天翔ける憂鬱
それがふと目にとまったのは、まだ梅雨の明けきらないとある夏の日だった。午後6時まで外に出ていても空はまだ随分と明るくて、爽やかなホリゾンブルーが柔らかいサマーサンへと緩やかなグラデーションになっている様がしんみりと美しかった。
「おい、急に立ち止まるなトドロキヒオリ。なんだ、何か気になるものでもあったか?」
「……別に、そういうわけでもないんだけど」
後ろから投げかけられた言葉にゆっくり振り向いて返しつつ、視線を元の位置に戻すことでそれとなく薄く陽の射し込んだ艶めくエメラルドを誘導する。言葉足らずな私の返答に束の間眉を顰めたヨーヘイくんは、視線を辿っていくうちに言外の意図を察してくれたらしい。ぱちりと静かに一つ瞬いて、ほうと息をついた。
「なるほどな、そういえばもうそんな時期か。今まで気にしたことがなかったが、毎年こうなのか?」
「たぶん……そう。まだ夏くんが生まれる前に、燈矢と一緒に書いたような記憶があるから」
「……やっていくか? 別に今更5分程度遅れたところで特に問題はないしな」
遠い微かな記憶を手繰り寄せてとろりと揺らいでいた意識が、ぽつりと落とされた少しトーンの低い声で急速に引き戻された。くっと瞬間的に喉が詰まって、無意識のうちに握っていた手のひらの内側に伸びた爪が食い込む。努めて慎重に肺を膨らませて、細く細く息を吐き出して。そっと瞼を閉じると、奥底に埋もれてしまっていたいつかの光景がまるで映画のように脳裏に投影された。
***
あれは、確か2歳になった年の夏だった。その頃はまだ個性に合わない体質のことが判明していなくて、だから私は、私たちは、いつでもこの先歩む未来には希望しかないのだと何の疑いもなく信じきっていた。今思うとあまりにも世間知らずで本当にお笑い種だけれど。
その日、どうして商店街を歩いていたのかはよく覚えていない。お買い物は大抵私と燈矢が保育園に行っている間に済んでしまっているものだったから、近所にあるにも拘らず商店街を訪れることは滅多になかった。それなのにどうして7月7日────いわゆる七夕の日に、タイミングよく冬美ちゃんを抱っこしたお母さんに連れられて古めかしいがどこか風情のあるアーケードの下を歩いていたのだろうか。今となってはもう思い出せないことだ。
『ねえお母さん、あれってなぁに?』
メモを片手に野菜を吟味していたお母さんは、私の唐突な問いかけに何と答えたのだったっけ。一言一句鮮明に記憶しているわけではないからうろ覚えだけれど、たぶんきょとりと目をまあるくした後に私の指先を辿って、『ああそっか、今日は七夕だったわね』とほんのりと口元を緩めて笑い声をこぼしていた。
『七夕……私、前に絵本で読んだことあるかも。確か、織姫様と彦星様のお話だよね?』
『ええそうよ、お互いを大切に思っているのに、一年に一度しか会えない2人の恋人たち。そのたった一度の2人が会える特別な日が今日、7月7日なの』
『ふぅん、初めて知った。じゃあ、あの飾りは七夕をお祝いしているの?』
『笹飾りのこと? ううん、そうね、あれはお祝いとは少し違うのよ』
ただの言い伝えに過ぎないと思っていた“七夕”というイベントにまつわる新しい情報を脳内にインプットしながら色とりどりの飾りが幾つもぶら下がった笹を指さすと、不意に触れるか触れないかというごく小さな力で優しく頭を撫でられて。しっかりと私の右手を握りながらも全く興味のなさそうに意識をよそに飛ばしていた燈矢も含めて、お母さんは私の手を引いて笹飾りの元へと誘っていく。
『七夕はね、天の神様にお願い事をする日なの。ほら、笹の葉にたくさん短冊が吊られているでしょう』
『短冊? お札みたいな色紙のこと?』
『そうよ、皆机の上で短冊にお願い事を書いているのが見える? 織姫様や彦星様にあやかって、笹飾りに短冊を吊るしてお願い事をしてもいいのが七夕の日。冰織もやってみたい?』
『……うん。ねえ、燈矢も短冊書くでしょ? せっかくだから一緒にお願い事しよう』
『ええ、俺は別にいいよ。気になるなら、ひぃちゃんだけやっておいで』
『あら、いいじゃない、一年に一度の機会なんだもの。燈矢も冰織と一緒にやってみましょうよ』
風がそよぐような笑い声がまた耳をくすぐって、そんなお母さんの援護射撃に背中を押される形で顔の前で両手を合わせて上目に片割れを見つめて。『お願い』と小首を傾げるのと同時にさざめく湖面のように光を乱反射させるパライバトルマリンが『しょうがねえな』と眦を緩めたから、私は上昇していく体温に浮かされてうきうきと短冊を取りに机に向かったのだった。こうして後から振り返ってみると、自分では忘れてしまっていただけで私にも意外と子供らしい部分が確かにあったんだなとしみじみ思う。
それから、結局どんな願いを短冊に書き残したのかは霞に包まれたように朧げだ。ただ、そう。練習の末に段々と自在に扱えるようになっていた平仮名と片仮名を駆使して一生懸命に願い事を書いていた私に向けられたこの世で一等美しい碧色が、燦然と燃える夕陽に煌めいていたことだけが心臓が軋むくらい鮮烈に焼きついていて。とうに見慣れたはずのそれが妙に新鮮に目に映って、気恥ずかしさにも似た胸の内の揺らぎがじわじわと頬に熱を灯して。
────僅かな震えを乗せた音が、止める間もなく舌先から転がり落ちたところで記憶の切れ端は途切れている。
***
「────────い、おい!」
「ッ、びっくりした……急に大きな声出さないでよヨーヘイくん」
「お前がボクを放って突然黙りこくるからだろうが、さっきから何をしたいんだトドロキヒオリ」
「……んふ、なぁにそれ、放置されたのが寂しくなっちゃったの? ヨーヘイくんはお子ちゃまだねえ」
「なっ…………お前は本当に一々癇に障る言い方をするやつだな。人を煽らないとまともに会話ができないのか?」
「それ、結構ブーメランだから気をつけた方がいいよヨーヘイくん」
ちょっとした揶揄いを受けて呆れたようにこめかみに手を当てるヨーヘイくんから視線を逸らすと、風にさわさわと揺れる笹飾りをもう一度見やる。上から下まで所狭しと吊るされた短冊に、定番の輪飾りや菱飾り。今年は以前見かけた時と比べてかなり豪勢に飾りつけられているようで、吹き流しや網飾り、くす玉に提灯まで揃えられて、吹き込んでくる気流に思い思いにはためく様はまるで虹の海が波打っているかのようだ。
「……行こうか、ヨーヘイくん。送ってもらっておきながら時間取らせてごめんね」
「…………別に、それくらい構いやしないが。いいのか? 一年に一度なんだろう、七夕というものは」
「いいよ、だってこんなの所詮ただの子供騙しに過ぎないもの」
にこ、と隙のなさを演出するように完璧な角度に口角を吊り上げて、横目にこちらを窺うヨーヘイくんに笑いかける。飛行機雲のようにすっと目尻まで形作られた切れ長のエメラルドに薄く陽が射して、四方に満ちていくその透きとおった輝きにいつか見惚れた碧が重なった。
何を願ったかなんて覚えていないけれど、それでもあの頃の私たちが望みそうなことなんて結局のところたった1つしかあり得ない。“オールマイトを超えるヒーローになる”────凡そこんな具合のことを短冊に書きつけたであろうことは、当時の私たちを知る人間なら笑ってしまうほど想像に難くないだろう。
いっそ恐ろしいほどに無邪気だった。この世に生まれ落ちてからたかだか2年しか経っていなかったくせに、明るい未来というものは太陽が東から昇って西に沈むことと同じくらい無条件に当然与えられた権利なのだと滑稽にも信じきっていた。お父さんが訓練をつけてくれて、お母さんと冬美ちゃんが応援してくれて、隣にはいつだって燈矢がいて。その事実だけで、自分は世界で一番幸福な人間なのだとあの頃は本気で思い込んでいた。
世界は根底から覆った。私は特別な人間でも何でもなくて、何ならきっとこの世の大半の人間より出来損ないの劣った存在だった。生まれ持った体質が合っていないから個性を使う度に絶えず自身の体を傷つけてしまうなんて、前提から出遅れていて話にもならない。長年燻ってきた野望を叶えるための“最高傑作”に延々と拘り続けているあの人に匙を投げられたのも当然だ、だからといって大人しく引き下がってやるつもりも毛頭ないんだけれど。
悲観はしていない。私はヒーローになるには到底向いていない体で、敷かれていたはずのレールは腐り落ちて道は閉ざされた。それが厳然たる事実だ、泣いても喚いても過去に戻ることなんて誰にもできないのだから今更嘆いたって仕方がない。ただその事実が望んだ未来を諦める理由にはどうしたってならないから歯を食いしばって地べたを這いずってでも足掻いてみせることに決めただけ、それだけの話。それだけの話だから、私は。
────────もう、神にも星にも祈らない。
は、と小さく息をついて纏わりつく熱気を振り切るように力強く足を踏み出す。何も言わずに後ろをついてくる足音とはしゃぎながら短冊を笹の葉に括りつける子供たちの声が混ざり合って、鼓膜がじくりと膿んでいくような錯覚を覚える。
ふと仰いだ頭上は近づく宵の気配に浸っていた。褪せた写真から切り出したかのような浅い色を湛えた雄大な空は、輪郭の曖昧な夕景に煌々と燃えている。