轟家長女の紡ぐ日々   作:雛と卵

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幼年期
轟家長女と淡い微睡み


 

 

 

 

 

 昔から、どうにも寝起きが良くなかった。それはもう、一緒の部屋に寝ている双子の兄にたっぷり3回は名前を呼ばれないと、ちっとも眠気が覚めないくらいに酷かった。ゆっくりと瞼を持ち上げると、湖みたいにきらきらした瞳と目が合う。

 

「おはよぉひぃちゃん、やっと起きた」

「……ん゛〜〜〜……まぶしい……かーてんしめて……」

「やぁだよ、閉めたらひぃちゃんまた寝ちゃうだろ? ほらほら、早く起きて特訓しよう!」

「う゛〜〜〜腕引っ張んないでぇ……起きるからあ……」

 

 駄目だ、とても眠い。もう一度毛布をかけたら絶対にすぐ眠れる自信がある。でも、ここでまた寝たらきっと、頑固なところがある兄は拗ねてしばらく口をきいてくれなくなってしまうだろうから。毛布を蹴っ飛ばして、しょぼしょぼする目を擦って、幽霊みたいになりながら私は何とかお布団から出ることに成功した。

 廊下に出ると、すぐにひんやりとした空気が体中を包み込んでほっとする。うちは個性の関係で暑さに弱い人が多いから、少し涼しすぎるかなって感じるくらいの温度に保っているのだと、前にお父さんが言っていた。確かに、お母さんがたくさん服を着ているところはあまり見たことがない。むしろ、皆が寒がっているような時こそ元気なように見えるから、時々うちのお母さんは雪の国の女王様なのかもしれないと思う時がある。そうしたら、お父さんはお母さんと結婚するためにやってきた、火の国の王様といったところになるのだろうか。一度そう考えたら、段々本当にそうなんじゃないかって気がしてきて、思わず笑ってしまった。

 

 長い廊下が行き止まりになると、私たちが寝ているような普通の部屋の代わりに大きなお風呂場がある。まだ眠気が取れないせいでゆっくりゆっくり、かたつむりみたいに歩いているとお風呂場で待ち構えていた兄がきゅっと顔をしかめた。その顔、前にお散歩してる時に見かけたブルドッグみたいで、可愛いなって思う。言ったら拗ねそうだから言わないけど。

 

「ひぃちゃん遅い、早く顔洗って特訓しようよ」

「待ってよ燈矢、起きたばっかりでそんな早く歩けないよ」

「もー、しょうがないなあひぃちゃんは」

 

 風船みたいに頬を膨らませてこっちをじっと見つめる燈矢の横を通り過ぎると、洗面台の蛇口をひねる。きりりと冷たい水をバシャバシャと顔にかけていると、ようやくふわふわしていた頭がすっきりしてきた。

 

「ね、ひぃちゃん、俺昨日の夜凄いこと思いついたんだ。お父さんも、見たら絶対びっくりするよ」

「本当? じゃあ、やっぱり特訓はお昼になってからにしようよ」

「えっ、なんで? 俺早くひぃちゃんに見せたいのに」

「だって今日、お父さんお昼には帰ってこれるって言ってたよ、忘れちゃった? せっかくお父さんが早く帰ってくるのに、やる前から疲れちゃってたらもったいないよ」

「えっっっ今日お父さん早いの!? 早く言ってよひぃちゃん!!」

「昨日お夕飯の時にお父さんが言ってたよ、やっぱり忘れてた」

 

 たくさんの水で洗って濡れた顔を柔らかいタオルで拭きながら話していると、燈矢の声が分かりやすく明るくなる。燈矢は本当に、お父さんが大好きだよね。私と同じだ。

 

 水分を吸ってちょっと重くなったタオルを、形を整えて元の場所にかけておく。そうして、やるべきことをきちんと済ませた後で、私は振り返って燈矢のパライバトルマリンをじっと見つめ返す。相変わらず、いつ見てもため息が出そうなほど綺麗な瞳。

 パライバトルマリンっていうのは、限られた場所でしか取れないとっても珍しい青い宝石だ。お父さんが買ってくれた図鑑に載っていて、一目見た瞬間、「燈矢の色だ」ってビビッと来た。だから、燈矢と一緒に外に出る時は、いつも心の中ですれ違う人たち皆に自慢している。私のお兄ちゃんの目は、世界中が見惚れるくらい綺麗な宝石なんだよって。実際、時々外で知らない人に「仲の良い兄妹ね〜」なんて話しかけられる時があるけど、その時一緒に燈矢の目の美しさに気付いて褒められることは少なくない。

 

「なぁに、ひぃちゃん。俺の顔、何かついてる?」

「ううん、ただ、燈矢の目が綺麗だから」

「そう? 俺はひぃちゃんの目の方が好きだよ。夜空みたいでカッコいい」

「……へへ、そうかな。ありがとう燈矢」

 

 顔を見合わせて、くふくふ笑って。手を繋いで廊下を駆けて行く。本当は家の中で走っちゃ駄目だよって言われてるけど、でも、大好きが溢れて走り出したくなっちゃったんだ。強くて優しい、大好きな燈矢。いつまでもずっと、一緒にいたいな。

 

「おはようお母さん!」

「あらおはよう2人とも。朝ご飯出来てるから、座ってちょうだい」

「おはよう冰織(ヒオリ)姉、燈矢兄!」

「おはよう冬美ちゃん、もう起きてたの? 早起きで偉いね」

 

 燈矢と手を繋いだまま飛び込んだ居間には、お母さんも妹の冬美ちゃんも揃っていた。ちゃぶ台に並べられたお味噌汁の香りがふんわり漂って、自然とお腹がすいてくる。大根おろしの添えられた少し大きめの卵焼きも、ぴかぴかと鱗が光っている鮭も美味しそうだ。

 

「げ……朝から魚だ……」

「好き嫌いすると体大きくならないよ」

「……魚なんか食べなくても、その内お父さんみたいにデッカくなるし」

「嘘じゃないよ、お父さんに聞いたもん。お魚には体を作るタンパク質が入ってるから、ちゃんと食べないと筋肉がつかなくなるんだよ。それに、お魚食べると頭良くなるんだって」

「ふふ、冰織は物知りね」

「えへへ、物知りなのは私じゃなくてお父さんだよ、お母さん」

 

 さっきまでは笑顔だったのに、座った途端焼いた鮭に口を尖らせた燈矢を覚えたばかりの知識で説得していると、お母さんが笑って褒めてくれる。お母さん、笑っていると真夏に飲むラムネみたいで、綺麗だなって思う。お父さんの、冬の焚き火みたいな笑い方とは真逆だ。

 

 お魚にタンパク質という大事な栄養素が入っていることを知ったのは、本当に偶然だ。燈矢にはああ言ったけど私にだって好き嫌いはもちろんあって、最近まで特に好きじゃなかったのはトマトだった。味が嫌なんじゃなくて、あのぐちゃぐちゃとした食感が、どうしても苦手だったのだ。嘘、今も別に好きじゃない。

 ご飯は、楽しく食べたいと私は思ってる。「このおかず嫌だなー」とか「こんなに食べられない」とか、そういうマイナスなことを考えてしまうと作ってくれたお母さんに対して失礼だと思うから、なるべく好きなものをその時食べたい分だけ食べたいのだ。でも、好きなものだけを食べようとすると、お父さんや保育園の安田先生がよく言う「好き嫌いせずに食べなさい」という言葉には従えなくなってしまう。それはそれで……困る。だって、好きじゃないものを無理して食べたくないのは本当だけど、別にお父さんの言うことを無視したいわけじゃないから。

 

 だから、ある時私はお父さんに好き嫌いしてはいけない理由を聞いてみることにした。ヒーローになるための特訓以外あんまり色々と言わないお父さんが珍しく何度も言うくらいだから、きっと何か大事な理由があると思ったのだ。私に聞かれたお父さんは最初はちょっときょとんとしていたけど、すぐに食べ物には5つの大事な栄養素がそれぞれ含まれていて、全部の栄養素をバランス良く食べることが健康で生きるには必要なんだと教えてくれた。お米にはエネルギーの元になる炭水化物、お肉やお魚には体を作るタンパク質。私の好きじゃないトマトには体の調子を整えるビタミンが入っていて、それを聞いたら味は嫌いじゃないんだし、頑張って食べてみようかなって思えた。お父さんがこんなに大きくて強いのも、ちゃんと毎日ご飯を好き嫌いしないで食べているからなのかもしれないし。

 

 きっといつかまたお夕飯に出てくるトマトに今度こそ向き合う決意を密かに固めていると、お父さんに不思議そうな顔で「保育園で教わらなかったか」って聞かれた。“保育園”という言葉に一瞬、どうしようって迷ったんだけど、結局「安田先生はそういうこと教えてくれないよ」って本当のことを言ってしまった。というのも、どうやら私は、分からないことを何でもかんでもすぐに聞いてしまったせいで、安田先生にすっかり嫌われてしまったようなのだ。

 保育園に通い始めた頃は、いつも家でお父さんに聞くみたいに分からないことはすぐに先生に聞いていた。でも、先生はお父さんと違ってあんまりきちんとどうしてかは説明してくれなくて、納得できるまで何回でも質問していたら「冰織ちゃん、先生忙しいの、あんまり困らせないで」って言われてしまった。確かに先生はもう大人だし、いつも色々な子に呼ばれて教室やお庭を走り回っていたから、分かりきったことを一々説明しなくちゃいけないのは面倒くさかったんだと思う。ちなみに燈矢にそのことを話したら、ほとんど話したことが無いはずなのに何故か安田先生のことが大嫌いになってしまったみたいで、先生にちょっと悪いことしちゃったなって思った。

 

 「先生は教えてくれない」と言った私にお父さんは最初怖い顔をしたけど、すぐに真面目な顔で「また分からないことがあったら、遠慮せず俺に聞け」って頭を撫でてくれた。それから、「もし俺に分からないことでも必ず調べて、お前が納得するまで付き合ってやる」って、ほんのちょっとだけ口の端を吊り上げて笑っていた。パチパチ燃える焚き火みたいな、温かい笑顔。皆は(ヴィラン)みたいで怖いって言うけど、私は、お父さんが笑っていると体の中心がぽかぽかして嬉しかった。先生に嫌われたのは悲しかったけど、でも、それでお父さんとお話しする時間が増えるなら逆に良かったのかもしれない。こういうのを、“だしにする”って言うのかも。

 

 お父さんのことをあれこれ思い出していたら、不意にカツンって音が鳴ってハッとした。焼き鮭を食べながら考え事をしていたせいか、いつの間にか端まで食べ終わっていたことに気付いていなかったらしい。掴むもののなくなったお箸が少し悲しげにお皿を突いていて、慌ててお味噌汁のお椀を手に取った。

 

「どうしたの、冰織。随分ぼんやりしていたけれど、もしかして熱でもあるの?」

「ううん、大丈夫だよお母さん。鮭、美味しくて私好きだよ」

 前に座っていたお母さんに心配そうに聞かれて、誤魔化した声が少し裏返る。失敗した、鮭の感想は別に要らなかったかもしれない。本当に具合なんかちっとも悪くないんだけど、風邪でもひいたって思われちゃったらどうしよう。せっかくお父さんが早く帰ってくるのに、病院に行って特訓の時間が減るのは嫌だな。

「そう? もしいつもと何か違うなって思ったら、すぐに言ってね」

「うん、分かった。ありがとうお母さん」

 

 手に持っていたお椀とお箸を置いてお礼を言うと、お母さんは頷いて隣の冬美ちゃんの方へ目を向ける。まだ上手にお箸を使えない冬美ちゃんは小さな口からお味噌汁がこぼれちゃっていて、本人は真面目に食べているつもりだと思うんだけど、赤ちゃんみたいで可愛いくってつい頬が緩んでしまった。ちゃぶ台にこぼれた汁でそれに気が付いたお母さんが冬美ちゃんの口元をティッシュで拭ってあげるのを眺めながら、今度は残っていたご飯に手をつける。お箸を使うのはもう慣れたんだけど、ご飯とおかずを同時に食べ終わるのは中々難しくていつもご飯だけが少し残ってしまうのだ。卵焼き、最後にすればよかった。

 

 

 

 

 

 朝ご飯を食べ終わって、ごちそうさまって皆で声を揃えて。お皿を台所まで運んだら、お父さんが帰ってくるまでは自由時間だ。早速お気に入りのお人形を持って駆け寄ってくる冬美ちゃんをぎゅうって抱きとめていると、ふと誰もいないはずの玄関の方から何かごそごそする音が聞こえて背筋がピンッと伸びた。

 

 ────誰かいる、どうして? お父さんが帰ってくるには早すぎるし鍵はしっかり閉めているのに。

 

「冰織姉、あのね」

「しっ、冬美ちゃん静かに。私が戻ってくるまでここで待っててね、絶対に声出しちゃ駄目だよ」

 

 お人形を抱えたままきょとりとしている冬美ちゃんに早口に言い聞かせて、なるべく足音を立てないように居間を出る。もし玄関にいるのが敵だったら、まずは足元を凍らせる。そうやって逃げられないようにしてから体全体を固めて、たぶんまだお皿を洗っているお母さんに言って警察に電話してもらえば、きっと誰も怪我をせずに済むはずだ。問題は私がまだ肝心の氷をそんなに早くは出せないことで、だから私がいることに気付かれてしまう前に確実に仕留める必要がある。お父さんが言うところの、“先手必勝”ってやつだ。もし燈矢がここにいたら先に炎で逃げ道を塞いでもらうんだけど、お皿を片付けたらすぐにいなくなってしまったから今はきっと自分の部屋にいるんだと思う。

 

 息を止めて、低い姿勢のまま少しずつ忍び寄る。しゃがんでいる影はそこまで大きくないけど、パーカーを着てフードを被っているから顔はよく見えない。正体が分からないせいかドクドクと太鼓のように鳴り響く心臓の音がうるさくて、決心が鈍る前に玄関の戸棚を開けて何かを探すのに夢中になっている足元に向かって、銃弾みたく氷を発射した。パキパキッ! と敵の足を中心に氷の花が咲いて、ナイフのように鋭い先端が壁にめり込む。

 

「そこで何してるの、顔を見せて!」

「ちょっ、待ってひぃちゃん、絶対何か勘違いしてる!!」

「…………燈矢? えっ、何してるの……?」

 

 子供だからって舐められないように頑張って声を張り上げてみたら、見知らぬ敵と思っていた人影は燈矢だった。凍りついてしまった足をじゅわじゅわ自分の炎で溶かしながら、手に持ったボールをこっちに突き出してくる。

 

「前お父さんが買ってくれたボール、どこにしまったか分かんなかったから探してたんだよ」

「そっか……ごめんね、玄関なんか誰もいないと思ってたから敵が襲ってきたのかと思っちゃった」

「いいよ、それよりひぃちゃんが来てたの全然気付かなかった。氷も今までで一番大きかったし、めちゃくちゃヒーローっぽくてカッコよかったぜ」

「……えへへ、そうかな。ふふ、私、ヒーローっぽかった?」

「もちろん、映画みたいにバッチリ決まってた!」

 

 昔皆で見に行った花火みたいにきらりと目を輝かせながら靴を脱いで上がってきた燈矢は、間違えて足を凍らせちゃったことは全然気にしてないみたいだった。色々な意味で、安心して一気に体から力が抜ける。正直自分一人で敵と戦わなきゃいけないと思ったら凄く不安だったし、何よりこんなつまらないことで燈矢と喧嘩しないで済んで良かった。

 

「ねえ、ボール探してたってことはもしかして公園に行くの?」

「まあね、庭でも良かったけどお父さん帰ってくるまで暇だしさ。ひぃちゃんも来るだろ? それに、たまには冬美ちゃんも混ぜてあげないと可哀想じゃん」

「……うん、そうだね。私、呼んでくるよ。敵かと思って声出しちゃ駄目だよって言ってたから、たぶん怖がってる」

 

 ボールを指先でくるくる回しながら玄関に座り込む燈矢を一旦置いて、居間に取り残されてしまっていた冬美ちゃんを迎えに行く。冬美ちゃんは私たちの1歳年下だけど、実は一緒に遊んだことはあんまりない。冬美ちゃんのことが嫌いだとか、一緒に遊びたくないとかそういうんじゃなくて、ただ私と燈矢がお父さんと特訓ばかりしているから自然と冬美ちゃんは一人になってしまうのだ。何なら、お父さんがいなくても私たちは“自主練”として暇さえあれば組み手の練習をしたりそれぞれの個性を上手に使うための訓練をしたりしているから、冬美ちゃんとはご飯の時くらいしか会っていないような気さえする。

 冬美ちゃん、本当はいつも寂しいんだろうなって感じることが時々ある。お母さんはご飯を作ったりお洗濯をしたりしなくちゃいけないから、あんまり長い時間は冬美ちゃんと遊べない。お父さんは毎日忙しくて夜遅い時間に帰ってくるし、帰ってきても私たちの特訓に付き合ってくれているから、結局冬美ちゃんは一人ぼっちだ。だから、こんな時くらいは目一杯一緒に遊んであげたいなって思ってる。私も燈矢も特訓をやめる気はないし、だからといって冬美ちゃんを無理矢理道場に付き合わせるのも可哀想だから。

 

 バタバタと音を立てながら居間に駆け込むと、思っていた通り冬美ちゃんはお人形をしっかり抱えて泣きそうになりながら蹲っていた。私が声を出さないように言ったからか、ほとんど聞き取れないくらい小さな声で名前を呼ばれて、どうしてかずきりと胸が痛んだ。

 

「ごめんね冬美ちゃん、もう大丈夫だよ。それよりね、燈矢がボールを見つけたんだ。たまにはおままごとじゃなくて、一緒に公園に行ってみない?」

 

 じんわり目の端に浮かんでいた涙を拭って笑いかけると、冬美ちゃんは向日葵みたいにぱあっと明るい笑顔を浮かべる。いつも明るくて、笑顔が素敵な、私の妹。可愛い、大好きだよ。ずうっと私が守ってあげたい。

 

 

 

 

 

 久しぶりに来た公園は、今まで見たことがないくらい人がたくさんいて思わず変な声が出てしまった。私が知らないだけで何かお祭りでもあるのかなって思ったけど、お店のテントがあるわけじゃないし、皆ただ遊びに来ているだけに見える。

 

「げ──っ、なんでこんな混んでんの? 遊ぶ場所全然ないじゃん」

「今日って何かあったっけ? お祭りって確か夏だったよね」

「分かんないけど、こんなに人いるなら商店街の奥の公園に行った方が良かったかもな」

 

 手に持っていたボールを抱え直してげんなりする燈矢に、私もなんだかため息が出てくる。家から一番近いこの公園は遊具以外にサッカーや野球なんかが出来るくらい大きな広場があって、前に来た時はあんまり人がいなかったから平気だと思ったんだけど、今日はどう見ても満員で私たちが遊べる場所は無さそうだ。土曜日、だからかな。特訓ばかりであんまり外に出ないから、日によって公園が空いたり混んだりするなんて知らなかった。

 広場が使えないなら遊具を使うしかないんだけど、遊具は遊具でたくさん子供たちが集まっている。すべり台、ブランコ、ジャングルジムにロープウェイ。皆が楽しいって思う遊具はどれも10人以上は並んでいて、一つ遊ぶのにどれだけ時間がかかるんだろうって考えたらちょっとうんざりしてしまった。燈矢の言う通り、ここに比べたら狭いけど最初から商店街の方の公園に行っていればよかった。

 

「……冬美ちゃん、何の遊具で遊びたい? 凄く混んでるから、遊べるまで時間がかかっちゃうかもしれないけど」

「ボールは……? 私、ボール触ったことないの」

「ごめんね、広場が空いてないからボール遊びは今出来ないの。遊具で遊んでいる内に空くかもしれないから、人が減ったらボールで遊ぼうね」

「そっかあ……じゃあね、私ブランコ乗りたい! 冰織姉と燈矢兄も、一緒に乗ろう?」

「え、あ〜〜……ブランコね、分かった。久しぶりだから、高く漕げるように私が背中押してあげるね」

「ほんと? ありがとう冰織姉!」

「ええ、何でよりによって一番混んでるやつ、いっってえ! なんで蹴るんだよひぃちゃん!」

「馬鹿、ちょっと空気読んで!!」

 

 かなり強めに脛を蹴ったからか燈矢が目を吊り上げて睨んでくるけど、これは絶対に燈矢が悪い。せっかくいつも寂しい思いさせてる冬美ちゃんも楽しめるようにって公園に来てるんだから、冬美ちゃんが楽しくないならわざわざ外に出た意味がない。こういう時、燈矢って本当にポンコツだなって思う。

 

 わくわくした顔で走っていく冬美ちゃんを見失わないように、ぶすくれた燈矢を引きずってブランコの列に並びに行く。ブランコに並んでいる子たちは意外と私たちより年上に見える子が多くて、家族でっていうよりは友だち同士で遊びに来ているみたいだった。ランドセルは背負ってないけど、体の大きい子が多いしきっと皆小学生なんだろう。保育園に通うような小さい子供だけじゃなくて小学生まで夢中にさせるなんて、実はブランコって結構凄い遊具なのかもしれない。

 大人気なブランコの魅力を改めて感じながら、順番が回ってくるまで冬美ちゃんと燈矢と何でもないことをあれこれ話して待つ。最近活躍したヒーローのこととか、保育園であったこととか。特訓のことや好きなご飯、思いついたことを色々話していたけれど何故か列はちっとも進まない。どうしたんだろうって考えている内に段々話すことが無くなってきて、妙に静かな、気まずい時間が訪れる。

 

「……さっきから全然進んでなくない? 俺の気のせい?」

「……私も、そんな気がしてた。先頭の方ちょっと見てくるから、燈矢は冬美ちゃん見てて」

 

 繋いでいた小さな手をさり気なくほどいて列から離れると、頷いた燈矢がそれを代わりに握る。どこか不安そうに見つめてくる冬美ちゃんを安心させるように笑顔を浮かべて、先頭の方まで早足で向かう。ここのブランコは全部で4台、私たちの前に並んでいたのは数えてみたら12人だった。4人ずつ交代するのを3回繰り返せば順番が回ってくるはずなのに、流石にこんなに待っていて一人分も進んでいないのはちょっとおかしい。

 今ブランコを使っている子がよっぽど意地悪なのか、それともブランコが壊れてしまったのか。もし壊れたんだったら大人しく移動しようかなって思っていたら、ブランコに乗りながら高笑いする声が聞こえてきて一瞬で頭が痛くなった。どうやら今遊んでいるのは相当意地の悪い子たちだったらしい。正直、壊れていてくれた方がまだマシだったかも。

 

「ねえ! こんなにたくさん遊びたい子が待っているのに、どうして譲ってくれないの?」

 

 まるでアニメに出てくる敵みたいに笑っていた男の子の正面に立って問いかけると、その子は顔から飛び出しそうなくらいに目を見開く。いかにも感じ悪そうにひん曲がった唇がぷるぷる震えて、ブランコから飛び降りた勢いのまま私に向かって思いっきり指をさしてくる。人のこと指さしちゃいけないって、お母さんに教わらなかったのかなこの子。

 

「お、お前、トドロキヒオリ……! なんでお前がここにいる!?」

「……なんでって、家が近くで遊びに来たからだけど。そんなことより私の質問に答えて、なんでずうっとブランコを誰にも譲ってくれないの? 皆遊びたくて並んで待ってるんだよ」

「フン! そんなの、このヨーヘイ様がブランコを貸し切って楽しく遊んでいるからに決まっているだろう! 全く、これだから庶民は」

 

 鼻を鳴らして偉そうに胸を張るヨーヘイくんとやら。何故か私の名前を知っているみたいだけど、こんな感じの悪い子は記憶にない。というか言っている意味が全然分からない、ブランコを貸し切るって何? どう見ても誰もそんなこと許してない。

 

「…………君がブランコが好きなのは分かったけど、それは誰にも貸してあげない理由にはならないよね? はっきり言うけど迷惑なの、お友だちと一緒に早く帰って」

「なっ……!? つくづく無礼な奴だなお前は!」

「そーだそーだ! せっかくヨーヘイ様が話しかけてくれてるのに、失礼だぞ!」

 

 特に間違ったことを言ったつもりはないのに、今度はヨーヘイくんの周りにいた子たちまで一緒になってギャアギャア騒ぎ始めた。どうしよう、物凄く面倒くさい。もうこれ、一発殴って黙らせちゃった方が早いんじゃないかな。

 

「……というか、そもそも君、誰? 全く記憶にないんだけど、どこかで会ったことある?」

 

 そう首を傾げながら尋ねるのと、ヨーヘイくんが顔をしわくちゃにしながら葉っぱを飛ばしてきたのは、ほとんど同時だった。ナイフで切りつけるみたいに何枚も勢いよく飛んできたせいで、バランスを崩して尻餅をついてしまう。反射的に氷で防いだから実際に腕や足が切れたりはしなかったけど、あの勢いなら普通は怪我しているはずだ。何考えてんだろうこの子。

 

「人に向かって個性を使っちゃいけないって、お母さんに教わらなかったの? 私のこと庶民って馬鹿にしてたけど、そんな当たり前のことも知らないなんて君の方こそ“お里が知れる”んじゃない?」

「うっ、うるさいうるさいうるさい!! 何なんだお前は、なんでそんな目でボクを見るんだよ、せっかく可愛いなって思って声かけてやったのに……!」

「ねえ、さっきから思ってたけど私とお話しする気ある? 私の言っていることがよく分からないなら、お勉強して出直してきて」

「あ゛〜〜〜〜ッッ!! うるさい黙れ、もう泣いたって絶対に許してやらないからな、覚悟しろトドロキヒオリ……!」

「許さねーのはこっちの台詞だよバーカ」

 

 ぶわりと、踊るように炎が揺らめいてもう一度飛んできた葉っぱは全部消えた。もしもの時の為に手元で用意しておいた氷が余熱で溶けて、その奥から見慣れた手のひらが優しく頭を撫でてくる。

 

「ハア!? お前、トドロキトウヤ、」

「ピーピーピーピーうるさいな、鳥かよお前ら。つーか俺の妹イジメてんじゃねえ」

 

 キッパリ言ってヨーヘイくんを睨みつける横顔に、頬が緩んで落っこちそうになる。私のお兄ちゃんカッコいい、大好き。やっぱり燈矢はいつかきっと最高のヒーローになる。

 

「文句あるならかかってこいよ、俺たちが相手になってやるからさあ。なあひぃちゃん?」

「そうだね燈矢、ふふっ、もしかしてその程度の個性で私たちが怯むって思ってる? そんなわけないじゃん馬鹿みたい!」

 

 サッと立ち上がって挑発するように笑ってみせると、ヨーヘイくんはマグマみたいに顔を真っ赤にして激しく地団駄を踏んだ。周りに群がっていた子たちはさっきの炎に怯んでしまったのか、半泣きでその場に立ち尽くしている。

 

「くそっ、くそぉ、覚えておけよお前ら!!」

 

 人前でじたばた暴れるくらいだからもしかしたらまた葉っぱを飛ばしてくるかもって思ったけど、結局ヨーヘイくんは唾をまき散らしながら捨て台詞を残してさっさといなくなってしまった。思ったより速いスピードで去っていく背中を、今度こそボロボロ涙をこぼして他の子たちが追いかけていく。ただブランコで遊ぼうとしただけなのに、随分大変な目に遭ってしまった。

 

「ありがとう燈矢、助けに来てくれて」

 

 いなくなったヨーヘイくんたちのことはとりあえず忘れることにして、私のために駆けつけてくれた小さなヒーローにぎゅうっと抱きつく。ふっくらした柔らかい頬にすり寄ると、燈矢も腕を回して抱きしめ返してくれた。

 

「先頭見に行ったっきり戻ってこないからさ、何かあったのかなって。というかひぃちゃんまたアイツに絡まれてたな、お父さんに言って俺と同じみかん組に変えてもらえば?」

「……? あの子、もしかして私と同じいちご組だったの?」

 

 全然気付かなかった、と呟いたら燈矢は一瞬目を見開いた後大きな声でアハアハ笑いだした。何がそんなに面白かったんだろうってちょっとびっくりしたけど、よく考えてみれば「また絡まれてた」ってことは前にもこんなことがあったってことだ。記憶力には結構自信があったんだけどな。

 

「あははっ! マジかよひぃちゃん、本当仲良い子以外興味ないよな」

「だってあんな意地悪な子、友だちになりたくないもん」

「そうだよな、そりゃそうだ、ははっ! あーあ、アイツも馬鹿だよなあ、好きなコに意地悪するから余計嫌われるんだぜ」

 

 笑いすぎたのかじわっと浮かんできた涙を拭うと、燈矢はそっと私の手を握る。ほんのり温かい、毎日の特訓で潰れたまめの跡が目立つ手。その手に触れると、いつだって胸の奥底から勇気が湧いてくるんだ。

 

 繋がれた右手は指を絡めてしっかり握り直して、空いた左手でハイタッチを交わす。目が覚めるようなパライバトルマリンは陽の光に照らされて煌めいて、お父さん譲りの燃えるような赤い髪は風に吹かれてふわりと宙を泳ぐ。当たり前のように真っ直ぐ向けられる太陽みたいな笑顔を見ていると何度だって大好きが溢れてきて、明日も明後日もその次の日も、きっと私は死ぬまでずっと、毎日燈矢を好きだって思う。

 

「あ、あの!」

 

 一人で待たせてしまっている冬美ちゃんと合流するために列の後ろの方へ戻ろうとした瞬間、震えて掠れた声が背中に届いた。振り返ってみれば先頭の方に並んでいた子たちが揃って満面に笑みを浮かべていて、それだけで何となくどうして誰もヨーヘイくんたちの横暴を止められなかったのかが分かった気がした。

 

「さっきはありがとう! あの子、退いてよって言うと個性で葉っぱを飛ばしてくるから怖くて」

「そうそう、俺たちアイツらのせいでずっと並ばされてたんだ」

「2人ともヒーローみたいでカッコよかったぜ!」

 

 口々にかけられるお礼の言葉に、いよいよ口元がニヤけてむず痒い。「ありがとう」、「どういたしまして」ってお互い手を振り合って、止まっていた時間が動きだす。

 

「ヒーローみたいでカッコよかった、だって」

「うん、やっぱさ、ああやって褒められるとちょっと嬉しいよな。お父さんが帰ってきたら、このこと教えてあげないと」

 

 

 

 

 

 一本取った、って思った瞬間ぐるりと景色が回って頭から畳に落っこちた。ビタンッ! て酷い音が遅れて耳に届いて、打ちつけてしまった背中がじぃんと痛む。今のは絶対勝ったと思ったのに、なんで結局私の方が転がされちゃってるんだろう。

 

「勝負あり、燈矢の勝ちだな」

「やったね! これで俺が100勝目!」

「ああ、凄いぞ燈矢。ここで少し休憩にしよう、立てるか冰織」

「うん……ありがとう、お父さん」

 

 差し伸べられた手に引かれながらどうにか立ち上がると、頭から爪先までピリピリと微かな痺れが伝わる。その瞬間きゅっと眉の辺りに力がこもって、これ以上その痛みが続かないようになるべくゆっくり歩いていく。辿り着いた道場の隅には冷蔵庫から出してきたペットボトルが置いてあって、勢いよくぐいっとボトルを傾けると少し温くなってしまった水が喉を滑り落ちていった。

 

 最近、燈矢との組み手で思うように勝てなくなってきた。先週までは、ある時私が勝ったら次の時には燈矢が勝って、その次はまた私が勝って、追いつかれて、ってそんな調子でお互いほとんど差をつけられないまま95勝95敗という状況になっていた。だけど、96勝目のかかった勝負に負けてから何故かどうやっても燈矢を畳に転がせなくなってしまって、気付いたら5勝分も差をつけられてしまっていた。

 だらだらと首筋を流れる汗をタオルで拭って、もう一度水を口に入れる。これ以上差をつけられたくはないけど、だからといって今の私にはちっとも対策が思いつかない。もし相手が燈矢じゃなくて敵だったら、目潰しでも何でもして隙を作るんだけどな。流石に大事なお兄ちゃんにそんな怪我させるようなことは出来ない。

 

「……焦っているか、冰織」

 

 ぽつりと上から降ってきた声に、顔を上げる。燈矢と同じ碧い瞳が見透かすように真っ直ぐ見つめてきて、迷いながら小さく頷いた。

 

「先を越されて焦る気持ちは分かるが、力みすぎだ。特にこの2回は絶対に勝ってやろうという意識が強すぎて、逆に技をかけられる隙が生まれていた。自分で思い当たる節はあるか」

「……うん。たぶん、お父さんの言う通りだと思う」

 

 本当は、言われるまでもなく分かっている。だって、同じだけの時間をかけて同じことを教わっているはずなのに、燈矢だけが強くなっているような気がしている。置いてかれていると思ってしまうから、余計に差が開いていくのだ。

 分かっているんだけど、言葉にして言われてしまうと妙に気が沈んでしまって、手に持ったままのペットボトルをじっと見つめる。ちゃぷちゃぷとボトルの中で揺れる水面に、いっそ海の中にでも飛び込んで一旦全てを忘れてみたいような気がした。

 

「……焦りは禁物だ。いざという時の判断が鈍れば、実戦で大きく遅れを取る。迷いのある動きは、自分を傷つけるだけでなく周りに怪我を負わせる可能性だってある」

 

 こちらを見ないまま静かに話すお父さんに、黙ったまま神妙に頷く。いつもなら興奮してあれこれと思いついたままに喋る燈矢がトイレに行って居ないせいか、2人だけの道場はまだお昼なのに夜みたいに空気がしんみりしている。

 

「だが……今感じている悔しさを決して忘れるな、冰織。何故ならその感情こそが、お前がより高みへと登るための原動力になるからだ」

 

 さあっと風が庭の草木を揺らして、頭に大きな手が乗った。太く逞しい腕を目で辿っていくと、お父さんはほんの少しだけ口の端を吊り上げて笑っている。燃えて小さな火花を散らす、私を芯から温めてくれる笑顔。その笑顔を見るといつだって体中がぽかぽかして嬉しくなるのに、今日は何だか、温かいを通り越して熱いくらいで涙が出た。

 

「お父さん、ひぃちゃん、お待たせ! 早く続きやろうよ!」

 

 バタバタ、ギシギシ。大きな音で床を鳴らしながら燈矢が道場に駆け込んで、こぼれそうになった雫を気付かれないように手の甲で拭う。もやもやした気持ちを吹き飛ばすようにパンッて手のひらで頬を叩いて、お父さんと一緒にまた中央へ集まっていく。

 

「よし、燈矢、冰織、次は個性の出力訓練だ。今の自分が出せると思う限界まで、少しずつ炎や氷を出してみろ」

「はい!」

 

 外まで響きそうなくらい元気よく返事をして、手足に意識を集中させる。3つ数える頃には周りの空気が一気に冷え込んで、生まれてきた氷がぐんぐん枝のように伸びていく。

 

 ふ──っ、と長く長く息を吐いた。目の端にゆらゆらと燃え上がる炎が映って、唇を噛んで少しだけ温度を下げる。大丈夫、気にしない。組み手と違って人と比べる必要はないんだから、私のペースで頑張れば良い。

 ゆっくり、ゆっくり、空気を冷やしていく。吐いた息が白く染まって、キンと耳鳴りがした。まるで私の周りだけが世界から切り離されて、一人ぼっちで冬の空に浮かんでるみたいだと思う。

 

(……もう少し、冷やしても平気、かな)

 

 ぎゅっと強く目を閉じて、開いて。息を吸って吐く音だけに耳を傾けながら、突き抜けるように高く聳えていく氷を見つめる。今は、子供の落書きみたいに変な形をしているけど。いつかもっと上手に氷を出せるようになったら、絵本に出てくるお城みたいに立派なお家を作ってそこに皆を連れて行ってあげたい、なんて。

 

 ────そうやって、余計なことを考えていたのが良くなかったのだろうか。

 

「ッッ!? いっっった!!」

 

 あまりにも鋭い痛みが指先を襲って、私は思わず蹲った。指だけじゃない、手のひらから腕までめちゃくちゃに刺されたみたいにずきずきして、こんなに痛い思いをしたのは初めてでどうしたら良いか分からない。さっき頑張って引っ込めた涙がぶわりと溢れて、目の前がぼんやり溶けていく。

 

「どうした冰織、何があった!」

「ひぃちゃんどうしたの、どっか痛いの、助けてあげるから教えて、」

 

 急に大きな声を出しちゃったからか、お父さんと燈矢が慌てて走ってくる。「なんでか分からないけど手が痛いの」って言いたいんだけど、口を開いても金魚みたいに意味もなくぱくぱく空気を飲み込むだけで、全然声が出てこない。

 

「お父さん、ひぃちゃん顔が真っ青だ! 俺が温めてあげるっ」

「待て燈矢、炎を出すなら俺が、」

 

 言いかけたお父さんの言葉は続かなかった────ボウッと小さな腕から炎が吹き上がった瞬間、今度は燈矢が叫んだから。じゅう、とフライパンでお肉を焼いた時みたいな音を立ててすぐに消えてしまった赤色の下から、腫れ上がった肌が見えてひゅっと喉が鳴る。火傷、したの? 燈矢が? なんで?

 

 頭が痛い、手足がぶるぶる震えて何も考えられない。どこにも行くところなんかないのに、どこかに逃げ出したくてしょうがない。はあっ、はあっ。吐いた息は相変わらず真っ白で、全力で走った後のように空気が入ってこなくて。大袈裟じゃなく、目の奥がくらくらする。

 助けて、って音にならない声でお父さんを呼ぶ。ふらふらと持ち上げた手を握りしめたお父さんが何かを言ったのを最後に、ふつりと糸が切れて全てが真っ黒に染まった。

 

 

 

 

 

 ぱちりと重たい瞼を持ち上げると、見知らぬ天井が広がっていた。そのまま2、3回瞬きをして、ツンと鼻に刺さる消毒液の匂いを感じながらゆっくり体を起こす。誰もいない、不気味なくらい白い部屋。もしかして私、死んじゃったのかな、なんて思うくらいにはあまりに人の気配がない部屋だ。

 ぐるりと辺りを見回して、とりあえず寝かされていたベッドから這い出てみる。今はここに誰もいないけど、外に出たら何か分かるかもしれない。ぺたぺたと裸足のまま歩いていって、ちょっと高いドアノブに背伸びしながら手を伸ばしたその時。

 

「あっ、冰織ちゃん!? 目が覚めたのね、先生、冰織ちゃん目を覚ましました!」

 

 ガチャッ、て私が開ける前にドアが開いて、奥から顔を出したお姉さんが驚いたように声を上げた。なんで私の名前を知ってるんだろうって思ったけど、お姉さんが着ている薄いピンク色のお洋服と「先生」って言葉で分かった。ここ、病院なんだ。だからこの人は私のことを知ってるし、ベッドに寝かされてたのは診察をしたいからだったんだ。

 

 ドアを開けたと思ったらまた慌ててどこかへ行ってしまったお姉さんをぼーっと見送っていると、不意に後ろから殴られたみたいな衝撃に襲われて息が止まった。────燈矢とお父さんは、どこ? あんまり手が痛くてひっくり返っちゃう前は一緒に道場にいたし、何より私が病院にいるのに火傷しちゃった燈矢がいないのはおかしい。どうして側にいないの?

 はっ、はっ、跳ねるように呼吸が乱れて思わず胸の辺りをぎゅっと掴む。さっきほどじゃないけど、やっぱり手はまだ痛い。今まで個性を使って手が痛くなったことなんてないのに、どうしてさっきはあんなに痛かったんだろう。炎を使う燈矢が火傷したのも初めてだし、なんだか嫌な予感がぐるぐる渦を巻いて止まらない。知りたくなかった凄く大事なことが、もうすぐ目の前に現れるような、そんな予感。ふらふらとへたり込みながら嫌だ、って心の中で叫んだ瞬間、バァンッて壊れそうな勢いでドアが開いた。

 

「いたっ、ひぃちゃん!!」

「と、うや……? なんで」

 

 ここにいるの、って言いかけた言葉は続かなかった。裸足のまんま走ってきた燈矢に、息が出来ないくらい強く抱きしめられていた。

 

「ひぃちゃん、もう大丈夫だよ、俺がいるから泣くな」

「……泣いてた、の? 私」

「うん、でももうそんなのどうでも良いよ、早く一緒に帰ろう。俺、ひぃちゃんを迎えに来たんだ」

 

 ぎゅうぎゅう絞めるように力を込めていた腕を緩めながら、燈矢が私を立たせる。そうして、気付かない内にこぼれていたらしい涙を指で掬うと、私の手を引いてずんずん歩きだした。一歩足を出すのに合わせてひらりと水色のお洋服が揺れて、初めて燈矢が患者さんみたいな格好をしていたことに気付く。燈矢は起きて何か診察を受けたのだろうか。知らないだけで私も寝ている間に終わってて、だから迎えに来てくれたのだろうか。

 

「あっ、いた! 燈矢くん、冰織ちゃん、止まって!」

 

 何も分からないまま白い部屋を出て廊下を歩いていると、不意に誰かが叫ぶように私たちの名前を呼んで耳がキィンとした。首を回すとさっき来ていたお姉さんが顔を真っ青にしながら駆け寄ってきていて、その後ろに他にもたくさん人が続いているのが見える。走ってくる人たちの中にはとびきり背の高い赤い髪の男の人とほっそりした白い髪の女の人もいて、きっとお父さんとお母さんだって思って手を振ろうとしたその時、掴まれていた左手がみしりと音を立てて持ち上げかけた右手は引っ込んだ。稲妻のようにびりびりと手のひらに走った痛みにう゛って変な声が喉から押し出されて、文句を言ってやりたいと思ったのにまた力任せに抱きかかえられて何も言えない。どうしよう、燈矢の考えてることが全然分からない。どうしてそんなに、まるで周りの人皆が敵に見えているような顔をしているの?

 

「2人とも待って、お願いだから検査を受けてちょうだい」

「怪我の原因を知るには必要なことなんだよ、痛くないし怖くもないから」

「嫌だ!! 検査なんかいらない、俺たちどこも悪いとこなんかない!! 早く家に帰らせてよ!!」

「我儘を言うな燈矢!! ここで検査を受けないでまた冰織が手を痛めたらどうする!? お前だけの問題じゃないんだぞ!」

「お父さんまでコイツらの味方するのかよ!? 俺たちが平気だって言ってるのになんで信じてくれないんだよ、あんな火傷どうってことないのに……!!」

 

 中腰になって視線を合わせながら宥めようとするお姉さんや先生に、吠えるように反発する燈矢。いつもならすぐにいい子で頷くお父さんの説得にすら噛みついて、すれ違う人たちの目がどんどん集まってくる。

 

「待って炎司さん、2人とも急に病院なんて連れてこられて不安なんだよ、もう少し優しく言ってあげなきゃ」

「そんな悠長なことを言っている場合じゃないだろう冷!! 良いから先生の言う通りにしろ燈矢、すまない先生方、俺が燈矢を引きずってでも連れて行きますから冰織をよろしくお願いします」

「ああいえ、こちらこそお手数をお掛けして申し訳ない」

 

 遥か頭上で進んでいく会話をぼんやり聞いている内に、大股で近づいてきたお父さんが手足をめちゃくちゃに振り回して暴れる燈矢を猫みたいに引っ掴む。「冰織、お前はいい子に出来るな」と降ってきた声に逆らわずコクリと頷けば、あからさまにホッとしたのを隠しもしないでお姉さんや先生も近寄ってくる。「大丈夫よ冰織ちゃん、すぐに終わってお家に帰れるからね」とか「きっとまだ手が痛いだろう、検査をして原因が分かったら痛くないように治してあげるからね」とか、手を引きながら口々にかけられる言葉が、全部右から左に流れていく。

 

 少し後ろを暗い顔でついてくるお母さんも、未だにギャンギャン騒ぐ燈矢も、それを大声で叱り飛ばすお父さんも。纏わりつくようにずっと漂っている消毒液の匂いも、どこまでも続いているような冷たい廊下も。全部全部、まるでテレビの向こう側の出来事みたいだった。何も分かりたくなくて、泡のように消えてしまいたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「非常に珍しいケースですね」と、その先生は言った。お父さんとお母さんが揃って息を呑んで、寒くなんかないはずなのに体がカタカタ震えてくる。

 

「まるで真逆なんです、お父さんの炎の個性を受け継いだ燈矢くんは熱への耐性が低く、お母さんの氷結の個性を受け継いだ冰織ちゃんは寒さへの耐性が低い。つまり個性に体質が合っていないということなんですね」

「……それは、2人には生まれ持った個性を扱うことが出来ないということでしょうか」

「もちろん全く使えないというわけではありませんよ、しかしまあ、恐らく絶えず火傷もしくは凍傷を負うことになるでしょうね」

 

 「まあ……今の時代、個性デザインは禁忌ですから……」ともそもそ言葉を濁す先生に、いよいよ顔を上げられない。ギチギチ絞められている左手も気にならないくらい心臓がドクドク暴れて、頭は沸騰したようにぐらぐら茹っているのに心の奥底は波の立たない水面のように嫌に落ち着いている。何も聞きたくないのに耳は丁寧に先生の言うことを一々拾い上げて、バラバラになったみたいにちぐはぐで吐きそうだ。

 

 例えば、そう。前に読んだ本の中に、“白昼夢”という言葉があって。目が覚めているのに夢を見ているような、現実と空想がマーブル模様のように混ざり合った、そんな状態に私がなっているとして。もしいくら待っても終わりが来ないなら、それは私が死んでしまっているということには、ならないのだろうか。終わりのない夢が存在しないのなら、目の前で起きたこと全てを、受け入れて生きるしかないと言うのだろうか。こんなに息が苦しくて死にたいのに。

 

 ────それから、どうやって家まで帰ってきたのかは覚えていない。これからのことを話し合ったのか、それとも何も話していないのか、それすらも思い出せない。気付いたら燈矢と2人布団に並んでいた。いつまで待っても終わりは来なかった。

 ただ、それでも、ずっと。起きている間に見る夢のように、遠い昔誰かが見た長い長い一生分の夢のように。私が分からないだけでいつかは終わりが訪れて、夜が明けたら朝が来て。重たい瞼を開いた先にはいつも通り皆が笑っているような────そんな馬鹿げた夢を見ているだけなら良いって、それだけをずっと、祈っている。

 

 

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