『それ』はある日の夜、妹の矢矧の一言から唐突に告げられた。
「阿賀野姉、明日から特訓だから」
「え?」
「長良さんとだから」
「えぇ!?」
「2ヶ月やるから、よろしくね」
「えぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
あまりに突飛なその内容に、私は近所迷惑も考えず、叫び声を軽巡寮に木霊させてしまっていた。
翌日、私はスマホの着信音で目を覚ました。重たい瞼を擦りつつ手を伸ばし、スマホの光に目を細めて着信元を確認すると、そこには長良さんの文字が浮かび上がっていた。
「うわぁ……本当に来た……」
ひょっとしたら矢矧が脅しで言ってただけなんじゃないかという淡い希望を打ち砕くその着信に私は声を漏らし、眉を顰める。一瞬、このまま電源を切って籠城するなんて考えが眠気でぼんやりとした私の頭をよぎるが、仮にそうしても何か別の手段を用意してくるだろう。私は観念して応答のアイコンをタップする。
「……もしもし……何ですか……」
『あ、阿賀野起きた? 部屋のドア開けてくれる?』
「…………」
挨拶も無しに要求をしてくる長良さん。どうやら部屋の前まで来てるみたいだ。
「はぁ……」
ため息をついて、もそもそと立ち上がり、のそのそとドアの前まで歩き、一呼吸置いて勢いよく部屋の扉を開ける。
「おはよう阿賀野! ランニング行こっか!」
すると、そこにはうんざりするくらいハキハキと喋る、キラキラとした笑顔の長良さんが立っていた。
「……長良さん」
「ん?」
「……早くないですか? まだみんな寝てる時間ですよ……」
そんな長良さんに私は遠回しかつやんわりと拒絶の姿勢を示す。
「そうだね! じゃあ走ろっか!」
「…………」
伝わっていないのか、それとも分かっていて無視しているのか、長良さんは私を走らせようとする姿勢を崩さない。突然告げられた長良さんとの二ヶ月の特訓生活。その一日目はこんな感じで始まった。
太陽が登り始めた空の下、まだ皆が目覚めていない静かな、でも見慣れた場所を二人で走っている。
早朝の澄んだ空気が心地いい。こんな時間に起きてランニングなんてあり得ないと思ったけど、案外悪くないかも。長良さんと一緒じゃなければ。
「長良さ〜ん」
「なに?」
「ちょっと休みません?」
「駄目」
「もう1時間は走ってますよ〜」
「それくらい普通でしょ」
「長良さん足速いんですも〜ん……追いつくの大変で……」
この早朝ランニングはただ走れば良いという訳ではなく、走る位置が決まっている。その位置というのが、長良さんの前にはいくら行ってもいいけど、後ろに下がりすぎてはいけないというもの。
もし下がり過ぎた場合、長良さんが背中がヒリヒリするくらいバンバンと平手で何度も叩いて加速させようとする。
つまり、長良さんのペースとほぼ同じかそれ以上のペースで走らないといけないのだ。軽巡どころか鎮守府全体で見ても長良さんの持久力と走力に何時間もついてこられる人は少ないっていうのに、軽い準備体操みたいな感覚でやられるんだから堪ったもんじゃない。
「情けない事言わない! ほら! ペース落ちてるよ!」
しかし、休ませる気など毛頭ないと言わんばかりに長良さんがペースを上げ始める。
(ひ〜〜……)
特訓はまだ始まったばかりだ。
「よし! 朝の分はとりあえずこれで終わり」
「はい……」
「次は筋トレだから!」
「うえ……」
始まったばかりで私は既に息も絶え絶えだが長良さんはまだまだ元気全開って感じだ。
「筋トレしよっか」
「はぁ〜い……」
屋内に移動して今度は筋トレ。長良さんの筋トレと聞くだけで身構えてしまう。一体何をやらされるのか。
「じゃあまず腕立て伏せからね」
「どれくらいやるんですか?」
「最初だし、軽めに500回くらいで行こう」
「へぇ〜、50回」
「500回」
「意外と少ないですね、50回って」
「500回」
「長良さんのことだからいきなり100回くらいやれっていわれるのかと思いましたよ〜」
「500回」
「…………」
「…………」
スッと笑顔が消え失せ、真顔、かつ無言で視線を交わせる私と長良さん。その間には何とも言えない静けさがあった。
「えー……」
「できないの?」
「できませんよ……」
「最新鋭なのに?」
「やります!」
「よしきたー! じゃあ500回スタート!」
我ながら非常に簡単に乗せられてるとは思うけど、こんなことを言われたら最新鋭としてやらない訳にはいかない。
「その調子だよ! 頑張って!」
声がした方を向くと、いつのまにか長良さんが隣で腕立てをしている。それも私の倍以上のペースで上下に動いている。こんなに速く腕立てする人初めて見た。
「阿賀野、手止まってる」
「え? あ、はい!」
長良さんの指摘に、慌てて腕立てを再開したがさっきの様な勢いは無くなっていた。
「よーし筋トレ終わり! どう? 阿賀野」
「疲れました……」
「そっか~」
「……長良さん」
「ん?」
「これ、矢矧に頼まれたんですか……」
「うん! 矢矧が阿賀野のことを鍛え直してほしいって!」
「やっぱり……」
「あと『最近阿賀野姉の怠けぶりが酷くて……! このままトイレにいくのもお風呂に入るのも怠けるようになったらもうどうしたら……!』って矢矧が言うからこれはマズイって長良も思ってさ……。もう二つ返事でオーケーしちゃった!」
「矢矧ぃ~~~!!」
長良さんの口から語られた黒幕の名前を、私は歯を食いしばり、叫ぶ。まぁ矢矧が唐突に言い出したあたりそうだろうなとは思っていたから頼んだ部分は……よくはないけど今はいい。許せないのはその頼み方。
「『このままトイレにいくのもお風呂に入るのも怠けるようになったらもうどうしたら……!』って何!? 私をなんだと思ってるの!? そこまでしないから!」
「本当に?」
「本当です!」
「本当に?」
「本当です!!」
「本当に?」
「本当ですよしつこい!!!」
頑なに疑う姿勢を崩さない長良さんに私は怒気を含んだ叫びを返す。
「大体長良さんもそんなのに二つ返事でオーケー出すってなんなんですか!? 一体何考えてるんですか!?」
「はは、ま、筋トレも終わったし朝ご飯食べよっか」
「ちょっと話をはぐらかさないでくださ……え? ここで食べるんですか?」
「うん、はいこれ」
長良さんが差し出した白い楕円形の球体を受け取る。
「卵……?」
「そ、生卵」
長良さんが持っている卵をふたを開けるようにして上部の殻を取るとちゅるんという音を立てて一口で食べる。いや、食べたというより飲んだという方が近い。
「…………」
長良さんと同じくふたを開けようにして上部の殻を取ると、何の変哲もない生卵が顔を覗かせる。何だろう。色々言いたいことはあるけど今一番言いたいのは。
「……これだけですか?」
「まさか。他にもあるよ」
「で、ですよね〜!」
「はいこれ」
長良さんが再び白い楕円形の球体を差し出してくる。
「…………」
「もうないよ」
「!?」
特訓はまだまだ始まったばかりだ。でも阿賀野の心は既に挫けそうだった。
「じゃあ走り込みやろっか」
「もうやったじゃないですか……」
「あれは走り込みじゃなくてランニングだから」
「一緒じゃないですか」
「一緒じゃないよ」
「何が違うんですか」
「それはやってみれば分かるよ」
「…………」
筋トレの疲れがまだ抜けない中、再び屋外に移動して告げられた次の特訓は走り込み。長良さんが一緒じゃないと言ったということは、少なくとも朝のランニングよりは確実にキツイことがわかる。
「長良さ〜〜〜〜ん!!」
「……なに?」
「休ませてください!!」
「駄目、まだ始まったばっかり」
「限界です!!」
「そっか」
「…………」
「…………」
「ちょっと!?」
長良さんの言う通りやってみたら直ぐに分かった。私の必死な呼びかけを一蹴して長良さんは走り続ける。駄目だ、長良さんは当分私を休ませる気が無い。
辛い。シンプルに辛い。ランニングのときより速いスピードで、それでいてランニングのときより長い時間走る。ただでさえ速い長良さんに追い付くために口から必死に酸素を取り込んで走り続ける。
そんな私とは対照的に長良さんは余裕たっぷりの涼しい顔して走っている。やっぱりこの人色々おかしい。
「ゲホッ!! ゲホッ!!」
永遠に続くかと思った時間が終わり、やっと水分補給の休憩を貰う。蛇口を思いっきり捻って水を飲んだせいで思わずむせてしまうがそれでも蛇口に喰らいつく様にして水を飲む。
「阿賀野ちゃん、大丈夫?」
「那珂ちゃん!」
後ろから声をかけられ、首を動かすと、心配した表情を浮かべた友人が立っていた。
「何か今にも死にそうな顔して走ってたからさ……」
「あぁ……うん……」
「長良ちゃんと一緒なんて珍しいね、何かあったの?」
「実は……」
那珂ちゃんにこれまでの経緯を説明する。
「あ〜……なるほど……矢矧ちゃんに頼まれてね〜……」
「もう朝からヘトヘトだよ〜……」
「能代ちゃんはどうしたの?何か言ってた?」
「それが能代はちょうど昨日から酒匂も連れて長期遠征に行っちゃって……」
「あー……それって……」
「何でこんなタイミングよく居なくなっちゃうのよ能代〜」
「…………」
「…………」
「あっ! もしかして! 私の特訓があるから長期遠征に!?」
「多分そうだと思うよ……」
「阿賀野休憩終わりだよ」
「うわぁ!? 長良さんいつの間に!」
突然会話に割って入ってきた声に驚いて振り返ると長良さんがいつの間にか私の背後に立っていた。
「長良さん! 能代と酒匂の遠征って長良さんが頼んだんですか!?」
「うん、そうだよ」
「あぁ……そんなあっさり……」
へなへなと地面に座り込む。まさかそんな所まで根回しされているとは夢にも思わなかった。
「ほら阿賀野早く立つ! 走るよ!
「え〜……まだ走るんですか?」
「当然! まだ100周しか走ってないからね、あともう100周は最低でも走っておきたい」
「え〜……」
「出来ないの?」
「出来ませんよ……」
「最新鋭なのに?」
「きっらり〜ん☆ 平気ですよこれくらい!なんたって阿賀野は最新鋭なんだから!」
「よし、じゃあ200に増やそう」
言うんじゃなかった。
「走り込み終わり! 阿賀野、今度は艤装使った特訓するからね」
「…………」
「阿賀野ちゃん大丈夫? 生きてる?」
地面にうつ伏せで張り付いてる私を心配して声を掛けてくれる友人に返事することも出来ず、私はしばらくその場から動けなかった。