長良さんが部屋を出た後、那珂ちゃんに、しばらくして能代、酒匂、矢矧が来てくれた。酒匂は純粋に喜んでくれて、能代と矢矧は喜びよりも安堵の方が大きくみえた。能代達が来たすぐ後に今回一緒に出撃した十駆と十七駆の子達も私の様子を見に来てくれた。それぞれ反応は違うけど、みんな私を心配して来てくれたみたい。
そうして私のベッドの周りに人だかりが出来た頃、明石さんがその人だかりをかき分けて私の前に現れた。改めて明石さんに検査してもらったところ特に問題も無いようなのでそのまま入渠して傷を癒す。そして傷が完全に治った頃にはみんな眠っている時間だった。
軽巡寮の自分の、いや、長良さんの部屋に戻ると空っぽの布団の隣で長良さんがしずかに寝息をたてている。起こさないようにゆっくりとした足どりで自分の布団に潜り込む。
「……お休みなさい」
「お休み」
「…………!」
暗闇の中、確かに私の鼓膜に響いたその声の方へ視線を向けると、変わらない長良さんの寝姿があった。
「……はい」
その一言で、私は特訓最終日を終えたのだった。
「お別れだねー」
「そうですね」
「といっても部屋変わるだけなんだけどね」
翌日、ほとんどの荷物の移動が終わって残るは僅かな手荷物だけになった私はもういつでも自分の部屋に戻れる状態だ。
「長良さん、特訓……ありがとうございました」
「どういたしまして。これに懲りたら今度から矢矧達にちょくちょく真面目なところ見せてあげな」
「はは……」
「じゃあね」
「……あの!」
「……どうしたの?」
短い別れの言葉と共にドアを閉め始めた長良さんを慌てて呼び止める。呼び止められた長良さんはドアノブから手を離して目線を私に向ける。
「最後にお願いがあって……良いですか……?」
「……もちろんいいよ。お願いって?」
「長良さん……私……その……楽しかったです」
「…………」
「だから……たまにでいいので……また一緒に走ったりとか……したいなー……なんて……良いですか……?」
恐らく夢にも思っていなかっただろう私の言葉に長良さんは目を丸くしてキョトンとしていた。しかしそれも束の間、長良さんは一転、あどけない、心の底から喜びに満ちた笑顔に変わっていく。
「うん!もちろん!いつでも待ってるよ!」
弾んだ声で私の願いを聞き入れてくれた長良さんを見て、私も自然と笑みをこぼしていた。
「ありがとうございます……」
こうして、私の突如始まった、長良さんとの二ヶ月の特訓は幕を閉じた。
「のしろ〜、いる〜?」
「阿賀野姉、どうしたの?」
「あっ、のしろ〜。そこのお菓子とって」「え? 阿賀野姉からの方が近いんじゃ……」
「だってほら、手伸ばしただけじゃ届かな〜い」
「なにそれ……はい」
「ありがとう〜のしろ大好きよ!」
「ちょっと能代姉やめて!」
特訓が終わって一週間、私はすっかり今までの日常に戻っていた。
「せっかく特訓してもらったのに……阿賀野姉どうして……」
「え〜……いくら特訓したからって別人みたいにシャキッとなったらそれはそれで気持ち悪いじゃない。ねぇ能代」
「……確かにずっとシャキッとしてる阿賀野姉って想像出来ないけど……」
「ほらー、能代もそう言ってるよ矢矧〜」
「……能代姉が甘いのよ」
内容に差異はあれどこんな感じの、何回繰り返したか分からないやり取りに余計戻って来たことを実感する。
「ぴゃー、でも阿賀野姉前と少し変わったと思うよ」
「え〜そう? じゃあ酒匂は阿賀野のどこが変わったと思う?」
「ぴゃん、阿賀野姉前よりかっこよくなったと酒匂は思う!」
「ふふーん、そうでしょ!阿賀野ったらただでさえ最新鋭でかっこいいのに更に磨きがかかっちゃったんだから!」
「ぴゃー! 阿賀野姉かっこいい!」
私と酒匂のやり取りを見て、苦笑してる能代と腑に落ちないという矢矧の顔。こんな光景も何回見たか分からない。
「もう阿賀野姉、そんなことで良いの? 阿賀野姉が長良さんとの特訓中に出撃したところにまた深海棲艦が来たの知ってるでしょ?」
「でもそれは那珂ちゃんと4水戦がやっつけたんでしょ? もうボッコボッコにしたって那珂ちゃん言ってたわよ?」
「そうじゃなくて! 深海棲艦がまた活発になってきてるってこと! もしかしたら近いうちに大規模な作戦があるかもしれないのにそんなのんびりしてたら……!」
「大丈夫よ」
私がそう言うと、捲し立てるように話していた矢矧の喋りがピタリと止まる。
「大丈夫」
矢矧の方へ向き直り、もう一度そう言って笑う。
「阿賀野姉……」
声を漏らす矢矧の顔からはさっきまでの険しさの一切が消えていた。それと一緒に部屋の喧騒も消えており、ノックの音が鮮明に耳に入る。一番近くにいた矢矧がノックの主を確認しようとドアを開ける。
「あ、矢矧。阿賀野居る?」
「長良さん」
「今度の演習のことで話したいんだけど……」
「は〜い、阿賀野はここに居ますよ〜」
ノックの主である長良さんに呼ばれた私はドアの方へ向かって行く。
「演習ですか?」
「そう、駆逐艦の子達も交えてやるから向こうで話したいんだ」
「わかりました〜。じゃあそういう訳だからちょっと行ってくるね〜」
妹達に手を振って長良さんと一緒に他愛もない会話をしつつ歩いていく。少しして後ろを振り返ると矢矧がまだ部屋の前に立っていたので小さく手を振ると、矢矧も小さく手を振り返していた。
「矢矧、阿賀野姉ちょっと変わったわよね」
「……そうね」
「特訓してもらった甲斐があったわね」
「……そうね」
「……嬉しい?」
「まあ……少しは……」
「矢矧ちゃん……少しだけなの?」
無垢な疑問をぶつける酒匂に、矢矧はばつが悪そうに目を伏せる。能代がクスリと笑い、口を開く。
「矢矧、これで良かったんでしょ?」
「……そうね」
能代の言葉に淡白な答えを返す矢矧。その顔には、微かだが確かに笑みが浮かんでいた。
まだみんなが眠っている時間に目が覚めた。聞こえてくるのは鳥の鳴き声だけ、生活音が一切しない早朝の寮の廊下を私は一人歩いていた。
「おはようございます長良さん」
「おはよう阿賀野」
寮を出ると準備運動をしている長良さんがそこにはいた。
「走り込みしよっか」
「はい」
太陽が登り始めた空の下、まだ皆が目覚めていない静かな、でも見慣れた場所を二人で走っている。
「長良さ〜ん……」
「何?」
「……何でもないです」
「ハハッ、何それ」
「えへへ……」
早朝の澄んだ空気が心地いい。こんな時間に起きてランニングなんてあり得ないと思ったけど、案外悪くない。長良さんと一緒に走っていると、そう思えた。