「ヒメコちゃん、お見舞い行かないの?」
早朝の喫茶リコリコの片隅で、一人黙々と朝のコーヒーに口を付けていたヒメコ。そんな彼女に、千束は疑問の言葉を掛ける。
「スミレちゃんが言ってたんだよね。先輩の顔見てないってさ」
DAの任務で負傷したスミレは、長期の入院生活を余儀なくされていた。千束やたきなは入院中のスミレを見舞いに行ったが、ヒメコだけは顔を出せずにいたのだ。
「色々忙しかったからな……」
ヒメコは、装備や車両を強引に借りた事をミカやミズキに叱られ、楠木からは厳重注意を受けて釘を刺されていた。クルミは、完全武装したヒメコが道路交通法に違反しながら深夜の東京をかっ飛ばして行く監視カメラの映像を見ながら思った。コイツ、捕まった方が世の為なのでは?
「あはは……仕方ないよ。ヒメコちゃんが悪いからねー」
流石に、千束も庇えずに静観するのみだった。気持ちは分かるけどねえ。ダメなものはダメだよ。
「本当に申し訳なく思っている」
「楠木さん、おっかなかったね。自首するかリコリスに排除されるか選べ。ラジアータが排除対象としてお前を検出していたぞ。ってね」
楠木司令の声真似をして千束は笑う。クルミは冗談じゃないと呆れ顔だ。
「見ろ。銃器での武装、爆発物や刃物の所持、高度な軍事訓練を受けた経歴からラジアータが算出したヒメコの脅威レベルだ。近隣の支部のリコリスに出動要請が出たのを楠木が握り潰した形跡がある」
「うわぁ……マジで? ……冗談じゃなかったの?」
眉を顰めて千束は閉口した。彼女は脳裏で思い描く。白熱するカーチェイス、そして、リコリスvsヒメコ! あ、これシャレにならん奴だ。主に楠木さんの胃が。
「でも、もう一段落ついたんでしょ? 確か、自首したとか」
「運転免許取り消しだな。人身事故にはならなかったし、当人の反省も踏まえて行政処分と反則金だけで済んでる。ボクが調べた限り、銃器の持ち出しについては無かった事にされてるな」
「それがバレたら、芋づる式にDA支部喫茶リコリコまで波及しちゃうからね」
「とうとう、リコリコの常連客から犯罪者が出てしまいましたね」
「……」
借りて来た猫のように小さくなるヒメコ。彼女は何度も千束やたきなに平謝りしながらも、何処か確信犯染みた落ち着きを持っていた。ミズキは溜息を吐く。この子、悪いとは思ってるけどスミレの為だから仕方ないとか考えてるわね。ホント、もう、おバカ!
「スミレちゃんも心配してたよ。怪我人に心配させちゃダメだよ〜」
「そうだな……」
ヒメコは浮かない顔をする。それを見て千束は首を傾げた。
「もしかして、喧嘩したとか?」
「いや、そんな事は無い。ただ……」
「ただ?」
ヒメコは俯いて沈黙した。しかし、千束は彼女の隣席に腰掛ける。答えを聞くまで去るつもりの無い意思表示だ。ヒメコは諦めて口を開く。
「私はその、スミレに合わせる顔が無いというか……。色々とみんなに迷惑を掛けた──犯罪者だから」
ヒメコは頭を抱えて塞ぎ込む。しかし千束は、ボードゲーム会用の備品であるピコピコハンマーで彼女の頭を叩いた。何処からともなく取り出されたそれは、何度も振り下ろされてキューキューと気の抜ける音を立てる。
「ヒメコちゃんは馬鹿だなあ。例えそうでも、ヒメコちゃんがそうしなかったらスミレちゃんは死んでたんだよ?」
「……」
「まあ、法律違反はダメだけど──ヒメコちゃんは命の恩人なんだから、胸を張って顔を出しに行けば良いじゃん。と言うか、リコリス達だって捕まってないけど人殺しまくってるし?」
「ヒメコさん、そんなに落ち込まなくても良いです。もし千束が同じ状況だったら、私も同じ様にしたでしょうから」
「マジで? 私の事をそんなに大事に!?」
つんと、たきなはニヤける千束を無視して店の奥へ向かいながら、誰にも聞こえない小声で答えた。
「当たり前です」
「行っちゃった。たきなったらノリが悪いんだから」
調子を戻して、千束は胸を張って言う。
「千束先輩からのアドバイスだ。スミレちゃんは怪我をして入院中。折角、ヒメコちゃんがお見舞いに行ける機会があるのに、こんな所でコーヒーを飲んでるなんて、
千束はヒメコの背を押し、手を引き、彼女をリコリコから追い出す。
「スミレちゃんのお見舞いに行くまで、ヒメコちゃんはリコリコには出入り禁止!」
追い出される最中、ヒメコは困惑した表情でミカに助けを求めた。しかし、彼は取り合わない。
「ちゃんと、顔を出しに行きなさい」
ミカは千束を誇るかのように、そして、子供の我儘に困らされた大人のように微笑んだ。為す術なくリコリコの店前に放り出されたヒメコは、呆然としてから我に返って踵を返す。
「あの、代金を──」
「出禁で〜す。お帰りください!」
しかし取り付く島もなく、千束に扉を閉じられた。
「……」
ヒメコはソファーに座ってテレビのニュースを眺めていた。リコリコを出禁になり、スミレの寮に屯する事もできない現在、彼女は契約しているアパートで暇を潰すしかなかったのだ。
ヒメコが契約しているのは、1LDKの間取りで、バス・トイレ別のシンプルな賃貸アパートだ。一人暮らし用としては広めの、彼女の収入で問題のない範囲で拘った物件である。
「……」
しかし、本来は憩いの場である筈のリビングで、無表情のヒメコはバター味のシリアルバーを淡々と齧っていた。間取りにキッチンはあるものの、彼女が自ら調理をする事はまず無い。自分で調理する時間があれば、既成の食品を買い溜めすればいい。長持ちして栄養バランスが取れていて、美味しいのなら言う事なし。ヒメコはそう考えていた。
その結果、ヒメコのキッチンの収納には栄養補助食品のシリアルバーが山積みだった。朝食、シリアルバー。昼食、DAで日替わり定食。夕食、シリアルバー。そんな食生活である。因みに、スミレはこうした悲惨なヒメコの食生活を知らない。
「……」
ヒメコは手持ち無沙汰だった。千束から借りた映画や、図書館で借りた書籍も目を通し終えている。こんな時は、リコリコに顔を出したりスミレに会いに行ったりするのがヒメコの常だったのだが、今はその両方ともが叶わない。
「あ……」
ボロボロと、シリアルバーが口元から溢れた。ヒメコは足元の欠片を纏めて、掃除機を掛ける。するうち、どうせならシャワーも浴びて寝る用意を済ませてしまおうと、彼女はバスに向かった。真昼間である。あまりにもする事がなく、普段の習慣が半日ほど前倒しになっていた。
「着替えは、適当で良いか」
ヒメコは、衣服の収納ケースから着替えを手に取る。しかし、彼女は溜息を吐いて項垂れた。私は何をしているのか。する事がない? 嘘を吐け。スミレを見舞いに行かなきゃならないのに。
「顔を出す……か?」
二の足を踏んでいたヒメコの携帯が鳴る。出てみると、聞き慣れた声がした。楠木司令だ。彼女は休み中のヒメコに連絡を入れた事を謝ってから話を切り出した。つまり、緊急の用件ではないと言う事だ。
「少し時間が取れそうだ。会って話したい事が幾つかある」
「では、司令室に」
「いや、食堂で話そう」
大した話ではない。そう断る楠木司令に、意外だなと思いつつもヒメコは頷いた。多忙な司令にしては、随分余裕がありそうだ。ヒメコは待ち合わせの時間を聞いてから、アパートを休日の私服姿のまま後にした。
「慣れないな……」
普段の職場を私服で訪ねる。すると、ヒメコは少し奇妙な感覚を覚えた。心なしか、すれ違うリコリス達の視線も違って見える。食堂に着いて見ると、時間帯故か利用者は疎だった。昼過ぎ過ぎて八つ刻と言った頃、どちらかと言うと昼食ではなく軽食を口にするリコリス達。そんな中で、一際ポツリと席についている楠木司令がいた。
「失礼します」
見事に避けられてますね。そう口に出すのを堪えたヒメコは、楠木の隣席に腰を降ろす。
「適当に軽食でも取りながら話そう。私の奢りだ」
楠木は、かりんとうを齧る。ヒメコも同じ甘味のかりんとうを用意して口を付けた。
「それで、何の話でしょうか?」
「スミレの件は、残念だった」
リコリス達からの視線が、チラチラと向けられていた。司令と私服姿の元ファーストが、二人してかりんとうを齧っている様子は、何処となくシュールな情景だ。どう言う組み合わせで、どんな状況なのか、好奇の目が集まっていた。
「長期の入院とリハビリが必要だ。その上で、左腕は元通りには治らん」
「そう……ですか」
ヒメコは表情を曇らせる。あれ程の負傷で、何事も無く快復できるとは彼女も思っていなかった。だが、実際に後遺症の話を聞くと、彼女はやはり胸が苦しくなる。
好奇の目を向けていたリコリス達も、まるで話が打ち切られたかのように目を背けて食事に戻った。食事時に気が滅入る話など聞きたくも無いだろう。
「見事に撃ち抜かれていたからな。日常生活に支障が無い程度に快復できるかさえ怪しい」
次のライセンス更新は無理だろう。そう、楠木は淡々と語った。まあ、良くある話だと。
「リコリスとしてのライセンスが失効した後には、異動してもらう予定だ。お前のように情報部に移ってもいいし、訓練教官を目指す道もある。何れにせよ、スミレの選択次第だ」
お前にとっては、嬉しい知らせだろう。楠木はヒメコを試すように見つめながら言った。しかしヒメコは、その点については迷いなく頷いて見せる。
「何なら、スミレをDAから離してやる事はできないでしょうか?」
「……不可能ではない」
お前がスミレの代わりにリコリスに復帰するのなら。そう言った楠木に、ヒメコは首を横に振る。
「それは無理ですね。それだと
「適切な相互理解だ。だが、もう一つ選択肢がある」
もう一つ? かりんとうを咥えて動きを止めたヒメコ。やがて、楠木はゆっくりとある単語を口に出す。
「アラン機関」
「興味がありません」
ヒメコの返答は何処までも冷たかった。彼女は、千束と吉松の顛末や、アラン機関の才能に対する態度を知っている。千束を助けてくれた事には感謝していたが、スポーツ選手からテロリストまで分別なく才能を支援する節操の無さを、ヒメコは良く思っていなかった。
「だが、向こうはお前に興味があるらしい。知らないだろうが、お前はかつてアラン機関に見初められている。当時は支援の必要無しと判断されたがな。覚えているか? お前がスミレとコンビを組む以前の最後の任務でだ」
顔を顰めるヒメコ。だが、楠木は構わずに話を進める。
「もしお前が望むのなら、その才能を示す対価として支援を引き出せるかもしれない。スミレは長年お前とコンビを組んでいたリコリスだ。お前の才能を十全に発揮するには彼女が必要だとでも嘯けば良い」
「それでは、結局スミレは腕が治ってもリコリスに逆戻りでしょう」
先の事を考えろ。楠木はそうヒメコに諭した。
「スミレは今何歳だった? 彼女の人生はこれからも長い。この先ずっと抱え続けるには、アレは辛いハンデだろう。彼女だって一生をリコリスで終える訳じゃない」
スミレの為を思えば、リコリスとしての活動期間を多少延長しても、あの腕が快復するならプラスだろう。楠木はあくまでスミレを第一に考えた合理的な見解を示す。ヒメコの考えを揺らがせるにはそれが最適手だと彼女は理解していた。
「ちょうど機関の関心を引けそうな任務がある。お前や千束であっても
最後のかりんとうを噛み砕き、ヒメコは席を立った。
「何処に行く?」
「スミレの見舞いに」
「持って行け」
ヒメコに投げ渡されたのは、包装されたかりんとうの詰め合わせだった。見舞いの品だ。甘いな。ヒメコはそう思って楠木を見つめた。しかし、彼女は渋い顔をして目を逸らす。もう話す事はない。そう、黙したままで伝えるように。
ヒメコは、病室の扉の前で深呼吸していた。スミレの見舞いに来たのだ。ゆっくりと扉に手を掛けて、彼女は意を決してそれを開く。真っ先に目に入ったのは、ベッドから上体を起こしていたスミレだった。
「先輩……」
「す、すまない。ノックを忘れていた」
いや、見舞いが遅くなった事を謝りなさいよ。ミズキが聞けばそう呆れられる事間違いなしの第一声を発して、ヒメコはぎこちなくベッドの側にある椅子に腰掛ける。
病室内には、病院特有の浮世離れした潔癖さが漂っていた。窓からカーテン越しに差し込む幻想的な日差しも相まって、この世の場所では無いような異質さがある。恐らく、此処はあの世に最も近い場所の一つなのだろうと、ヒメコは漫然と想った。
「身体は大丈夫か?」
「以前に比べれば、だいぶ楽っす」
スミレは、肩を指差して普段通りの様子で微笑む。けれど、それが強がりである事をヒメコは知っていた。精一杯普段通りを演じるその儚さが、ヒメコの心をざわつかせる。
「暫くは入院生活だろう? リハビリも長くなると聞いてる」
「知ってたんすか」
「楠木司令から聞いた」
「……あの人は」
溜息を吐いて、スミレはベッドに横になった。勝手に怪我人の容体を他人に言いふらさないで欲しいっすね。そう愚痴るスミレに、ヒメコも精一杯普段通りに相槌を打って軽口を叩いて見せた。
「私は他人か?」
「まあ、戸籍上は?」
「冷たいな」
「ええ、冷たくなる所でしたから」
返答に窮してヒメコは言葉を濁す。それから暫く、二人ともが沈黙した。普段通りな会話、弾む冗談と他愛の無い笑顔。そうした日常は、否が応でもその裏側を二人に思わせる。耐えられなくなったのは、ヒメコが先だった。
「スミレが……助かって……本当に良かった」
深い安堵と共に、ヒメコは割れ物を扱うようにそっとスミレの手に触れた。優しく、しっかりと、もう二度と離さないと言わんばかりに。
「スミレの寮に、まだクリアしてないゲームが山程ある」
「あ〜……」
「次のゲーム会はいつ開く?」
「退院してからっす。その時はすぐ呼びますから。でも、先ずは部屋を掃除しないとダメっすね」
スミレは頭を掻く。だが、ヒメコは矢継ぎ早に畳み掛けた。コーヒメーカーが埃を被ってるとか、クッキーの賞味期限が切れかけてるとか。或いは、仕事帰りにスミレから声が掛かるのを、ロビーでふと待ってしまう自分や、リコリコのボードゲーム会で人数が合わなくなって困る自分がいると。
「スミレが居なくなると、私の世界には穴が空く」
平凡な日常の風景に、まるで太陽や浮雲のように、在って当然のものとして在る。それがヒメコにとってのスミレだった。その存在の大きさを、失って初めてその跡形から窺い知るように、ヒメコはスミレを再認識していた。
「だから、スミレの話を聞かせてくれ。それで埋め合わせにしよう」
「あ〜、じゃあ、何か話します? と言っても、入院生活って退屈なんで、あんまり面白い話できないですけど」
院内のカフェがお洒落だとか、フキが早く帰って来いとぼやいてたとか、病院食が意外と美味しいとか──そんな取り留めの無い話をスミレは語る。それは、何処までも平和な日常の物語。
「先輩のお陰っすよ」
ヒメコがリコリコに依頼して、たきなと共に助けに来てくれた。だから、私は生きて此処に居る。スミレはそう言って微笑んだ。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「ああ、何度でも助けるよ。絶対に」
ヒメコは、肩の荷を下ろしたかのように清々しい笑顔を見せる。
「スミレ、退院したらどうする?」
「う〜ん、この腕が上手く治らなかったら、訓練教官を目指そうかと思ってるっす」
スミレは言った。先輩と一緒に、沢山の悪党をやっつけて来たと。殺すという手段は確かに手放しでは肯定できないかもしれない。けれど、私たちの仕事で世界の何処かの誰かが救われていると思うと、誇らしいのだと彼女は胸を張った。
「色々居たっすね。爆弾魔に通り魔、殺人鬼にテロリスト、麻薬の売人に……ああ、もう、忙しかったっす」
挙げるのも億劫になる程の犯罪者達や、悪人共が居たとスミレは懐かしむ。
「私たちが仕事をして来たから、朝の通勤電車が爆弾で吹き飛んだり、道行く子供が刃物で滅多刺しにされたり、ばら撒かれた銃器で民間人が殺し合ったりせずに済んだんです。まあ、最近は被害を抑えきれなくなって来ましたけど」
DAを肯定する訳では無いし、リコリスとしての使命みたいな綺麗事にも興味は無い。ただ、私は自分が人を救ってきたと信じている。そうスミレは迷いなく言う。
「だから、後進を育てると言うか……後に続く者が必要だと思うんですよ。それに、体が多少不自由でも、ミカさんみたいに立派な教官に成れるかもしれませんし」
「その腕の事だが、アラン機関の」
ヒメコがその単語を発した瞬間、スミレはそれを遮ってげっそりした。
「聞きたく無いし興味も無いっす」
「ははは、私もだ。ただ、楠木司令がそんな話をしていたとだけ伝えておくよ」
スミレの意思を聞き、ヒメコは彼女に提案する。
「リコリスを辞めたら、寮も引き払うだろう。その時は、一緒に暮らさないか? スミレも、片腕が使えないのにいきなり一人暮らしは大変だろう」
「……良いんすか?」
「構わない。スミレが、構わないなら」
あゝ、それは、なんて──
なんて──夢のような提案なのだろうか!
信じられないような表情を浮かべて、それから一気に日が差したように明るい顔で、スミレは躊躇いなく頷いた。
「構わないっす!」