地獄はない。
スミレのその言葉が、ヒメコを呪縛した。自らの罪に対する罰が降ることがないならば、どうすれば私はこの胸の苦しみから逃れられるのだろうか? ヒメコは復帰任務を終えてから、暫くの間塞ぎ込んだ。
多くの同僚や、相棒であるスミレもヒメコの事を心配して何度も彼女の元を訪ねた。多くの者は一様に彼女を励まし、楠木司令は彼女にカウンセリングを受けるよう命令しカウンセラーを手配した。
「私は、慰めではなく、罰が欲しい」
カウセラーは必死にヒメコの思考を逸らそうとしたが、その悉くが失敗した。彼女は耳を通り抜けていく言葉を捉えておくことができなくなり、雑誌やメニューの文字が水のように指の間をすり抜けていく錯覚に悩まされた。
しかし、そうした日々は一週間後に唐突に終わりを告げる。再びの暗殺任務で、彼女がターゲットのプロファイルを目にしたのがそのキッカケだった。そこには、ターゲットの好物としてブレンドコーヒーとダークチョコレートが記されていた。
「そう言えば、最近はリコリコに顔を出せていなかったな」
「任務で忙しい上に、カウンセリングの予定もギッシリっすよ」
「なぁ、スミレ。この任務が終わったら……一緒にコーヒーを飲みに行かないか?」
「喜んで! 先輩の奢りっすよね?」
スミレの問いかけに久しぶりにヒメコは笑った。それがスミレは嬉しくて、何度も奢りだと強調しながらリコリコの話題をヒメコに振り続けたのだった。
「いらっしゃいませ〜。あ、ヒメコちゃん! それにスミレちゃんも。久しぶりだねー」
千束は、久しぶりの常連客の来店に表情を明るくする。心なしかヒメコは元気がなかったが、詮索はせずに彼女は二人をカウンター席に案内した。
「ヒメコちゃんはいつものだよね。スミレちゃんも一緒で良いかな?」
「勿論っす!」
「いや、少し待ってくれ」
ヒメコは千束を呼び止めて、顎に手を添える。普段はお任せやいつもので目を通さないメニューを広げて、ヒメコは注文をつけた。
「ブレンドコーヒーと、ダークチョコレートを頼む」
「え? でもヒメコちゃん、苦いのダメだよね?」
「先輩……」
様子が可笑しい。ミカとミズキの年長組はそれを察した。しかし、千束はようやくヒメコがいつものメニュー以外の商品を頼んでくれたので、とても喜んでいた。
「うんうん、チャレンジって大事だよ〜。年齢と共に味蕾の数も変わるらしいし、コーヒーの強い苦味もいつかは楽しめるようになるかもしれないもんね〜」
ヒメコの元に、ミカの淹れたブレンドコーヒーと、カカオマスたっぷりのダークチョコレートが置かれた。彼女はそれを口にして、眉を顰めた。苦くて、舌に合わなくて、とても胃がムカムカした。だが、その苦しみが彼女の胸を楽にする。
「いや、やっぱりダメだな。だが、なんだか……救われた感じがする」
「先生からの受け売りだけどね。美味しいコーヒーには魔法があるんだって。人を幸せにする魔法。どうかな? かかってる?」
「……うん」
嘘だ。苦しみが欲しかった。自分が殺した人間の好物に口をつけて、その苦味に叩きのめされる、とびっきりの自傷行為。自分の心を痛めつけるための方法。リコリコのみんなや、コーヒーを淹れてくれたミカへの裏切りであり、この上もない失礼だった。
ヒメコはミカを見つめる。その目には、謝罪と、罪悪感と、後ろめたさが込められていて、彼はその全てを察して言う。
「ヒメコ、構わない。幸せや甘味よりも、苦しみや苦味が必要な時もある。それもまた、一つの救いの形だ」
頷き、ヒメコは苦味たっぷりなコーヒーを飲み干して二人分の代金をカウンターに置くと、一人リコリコを後にした。扉を出ると、どんよりとした曇り空が広がっていて、生温かい風が頬を撫でる。しかし、彼女は何処か晴れやかな気持ちで帰路についた。
「ちょっと、あの子大丈夫?」
「大丈夫っす」
心配げに問うミズキに、スミレは胸を張って答えた。
「自分が傷付けた相手への罪悪感や苦しみ、そういうのがなければキルマシーンと変わらなくなっちゃいますから」
「あの子が頼んだメニューは」
「ターゲットの好物っす」
「そうか」
「そんな湿気た顔しないで下さいよ」
漸く、先輩は一人前の人間に成れたんす。
スミレはそう言って、アメリカンコーヒーに口をつけた。それからと言うもの、ヒメコはすっかり調子を取り戻してDAの任務をこなせるようになった。以前までと変わったのは、彼女が任務を終える度にリコリコに足を運ぶようになった事だ。
決まって、カウンター席の一番奥から二番目の席に座り、真っ黒なブラックコーヒーとダークチョコレートを注文する。もしメニューにあれば、一緒にターゲットの好物も。
それにいつも付き合うのは、ヒメコの相棒であるスミレだ。彼女もまたすっかりリコリコの常連になっていて、その注文はいつも決まってヒメコの好物だった。
fin. 2023/05/06
完結しました。
ビターエンドです。ちょっと苦い終わり方です。
人間と成り、罪悪感を覚え、誰も罰してくれない罪をとびっきりのブラックコーヒーで飲み込みながら、生きていく。
もし撃てなければリコリコルートでしたが、書いている内にキャラが動き始めまして。あ、この娘、撃つわ。そう相成りました。
また、いつか何処かでお会いしましょう。