレーニングが、できる。
“ドクン”
気づけば、胸が強く拍を打っていた。
わかってる。
自分の罪は、彼女に償わなきゃいけない。
道理を通すなら、断るべきだ。
でも私は、走りたい。
走りたいんだ。
走らなきゃ、いけないんだ。
だから…ごめん。
「いいよ。全力でやらせてもらうね」
もう少しだけ、足掻かせて。
「お、おおう…そんなに怖い顔をして張り切らなくても大丈夫だよ?研究とはいってもカクタスくんがやるのはただのトレーニングだからね?あれ、おーい、聞いてるかい?こうも無視されると、流石の私もちょっと悲しくなってくるよ…?おーい…?」
☆☆☆☆☆
私は必死に頭を回した。
これからどうすべきなのか。
相談したら、タキオンは指導者はいらないだなんて言った。
自己分析で事足りるから、と。
でも、それじゃレースには出れない。
兎にも角にも最優先はトレーナーの確保であることもまた、事実であった。
手の空いているトレーナーはもうほとんどいない。
私たち…いや、
どうすればいい。
再びトレーニングができるとはいえ、それだけでは今まで通りだ。
もはや期限は近いことが、今回の件でわかってしまった。
トレーナーがつかずにい続ければ、いずれ退学も見えてくる。
「それなら、研究を妨げないのであれば誰でも構わない。」だなんて彼女は嘯いた。
私は一つの方法を思いついた。
…いや。
思いついてはいたんだ。ずっと、前から。
でも私は、その道を選ばなかった。選べなかった。
私ではきっと、無理な道だったから。
それは、舞台に上がるためだけの、文字通り権利だけを手に入れる道。
この道を選べば、才能のない私が輝く機会は限りなくゼロに近づく。
そうわかっていたから、私は頭のどこかで思いついていてもずっとこの道を選べなかった。この道を選べるのは、本当に一人で何でもできてしまうような天才だけ。
私には到底、力不足な話だった。
でも、このままトレーナー探しを続けて結果が出るようにも思えない。
もしかしたら。
私はこれで、『終わる』のかもしれない。
だからなんだ。
もう、
博打の一つでも打たないで、この状況をどうにかできるのか?
無力なお前に。
無能なお前に。
無理だろう?
それなら、神に祈るくらい、してみせろ。
私は選んだ。
天才のための、その道を。
彼女についてくるよう言って、私は歩き出す。
向かう先は一つ。
『前』の時から話題になっていた、解散したチームのあった場所。
一人のウマ娘が起こした事故が原因で、栄華の極みから一瞬にして滅びた悲劇の舞台。
そこのトレーナーがそれ以降担当を取ることなく、もぬけの殻となったプレハブ小屋にただ
どれだけの事件だったのか。
当時は部外者だった私には想像もつかない。
ただわかるのは、それは触れてはいけない、未だ鮮血を垂れ流す傷口だということ。
今から私が行おうとしていることは悪なのだろう。
でも、それで構わない。
私以外誰にもわからない、私の身を焼き焦がすこの熱が。
憧憬が、叫ぶのだから。
私は歩いた。
ただ歩いて、小屋について、そのドアを開いた。
寂しげな世界。
でも、穏やかな世界。
瘡蓋のように、優しく傷口を癒す世界。
ジクリと胸が痛む。
“フゥゥ…”
震える呼吸を、指先を無理やり押さえつけて、私は彼の前に立った。
苦しいのは慣れてる。
もとより、トレーナーがつくかは僅かな可能性でしかなかった。
じゃあ…覚悟を決めるなら、ここしかない。
どんなに険しい道だとしても、私は足掻いてみせる。
だから、これでいい。
…ほんとは少し不安だけど。
私のライバルは、きっと此処で揺らがないから。
「はじめまして。ベテルギウスの、トレーナー」
さあ。
「私たちのトレーナーに、なってくれませんか」
『天才』に、なってみせよう。
感想待ってます。