組織抜けたい 作:比翼連理
「ウェルシュの様子は?」
モニター室に入ってきた降谷に、風見は小さく首を振った。
「記憶は戻りません。以前のように錯乱しなくなったのが救いでしょうか」
薄暗い部屋に、何十枚ものモニターが並べられ、そのすべてはウェルシュのいる部屋に仕掛けられたカメラからの映像。
緩衝材を張り巡らせた壁には窓もない。何重ものセキュリティを越えた先にある部屋には、僅かな通気口を除いて、外部とのつながりなどただの一つもなかった。
「皮膚の傷もだいぶ落ち着いてきました。自傷も今の状態になってからはありませんし……一安心といったところでしょうか」
「記憶喪失を装っている可能性は? 奴ならそれくらい簡単にやってのけるだろう」
「可能性は捨てきれませんが、今までの狂気錯乱ぶりを見た後では……どうしても」
降谷は組織への潜入捜査を続けているため、頻繁にウェルシュの様子を見に来てはいない。偶に来ては、薬を打たれて眠っているウェルシュを確認するだけだった。
降谷は見ていないが、報告を受けている限り、ウェルシュの錯乱具合は相当なものだったらしい。
自傷から感染症になり死にかけたこともあるし、意識を取り戻したかと思えば、何人もの名前を呼んで何度も謝りながら床に頭を打ち付ける。そのとき呼んだ名前は、コナンから日記を受け取って初めて分かったことだが、ウェルシュが殺してきた人間の名前だ。
一度、記憶がある状態で短時間だけ調書を取れたこともあるらしいが、本当に事件の詳細を完全に記憶していて、担当者は強くウェルシュに同情したという。職業柄、人を殺した人間を何度も見てきているし、そのことを本気で悔いている人間も見てきている。その瞬間をはっきり覚えている人ほど自分を正当化するが、ウェルシュは殺しの瞬間をはっきり覚えて、罪を悔いている。まともな精神状態じゃないのも頷けると言っていた。
性善説を信じているわけではないが、それでも、まともな人間に殺人の罪の意識に耐えられるとは思えない。
寧ろ、生まれながらに組織の人間であるウェルシュに、まっとうな道徳観念があった事こそが最大の悲劇だろう。正義を執行すべき警察の人間としては許されない考えであるが、せめて彼が根っからの悪人であればと思わざるを得ない。
そしてウェルシュは、何度ぶりかの錯乱の後に、急に落ち着いたかと思えば、これまでの記憶をさっぱり忘れているという。
「よくもまあ、今まで生き残ってくれたものだ」
「一時は本当に危ない時もありましたから……」
「今の状態に落ち着いて、そろそろ一か月か……医者には見せたのか?」
「一昨日、精神科医が来ました。降谷さんの入手したウェルシュの日記を踏まえて……ただ、診断は出来ないとのことで」
「できないというのは?」
「既存の病名で簡単に説明できない……というべき状態でしょうか。記憶を失うくらい苦しんでいるのに、それを忘れないように苦しんでいて……降谷さんの報告によれば、そもそも超記憶能力を持っているようですし」
「ああ、昔無意味な記号を200文字暗記させてみたことがあるが、一度見ただけで本当に覚えていた。だからこそ記憶喪失なんて――」
「常人では耐え難いストレスに、それを自分から受け入れようとした事と、そのストレスをたった今経験したことのように思い出せる能力と……精神が壊れてしまうのは無理ないのでは、とのことで。医者は思い出させないようにすべきだと……」
「……風見。まさか、同情しているのか? 奴がこれまでに何人の命を奪ってきたのか、知っているだろ」
降谷は意識して風見を睨みつけるようにした。その鋭い眼光で、自分自身を戒めるような思いで。
風見は慌てて、過剰なほどに激しく首を横に振って。
「ま、まさか! ただ、その……公安内部にも同情的な人間が多い事は事実です。そもそも、彼の罪を裁くことは簡単ではありませんし……」
ウェルシュの罪。これまでにウェルシュが殺してきた人間の数は、あげればキリがないほどだが、その殆どが事件化していない。
例えば潜入捜査官が殺された場合は、組織を秘密裏に追っている背景から、事故として処理してしまっていることもある。
そのほかにも、内部の粛清の場合はそもそも遺体が見つかっていないし、事故や自殺に偽装されている場合も、やはり殺人事件にはなっていない。
先日コナンから受け取った日記には多くの殺人の自白が書かれてはいたが、後半の支離滅裂さからして、心神喪失か耗弱かの判断材料にしかならないだろう。
今確実に証拠を揃えてウェルシュを裁くことが出来るのは、彼のスマートフォンの中に入っていたハッキングソフト。不正アクセスくらいだろう。
ふと思い出して、降谷は風見に尋ねる。
「ウェルシュの使っていたあのソフト、確か……」
「はい。ある人気通話アプリにあらかじめウイルスが仕込まれていたらしいです。これまで誰も気づいていなかったなんて……」
監視カメラはもちろん、個人所有の端末で音声を拾い、人を追跡するソフト。それを殺人鬼が保有していることに恐怖し、組織で共有されていないことを不審に思い、解析すればするほど驚いた。いくつかの種類の通話アプリにあらかじめウイルスがあり、ウェルシュは簡単に個人の端末を盗聴出来たのだ。
「ウェルシュは何でも屋だが、プログラムに関しては超一流。それはこの間の一件でもよくわかっているからな」
降谷が呆れたように言うと、風見は降谷以上に引きつり笑いを浮かべて。
「それこそその功績から、ウェルシュを無罪にすべきという意見もあるそうですよ?」
組織は、ウェルシュを失って大打撃を受けた。それは、人員の喪失なんて次元を超えたものだ。
組織のプログラムの多くはウェルシュの手によるもので、一部の人間は、裏切ったウェルシュのプログラムをそのまま使うのは危険だと主張したが、結局そのまま使われる事となった。あくまでウェルシュが組織を裏切った理由は宮野明美の処遇に対してのものであり、これまでの組織への忠誠心を疑う必要はない。そう判断されたのである。
これが組織最大のミスだった。
降谷は、バーボンとしてウェルシュの死亡を報告した。ジンをはじめ、ウェルシュを買っていた人間ほどその報告に懐疑的ではあったが、一応は組織の名簿データ上に、ウェルシュ死亡と記入された。
その瞬間、組織の内部情報が、世界中の警察機関へと送信された。重要な倉庫、拠点、研究施設。
ウェルシュは端から組織への忠誠心など持ち合わせてはいなかったのだ。
どんな目的をもってそのような仕掛けをしていたのかはわからない。少なくとも組織に死んだと思われない限りは効果を示さない仕掛けであり、自分を守るためのものではなかったことは確かだ。
死なば諸共と組織を攻撃するためのものだったのか、あるいは自分亡き後シェリーを救うためのものだったのか。
どうあれ、気づいた時には遅かった。
潜水艦や戦闘ヘリ、その他多くの武器を摘発された。
何人もの幹部の名前と所在地が知られて、数人逃げおおせたものの、多くが捕まったり自殺したり。
研究施設を抑えられ、資料のほとんどは燃やして隠せたが、組織にとって敗走に等しい。
当時事態を把握できていたのは、降谷をはじめとした潜入捜査官ぐらいなもので、組織内部は大混乱だった。
ある程度落ち着いて初めて、ウェルシュがはじめからそういったソフトを仕込んでいたのだと気付けた。
「アメリカなら、きっと無罪で終わっただろうな。もっとも、今最も彼を殺したがっているのはFBIだが」
「FBIといえば、また来ましたよ……ウェルシュを引き渡せと。ウェルシュは死んだといつものように追い返しましたが」
「奴らを押さえるのは我々公安だ。ウェルシュの処遇を決めるのも、な。それと風見、以前言っていた、ウェルシュの書いたという紙の事だが」
「え、あ、もちろん用意していますが、量が多くて」
コナンから受け取ったウェルシュの日記。結局コナンは降谷に、何処でウェルシュと知り合ったのかは教えてくれなかったし、組織に対してはその正義心から協力してくれる普段のコナンとは異なって、日記を渡すのに条件まで付けてきた。
もとはといえば、錯乱したウェルシュの奇行の一つ、自分の血で部屋中に化学式を書き続けた事を話した降谷に原因があるのだろうが、その話を聞いてからコナンの態度が変わったことは不審だ。
報告によれば、どれだけ取り押さえても文字を書き続けようとしたので、自殺できないように毛筆の殆ど毛先だけにしたものと、墨と紙を渡した。窒息して自殺しないように、そばに見張りを付けて一時自由にさせた結果、何百枚にも及ぶ研究資料をかき上げたらしい。
そのすべてをコナンに渡すという約束を、律義に守る必要はない。おそらくは組織の中でも重要な情報だと予想されているのだから危険というのもある。
だが。
「ウェルシュの日記は、例え最後の方のページが破られていたとしても重要な情報だ。こちらも相応の対価を出しても構わないだろう。彼にあそこまで強く頼まれたのも初めての事だしな。ああ、それと、明日からさっそく何人か、ウェルシュの知り合いと引き合わせる。どうしても記憶が戻らなかった場合は、僕が直接――」
「ちょっ、ま、待ってください! 降谷さん! ですから今のウェルシュに――」
「悪いが……犯罪者の精神状態なんて気にしている余裕はない。それこそ今はウェルシュのもたらした大混乱の真っ只中。彼ら組織が必死になって張っていた暗幕が内側から破られた。この好機を逃すわけにはいかない」
とはいえ、本当に全く情報が取れなくなるのも困る。
「まずはピスコと、
「わ、分かりました……」
「…………」
すぐに準備を始める風見を、降谷は暫く眺めて、モニター室を出た。
次回は前回間隔があいた時と同じか、それ以上に遅くなります。
ピスコは公安に押さえられてますが特に出番はありません。主人公によって組織内部の情報が漏れたときに普通に捕まりました。命あって良かったね。