轟家長女の紡ぐ日々   作:雛と卵

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轟家長女とその原点【前】

 

 

 

 

 

 弟が生まれた。綿菓子みたいに真っ白な髪の、元気な男の子。夏雄と名付けられたその子を初めて見た時、私は久しぶりにいるかどうか分からない神様に感謝した。最悪の日はまだ、訪れなかったって。

 

 その人がどんな個性を持っているのかが分かるのは、大体3歳か4歳くらいだって言われている。私と燈矢は2歳の頃にはもう個性を使えるようになってたけど、冬美ちゃんはついこの前やっと個性が出たばかりだ。でも、そう。夏くんが生まれて確信したけど、うちは普通の家じゃないから、3歳になるのを待たなくても大体どんな個性かは予想がついちゃうんだ。

 お父さんと同じ赤い髪なら炎の個性、お母さんと同じ白い髪なら氷の個性。実際、少し色が変わってきちゃったけど元々赤髪だった燈矢は炎の個性で、元々白髪だった私や初めからずっと白髪の冬美ちゃんは氷の個性だ。ということは白い髪を持って生まれてきた夏くんはきっと、いや、ほとんど間違いなく私たちと同じ氷の個性を持っているはずで。それはつまり、お父さんの望む“最高傑作”は今回も生まれてこなかったということだ。夏くんの髪が真っ白でよかった。

 

「────ぇ、ねぇ、こっちみて!」

「いたっ、ちょ、背中叩かないで夏くん」

 

 バンバンともうすぐ2歳になる子とは思えないくらい強い力で背中を叩かれて、私は慌てて後ろへ向き直る。私と同じ黒い目は小さいけど光を反射してくりくりしてて、見つめ合っていると何だかばつが悪かった。ごめんね、君が生まれてきたことをちっとも喜べなかった嫌なお姉ちゃんで。夏くん、何にも悪いことしてないのにね。

 

「どうしたの夏くん」

「あのね、ねぇのお顔かいたから見てほしくて」

「ほんと? わぁ、夏くん絵上手だね、こんなに可愛く描いてくれて嬉しいな」

 

 画用紙いっぱいに描かれた私の似顔絵に素直に感謝すると、夏くんは照れくさそうに唇をもにょもにょさせる。可愛いなって思うのと同時に、もし夏くんが最高傑作だったらきっとこんな風に一緒に遊んであげたりなんかしなかっただろうな、とも思って喉の奥が魚の骨が刺さったみたいにちくちくした。

 

「あ──っ、ズルい冰織姉! 夏、私の顔も描いてみてよ」

「ふゆねぇうるさい、ぼくひおりねぇと遊んでるんだもん!」

「ええっ、なんでよ! 私とも遊ぼうよぉ夏〜〜!」

 

 いつの間にか居間に入ってきてた冬美ちゃんがガバリと夏くんに引っつくと、嫌がった夏くんが逃げようとして2人畳の上をゴロゴロと転がる。そうしてあんまりしょうもないことを言い合って、きゃあきゃあ騒いでまた転がっているから思わず笑い声が漏れてしまった。うん、やっぱり可愛い。きちんと、“優しい良いお姉ちゃん”をやれるはずだ。

 

「あはは、もう、2人ともそんなことで喧嘩しないの! 皆で遊べるように今度はおままごとしよっか。いつも遊んでるお人形さん、持ってきておいで」

 

 後から参加した冬美ちゃんも楽しめるように代わりの遊びを提案すると、さっきまで絡まり合っていた2人はパッと飛び起きた。ちょっと揉めていたことなんか無かったみたいにお気に入りのお人形を取りに走っていく後ろ姿を見つめている内に、不意にほとんど分からないくらい静かに襖が開いて私は首を回した。開いた先にはお母さんが立っていて、丁寧に襖を閉めるとほんの少しだけ口の端を持ち上げた笑顔を浮かべて近づいてくる。

 

「……ありがとうね、冰織。夏雄のこと見ててくれて」

「お母さん。お皿洗うの終わったの?」

「ええ、冬美がお手伝いしてくれたから随分早く終わったの」

「そっか、今度は私が冬美ちゃんの代わりにお手伝いするよ。あんまり夏くんをとっちゃうと、冬美ちゃん拗ねちゃうから」

 

 一緒に座れるように場所を空けながら笑いかけると、今度こそお母さんは安心したように微笑んだ。私が好きな、ラムネの瓶を開けた時にしゅわしゅわ浮かんでくる泡のように涼しげな笑顔。

 

 夏くんが生まれてから、お母さんはどこか遠慮したように私たちを見るようになった。きっと、お父さんの目的を知った私たちが酷く傷ついたと思ってるんだと思う。別にお母さんがどう思ったって何も変わりはしないのに、一体私たちに何を期待しているんだろう。辛いって泣けば良い? それともそんなこと気にしてない風に笑っていれば良い?

 

 ────泣き喚いて、みっともなく縋ればお父さんはまた私たちを見てくれる?

 

「……ねえ、冰織。お前はまだ、ヒーローに」

 

 ぽつりとお母さんが何かを言いかけた瞬間、スパァン、と勢いよく襖が開いた。冬美ちゃんたちが戻ってきたのかと思って立ち上がると、そこにいたのは燈矢だった。ギラ、とパライバトルマリンの瞳が鈍く光る。

 

「……冬美ちゃんたちなら心配しなくてももうすぐ来る」

「……そう。ありがとう」

 

 ぶっきらぼうに告げられた言葉に体勢を変えてもう一度座り直すと、燈矢はハン、と鼻を鳴らした。いかにも馬鹿にしてます、と言わんばかりの仕草に頭の奥が瞬間的にカッと熱くなる。お母さんがいなかったら一発くらい殴っていたかもしれない。

 

「本当、ひぃちゃん変わったよな。やっぱりうちの女は皆ダメダメだ」

「私は燈矢と違って現実を見てるだけ、喧嘩売りたいなら買うけどどうする? 表出てあげようか」

「いらねえ、夕飯まで帰らないから探したりするなよ」

「待って燈矢、まさかまた個性を使う気なの? お父さんに止められたでしょう、」

 

 半分立ち上がりかけた状態でお母さんが問いかけるけど、それには答えないで燈矢は去っていく。程なくして玄関の方からごそごそするような音が聞こえて、ガチャンと扉の開く音がやけに鮮明に響いていた。

 

「お母さん、放っておきなよ。何言ったって折れるわけがない」

「……燈矢のこと、心配じゃないの?」

 

 うろうろと揺れながら降ってくる視線に、苛立ちが募る。ねえ、お母さん、貴方は私をどうしたいの? 貴方が燈矢を止められないからって、どうして私まで巻き込もうとするの? 全部、貴方たちの自業自得なのに!

 

「……さあ、別に燈矢の好きにすれば良いんじゃない。個性を使い続けることが危ないって分かった上で使ってるんだから、それで怪我したって“自己責任”ってやつでしょ。気にするだけ無駄なんだって」

 

 込み上げてくる嫌な昂りのままに吐き捨てるように返せば、お母さんは目を逸らして居間を出ていく。そう、お母さんって、いつも逃げるよね。自分が大きな間違いを犯してしまったんだって、認めたくないんだ。弱い、弱いな。でも────その弱さが現実なんだって、私も受け入れなくちゃいけない。だってこれはお母さんだけのせいじゃないって、あの日からずっと分かっているから。私たち皆が、等しく同じ罪を犯した報いを受けている。

 はあ、とため息をついた瞬間、開けっぱなしになった襖からおずおずと小さな目が2つ覗いてくる。もう大丈夫だよって伝えるように手を広げて口角を上げると、2人分の体重がずっしり体にのし掛かった。

 

 

 

 

 

 ガチッと歯が鳴った瞬間、尋常じゃない痛みが全身を駆け抜けて私はその場に倒れ込んだ。痛い、というよりもう手足の感覚がない。正直、自分の手がぶるぶる小刻みに震えているのが見えなかったら、今自分が寒がっていることも認識出来ていなかったと思う。やっぱり感覚がなくなるのは不便だ、引き時が分からなくなる。深追いして返り討ちにでもあったら、実戦では役立たず扱いだ。なんでこんなポンコツな体に生まれてしまったんだろう。

 

「おい、いい加減にしろトドロキヒオリ、お前自分がどうなってるのか自覚出来てるか」

「…………うるさいな……そう思うなら早くそこにある熱湯ぶっかけてよ使えないな……」

 

 呆れたように落ちてきた声に反射で言い返すと、身構える間もなくザバリと熱いお湯が降りかかってくる。あの、私今目も口も開いてたんだけど、見えてないの? 馬鹿なの? やっぱりコイツ嫌いだ。

 

「ねえ、なんで今喋ってたのにお湯かけてきたの? 本当に使えないじゃん、脳みそちゃんと動いてる?」

「あーあーうるさいうるさい、文句ばかり垂れるな庶民のくせに。そもそもこのボクが、わざわざお前のキチガイ染みた行動に付き合ってやっているだけありがたく思え」

「口だけは一丁前だよねヨーヘイくんって、私の氷にビビって屈したくせになんでそんな上から目線でいられるの? 面の皮が分厚いにも程があるでしょ」

 

 昔はすぐに言い負かされてギャンギャン泣いてたのに、いつの間にやらああ言えばこう言うようになったヨーヘイくんに苛々しながらゆっくり体を起こす。かなり熱くしていたお湯を全身に被ったおかげで、強張って変な風にピクピクしていた手足はだいぶきちんと動くようになっていた。

 固まっていた手のひらを握っては開いて、関節が滑らかに動いていることを確認する。パッと見た感じ凍傷になっている部分は無いし、これなら個性訓練をしたことは今日も誰にも気付かれないだろう。ヨーヘイくんの家がとんでもないお金持ちでよかった。

 

「体が動くようになったならそろそろ帰れ。今日は父上の帰りが早いんだ」

「ああ……そういえばそんなこと言ってたっけ。どの道お夕飯の時間も近いし、早く帰ってお母さんを手伝わないと」

 

 気付いたら体の色んなところについていた砂埃を払うと、そこら中に張り巡らされた氷に向かってポリタンクに入った灯油をぶち撒ける。もう一つ用意していたタンクも同じようにひっくり返すと、寒い日に時々保育園の教室に置かれるストーブと同じ匂いが一気に広がって、特有の何とも言えない臭さについ顔をしかめてしまった。鼻から口まで手で覆いながらとりあえず巻き込まれないように氷から離れると、今度はヨーヘイくんが自分の背丈くらいある火炎放射器を重そうに持ち上げて灯油に向けて構える。あっという間に轟々と音を立てて真っ赤な炎が立ち昇り、私が苦労して生み出した渾身の氷たちは少しずつその輪郭を溶かしていった。

 

「……分からないな、なぜそうまでしてヒーローに拘る? お前ほどの知性があれば幾らでも他の道を選べるだろうに」

「その話まだ続く? 家でもそんなつまらない話ばっかりで、いい加減耳にタコが出来る」

「リスクにリターンが見合わないとは思わないのか? 仮にお前がヒーローになれたところで大きなハンデを抱えていることに変わりはないし、そうやって体を張って守った民衆はきっとお前の苦しみなんて分かろうともしないぞ」

「…………だってヒーローじゃなきゃ、あの人は私を見ないじゃんか」

 

 ぼそりと呟いたそれにヨーヘイくんが反応する前に、地面に置いておいた荷物を手に取る。そうして振り返らずに歩き出せば、わざとらしくため息をついた後でヨーヘイくんもついてくる。未だに燃え盛る炎はいつもヨーヘイくんのお付きの人たちが処理してくれているそうなので、後は帰ってお母さんのお手伝いをするだけだ。

 

 ────病院で私たちの体質が判明してすぐ、お父さんは今後一切個性を使って訓練することを禁止した。当然納得なんか出来なくて私も燈矢も食い下がったけど、同じやり取りが2回、3回と続いて私は早々に見切りをつけた。だってお父さんが頑固なのはずっと前から分かってたし。私たちを見限っておきながら“最高傑作”をつくることに拘っているところは本当に腹立つけど、でも心配しているというのも丸っきり嘘ではないんだろうと思ったから。正直絶望的に言葉が足りないと思うけど。

 とにかく、そう。お父さんが意地でも認めてくれない以上、私はお父さんに決して気付かれないように個性訓練を行う必要があった。そのためにまずは外で特訓に使えそうな場所を探すことにしたんだけど、人に見られない開けた場所なんて簡単に見つかるわけがなくて。どうしようって道端でぽつんと立ち尽くしていたところに────おあつらえ向きに習い事から帰る途中のヨーヘイくんを見つけたのだ。

 

 ヨーヘイくん、もとい風間葉平。ヒーローにとっては慣れない事務所の経営をお手伝いすることで、目立った個性がないのにこの日本でトップクラスの財閥となった風間家の長男。そんなヨーヘイくんはいずれ雄英の経営科に進学すべく保育園入園と同時にうちの近所に引っ越して来たそうで、くらくらしそうなくらい大きなお屋敷にお母さんや使用人の人たちと一緒に住んでいるのだと聞いた。

 その話を聞いて私は、すぐにヨーヘイくんを説得……というより脅して、そのとんでもなく広いお屋敷に招待してもらうことにした。仕事が忙しくて普段は東京にいるらしい彼のお父さんは分からないけど、少なくともヨーヘイくんのお母さんは物凄くおっとりした人で、とてもじゃないけど私が建前に使った「ヨーヘイくんのお友達」という言葉を疑うような人には見えなかった。ヨーヘイくんのお母さんが思っていたより良い人だったこともあって、ちょっとの罪悪感を覚えながらも私は、ヨーヘイくんのお家が持っているたくさんの敷地を使うことで誰にも気付かれず特訓をすることが出来るようになったのだった。……一応、なんだかんだ付き合ってくれているヨーヘイくんにも、感謝していないこともない。

 

 別に、ずっと特訓のことを隠しているつもりはない。そもそも私がここまで回りくどいことをしているのは、例え時間がかかっても最終的にお父さんにもう一度認めてもらうためだ。当然、来る時にはお父さんに成長した私の実力をお披露目するつもりだけど、今はまだその時じゃない。むしろ、変に中途半端なところでバレて外出禁止にでもなったらいよいよお父さんを認めさせることは不可能だ。その点、燈矢ってやっぱりちょっとポンコツだと思う。あんなあからさまに毎日毎日どこかへ行っては火傷をつくってくれば、お父さんもお母さんも頭ごなしに反対するに決まってる。どうしても叶えたいことがあるなら、焦らずに大局を見ないと。

 

「おい、どこまで行く気だトドロキヒオリ。お前の家はここじゃなかったのか?」

「……本当一々うるさいなあ、もう良いから帰ってよ」

「偽装工作のために家まで着いてこいと言ったのはお前だろうが、早くインターホンを押せ。ボクは庶民のお前と違って忙しいんだ」

 

 そんなに急いでるならインターホンくらい自分で押せばいいのに、てこでも動かないヨーヘイくんにまた胸の辺りがムカムカしてくる。見た目はいかにも大したことなさそうなのにこんなにふてぶてしいヤツだなんて聞いてない。これならブランコを独占して馬鹿みたいに高笑いしてた頃の方がまだよかった、ちょっと脅かしたら変に口答えしないですぐにビビって逃げてたし。

 

「お母さん、ただいま」

 

 インターホン越しに呼びかけると、すぐにパタパタとこちらに向かってくる足音が聞こえる。玄関の扉を開けたお母さんはヨーヘイくんに微笑みかけて、「いつも冰織と遊んでくれてありがとう」なんて手に持っていた桃を握らせる。桃か、そういえば昨日お母さんが買ってきてたっけ。うちはお父さんがヒーローでたくさん稼いでいるから別にこれくらいはいわゆる“端金”ってやつなんだろうけど、ヨーヘイくんが家まで送ってくれる度に何かお土産を持たせるのはちょっとやり過ぎなんじゃないかなって思う。だって少なくとも週3回はヨーヘイくんの家で特訓してるし。

 

「すみません冷さん、いつもありがとうございます」

「いいのよ、冰織のお友達だもの」

「いえいえ、ボクの方こそお礼を言いたいくらいですよ。それじゃあまた明日、ヒオリ」

「うん、また明日」

 

 にこりと、普段の意地の悪さなんて微塵も感じさせない完璧なよそ行き顔を浮かべると、ヨーヘイくんは来た道を戻っていく。それをたっぷり5秒は見送ってあげて、お母さんと一緒に家の中に入る。正直ムカつくことも多いけど、ヨーヘイくんの外面の良さはこういう時は素直にありがたい。おかげで誰も、私がまさかヨーヘイくんの家で個性訓練をしているだなんて疑いもしていない。ヨーヘイくんと組んだらいつか完全犯罪も出来てしまうかも、なんてね。

 

「葉平くんは、いい子ね。良いお友達が出来て本当によかった」

「……そうだね、お母さん。私も、ヨーヘイくんと遊ぶの好きだよ」

 

 さっきのヨーヘイくんを真似て口角を上げてみせると、お母さんはゆるりと目尻を下げる。私こそ、本当によかったよ。貴方が表面上だけ取り繕えば満足するような、私の奥底に深く触れようとしないような。心底弱い人で、本当によかった。

 長い廊下を突き当たりまで進んで、洗面台で手を洗う。大丈夫、焦ることはない。例え今は誰一人私のことを本当には理解してくれなくても────今にこの身でもって、全て分からせる。

 

 

 

 

 

「ねえなんで! なんで特訓してくれないんだよ、俺出来るよ!!」

「いい加減にしろ燈矢、お前のためなんだぞ! 大体お前また火傷をつくったそうじゃないか、なぜ俺の言うことが聞けない!」

「こんな火傷どうってことないよ、ねえなんで駄目なんだよお父さん、前は一緒にやってくれたのに……!!」

 

 カチカチとリモコンのボタンを2、3回弄って、すっかり日常となった不毛な言い争いを掻き消すようにテレビの音量を上げる。途端に液晶の向こう側から脳みそを揺さぶるようなけたたましい笑い声が響いて、既に地を這っていた気分がより一層萎えた。もう何観ても別に面白くないし、テレビ消そうかな。元々、お父さんが帰ってくればどうせいつも通り燈矢が噛みついてうるさいと思ったからつけただけだし。さっきまで一緒に観ていた冬美ちゃんも夏くんも、お父さんの怒鳴り声を怖がって部屋に戻っちゃったし。

 

「駄目なものは駄目だ! 少しは周りを見ろ、ヒーローになることだけが全てじゃない! 現に冰織は保育園で友達を作って、他の世界を見始めているだろう!」

 

 思ったより役に立たなかったテレビを消して自分の部屋に戻ろうとした瞬間、随分久しぶりに呼ばれた名前に思わず肩が跳ねた。咄嗟にソファに置きっぱなしのクッションに突っ伏して耳を塞ぐ。何考えてるんだ私、人のこと馬鹿に出来ない、どうしてこんなに救えないの。なんで、引き合いに出すためだけに名前を呼ばれたことを、こんなに嬉しく思ってしまうの。何一つ変わってなんかいないのに。

 表面は毛羽立ってざらついているけど、綿をたっぷり詰めて柔らかい布地にガリガリと爪を立てる。嫌だ嫌だ嫌だ、見ないで、こんなにも惨めな私を見ないで。いつまで経っても心のどこかで過ぎ去った日々に囚われて動けないでいる私に、永遠に気付かないで。……嘘、お願いだから、早く私をもう一度見て、お父さん。お父さん!

 

 ひくっ、と喉が震えて目の前がじんわり滲んでぼやけだす。歯を食いしばってクッションにぐりぐりと顔を擦りつける、本当になんて惨めな姿なんだろう。時計の秒針が進む微かな音さえもやけに耳について、どうしようもなく消えたくなった。

 気を抜くとしゃくり上げそうになるのを無理矢理抑え込んでいる内に、激しさを増していた口論は少しずつ終わりへと近づいていく。「とにかくもう個性を使うな」という、何百回と聞いた話を強制的に終わらせるための台詞にのろのろと体を起こせば、床板をドスドスと踏みしめて去っていくお父さんの後ろ姿が目に映った。お父さん、ねえ、貴方はきっと燈矢さえどうにかすれば全部上手くいくと思っているんだろうけど。私は、私だって、本当はずっと。縋りたくて追いつきたくてまた振り向いてほしくて、でも、叶わなかった時が怖いから奥底に飲み込んでいるだけだって、どうして気付いてくれないの。忘れろと言われて簡単に忘れられるわけがないのに。

 

 変に息を止めていたせいか割れるように頭がガンガンと痛んで、もう一度ソファに凭れかかる。何をする気力も湧かなくてぼんやりと廊下に視線を向け続けていると、お父さんに邪険にされた燈矢が足をダンダンと踏み鳴らし始めて、余計に眉間の辺りが痛くなる。ああ、ああ。胸がささくれ立つような苛立ちが、じりじりと脳髄を焦がす焦燥感が。喉元を締め上げて止まらない。

 

「くそっ、なんでだよっ、火傷なんか全然我慢出来るのに……!」

「……さっきからうっさいな……その足ダンダンするのやめてくれない? みっともなくて見てられないんだけど」

 

 波のように押し寄せる痛みを振り払うように嫌味を投げつけた瞬間、全身で不満を訴えていた燈矢の動きがピタリと止まった。ギョロリと血走った碧い瞳がこちらを向いて、プチリと何かが切れたような音が鼓膜を震わせる。

 

「……みっともないって何だよ? なんでそんなことお前に言われなくちゃいけねえの」

「事実を言って何が悪いの、どうせ結果なんか変わりやしないのによくもまあ毎日毎日懲りずに駄々こねられるよね、まだ2歳にもなってない夏くんだってもうちょっと聞き分け良いよ」

「ッ、ああそうかよ、だったら俺も言わせてもらうけど自分が諦めたからって俺にも押しつけてくるんじゃねえよ!! 俺はもう超えたいって思ってるんだ、ちょっと反対されたからって逃げたひぃちゃんには一生分かんないだろうけどな!!」

「……………………誰が、逃げたって?」

 

 ドン、と自分の足が床を踏みつけた衝撃にグワンと視界が揺れた。沸騰した血が耳元に逆流して、さわさわとさざなみのような音を鳴らす。強く握りすぎた拳の内側で爪が柔らかな肉を抉る、ああ、そう、あんたには私がそう見えるんだ。いい加減、腸が煮えくりかえってどうにかなりそうだよ。

 

 ギリリと唇を噛みしめて踏み出した爪先から冷気を迸らせる。瞬きの間に燈矢の足元が凍りついて、でも次の瞬間には燃え上がった炎でじゅわりと溶ける。別に良い、ほんの一瞬意識を逸らせればそれで十分だ。

 弾かれたように床を蹴って、凍った足に視線を向けていて反応の遅れた燈矢に飛びかかる。体重は負けているかもしれないけど身長は私の方が高いから、シャツの襟ぐりを掴んだ手に思いきり力を込めれば簡単にその体は押し倒される。無防備なお腹の上に乗り上げて、伸ばした足で暴れる手を押さえつけて。完全に動きを封じたところで、程よく日に焼けた首に手をかけて力の限り圧迫する。

 

「っざけんな、クソ、離せよ……!」

「『ふざけんな』はこっちの台詞だよ、もしかして自分のこと世界で一番不幸な人間だって思ってる? んなわけないじゃん馬鹿じゃないの、なんで私よりずっと恵まれてるあんたに被害者ヅラされなくちゃいけないのかなあ、私そんな悪いことした?」

「は、っ? なに、いって、ぅえ゛っ」

「ッッあ゛〜〜〜〜ムカつくムカつくムカつくムカつく!! 何なの本当、なんで私がこんな目に遭わなくちゃいけないの、ちゃんとお父さんの望む通りに生きてきたじゃん!! 組み手の練習も個性の出力訓練も毎日言われた通りに真剣に取り組んでたじゃん、これ以上どうすれば良かったって言うの、教えてよ!!」

 

 気道が塞がれて空気が通らなくなったせいか、ドクドクと手のひらの内側で血管が脈打つ。勢い任せに押し倒した割に結構しっかりと体を固定出来たから逃げられるわけがないのに、陸に打ち上げられた魚みたく身を捩らせて爪を立ててくる燈矢にどんどん頭に血が昇ってくる。やめて、その目で私を見ないで。お父さんと同じ色の目で、そんな風に私を見ないでよ!

 

「知らないみたいだから教えてあげようか、お父さん、体質のことさえ無かったら本当は燈矢だけいれば良かったんだよ。あんた、まだそんなに長い時間は安定して出せないみたいだけど、もうお父さんより強い炎が出せてるもんね。今に、お父さんを超えられるはずだったもんね、私は違うけど。まあ元々サポート役が欲しくてお母さんと結婚したんだろうし、私のことも一応燈矢のサポートとして使えれば儲け物とは思ってたのかな」

 

 ハハ、と乾いた笑いがこぼれて自分でもおかしくなってしまう。いっそのこと、お父さんの思惑なんて一つも察せないくらい愚かな子供だったら、今頃ここまで苦しくはなかったのだろうか。過大な期待に蝕まれて、明日が来るのが怖くて、にっちもさっちもいかないまま惰性だけで生きる羽目にはならなかったのだろうか。

 

 ────あの日から、繰り返し考えていることがある。あの時手が痛かったのは無理に冷やしすぎてしまったからで、私の体はどこも悪くなんてなくて。病院から帰ったらその日はゆっくり休んで、次の日からまたお父さんに稽古をつけてもらいながらオールマイトも超えられるようなヒーローになっていく。そんな輝かしい未来を掴み取るには、一体何が足りなかったんだろう。

 炎じゃなくて氷結の個性を持って生まれたからだろうか。どうしたっていつかは力で劣ってしまう女の子に生まれてしまったからだろうか。でも、そんなことは自分じゃもうどうしようもないじゃないか。生まれ方は選べないのにその先の生き方まで選べないなら、もう生まれてくるだけ無駄じゃないか。

 ぎゅっと強く瞬いた瞬間、突然酸素が足りないせいで歪んだ燈矢の頬に一つ水滴が落ちた。小さくて透明なその雫はつうっと肌を伝って消えていって、その感触が気持ち悪いのだろうか、湖みたいな瞳が思いきり見開かれて思わず手が緩む。

 

「…………そんな、泣くほど悔しいなら、最初からそう言えよ」

 

 ぽつりと、こぼれ落ちるように宙に浮かんだそれを一瞬上手く飲み込めなかった。何か言い返したいのに喉は引きつれたように震えるばかりで何一つ言葉が出てこなくて、呆然と煌めくパライバトルマリンを見つめている内に転がり落ちるように2つ、3つと溢れた雫が燈矢に降り注いだから、もう、全部認めざるを得なかった。見放されたのが悔しくて、愛されたくて、行き先も分からないまま無我夢中で息をし続けることがこんなに苦しいこと、一生分からないままでいたかった。

 

 いよいよ空気を読まないで流れ出した涙を止められない私の下から、咳き込みながら燈矢が這い出す。そうして、いつか不安で泣いていた私を抱きしめてくれたみたいに優しく腕が回されて、本当に自分が大嫌いになった。あんなに酷いことをしたのにどうしたって燈矢は私のお兄ちゃんで、お父さんが何と言おうとも、私が泣いていたら迷わず手を差し伸べてくれるたった一人のヒーローだった。それでも埋まらない穴が胸の奥にぽっかり空いていて、触れた肌を同じように何かが伝ったのが悲しくて、もっと熱い雫が溢れ出した。

 誰もいない静寂に、不規則に波打つ声が反響する。暗く翳った視界がぼやぼやと揺れて、秒針の音が時々耳を打って、閉め切ったカーテンの隙間からほんのり光が漏れてくる。

 

 お父さんもお母さんも、冬美ちゃんも夏くんも、誰もやって来なかった。私たちだけが世界から切り取られたみたいに、進めないまま朝まで2人泣いていた。

 

 

 

 

 

 ピキパキと耳元で小さな氷の粒が爆ぜて、ゆっくり息を吐いた。前にかざしていた手を下ろして、足元の氷を避けながら地面に座り込む。見上げた空は厚く灰色の雲が垂れて、さっきまでは薄く差し込んでいた陽の光もすっかり見えなくなってしまっていた。どうして冬が来ると、見慣れた景色でもどこか寂しい色に包まれているように感じるのだろう。

 

 はあ、と吐き出した息が白く染まって昇っていく。意識すると急に寒さが身に沁みて持ってきていたお茶を飲もうと立ち上がりかけた途端、カタカタと震える指先が自覚出来ない限界を訴えているのが目に映って、何だかもう一気にやる気がなくなってしまった。冬は嫌いじゃないし、むしろ鈍色の空や仄白い街並みを見ていると落ち着くから好きなんだけど、元々寒さに耐性がない私にとっては活動時間がより短くなってしまう天敵みたいな季節でもある。というか、冬が近づくと動けなくなるなんて本当に動物みたいじゃないか。

 もういっそ近くの山奥にでも引っ込んで冬眠してやろうかな。誰にも行き先を告げずに急に長いこといなくなったら、流石にお父さんも探してみてくれるかな。しないか。逆に厄介払いが出来てよかったなんて思われた日には本気で死にたくなるから、やっぱり冬眠で気を引いてみよう作戦はお蔵入りだ。

 

「……おい、生きているかトドロキヒオリ」

「人のこと勝手に殺すのやめてヨーヘイくん、もしかしてもう時間なの? まだ体感では2時間半しか経ってない気分なんだけど」

「違う、さてはお前天気予報を見ずに家に来たな。今日は雪が降るぞ」

「…………なんで昨日より限界が来るのが早いんだろうって思ってたら、そういうこと? どうりで急に冷え込んだような気がしたわけだよね」

 

 チッ、と小さく舌打ちながら弾みをつけて今度こそ立ち上がる。この辺りはあまり雪が降らない方だけど、今年は随分早く本格的に冬が訪れたらしい。年も変わってないのに雪が降るほど気温が下がるなんて、物心ついてから一度あったかどうかだと思う。

 

「ねえ、どうせ見に来たならそこのお茶取ってよ」

「なんでボクがそんなことしてやらないといけないんだ、その足はお飾りか?」

「寒くて動けないもん、いいからつべこべ言わずに早くして、また体中氷漬けにされたいの?」

「……相変わらず、とてもヒーローを目指している人間の台詞とは思えないな」

 

 冗談のつもりで気まぐれに吐いてみた我儘に、間髪入れずにしわっと顔をしかめるヨーヘイくん。特に期待もしていなかったから諦めて溜まった疲労のせいで重たい足を引きずった瞬間、すっと視界を影がよぎってうっかり爪先を引っかけて転びそうになった。

 

「さっきから何をしてるんだお前は」

「……別に、何も。私って本当に性格悪かったんだなって改めて自覚して、ちょっとへこんだだけ」

「ハ? まるで意味が分からないんだが」

 

 「ほら、ご所望の品だぞ」なんて、当たり前のように水筒を手渡してくるヨーヘイくんに、何も言えずに黙って下を向く。ヨーヘイくんは基本的に人を小馬鹿にした態度ばかり取る嫌味な人だけど何だかんだ面倒見の良いところがあるらしく、結局はわざわざ私のために歩いてしょうもない我儘を叶えてくれるものだから、何というか、こう。私ばっかりが意地悪してるみたいで参ってしまう。

 軽く首を振ってから、ゆっくり水筒の蓋を開ける。口をつけるとじんと指先が痺れるような温かさが喉を滑り落ちて、冷えきった体の芯が解れていくような気がした。ほうと息をつくと、遥か上空を灰色の翼の鳥が飛び去っていく。

 

「しかしこうなっては、この練習場ももう使えないな」

「えっ? 何それどういうこと」

「……最近のお前の氷は、生半可な炎じゃ溶かせないんだ。初雪が降り出すくらい気温が下がったのなら、いよいよ別の敷地に移らないといけないだろうが。

 それより……あー、その、もうすぐ年が変わるだろう。お前の家が色々と問題を抱えているのは知っているが、今年の年末は父上がどこぞのリゾート地を貸し切っているらしくてな。多少人数が増えようがどうせ風間家にとっては端金だ、良かったらお前も家族と一緒に……」

 

 ガツンと、とんでもない衝撃に脳みそが揺さぶられたような錯覚を覚えた。ヨーヘイくんが何か色々と話してくれているのを耳では感じるけど、ほとんどが右から左に流れて何も頭に入ってこなかった。

 普通の炎じゃ、溶けない氷。今使っている練習場を捨てなくちゃいけないくらい、後処理に困る氷。ああ、それって、きっと。どこにいるか分からなかった神様が、ようやく私に向けて微笑んでくれたってことなんじゃないだろうか。

 

「……トドロキヒオリ? お前、本当に大丈夫か……?」

「ヨーヘイくん、死にたくなかったらなるべく離れて」

 

 用のなくなった水筒を放って、私からもなるべく距離を取る。一歩進むたびに空気がどんどん冷え込んで、その慣れた感覚に不思議と胸が弾んで仕方ない。

 

 すうっと深く空気を吸い込むと、次の瞬間思いきり足を踏み鳴らした。空いた両手も限界まで突き出して、瞬く間に激しく氷が聳え立っていく。下がりすぎた気温に腕も足もきりきりと痛むけど、でも、それが何だって言うんだろう? こんなに心臓が高鳴って今にも叫び出しそうなのに!

 全てを出し尽くす勢いで出した氷は、いつの間にか私とヨーヘイくんの周りを壁のように取り囲んでいた。ちらちらと舞う淡い色の粒がデコレーションのように降り注いで、しんと静まり返った空間に私たちの息遣いだけが漂っていた。

 

「…………おい……お前、いつの間に、こんな……」

「あははっ! 分かんない、いつからだろう! ありがとうヨーヘイくん、君のおかげでやっと辿り着けた!」

 

 体の奥底から込み上げるままに呆然とこちらを見るヨーヘイくんに笑いかければ、一層顔を青ざめさせる。ねえ、なんでそんなに怯えたような顔をしているの? 出来損ないに生まれついた私がこんなに個性を伸ばせたんだよ、もっと凄いねって褒めてよ。ずっとお父さんの代わりに見てきてくれたのに。

 

「ねえ、これ、結構凄いことだよね? プロにも氷の個性持ちはそれなりにいるけど、こんな数秒間でこれだけの量の氷を出せる人、確かまだいなかったよね?」

「……いや、ボクはあまりヒーローには詳しくないから、知らないが……」

「そういえばそうだった、ヨーヘイくんはお勉強する方が大事だもんね。お父さん、見たらきっと驚くだろうなあ」

 

 くふくふとこぼれた笑い声に、ヨーヘイくんは困ったように視線を行ったり来たりさせる。うっかりしてたけど、ヒーローじゃなくて経営者になることを求められているヨーヘイくんにこの手の話を振るのは無理があったな。別に気まずい思いをさせたいわけじゃなかったんだけど。

 立ち尽くしたままのヨーヘイくんの横を通り過ぎて、用意しておいたお湯を取りに行く。バケツ2杯で足りるかな、今日は一段と寒いからもしかしたら追加分を貰いに行かないといけないかもしれない。正直かなり手足に痺れが回ってきてるから、必要になったらヨーヘイくんに頼んできてもらうようかも。

 

「────ッ、待て、ヒオリ!!」

 

 ぱしっと唐突に腕を掴まれて反射的に振り返った。エメラルドみたいな切れ長の瞳が揺れながらも真っ直ぐ私を見つめていて、熱に浮かされていた頭が少し冷えてくる。

 

「……ボクは、正直お前の抱えている苦しみが微塵も分からん。ボクにしてみれば幾らでも選択肢があるのにヒーローに拘り続けていることは理解が出来ないし、お前は父親のたった一言でずっと縛りつけられてどこにも行けなくなっているように見える」

 

 絞り出すように言葉を連ねるヨーヘイくんに、怒りは湧かなかった。そうだろうね、君には確かに、私は自ら一つの場所に閉じこもって勝手に自滅している愚かな子どもに見えているんだろう。自分でも、嫌になるくらい分かっている。

 

「別にそれは構わん、所詮ボクとお前は違う人間だからな。価値観が違うことは当たり前で、理解出来ないからといってお前の決めたことにボクが口を出す道理はない。ただ、」

 

 言いかけて、ヨーヘイくんは口を噤んだ。唇がほんの少しだけ震えて、眉間に皺が寄るくらい強く瞼を閉じたあと、キッとほとんど睨みつけるみたいに私を見据える。

 

「ただ……保育園には、必ず来い。明日も明後日もその次の日も、お前にとってはつまらない場所だろうが毎日欠かさず来い。もし一日でも来ない日があったら……承知しないからな」

 

 躊躇うような音の揺れが、細い腕を通して掴まれた手首に伝わってくるようだった。「毎日って、土曜も日曜も行けっていうの?」なんて茶化しそうになったけど、あんまり真剣な顔で私が何か反応するのをじっと待っているものだから、結局何も言葉に出来ないまま彼の言ったことにしんみりと耳を傾けていた。

 

 どうしてだろう、お母さんやお父さんに心配されたってちっとも心なんか痛まなかったのに。それどころか、煮えたぎるような怒りが静かに積み重なって頭がおかしくなりそうなくらいだったのに、どうして私は今、ヨーヘイくんが寂しげに立っていることがこんなに苦しいんだろう。

 友だち、だからなのだろうか。都合よく利用するためだけに関わりを持ったはずなのに、いつからか、不用意に傷つけたくないと思うくらいには親しみを感じていたというのだろうか。

 

「…………うん。行くよ、保育園。誰も見てくれない大して学びのない所だけど、君が待っててくれるなら……いつも、会いに行くよ」

 

 慎重に言葉を選びながら囁くと、力を込めすぎて真っ白になっていた指を解いて優しく握り返す。それでもどこか不安な色を灯した瞳が少しでも和らぐように、努めて口角を吊り上げて笑ってみせる。

 ありがとう、はまだ言わない。まだ何も成し遂げていない、スタートラインに立ったばかりの私だ。こんな自己満足は、むしろ呪いになってしまう。

 だけど、いつか。何もかもが上手くいかない地獄のような日々を許せたなら、その時は。世界中の誰よりも親身に思ってくれた君の誠意に、きちんと向き合いたいと心から思う。

 

 音もなく降り積もる粉雪が、触れたそばからヨーヘイくんの眦を濡らす。今にも消えてしまいそうなその微かな流れがぎゅうっと胸を締めつけて、私は初めて出来た友だちを雪景色から隠すようにそっと腕を回した。

 

 

 

 

 

 いつもみたいに律儀に家まで送ってくれたヨーヘイくんと別れて玄関の扉を開けると、偶々通りかかってた冬美ちゃんが笑顔で出迎えてくれた。後ろから夏くんもひょっこり顔を出して、トタトタ駆け寄ってくる。

 

「冰織ねぇ、おかえり!」

「ただいまぁ夏くん、冬美ちゃんと遊んでたの?」

「うん! 冰織ねぇ一緒に遊べる?」

「そうだね、お夕飯が出来るまでは一緒に遊ぼうか」

 

 ツンツンと逆立ってきた白い髪を撫でると、夏くんは気持ちよさそうに頬を緩める。うちの中で、一番お父さんに似た顔立ちをしている夏くん。待っててね、今日の計画が上手くいったら夏くんもお父さんとたくさんお話し出来るようになるから。いつか望まれていない個性が出たとしても、自分を“失敗作”だなんて思って苦しまずに済むようになるから。

 

「冰織姉、今日お鍋だからお母さんがお手伝いしてって」

「分かった、夏くんと少し遊んだら行くってお母さんに言ってくれる?」

 

 お母さんからの連絡を伝えてくれた冬美ちゃんに私からも伝言を託すと、一つ頷いて踵を返していく。小さくなる背中を見えなくなるまで目で追ってから、腰に腕を回して引っついてくる夏くんと一緒に居間の方へ足を向ける。お夕飯までに出来るような遊びは何があったかな、なんて思考を巡らせながら引き手に手を伸ばした瞬間、スーッと徐ろに襖が開いて私は思わずたたらを踏んだ。開け放たれたその奥から人影が滑り出て、目が覚めるような碧い瞳がきらりと瞬く。

 

「……帰ってきてたんだ、お帰りひぃちゃん」

「うん……ただいま、燈矢」

 

 言い終わるやいなや、視線を逸らして去っていく燈矢の後ろ姿を追いかけようとしてやめる。一緒に訓練してた頃は夕焼けみたいに綺麗な赤髪だったのに、今はもう半分くらい白く色が抜けてしまっていて喉の奥がちりちりと焦げるような錯覚を覚えた。

 

 夏が来たというにはまだ早いようなあの日。隠し通すつもりだった本音を引きずり出されて洗いざらいぶち撒けてしまった人生で2番目に最悪だった日から、燈矢は私にはあまり突っかかってこなくなった、気がする。相変わらずお父さんにはしつこく付き纏っているし、心配するお母さんや冬美ちゃんには素っ気なく反発してばかりだけど、どことなく私とはそれなりな距離を保っているように思える。……いや、違うか。単にこの前みたいに絡まれても面倒だから、避けているだけなのかもしれない。

 

「……燈矢にぃ、またお出かけかなあ。ご飯までには、戻ってくるよね……?」

 

 ぽつりとこぼしてこちらを見上げてくる夏くんに、言葉が詰まる。まだ何も知らない、私の小さな弟。いつかこの泥のように絡みつく劣等感が、君にまで連鎖していくのだろうか。

 

「……ごめん、夏くん。ちょっとここで待ってて」

 

 きょとりと目をまあるく見開いた夏くんを置いて、軋む廊下を駆ける。迷わず最短距離で玄関に舞い戻れば、今にも扉を開けて出て行きそうな燈矢が目に映る。

 

「っ、燈矢!!」

 

 破裂するように舌先から転がり出た声は、壁に反響して鼓膜を揺らした。思っていたより大きくなってしまったそれにびくっと肩を跳ねさせると、燈矢は怪訝そうに振り返る。

 

「え、何……? 何か用?」

「…………燈矢は、さ。お父さん、好き?」

 

 問いかけるのと同時に、ひゅっと息を呑みこむ音が宙に浮かぶ。美しいパライバトルマリンがうろうろと歪んで、唇が開いてはまた閉じる。

 

「ねえ、待ってて、今夜全てがきっと元通りになるから。もう毎日毎日自分の運命を呪ったり、叶いもしないのにいつまでも惨めにお父さんに縋りつかなくても良くなるから」

「……ひぃちゃん、何する気だよ……?」

「…………言わなくても、分かるでしょ?」

 

 意識して柔らかい笑みを形づくりながら首を傾げると、燈矢は何かを言いあぐねるようにこちらを見つめてくる。大丈夫、たぶん君の想像した通りだけど、間違いなく上手くいく自信があるから。失敗作で使えない私だけど、頑固なお父さんも認めざるを得ないくらい強く変われたから。だから、そう。きっと何も心配いらないよ。

 

 薄く開きっぱなしの扉の隙間から、帰宅を促す午後5時の放送が耳を打つ。すっかり聞き慣れたどこか切ない色の響きに身を委ねながら、私は祈るように静かに呼吸を整えていた。

 

 

 

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