「……落ち着いた?」
「……はい」
長良さんの手が止まり、私も顔を上げる。鼻をすすり、残った涙を拭うと、長良さんの服が私の涙と鼻水で濡れているのが見えた。
「すいません長良さん……服を汚してしまって……」
「いいよこれくらいへーきへーき」
そう言って笑う長良さんに私も釣られて破顔すると、部屋に入る光の色が赤みを帯びていることに気付く。
「長良さん……阿賀野……どれくらい泣いてました……?」
「ははは、大丈夫。そんなに長いこと泣いてないから」
「そう……ですか……」
心の中を見透かされたようでなんだか恥ずかしい。でも、不思議と嫌な気分はしない。
「それじゃあ、長良はそろそろ行くから。明石さん呼ばないと行けないし、長良ばっかり話してたら那珂ちゃん達に悪いしね」
そう言って立ち上がり部屋を出ようとする長良さんを見て、そういえば自分はしばらく意識を失っていて、ついさっき目覚めたばっかりなのだということを思い出す。
「それじゃあ。またね、阿賀野」
「はい……また……」
扉に手をかけたまま笑顔で小さく手を振る長良さんに私も小さく手を振りかえす。私が手を振ったことを確認すると、ニコリと笑って長良さんは部屋を出た。そして、入れ替わるようにして那珂ちゃんが部屋に入ってくる。
「阿賀野ちゃん!大丈夫!?」
「那珂ちゃん!」
心配の言葉を掛けてくれる傷の癒えた友人を、私は笑って迎え入れた。
日が傾き、朱色に染まった太陽の光が浮かぶ雲に赤いハイライトを入れていく時間。長良は鎮守府の屋上で柵に両手をついたまま風に吹かれ、夕陽を眺めていた。
すると、ドンッとボディタッチにしては強めの衝撃が長良の背中に伝わり振り返る。するとそこには笑顔の那珂が立っていた。
「……どうしたの?」
「長良ちゃんに言いたいことがあって」
「言いたいこと?」
そう言って那珂は長良の隣に移動して柵にもたれかかると長良の方を向いて話始める。
「阿賀野ちゃんのこと、泣かさないでよ」
そう力強く言い放つ那珂の表情と瞳は射抜くように鋭く力強い。そんな那珂に長良は驚きの表情を浮かべるがすぐに目を細め、困ったように笑う。
「ごめん……そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「反省してる?」
「してるよ」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ許す」
さっきまでの力強さが嘘のように消え、パッと明るい顔を見せる。そんな那珂に長良は苦笑すると口を開く。
「聞いてたんだ。阿賀野と話してるところ……」
「ずっと聞いてたよ〜。あーあ、長良ちゃんが羨ましいな〜阿賀野ちゃんに『ずっと尊敬してます』なんて言われちゃってさ〜。那珂ちゃんだってそんなこと言われたことないのに」
両手を組んで伸びをするように頭の上に突き出して少し不機嫌そうに言う那珂に、長良はクスッと笑う。
「那珂ちゃんのことも尊敬してるよ。間違いなく。ただ普段は言わないだけだよ」
「そうかもしれないけどさ……なんか嫉妬しちゃうんだよね。那珂ちゃんの方が阿賀野ちゃんとの付き合い長いのに、阿賀野ちゃんの弱いところを見つけてあげられなかったんだもん……」
目を伏せ、弱々しく、最後には呟くようにして那珂は心情を吐露する。阿賀野の友人として、彼女なりの矜持があったのだろう。
「……阿賀野には阿賀野なりの意地とプライドがあるんだよ。で、そういうのは中々口に出せないものって那珂ちゃんも分かるでしょ?」
「それは……分かるけど……」
那珂が歯切れの悪い返事をすると、2人の間に静寂が横たわるが、それはすぐに破られることになる。
「ま、良いや。大事なのは阿賀野ちゃんの心のモヤモヤが晴れたってことで、誰が解決したとかじゃないから」
そう言って手を叩きニカッと笑う那珂にさっきまでの弱々しさはまるで感じられない。そんな那珂に釣られるようにして長良の口角が上がる。
「それじゃあ那珂ちゃんもう戻るね。長良ちゃんはまだここにいるの?」
「そうだね……もう少し風に当たってる……」
「……阿賀野ちゃんの嬉しい本音を聞けた余韻に浸りたい感じ?」
「うん、そうかも」
淡白に、しかしはっきりとそう言い放つ長良を予想だにしていなかったのか、那珂のイタズラっぽい笑顔が消え、目を見開く。それも束の間、すぐに目を細める。
「……今更だけど長良ちゃん変わったよね。昔のバシバシした長良ちゃん結構好きだったんだけど」
「……そんなに変わった?」
「変わった」
その言葉を最後に那珂はいまいち納得していない長良に背を向け、歩き始める。扉に手をかけ、半分程開いたところで長良の方へ振り返る。
「あ、最後に言っときたいことがあるの」
「なに?」
「支援ありがとう。じゃあね」
そう言ってキラリという音が聞こえてくるような笑顔を浮かべ、那珂は扉の向こうへ消えていった。
それから少しして、ガチャリという音を聞いた長良は振り返る。
「長良さん。阿賀野姉のこと、改めてありがとうございます」
振り返った先にいた矢矧が深々と頭を下げると、長良はそのまま柵にもたれかかる。
「危なかった阿賀野姉の援護と、その後の曳航……このお礼は必ずします」
「それ、前も言ってなかった? いいよそんなの」
「いえ、させて下さい。そうしないと私の気が済まないので」
澱みなく言い放つ矢矧に長良は困ったような笑顔を見せる。帰投直後に今と同様の感謝の言葉を既に矢矧から受け取っているからだ。
「それと、阿賀野姉の特訓の件もありがとうございます。このお礼も出撃の件と合わせて必ずします」
「長良は別にお礼されるようなことしてないよ。阿賀野が頑張っただけ」
「それでもです」
「……矢矧の中で長良の評価やたら高いよね……何で?」
「『覚悟だけで何かを守れる程甘くない』……覚えてますか?」
「……覚えてる。言ってたね、そんな偉そうなこと……」
矢矧から目を逸らし、ボソッと呟くように声を発する長良は、那珂曰く『バシバシしていた』頃のことを思い返していた。
「私は、着任した時からその言葉を忘れたことは一度もありません。あの時の長良さんの言葉があったから、私はここまで来れました」
「…………」
「だから、阿賀野姉のことも長良さんなら大丈夫だと思ったんです。実際、長良さんは私が想像していたよりずっと良い方向に阿賀野姉を導いてくれました」
「大げさ……買い被りすぎだよ……」
「……長良さん。私は長良さんはもちろん。私の前を走った軽巡の先輩達はみんな尊敬してます」
「……うん」
「阿賀野姉もその1人です」
「…………」
「尊敬する先輩としての阿賀野姉と私達阿賀野型の長女としての阿賀野姉。その両方の役割をきちんと果たしてほしいんです。阿賀野姉にはそれができる力があるんですから」
「……そうだね」
「そんな阿賀野姉を鍛えなおしてくれた長良さんに、感謝して何か問題がありますか?」
「……分かった。そこまで言ってくれてるのに受け取らない方が失礼だもんね……」
長良の言葉に矢矧の表情がフッと柔らかくなる。それと同時に、2人の周囲の空気も同様に柔らかくなる。
「今回のことで阿賀野姉も少しは自覚が芽生えたと思いますし、これを機にもう少し色々と真面目に……」
「そんなに阿賀野に真面目にやってほしいの?」
「当然です! だって阿賀野姉は私や長良さんと同じ十戦隊の旗艦で、駆逐艦を率いるんですよ! あんなダラけてたら困ります! もっとシャキッとしたところを見せてもらわないと!」
「ふふ、そうだね。矢矧は大好きなお姉ちゃんのかっこいいところをいっぱい見たいだけだもんねー」
「……その言い方やめて下さい」
「ごめ〜ん」
「…………」
頬に微かに朱を刺して、明らかにトーンダウンする矢矧は軽く謝る長良に僅かだが非難の目をむけると、長良の直ぐ隣の柵へもたれかかる。
「……でも、今回のことで阿賀野姉の長良さんへの変な抵抗が無くなったみたいで良かったです」
「うん、ありがとうね矢矧」
「ええ、本当に良かったです。長良さんの方も」
ふっと微笑み、独り言のように溢した矢矧のそれに、長良はハッとして矢矧の方へ首を動かす。
「……気づいてたの?」
「長良さんも阿賀野姉も、何か吹っ切れたような顔してましたから」
「……鋭いね、矢矧」
「見れば分かりますよ」
「ハハッ、そっか」
長良が短く笑うと、風が二人を撫でた。
「風が気持ちいいねー」
「そうですね」
特訓最終日の残り僅かな時間を、長良は穏やかに過ごしていった。