紅蓮の男 作:人間花火
神殺しの狼、フェンリルと、紅蓮の二つ名を持つ錬金術師、ナイン・ジルハ―ドの戦いはもはや一方的な展開になっていた。
主に地上でしか動けない人間のナインと、あらゆる場を足場にして疾駆する高機動のフェンリルとではアドバンテージが違いすぎる。
それを証拠として、何度となく突き出す紅蓮の魔手は空を切り、その度にフェンリルの痛烈な打撃が突き刺さる。
攻撃回数は優に百回は超えたというのに、未だに空振りする回数と方程式で結び付けられたままだった。
「ぬ、らあぁぁ! へ、へへへあふ――――!」
再びフェンリルとのすれ違いざまに放たれるナインの手の平。 幻想で現実が歪むならば、この両掌に綴られた紅蓮の錬成陣もその食指を伸ばしてくれるだろう、そう信じている。
たとえ魔獣であろうと、神であろうともすべてを爆弾にしてみせる。
爆弾が奏でる音色は美しい。 火薬の匂いを乗せた爆風はかぐわしい、それが発火した際に発生する硝煙の匂いもたまらない。
そうして、ナインの渇望は現実を歪め、普段とは比類なき精度と桁外れな速度域で錬金術を駆動させていた。 もはや人の業は超えている。
あとはこの手をフェンリルの肉体に触れさせるだけでいい、触れさせるだけ…………だけでいいはずなのに――――
「ぐ、あぁぁぁはっ――――!」
触れない、追いつけない―――速すぎる。
フェンリルの超速の蹴りが、ナインの肉体を弾き飛ばした。 巨体から繰り出される強力無比な脚力を伴った蹄撃。 明らかに肋骨を幾本か損壊している。
「ふはは、ふふ…………!」
頭からの流血も止まらず、血の視界が広がっている。
ライフル弾もかくやの勢いで吹き飛ばされたナインから、訳もなく笑いが込み上げてきた。
オーディンとの戦闘では肩部分を丸ごと吹き飛ばされるという痛手を負い。 いままたフェンリルという超生物に体中を打ち据えられている。
蹴りや体当たりで済んでいるのがせめてもの救いだ。 爪や、それこそ牙などで八つ裂きにされればいくらナインでも死は免れない。 神殺しの絶対の理は、ナインの
全エネルギーをフェンリルを捉えることに注ぎ込んでも、種族とレベルの歴然たる差は縮まらないだろう。
錬金術を自身の体を対象に発動させ、内側で気力を練り上げて鍛鉄する。 端的に言えば”錬気”は超強化だが、それをしてもフェンリルを捉えられないのは、純粋な歴史の差である。
ナインではまだ浅すぎるのだ。
「ああ…………っ」
壁面に逆さまに突き刺さった肉体に、更なる攻撃が繰り出されてくる。
単純ゆえに強力な体当たり。 フェンリルの巨体を持ってそれをおこなえば、人体などゴミクズのように引き裂かれて物言わぬ肉塊に成り果てるだろう。
神話に生息する獣のなかで最悪とされているのがこのフェンリルなのだ、討ち勝てようはずが無い
神殺しの牙と爪。 その力の凶悪さは、北欧に留まらずに世界各地の神話体系にも公式に認められている怪物として知られている。
そんな怪物の突進を、ナインは素早く逃れ出た。 吐瀉物を吐き散らし、体からも血の飛沫が吹く。
”錬気”による強化で加速するナインの世界。
人間ならば呼吸することもままならないほどの速度で動き、フェンリルの周りを縦横無尽に走り廻る。
「無駄じゃ。 グレイプニルを嵌めない限り、フェンリルは最速で在り続ける――――おぬしはフェンリルを捉えられんし、フェンリルはおぬしを確実に捕らえる」
「へっ、そんなこと解ってます」
口元の血を拭うと、即座に立ち止まった。
眼前に迫る白狼は、より一層に牙を立たせてナインを噛み殺さんとさらに肉薄してくる。
「行きますよ、少し古典的ですが…………」
その瞬間、フェンリルの居た場所が爆発した。 轟く爆炎は火柱を生んで燃え盛る。
地面が震動するのを総身で感じながら、ほぅ、とオーディンが声を漏らした。
「二つ名の所以か…………」
「…………まぁね」
ぶるぶると頭を振って火の粉を振り払うフェンリル。 当然のように通用しない地雷撃だが、ナインの方は眉を顰めたままだった。
するとにわかに、紅蓮の炎を伴って燃え上がる煙の中から、何かが飛び出してくる。
「――――跳躍地雷です」
刹那に、飛び出した物が更に爆散した。 フェンリルの眼前で炸裂したそれは、数多の小さな鉄球が炎を擁して四散していた。
オーディン諸共巻き込んだ紅蓮の爆発。
「…………人に向けたらダメなあれよねあれ」
目元を引く付かせる黒歌の横に、大きく飛び退いて立った。
「まったく…………犬に対戦車地雷を使うことになるとは思いませんでしたよ」
”S-マイン” 本来ならば対人だが、ナインが改良して錬成し、威力を対戦車に引き上げたのだ。
触覚状の信管を踏むと爆発する。
これは通常の感圧起爆方式とは異なる地雷ゆえに、第一波の爆発は前座で、そのあとから来る爆弾が本命。 つまり、第一波の爆破で空中高く舞い上がったもう一つの爆弾を、眼前で爆発させることにより、殺傷力を上昇させる地雷。
「…………にゃにゃっ! 地面溶けてるし!」
右手で覗くように爆心地を凝視していた黒歌が驚いてそう言った。
爆発が引き起こされた場所は、まるで硫酸でもぶちまけたようにその体積が削られ、近場の岩場もごっそり抉られ大幅に変形している。
よほどの戦争軍事マニアか、本物の戦争を知らなければ黒歌の勘違いは致し方ないといえるだろう。
鉄火を手にして人を斃し、爆撃で持って人を吹き飛ばす人間の闘争。 魔法、魔術、超能力etc……その他大多数に渡る人外の力を除いた人類の戦の性質。
ナインは両手をポケットに入れながら首を横に振る。
「それは溶けているのではない。 ノイマン効果という一種の圧力の影響です、あなた流に馬鹿っぽく例えるなら『超圧力』ですね、覚えておきなさい。 主に対戦車に使われることが多い。
ともあれ、あれは本当は対人での地雷なのですがね。 単なる対戦車だと、あのスピードだ……逃げられる可能性がある」
「ちょっと、いまバカって言った? バカって!」
踏んでから逃げられるなんて考えたくもないですがね、と苦笑するナインに、黒歌はビシビシと脇腹を突つく。
「対戦車ほどの衝撃と、眼前で弾けるもう一つの爆弾――――避けられるとは思いませんが…………」
目を細めて爆煙を覗き見ようとした―――瞬間だった。
ザンッ、とナインの横をフェンリルが掠めていく。
間一髪で逃れたナインは、信じられないものでも見るように後ろを振り返った。
「―――――っちょっとショックだなぁ」
「しかも怒らせたにゃん」
「神話がこんなにも遠いとはね。 やはり生き続けてみるものだ」
「言ってる場合じゃにゃいでしょー!」
これは気休めだ。 ナインをして気休めなのだ。
本当なら平常心でいるはずの彼だが、このときだけ焦燥が表情に帯びていた。
滝のように流れる涎。 唸るフェンリルは、しかし確かにナインを捕食せんとする涎だった。
オーディンが口を開く。
「…………フェンリルは普段は人間を喰らう事などしないのじゃがな。 すなわち、お前は人間を辞めるくらい人間を殺しすぎておるということ」
「…………」
爆発する殺意。 煙から出て来た最速の白光は、唸り声を発しながらその強靭な牙を剥き出す。
口から先の爆煙を出すものの、その体はまったく衰えを見せていない。
常人なら……いや、そうでなくとも、相対しただけで卒倒しかねないほどの強大なプレッシャー。
これが神殺しの神話。 魔法も魔術も使わず、ただその牙と爪だけを研ぎ澄まして来たるべき日のために研磨してきた原始の怪物――――まさに言う”必殺”の爪牙。
霧状に体が変化した。 これも神殺しの魔狼の能力か。
もはや微かにしか目視できず、ナインは成す術なく弾き飛ばされた。
「ごぶぁ…………っ!」
◇
「ナイン、お前は人の役に立つために教会に入れ」
そう言ったのは、当時八十を越えたナインの祖父だった。
昔は戦場を駆けた戦士と聞いていたが、いまは余った人生を過ごす一人の疲れた老人にしか見えない。
だが、やはり腐っても戦士の性は健在。 還暦を軽く越えようとはきはきと言葉を話す姿は、長年染みついた軍人のそれだった。
「儂はな、お前に錬金術の才があったのは、神の思し召しだと信じておる。
錬金術は大衆のためにある、だから、お前は神の下でその能力を存分に発揮するべきなのだ」
首に掛けるのは十字架。 他人に尽くせ、主に尽くせと、鉄火を持って戦ってきた人間はそう言った。
その言葉に、老人の目の前にいる長い黒髪を後ろで束ねた独特の風貌を持つ少年は、金色の瞳にその自分の祖父を映して無表情でこう答えた。
「でもさぁじいさんあんたさ、昔の大戦で母国の親衛隊として武功を立てたんでしょ?
………”
ふてぶてしそうにタバコをふかす、齢十代前半に見える少年。 いまどきの”悪ガキ”のような印象を持たせる風貌だ。
「儂は当時こそ、SS士官として功を挙げた…………だが…………思い知らされた」
俯き気味に祖父は長いひげを片手で弄ぶ。
「戦後、儂らは裁判に掛けられた。 死刑にこそならなかったもの、有罪判決を言い渡された――――当時親衛隊だった者には特に厳正な処分と判決が下された、時代は…………変わったのだナイン」
「ふーん」
ニュルンベルク裁判。 戦争に敗北したナチス・ドイツの軍人たち関係者を対象とした戦争犯罪を裁く国際軍事裁判だ。
彼の祖父は、死刑にこそならなかったものの、拘置所で禁固に処されたという。
「我々は、国のために戦った。 しかしそれがよくなかった――――総統があんなのだったばかりに…………」
そう自嘲気味に笑う目の前の祖父に、ナインはタバコを灰皿に置いて息を吐く。
「まぁ、俺はまだガキだからよく知らないけど。 一ついいかな」
「なんだ」
「なんで、国のために戦ったじいさんがそんな目に遭ってんのよ」
考えてみれば、ナインはこのときまだ子供だった。 単純で、純粋で、だからこそ、いいことをしてきたと思ってきたこの祖父を見て疑問を抱いた。
老いて益々盛ん。 外見こそそうであるものの、この老人からはすでに覇気は消えている。
なぜ胸を張らない。 誰かのために何かをしたということは、胸を張るべきではないのか。
しかも、さらに話を聞くと、大戦で祖父の所属していた国――――ヒトラー率いるナチス・ドイツを見事に粉砕し勝利した旧ソ連やポーランドの連合国は等しく全員裁かれることはなかったという。
「敗者に口無し。 当然じゃ、我々も似たようなことを何か国にもおこなってきたからのぉ」
半世紀前、千年帝国を求め全世界に闘争を仕掛けた集団、ヒトラードイツ―――ナチス第三帝国。
髑髏の帝国は髑髏でしかなく、戦争に敗北した者はすべて裁かれ、戦勝国の度重なる蛮行は不問に付されるという理不尽。 いや、これこそが世界の真理なのかもしれないと、自身でも気づかぬ内にこのときのナインは理解していた。
そして、結果としてナインの人生観もここに落ち着く。
いまも、そしてこれからも彼の信念と、立脚点を確立することとなる事柄を―――――
「戦争が悪いんじゃない、戦争に負けることが悪になる――――なら、生き残ればいい、勝てばいいんじゃないか」
至極単純。 この世の真理はここにあり。 勝たなければ何も得られない。 負ければ奪われる。
「な、なにを言う。 違うぞナイン、戦争は悪い事なんだ! 争いは何も生まない、生まれない!
そんな当たり前のことを――――」
「他人のために戦って、殺して、それでもこんな有り様のじいさんを見たら尚更教会になんて入れないよ。
他人のために骨折って、他人のために人殺して…………そんで俺には姿も見えない偶像を崇拝させようっていうのかよ、アンタは」
静かな憤怒が少年から滲み出る。 祖父は、その異常な雰囲気に一瞬呑まれそうになった。
――――子供が出す雰囲気じゃない。
「じいさんには悪いが、自由にさせてもらう。 しばらくは錬金術を鍛えるために旅に出てみることにするよ」
「そんな…………そんな勝手は許さんぞ! いまのお前の保護者は儂じゃ! 息子も行方不明というに、さらにお前にまで居なくなられたら――――」
「知らん、行く。 じゃあな」
――――――――――――――――――――。
―――――――――――――――――。
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――――――。
――――。
◇
「…………逝ったか、人の子よ」
「うそ…………」
ボロ雑巾のような有り様でゴミのように打ち捨てられたナイン。 フェンリルの四本の足には大量の血のりが付いていた。 すべてナインのものだ、あの出血量は尋常ではない――――致命傷。
「しかし、牙も爪も一切使わずに殺したのはなぜじゃ…………」
フェンリルなりの情けか……と言おうとしたが思いとどまった。
「それにしてもよくやりおったのぉ、
あれから何十回、何百回と渡りフェンリルの最速の攻撃を受け続けた。
普通ならばとっくに轢殺死体として原型を留めていないが、やはり錬金術による身体強化が功を奏した。
いや、そんな余計なことをしなければ苦しまずに楽に死ねたかもしれない。
「諦めの悪さだけは人間界随一じゃったな…………引き返すぞい」
放心する黒歌を置いて、オーディンは踵を返した。
杖を一突き。
横目に彼女を見ると諭すように口を開いた。
「おぬしも、あまり悪事を重ねぬことじゃな。 好き勝手が過ぎるとこやつのようになる。
伸びしろもあって良き人材じゃったが、その精神は壊人のそれじゃったわ――――余地はない」
戦いは終わりだ、呆気ない。 罪人の末路がこれだと、オーディンがフェンリルを連れながら物憂げな瞳で月を見上げた。
ロスヴァイセ、と倒れ伏しているお付きのヴァルキリーに一声かけようとする。
帰還の時、いつまで寝ているのか、と――――呼びかけようと、した。
「この光――――」
すると、まるで後光が指すような輝きが、オーディンの背を照らした――――錬成反応である。
もはや咆哮にも聞こえる錬成反応音は、主神の目つきを変えさせる。
どこから――――
「…………」
「――――しぶといのぉ」
地面を蹴り、オーディンに向かって疾走するナインが光の中から出現した。
硫黄の構築式が刻まれた右手が前方に伸びる。
「それがおぬしの
それを見てややと片手にグングニルを構えたオーディンが首を横に振った。
「考え付いたとしても、実際やろうとする者などおらぬわ。 そのような狂気の術式を練磨したその事実、実に度し難し」
「…………あなたには用は無いのだ、どいてください」
「なに――――!?」
そんな言葉がすれ違いざまにオーディンの耳に入った。
身構える主神の横をすんなり通り抜けてしまう。
ナインの目的は、最初からまったく別のものだったのだ。
「それよりも面白い物を見つけた…………!」
満身創痍という表現すら生温い死にかけの死にぞこないがオーディンにそう言い放ちながら走り抜ける。
「む――――!?」
錬成光のあった場所を見遣ると、錬成陣が刻まれているのが確認できた。 オーディンの目が見開く。
ナインがわざわざ術を行使するために陣を描くのは、決まって爆発物以外のものだがそれは――――?
「鉄鎖ぁ!」
鉄の鎖が射出される。 放たれた先はフェンリル――――の牙。
ぐねぐねとうねりながら捕らえたのは、神殺しの大牙の片割れ。
巻き付いたことを確認すると、ナインは再び両手を合わせた――――
一条の雷が鎖を伝導していく。
「まさか!」
「―――――らぁッ!」
オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛ン―――――っ!
ドゴォォンっ! 爆発音が炸裂した。 爆心はフェンリルの牙の根元。
鉄の鎖を伝導体とした前代未聞の錬金法が敢行されたのだ。
この機を逃さず、ナインは鎖の張力を引き上げる。
未だ爆発を続ける中、渾身の力を込めた。 視界は真紅。 人体の器官のほとんどがズタボロで、半死状態だが…………
「生きている限りは諦めませんよ。 だって動けるんですからねぇ」
いま、ナインとフェンリルの牙との間の鉄鎖にかかっている張力はt単位におよぶ。
錬気の重ね掛けにより、怪力を引き出す事ができている。
「あとまぁ、へへ…………火事場のなんちゃらってやつでさぁ…………くく、へへへ」
くんっ、一引きするとそれはもう脆かった。 爆撃ですでに歯茎あたりを諸共粉砕された牙は、血飛沫とともに持ち主の口から引っぺがされた。
「ぬぅ…………やりおった」
大量の血を流すのは、今度はフェンリルの口元だった。
折られて堕ちた巨大な牙は、オーディンの前に晒される。
唖然とする他無い。 この局面で大どんでん返しに近い反撃を喰らったのだから。
雄叫びを上げて苦しそうに吠え猛るフェンリル。
その様子を視界に入れると、ナインは巻き付けた鉄鎖を振り払い、いち早く地を蹴っていた。
計算しろ。 牙を一本折られた程度で戦意を喪失するほど貧弱な犬かあれは? と。
犬? 否、狂犬とも取れる。
こんなものであの白狼が怯むものか。 ”神殺し”という名は、フェンリル自身がそう呼ばれているのだ。 牙を抜こうと、いまのナインを殺しきるには十分すぎるコンディションをフェンリルは余裕で保っている。
なら――――いましかない。
「きゃ――――ナイン!?」
「…………」
黒い和服の猫又を抱き上げて、全速力でその場から離脱していた。
みしみしと悲鳴を上げる体に鞭打ち、そして――――歯を食い縛る。
「…………悔しいという感情など久しぶりだ」
こんなところで逃げを打たなければならなくなるとは――――今後の課題ですね。 と苦笑すら乗せて、しかしイラついた表情で。
「ナイン…………」
自分を抱き上げるナインを見上げ、黒歌は呆けた表情でそう返すしかなかった。
そして自然に、手ぶらだった自分の両手を黒歌はナインの首に回す。
――――
――――しかし。
「しかしこれで――――っっ!」
いまは命を拾うことができる。 そう、思った。
「―――――」
すぐ背後に魔狼が出現していた。
逃げ、られない――――。
怖気は、黒歌の次にナインの背中をも打ちのめした。
「こりゃ、まずいなぁ………………」
一瞬の苦笑いも僅か、反転する暇もない。
爪で体を殴打されたナインは、まるでサッカーボールのそれのように地面をバウンドして吹き飛ばされていく。
オーディンは先の自分の甘さを戒めながら、今度は容赦なくフェンリルに言い渡した。
「…………いや、まだ生きておる。 先は油断したが、今回は取り逃がさん。
それにしても頑丈な男よ、フェンリルの爪で裂かれてもまだ息があるとはのぉ」
絶望的だ。 如何に抜きんでた運動能力を持っていたとしても、人は獣に追いつけない必然がある。
フェンリルの口から火が湧き出、吼え猛り、怒る。
牙を折られたのがその理由か、否か、それはフェンリル自身にしか解らないし、知れない。
「う…………」
弾き飛ばされた体を起こしながらナインを見る黒歌。 肌蹴た自分の胸元に一顧だにせず、彼と、自分の傷一つ無い体を見比べる。 その瞬間、がばりと上体を起こした。
「私なんか抱えて逃げようとするから――――!」
急いで駆け寄った。 バカ、バカと。 物言わぬ、口も利けない紅蓮の男を揺らして罵倒を浴びせる。
完全に背後からの襲撃だったため、横に抱きかかえられていた黒歌にはダメージは通らなかったのだ。
本来なら鋼鉄の衝撃にも耐えられるナインの強化体だが、やはり――――フェンリルは、強すぎる。
そして、ピクリとも反応しないナインに、フェンリルの灰色で巨大な足が近づく――――。
フェンリルはそのとき、もはや生きているかも不明な状態の赤いスーツをその黄金の瞳に映していた。
最初から紅蓮のように赤いスーツに、同化するように持ち主の血がべっとりと付いている。
「ふざけないでよ…………」
その、自分の何十倍もある巨体の白狼に向かって、黒い猫は小牙を剥くように睨み付けた。
「まだナインのこと全然知らないのに…………やっと見つけた面白そうなヤツだと思ってたのに…………!」
立ち上がった。
「なんなのよ! 私は、私たちはただ……自由に生きたいだけなのに!」
「はぐれた時点でそれは罪じゃ、SS級はぐれ悪魔、黒歌。
そしてナイン・ジルハード。 事ここに至っては野放しにゃできやせんかったわい――――単純な話、もう少し弱ければ命は繋げたやもしれぬな」
――――人間にしては、少し強すぎた。 オーディンは、まっすぐに黒歌に向かって真剣にそう言った。
「
異変が起こる。
オーディンの視界に、妙な動きをするフェンリルが見えた。
眉を顰めて念話でフェンリルに呼びかける。
生きていようと、この男は世界の為にはならない。
しかしフェンリルは、じっとナインの姿を瞳に映して佇むだけだった。
「ばかな…………」
滝のように流れていた涎が止まっている。 食欲の象徴とも言うべき垂涎が、完全に堰き止められているのだ。
オーディンはその事態に驚愕し、フェンリルの次なる妙な行動を引き止めようと声を掛ける。
無防備な獲物を前にして、この狼が食欲を失くすわけがない。
「どこへ行く!」
巨体であるにも関わらず、その歩き方は優雅で美しい。
足音一つ立てずに、ゆっくりと―――――。
「どこへ行くのかと聞いている!」
――――血溜まりの中のナインから、踵を返していたのだ。
「ぬぅ…………やはりワシの命令は通らぬか……あやつめ、余計な術を施しおって――――それが父親のやることか…………っ」
静かに義兄弟を疎むオーディン。 しかし、ここで更に妙なことに気付いた。
オーディンの発言から、フェンリルには自意識は無い状態であることが解る。 ならば、他者からの命令はもちろんのこと、フェンリル自身による意志の決定も無いに等しいはずなのだ。
命令を聞くのは、この世でただ一人――――北欧の悪神、ロキ。 フェンリルの実父。 彼しかフェンリルに命令できる者はいないはずなのに……。
明らかにロキの命に反した行動を、オーディンは腕を組んで悩んでいた。
そうして結論に至ったのが、ナインだ。 オーディンは彼に視線を返した。
信じられないことだが…………。
「ナイン・ジルハードに、フェンリルの中の何かが響いたのか…………?」
動物の本能は、人にも計れないことが多々あるように、伝説の魔獣ともなれば、神ですら解することは至難であるらしい。
オーディンは頭を掻いてイラついた――――しかしすぐに息を吐く。
「それがお前の本能の選択か。 いままでロキの命にしか従わなかった神殺しの狼が、よもやこのような局面で反目するとは…………」
初めてだった。 オーディン自身、フェンリルが自発的に爪牙を納めるのは、ロキに命じられたときのみだった。
そう、今までは。
「…………信じられんわい」
戦場だった場所に背を向け、尻尾を振り子のように振って意思表示をするフェンリル。
――――ここにもう用は無い。
オーディンは白狼を見つめて、仕方ないと言う風に杖を明後日の方に向けて突いた。
「…………行くか」
溜息のあとに苦笑いが出る。
魔方陣が主神と白狼を囲み、帰還を促すように輝きを帯び始めた。
オーディンの、どこか老獪な雰囲気が拭われる。
フェンリルの行動理念などを推測することを一切止めた老人がそこにいた。
そんな簡単に理解できたなら、父親もわざわざ愛しの息子を”支配”などしなかっただろう。
フェンリルの考えは当のフェンリル自身にしか解らない。 ゆえに考えることを止めた。
「今回はあれの本能に従ってみることにする――――これがフェンリルの気まぐれであれ、意図的であれ、初めて父親の縛りを否定したのじゃ…………あの男、生かす価値があるのかもしれん」
父親の為に産まれ、父親の為に働く。 人間界で言うところの忠犬だが、傍から見ればそれは盲目的な忠義。
ロキのすることは正しい、父親だからすべてが正しい。 当然だ、いままでそうして生きてきたのだから、おかしいことなどないと。
ナインにとってはそんな北欧の神話事情など知ったことではないが、事実上こういったあちらの関係性のおかげで命を拾ったと言っても過言ではない。
「ラグナロクはまだ遠いぞ、ロキよ。 残念じゃったのぉ」
そんな、
◇
消えて行った北欧の神話勢を、放心状態で見送る黒歌。 何が起こったか解らないこの状況。
自分たちは見逃されたのか?
「………………! ナイン!」
しかし、すぐに我に返る。 血溜まりの中に体を浸す爆弾好きな変態の顔を、その白魚のような手で叩き始めた。
「ナインってば! ナイン! ナインってばー!」
しかし起きない。 それも当然、フェンリルの突撃と爪撃を幾度喰らったと思っている。
ズタズタに引き裂かれて流血する紅蓮の男に、いま何をしようと目覚めまい。
「くっそ、間に合わなかったかよ!」
舌打ちとともに二人の頭上で、次元が開かれる。
次元の狭間を通り抜け、白龍皇、そして孫悟空が到着していた。
ナインの惨状を見るなり、孫悟空―――美猴は苦虫を噛んだように駆け寄った。
「おいおい…………」
「これは…………」
白龍皇、ヴァーリは表情を変わらずだが、戦場の傷跡を見回すと冷や汗をスッと垂らす。
「紅蓮の錬金術師…………」
「ヴァーリ…………美猴! 助けて美猴、ナインが…………!」
「分かってらい、すぐ仙術で診る」
言うと、ナインの心臓部に手を当てて呪文を唱え始めた。 その間にヴァーリが黒歌に問いかける。
「――――フェンリルが来たんだろう。 噛まれたか?」
「一回だけ、爪で思い切り殴られて…………出血量が半端じゃないにゃ!」
「…………おい黒歌」
気を重点的にナインの体に当て、内部の様子を探る美猴は、ゆっくりと黒歌に向いて目を見開く。
「これ、生きてんのか?」
「はぁ!? 生きてるに決まってんでしょう! さっきまで……喋って…………」
「…………たか?」
「………………喋ってないっ」
目の前と頭の中が真っ白になった。 そうだ、フェンリルに最後に吹っ飛ばされてからナインはあれから一言もしゃべっていない。
「それに、この体…………もう内臓部がズタズタのぐちゃぐちゃだぜぃ。 生きてる方がおかしい」
「…………! まだ息はある!」
「あるが、死んでる。 なんで息があんのか知ンねぇけど、この状態じゃ…………しかもよ、もし生きてたとしても、こりゃ治しようがねぇほどぶっ壊されてる」
赤いスーツにべったりと染みついた血を見る。 グングニルで肩を飛ばされ、壁に突き刺さり、神殺しの爪と膂力で弾き飛ばされ……。
すると、動揺状態だった黒歌の思考がやっと薄れてきた――――いままさに、黒歌の中に諦めの色が見え隠れし始めてくる。
「…………そっか」
動かないナインの傍にくずおれる。
考えてみれば彼は正真正銘の人間だったことを忘れていた。
人並み外れた戦闘力と頭の回転力を見ていると、そういったことを残さず忘却しそうになるところだ。
『人間なんてそんな大したもんじゃない』
「―――――!」
ナインの口癖が黒歌の脳裏によぎる。 目の前の血まみれのナインとその言葉が連想されてしまった。
やはりナインは嘘は吐かない。 どんなに強かろうと、人間は人間なのだと。
「…………もう少し……一緒に居られると思ったんだけどにゃぁ」
眠るナインの頬を撫でる。 撫でた手に、血が伝ってきた。
人間なんてそんなものだと心底認識しながら、黒歌はそのまま立ち上がろうとする。
ヴァーリも、美猴も、もうナインのことは目もくれていない。
短い間の付き合いだったのと、単に、自分たちはテロリストだというのを再認する。
死は付き物。 それと引き換えに得たのが自由だ、こういうこともあろう。
「…………!」
その瞬間だった。
「…………死が、迫………………って、いる、いや…………追っ…………てくる…………くふふっっふはっ、そこまでぇ…………っ」
その擦り切れそうな低い声音に、バッと黒歌は振り返る。 途端、真っ赤な手が立ち上がろうとしていた彼女の腕を掴んでいた。
――――笑っている。
ぎりぎりと痛いほど掴まれるが、黒歌はそれよりも死んだと思っていた男が口を利いた事に驚いた。
ナインの頭を自分の膝に乗せて呼びかける。
「…………! な、ナイン?」
「おい、黒歌。 ちょっと執着しすぎじゃねぇか? いくらお気に入りだったっておおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」
黒歌の声に、呆れながら振り返る美猴も仰天した。
そこに息も切れ切れのナインが死に体になりながらも這いずっていたのだ。
思わず如意棒を取り落とす取り乱しっぷりだ。
「な…………はぁ!?」
「…………まさか、これで生きているのか、ナイン」
有り得ないという風に大声を張り上げた美猴に、ヴァーリも気づき目を見開いた。
内臓もズタズタ、致死量の出血もしていた。 あれから30分以上動かない、喋らない。
そんな屍のような男が、いま黒歌の腕を掴んで薄ら笑っている。 まるで、髑髏が笑っているようにカタカタと。
「…………ど、どうやって生きてンだよこれ…………つか、なんで生きてられるんだよ」
「美猴、運ぶわよ」
「へ?」
「ナインを運ぶって言ってるにゃ! まだ生きてる!」
「いやだってこれどうみても――――」
「喋ってるんだから、生きてるでしょー!」
「―――――! わ、わぁったよ!」
がしがしと頭を掻きながら仕方なく黒歌とともにナインを運ぶ。
美猴が足を、黒歌が頭を持って転移していく。
すると、ヴァーリがあちらでも何かに向かってしゃがみ込んでいるのが見えた。 美猴が訝しんで彼を急かす。
「ヴァーリ、行こうぜ」
「…………こっちにヴァルキリーが倒れているぞ?」
ぐったり倒れ伏す美麗な戦乙女をこれ、と指差すヴァーリ。 美猴に目配せをされた黒歌は、一瞬固まる。
「…………ヴァーリ、とりあえずそいつも持ってきてくれないかしら、事情はよく知らないけど」
月光の照る夜、北欧勢との戦い。
己の死を否定して現世に舞い戻った狂人が降臨することになった。
ついでに、事情不明の戦乙女もヴァーリの白銀の鎧の肩に担がれたのだった。
「いよいよもって凄まじい。 天はお前に何をさせようとしているのかな」
突然且つ勝手だが、フェンリルの容姿は作者の中ですでに脳内補完されている。
テレビアニメで見た瞬間「よろしい、ならば戦争だ」レベルで遺憾だった次第でして。
原作で一番初めにワンワンが出て来たときは、某吸血鬼漫画のCV不在のあのヴェアヴォルフ大尉を思い浮かべた訳で。
わんわんお。
尚、このときはまだロキによる強化は施されていません。