それでも「英雄」になりたくて…   作:JohnDu

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 クロスオーバー注意報


紅蓮の目覚め

 ノアに協力を申し出た日の二日後、アイリスは信頼できる騎士複数名を連れて学園を出た。

 学園から離れた城下町、運河に近いとある路地裏に、アイリスはノアと、もう一人マントのない騎士服に似た灰色の制服を着ている褐色髪の女性と合流した。

 

「王立特務隊実働部隊所属、カーラ・ヘインズです」

 女性はアイリスに敬礼し、アイリスは頷きを返す。

 

「ノア・エスポワール閣下を連れて参りました」

 許可を得て、カーラは話を続ける。

「あのー、カーラさん。閣下って……俺は平民ですよ」

 後ろにいるノアは少々そわそわした様子だ。

 

「ノアさんの身分に関しては、こちらの記録上にも色々とややこしいことになっているから、そこは気にしないでください」

「……わかりました」

 

 カーラの言葉に、ノアが継いだ名『エスポワール』を知っているアイリスは勝手に納得した。

 王立特務隊に『エスポワール』の存在はどのように記録されているかは少々気になるが、今はそれを聞く場合ではない。

 

「ご苦労様です、カーラ卿」

 労いの言葉をかけ、アイリスは後ろにいる二人の騎士に掌を上に手を伸ばす。

「今回の救出作戦に同行する、騎士グレンと騎士マルコです」

 

「グレンだ、よろしく」

「マルコ・グレンジャーです。今回の作戦に選ばれて光栄です!」

 

「ノア・エスポワールです。よろしくお願いします」

 初対面の二人に、ノアもまた自己紹介をする。

 

 グレンとマルコは事前にアイリスからノアのことを聞かされた。

 実際にノアと会い、目の前の若者は果たしてアイリスが言うほどの実力があるのか疑問に思うも、この場では口に出さなかった。

 

 それぞれ握手を交わし、アイリスは話を続く。

「彼らは私が信頼している騎士です。二人ども王都ブシン流の有段者、作戦に参加するには十分な実力を持っていると思います」

 

 カーラは頷き、ノアは少し考えるふりを見せた後、頷く。

 

「ノア、前の方法でアレクシアの位置をもう一度確認できませんか?アレクシアは移動されたかどうかを確かめたいです」

「できます」

 はっきりと肯定するノア。

 

「それはよかったです。私の協力は必要ですか?」

「いえ、大丈夫です」

 ノアは首を横に振る。

「今回は事前に位置は分かっているし、距離も近い。俺が持っている魔力だけで十分です」

 

「そうですか。分かりました」

 点頭するアイリス。

 

「では、早速探ってみます」

 ノアは片膝をつき、右手の掌を地面にくっつく。

 

 そばから見るに、ノアの行動は意味不明だ。

 ノアの体内にある魔力の流れは、微かも外に漏れてなかった。魔力を使っていないと錯覚させるほどに完璧な魔力制御だ。

 ただほんの僅か、地面に着いた手のひらから振動が広がっていくのを感じられるくらいだ。それも前もってノアの探知方法を知っているアイリスこそ気付けられるものだ。

 

 数分が過ぎ、ノアは立ち上がる。

 

「アレクシア王女殿下の監禁場所は移されていません」

「分かりました。ならばあとは計画通りに」

 

 アイリスはノアの言葉に頷いたが、隣にいるグレンとマルコは明らかにノアが何をしたかよくわからないという顔だ。

 ノアの後ろにいるカーラも、顔にこそ出ていないが、ノアがどうやってアレクシアの位置を探ったか疑問に思っているだろう。

 

 ノアの持つ技術は、それほどにこの世界において異質なのだから。

 そう思ったアイリスは、敢えて部下たちに説明しなかった。

 

「誘拐犯たちのアジトは、夜に人員の交代があるため、一時的に見張りが手薄くなることがあります。その時こそ潜入に一番いいタイミングです」

 カーラはここ二日にアレクシアの捜査に紛れて、王立特務隊がアレクシアが監禁されたアジトに対し調査を行って得た情報を改めて伝えた。

 

「うちの上層部が越権だのなんだの騒いでいるが、やっぱ特務隊の連中は頼りになるな」

 カーラからの情報を聞いて、グレンは皮肉めいた言葉を遠慮なく吐いた。

 

「グレンさん、それ流石にまずいんじゃ……」

「大丈夫大丈夫、ここにいるアイリス様ですら上層部に苦汁を飲まされたんだぞ。これくらい見逃してくれるさ、ハハハ」

 

 マルコとグレンとのやり取りを聞いて、アイリスは苦笑するが、確かに騎士団の上層部に思うところがあるので、何も言わなかった。

 

「では、私たちはとりあえず夜になるまで待機としよう」

「予定の待機場所はこの近くにいる酒場の裏口から入る倉庫です。そこのオーナーは私たち特務隊と繋がっています。事前に倉庫を借りることだけ伝えておきました」

「よし、行きましょう」

 

 次の行動が決まり、アイリスたち五人は酒場へと急いだ。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 待機中、倉庫の外から伝わる酒場の喧騒を背景音楽に、アイリスたちは警戒しながら、暇つぶしに世間話をした。

 意外なことに、カーラはグレンとマルコに話が結構合うようで、三人は声を抑えずつも、話に盛り上がっている。

 自然的に、アイリスの話し相手はノアとなった。

 

 丁度アイリスにも、ノアの存在に色々と気になるところがある。

 

「ノアの、あのアレクシアを探しているときに使った技術は、どこから学んだのでしょうか」

 ストレートに、アイリスは訪ねた。

 

「振動探索のことですか」

 人前にいるせいか、ノアは敬語を使っている。

「それは、師匠が教えてくれたものです」

 

「師匠……」

 それはノアに『エスポワール』という苗字を与えた人物のことなのか。

 心の奥底に放置した疑問が湧き出る。

 

「……ノアの師匠とはどのような人物ですか」

 アイリスらしくもなく、探るような質問。

 しかし、ノアの言葉に出る『師匠』は、果たして自分の記憶にあるあの方とは同一人物なのか、どうしても気になってしまう。

 

「師匠ですか?師匠は……そうですね。優しくも厳しい人です」

 ノアの口から最初に出てくるのは、ぱっとしない回答だった。

「綺麗な人だけど、たまに目が怖いです」

 

「綺麗な人?女の人ですか」

「はい、師匠は女性です」

 

「そうか……」

 基礎的だが、記憶中の人との共通点が一つ増え、アイリスの、ノアの師匠に対する好奇心がまた一段と上がった。

「すみません、話の途中で」

「いえ、俺のほうこそ基本の情報を言い忘れました」

 

 少し間を置き、ノアは続けて語る。

「師匠は、普段からいかにも沈着冷静、という感じですが、たまに言葉がキツかったりもする」

 前半はアイリスの印象と一致していて、後半に関して、アイリスはあの方と交流した回数自体が少なく、ノア程あの方の言動に詳しくないのも必然だろうと納得した。

 

「師匠の雰囲気が例えるならば、常に凪いでいる海のようでいながら、その奥底に何かに対する怒りが渦巻いて……いや、これは俺の錯覚という可能性もあります」

 ノア自身も確定できない情報のようで、アイリスはこれを一旦心の隅に置いた。

 

「俺に技や魔力に関する知識を教える時は、俺が完全に理解するまで辛抱強く説明してくれて。稽古をつけてくれる時も、俺の気力が完全に尽きるまで付き合ってくれていました」

「いい師匠ですね」

「はい、俺には勿体ないくらいです」

 ノアは笑みを浮かぶ。

 

「そういえば、あなたの師匠が稽古をつける時はどんな感じですか」

 

 アイリスのこの質問を聞いて、心なしかノアの笑顔が少し硬くなった。

 

「えっと……とても、厳しかったです」

「具体的に言うと?」

「そう……ですね。俺が何度も何度もしん……死にかけるほど、徹底的に俺を鍛えました」

 

 言葉に妙な停頓があるんだが、直感的に触れてはいけないと感じ、アイリスはそれを敢えてスルーした。

 

「でも、そのおかげで、今の俺がいます。まだまだ師匠の強さには全然届かないけど、この世界のどこにでも生きていけるように成れたと、師匠からのお墨付きをもらいました」

「そうですか……」

 ノアの言葉に、きっと誇張がないだろうとアイリスは思った。

 

「魔力を生成できなくなった俺が、また魔力を扱えるようになったのも、全部師匠のおかげです」

「生成できなくなった?」

 

「あっ」

 自分の失言に気付いたか、ノアは珍しくアホ面を晒す。

「すみません。その……できれば今の話、忘れてください」

 無理のある頼みだと、ノアも分かっているだろうが、それでも頼めずにはいられない。

 

「……分かりました。今のは聞かなかったことにします」

「ありがとうございます」

 無理を聞いてくれるアイリスに、ノアは頭を下げる。

 

「そろそろ時間ですね。ノアの師匠の話、また今度詳しく聞きましょう」

「はい」

 

 これからは、敵アジトへの潜入に専念する。

 地下の構造はすべて頭に叩き込んだ。

 アイリスとノア二人がいれば、きっとアレクシアのところに辿り着けるだろう。

 

 アイリスの心に、微かな不安が燻ぶる。

 それでも、どんな困難があろうと、必ずアレクシアを助け出すと決めた。

 

 ならばもはや、前進あるのみ。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 日が降り、月が昇る。

 予定時刻の少し前、アイリスたちは倉庫を離れ、アジトへ向かう。

 

 アジト付近の路地に、アイリスたちは一旦足を止めた。

 

「もう一度お願いできますか、ノア」

「はい」

 

 アイリスの指示を聞き、ノアが前のように手を地面に着けた。

 

「大丈夫、移動していません」

「分かりました。では慎重に……」

 

 突如、アジトのほうから轟音が響いた。

 

「「「「ーーッ!?」」」」

「な、何が起きた?!」

 

 モルコが突然の爆発音に驚き、他のみんなも予想外の事態に動揺した。

 

 続いて響くのは断末魔の叫び、だがその声はすぐ押し殺されたように消えた。

 

 カーラが一番早く反応し、静かにアジトのほうへ向かい、様子を伺う。

 アイリスやノアたちもついて行き、路地の出口に、カーラが鏡を使いアジトのほうを覗く。

 

「状況は?」

 声を抑えながらアイリスが訊ねる。

 

「アジトの入口は、爆破された跡と思しき大きな穴が開いています……これは!地下施設の真上にある建物が何かに切断されたように倒壊しました。この様子だと看守たちがおそらく既にやられたとみていいでしょう」

「建物が切断!?」

 マルコが思わず声を高める。

 

「……ふむ。どうやら何者かが我々より先にアジトに侵入したようだな」

 やや常識外れの状況だが、グレンの推測に、皆は同意する。

 

「何者が侵入したのか、調べられますか、ノア」

「やってみます」

 

 片膝をつき、ノアはもう一度周囲の様子を探る。

 

「……獣人の女性が地上で暴れまわっている。騎士団の格好をしている集団、おそらく誘拐犯の一味と交戦……いや、蹂躙しています。他には30人ほどの女性の集団が、残党を掃蕩しています」

「女性の集団……」

 

 ノアの話は、アイリスに引っかかった。

 

「情報来ました」

 カーラは髑髏の徽章を手に持ち、髑髏の両目が白く点滅している。

「王都、各地に、襲撃、同時に、発生……」

 

「この状況が王都各地に?!」

 マルコは動揺を口にし、全員の顔に緊張の色が昇る。

 

「襲撃者は――シャドウ、ガーデン」

「シャドウガーデン?」

 

 アイリスとカーラ以外、聞き慣れない名に疑問を示す。

 

「どうしますか、アイリス様」

 ノアがアイリスの指示を求める。

 

「……進みましょう」

 短い思慮の後、アイリスは意を決す。

「今の状況は逆に好機です。計画通りに、一刻も早くアレクシアを助け出す」

 

「お供します、アイリス様」

「私もついて行きます!」

 

 グレンとマルコはすぐに返事し、ノアとカーラは無言でうなずく。

 

 アイリスを先頭に、五人は倒壊したビルの下、すでに原形を留めていないほどに破壊され、大穴を開けられた入り口を通り、地下へと進む。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 地下の入口付近にも、死骸があちこちに転がっている。

 中には騎士の恰好をしているものもいれば、赤黒いフードを被っているものもいる。

 

「本当に、騎士団が浸透されているとは」

「なんてことだ……」

 

 グレンが目を細め、マルコが怒りに歯を食いしばる。

 

「今はそれに気を取られる場合ではありません。先へ進みましょう」

 振り返りもせずに、アイリスは足を速める。

 

 ノアもアイリスと並走する。

 二人が脳裏にある地下構造図を頼り、アレクシアが監禁されている場所へと真っすぐに向かい、他の三人は一歩遅れて後ろを続く。

 

 運が良いと言えばいいのか、誘拐犯たちがおそらくすべて地上の騒ぎに誘き出され、途中にアイリスたちは敵と遭遇していない。

 長い廊下を通り、すんなりと、アイリスたちは目的地へ辿り着いた。

 

 アレクシアが監禁されているであろう部屋の外、カーラに制止され、アイリスたちは足を止める。

 カーラは鏡で扉の隙間から中の様子を観察する。

 

 何か尋常でないものを目撃したようで、カーラの顔色が変わる。

 その同時に、部屋から話し声が伝わる。

 

「嫌だっ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!ぼ、僕は、アレさえ完成すれば!!」

 

 男の声だ。

 そして、明らかに正気ではない。

 

「し、試作品は作った。こ、これなら、出来損ないのお前でも役に立つ」

 

 男が何を言っているかよくわからない。

 だけど、嫌な予感がアイリスの心をよぎる。

 

「突入する」

 

 指示を出したのと同時に、アイリスは勢いよく扉を開けた。

 

 いきなり入ってくるアイリスに、部屋の中にいる二人の騎士が驚きながらも剣を抜く。

 がそれよりも早く、素早い斬撃で、アイリスは騎士たちを切り捨てた。

 

 すでに死体となった騎士たちに目をも向けず、アイリスは部屋の中にある鉄格子へ向かう。

 そこにいるのは、ベッドに縛られ憔悴しているアレクシアと、小汚い格好で白衣を着るメガネの男と、人間かどうかも定かではない畸形の化物だ。

 化物に、白衣の男が注射器のような装置を押し付けようとする。

 

「そこを動くな!」

「姉さま?!」

 

 しかし、白衣の男はアイリスを無視し、装置の中にある赤い液体を一気に化物の腕に押し込んだ。

 

 いつの間にかすでに剣を抜いたアイリスは問答無用に男の腕を切断したが、時すでに遅し。

 

「さ、さぁ、見せてみろ、ディアボロスの片鱗をぉ!!」

 

 腕が切断されているにも拘わらず、狂気に満ちた顔で、白衣の男が叫ぶ。

 

 異変が起きる。

 化物の体が見る見る膨張し、筋肉も、骨格すらも成長していき、その右腕が禍々しく肥大し、指の一本一本が人の腕よりも大きくなり、鋭利な爪を生やしている。

 何故かその左腕が、何かを抱きしめているように、前胸に癒着している。

 

「す、素晴らしい、素晴らしいぞぉぉぉお!!」

 化物の変貌に、白衣の男は歓喜の声を上げた。

 

「な、何なんだあの化物は!?」

「アイリス様!」

 

 マルコやグレンたちも部屋に入ってきている。

 四人がアイリスの所へ向かい、がそれより先に、急速な成長により拘束から解かれた化物は、金切り声にも似た咆哮を上げ、その巨大な右腕を振り下ろした。

 

 悲鳴すら上げることもできず、白衣の男が圧し潰され命を絶えた。

 

 アレクシアを守るように、アイリスは化物に剣を構える。

 そして、次の目標を見定めたかのように、化物はアイリスに右腕を上げる。

 

 アイリスは剣に魔力を込め、化物が再び右腕を振り下ろそうとするその時。

 

「やめて!!!」

 アレクシアが先に声を上げた。

「姉さまを傷つけないで!」

 

 アレクシアの声に、化物が硬直した。

 化物が動きを止めたことに驚きを見せるも、アイリスは構えを解いていなかった。

 

 苦しんでいるように、化物は頭を揺れながら後ずさる。

 そして、赤黒い魔力の奔流と共に、化物は再び咆哮を上げ、その体が更に成長し、勢いよく天井を突き破った。

 

「うわぁあ!」

 崩落する天井に、マルコが狼狽する。

 

 ノアが前に出て、右こぶしを突き出し、落ちる天井を粉砕した。

 アレクシアのほうは、アイリスが魔力を籠った斬撃で瓦礫を吹き飛ばした。

 

 舞い上がる粉塵が晴れ、平静を取り戻した地下に、化物がすでに姿を消え、残るのはおそらく地上へと繋ぐ空洞だけ。

 

「た、助かった……あ、ありがとうございます!」

 まだ動揺が消えてない様子で、マルコがノアに感謝する。

 

「無事でよかったです、マルコさん、グレンさん、カーラさん」

「すごい力だな、坊主!さすがにさっきのは肝を冷やしたぞ」

 

 グレンは感心した目をノアに向き、カーラも頷きでノアに謝意を示す。

 

「アイリス様とアレクシア様は?」

「こちらも無事です」

 

 アイリスはアレクシアを拘束する鎖を綺麗に切断した。

 

「ありがとうございます、姉さま」

「アレクシア……!ごめんなさい、助けに来るのが遅かった。怖い思いをさせてしまったね」

「ううん、割と平気ですよ」

 

 無理に気丈に振舞うアレクシアに、アイリスは涙ぐむ。

 

「こちら、おそらく魔封拘束具の鍵です」

 カーラは白衣の男の潰れた死体から鍵を拾い上げ、アイリスに渡す。

 

「ありがとう」

 アイリスは鍵を受け取り、アレクシアの腕に残った拘束具を外した。

 

「これで、作戦の目標がほぼ達成しましたね」

 グレンがアイリスのもとへ歩み、少し気まずいようで、頬を指で触りながら、自嘲気味に言う。

「私とマルコは、ほとんどお役に立てませんでしたが」

 

 隣にいるマルコも少ししょんぼりとしている。

 

「今はとりあえず、アレクシアを助けられたことに喜ぼう」

 アイリスはアレクシアを抱きしめながら言う。

 

 アレクシアはアイリスの抱擁に恥ずかしがるように顔を赤める。

 アイリスの腕から抜け出す気力もないか、顔を俯いて気恥ずかしさを隠すしかなかった。

 

「しかし、あの化物がおそらく市街地に出ています。このままだと被害が更に拡散されてしまいます。それに、シャドウガーデンの件も……」

 険しい顔で、カーラが言った。

 

「俺に任せてもいいですか」

 化物が作り出した大穴を見て、ノアが提言した。

 

「……分かりました。化物のほう、今はノアに任せましょう」

 アイリスは決断する。

「私たちは先にアレクシアを安全な所へ」

 

「「はっ!」」

 グレンとマルコが返事し、カーラも頷いた。

 

 ノアが動こうとするとき。

「待って」

 不意に、アレクシアはノアを呼び止めた。

 

「どうしましたか、アレクシア様」

 ノアはアレクシアのほうに顔を向く。

 

 一瞬迷いを見せ、アレクシアは話を続く

 

「ノア……さんは、あの子をどうするつもりですか?」

 何かに心配しているような顔で、アレクシアは問う。

 

「アレクシア……?」

 アレクシアの質問に、アイリスは訝しむ。

 

「あの子、ですか……」

 ノアはアレクシアの目を見て、言葉を紡ぐ。

「俺は、助けたいと思います」

「助けたい……?」

 

 疑問を答えずに、ノアはまるで重力を無視したような勢いで跳び、化物が残した大穴から地上へ出て行った。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 ノアが離れた後、半分廃墟になった部屋に残っているアイリスたちは休息を取った。

 カーラはどこからか包帯を取り出し、注射痕にまみれたアレクシアの右腕の手当てをした。

 

 手当てが終わり、マルコにアレクシアを背負わせ、五人は部屋から出た。

 出口へ向かい、アイリスたちは長い廊下を進む。

 

 暫く進んだのち、角を曲がり、地下水道の付近にある道に出る。

 そこに、意外な人物が現れた。

 

「アイリス様!それにアレクシア様。ご無事でしたか!」

「ゼノン侯爵……」

 

 足を止め、アイリスは驚いたような顔をしているゼノンを見つめる。

 

 マルコは敵でないことにほっとし、背中にいるアレクシアは露骨に嫌な顔をし、グレンは怪訝な面持ちになり、カーラは何故か警戒を見せる。

 

「こんなところにいるとは!今、上が大変なことになっております。早く避難を……」

 

「ゼノン侯爵」

 アイリスはゼノンの言葉を打ち切った。

「その心にもないことしか喋らない口を閉じてもらえませんか」

 

「……どういう、意味です?」

 ゼノンが目を細める。

 

「アイリス様?」

「姉さま……?」

 マルコとアレクシアは、なぜアイリスはそのような言葉をゼノンに向けるか理解できずにいる。

 

「まだ惚けるのか」

 剣を抜き出しゼノンに向け、憎悪に満ちた目で、アイリスはゼノンを睨む。

「貴様がアレクシアの誘拐を計画したのはすでに調べが済んでいる」

 

「何を言っているんですか、アイリス様?私はアレクシア様の婚約者候補です。そんな真似できるはず……」

「ディアボロス教団」

 

 アイリスが口にしたその名に、ゼノンは驚愕に目を見開く。

 

「貴様はその組織の一員のようだな。そして、この施設を建てたのも、あの大胆にもアレクシアの血を抜いた男に投資したのもまた貴様だ。そうだろう、ゼノン・グリフィ」

 

 マルコはまだ反応できていないようだが、アレクシアとグレンは半信半疑も警戒な目をゼノンに向けている。カーラのほうは、すでに剣を抜いた。

 

「……もう、そこまで知っているとは」

 アイリスの指摘にうろたえずに、逆に笑みを浮かぶゼノン。

「どうやら私たちは、あなたを侮っていたようだね」

 

 ゼノンはカーラのほうに目を向ける。

 

「王立特務隊……まさかこの構成員のほとんどが平民で、設立から二十年も満たない組織に、これほどの調査能力があるとは」

 

 ゼノンの視線に、カーラは緊張する。

 

「ーー驚いたよ」

 

 一瞬、ゼノンの姿は消えた。

 すぐにマルコとアレクシアの後ろに現れ、アレクシアの無防備の背中に剣を振り下ろし……

 

 重たい金属の衝撃音が響く。

 アイリスはいつの間にゼノンの面前に移動し、間一髪にその剣を止めた。

 

「ッ!姉さま!」

「アレクシアを連れて逃げなさい!」

「させないよ」

 

 ゼノンの体から赤黒い魔力が噴き出し、アイリスは一瞬だけ押しのけられ、その一瞬で、ゼノンは前方の天井に向けて魔力による斬撃を放ち、天井を崩落させ、先の通路を塞いだ。

 

「貴様ァ!」

 斬撃を放った直後のゼノン、そのがら空きした腹に、アイリスは思いっきり蹴りを入れた。

 

「ッ!」

 魔力で防御するも、ゼノンの体がアイリスの蹴りによって軽く吹っ飛ばされた。

 

 空中で体勢を整え、ゼノンは軽やかに着地する。

 

「今のは少し痛かったぞ。まさかアイリス王女たるもの、足癖まで悪いとは」

「私を前に注意を逸らすとは、随分と舐めた真似をするわね」

 

「舐めてなどいないさ」

 ゼノンは剣を構える。

「実力差は目に見えている」

 

 ゼノンの魔力は大気を震わせた。

 一瞬でアイリスの眼前へと近付き、彼女に今までにない鋭利さと密度を持つ魔力を籠った一撃を繰り出した。

 

「姉さま!」

 アレクシアは思わず叫び出した。

 ゼノンの一撃は、アレクシアの今まで見てきたアイリスの剣にも勝る威力を感じさせる。

 

 振り下ろされた剣に、アイリスはただ自分の剣を真っすぐに構える。

 このままでは、まるでアイリスは剣ごとに切り裂かれると錯覚し、アレクシアは思わず目を閉じる。

 

 再び響く、耳を鳴らせる重たい衝突音。

 

「なッ!」

 

 アレクシアは恐る恐る目を開け、目の前にいたのは……

 何事もないかのように、ゼノンの剣を受け止めたアイリスだった。

 

 よく見るに、アイリスの体が紅色に発光している。

 それは魔力による光、ただゼノンと違うのは、魔力はすべて体内に循環しており、外に放出されてなかった。

 

「なんだその魔力は、今まで見たことも……」

「修得したのは割と最近だからな」

 

 ゼノンはアイリスから距離を取り、アイリスは剣を上段に構える。

 

「今度はこちらの番だ」

 

 縮地。

 アイリス自身が一本の剣のように空気を切り分け、刹那にゼノンを間合い内に捉えた。

 

 正面切っての唐竹、ゼノンも左薙ぎで迎え受ける。

 アイリスによる斬撃の重さに、ゼノンは思わず声を上げる。

 ゼノンの足は深く踏み入り、地面に亀裂を作った。

 

「このぉ!!」

 

 ゼノンの体から、更に勢いよく赤黒い魔力が噴出する。

 瞬く間に、アイリスとゼノンが斬り合って十数合。

 剣と剣の衝突に引き起こした風圧が、道路、壁、天井に亀裂を走らせる。

 

「なんて、剣戟だ」

 アイリスとゼノンの戦闘を目にし、グレンが驚嘆を口にする。

「これじゃ助太刀することもできんな」

 

 アイリスやゼノンと比べて、この場にいるほかの人たちが余りにも実力が足りなさすぎる。

 無理に割って入ろうとすると、却ってアイリスの邪魔になるかねん。

 

「その剣は……」

 アイリスの剣さばきを見て、アレクシアの心に困惑が増す。

 

「どういうつもりだ、アイリス・ミドガル!」

 アイリスと対峙しながら、ゼノンは叫ぶ。

「このゼノンの、ディアボロス教団次期ラウンズ第12席の剣を見縊っているのかぁ!」

 

「何のことだ」

 冷たい目で、アイリスがただ斬る。

 

 顔に青筋を立てながら、ゼノンはアイリスの剣を受け止める。

 

「貴様の剣のことだ!」

 ゼノンは怒号を上げる。

「ブシン祭で貴様が見せた剣は、相手を一撃で粉砕する、破壊力に特化した豪剣のはず!なのに今の貴様の剣は……!」

 

「凡人の剣……とでも言いたいのか」

 アイリスはゼノンの代わりに言葉を続く。

 

 アイリスの言葉に、アレクシアは目を見開く。

 そうだ、アイリスの今の剣は、まさに今まで自分とアイリスが剣を交じり合える時、自分が使った剣。アイリスが今まで使ってきた剣術と似ても似つかない剣だ。

 天才である姉が、自分のような剣を使うはずがないと、そう思い込んできた。

 なのに目の前にいるアイリス、彼女の一撃一撃は、すべて基本に忠実で、教本通りで、地味で、華やかさのない――凡人の剣。違いがあれば、斬撃のすべてに常人を窒息させるほどの魔力をこもっていることだろう。

 

「凡人の剣でなくて何という?!」

 ゼノンは反問する。

 

「そうね」

 怒りに籠ったゼノンの剣を冷静にさばくアイリス、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。

「この剣は確かに凡人の剣、基礎の剣。誰しも、剣の先生から最初の最初に学んだのは、こういう剣なのだろう」

 

「華やかさがないから、民衆に魅せるには少々不適切な剣。威力を控えめだから、魔物討伐には些か殺傷力が足りない剣。だけど、剣の歴史において、不変とされるものが積み重なっている、重みのある剣」

 正々堂々、斬撃に次ぐ斬撃。

 アイリスの剣が、少しずつ少しずつ重くなっていくのは、果たしてゼノンの錯覚なのだろうか。

 

 ゼノンに専念しているはずなのに、なぜかアレクシアは、アイリスが自分のことを見ているようにも感じた。

 

「君たちに凡人の剣と言われたこの剣は、私の大好きな人の剣で、私の大好きな剣。だから私も真似して、基本へと戻り、いつの間にかこの剣に辿り着いた」

 恥ずかしさもなく、堂々と言い切るアイリス。

 

「ふざけるなー!」

「ふざけてなどいない!」

 

 剣が衝突し、ついにゼノン体勢を保てなくなり、大きく後ずさる。

 

「そして!」

 隙を見逃さず、アイリスは追撃し、再び上段構え。

 

「この剣は、貴様を確実に、殺すための剣だ!」

 目を奪われるほどに、綺麗で真っすぐに、振り下ろされる一直線。

 

 ゼノンの前胸に、血が噴き出る。

 

「があああぁあ!!」

 逃げるように距離を取るゼノン、その足が大きくよろめいている。

 

 今の一撃はまだ致命傷ではない。

 ゼノンの晒す醜態に、アイリスは油断せず、慎重にゼノンへ近付く。

 

「クッ……ク、クハハハハッ……」

 悠然と歩くアイリスを見て、ゼノンは突如、笑い声をあげる。

「認めよう、今の貴様は私より強い」

 彼は懐から一つの小瓶を取り出す。中には赤い錠剤が数粒入っている。

「ならば私も、本気を見せてやろう」

 蓋を開け、その錠剤を呑もうとする。

 

 アイリスは空かさずゼノンの心臓を貫いた。

 ゼノンは構わずに、ただ笑いながら、錠剤をすべて飲み込んだ。

 

 次の瞬間、かつてないほどの魔力が、嵐となり吹き荒ぶ。

 アイリスは嵐によって吹き飛ばされ、その次に、致命傷であるはずの、ゼノンの心臓の傷が一瞬にして治った。

 

「そんなバカな!」

 傍観しているマルコが目を疑い、後ろにいるアレクシアは小さく悲鳴を上げた。

 

「覚醒者3rd!」

 筋肉が隆起し、目が血色に染まり、全身の血管が浮き上がる。

 魔力による重圧は、地面を大きく陥落させる。

「常人では扱え切れず、やがて自滅し死に至るであろう超越者の力。これを造作もなく扱えることができる私こそが、次期ラウンズに相応しい!」

 

「どう見ても、制御できているようには見えないね」

 立ち上がり、再び剣を構えるアイリス。

 

「ほざけ」

 力を得たゼノンの顔に余裕が戻る。

 

 さっきとは比べ物にもならない速さで、ゼノンはアイリスに突進し、剣を振り下ろした。

 

「クゥーーッ!」

 凄まじいほどの魔力を籠った剣に、アイリスは辛うじて受け止める。

 

 しかし、剣の威力は受け止めきれず、斬撃が発生する暴風がアイリスを通り越しその後ろにいるアレクシアにも襲い掛かる。

 悲鳴をあげるアレクシアたち、幸いにそれは実際に傷を与えられるほどのものではない。

 アレクシアの様子は気になるが、アイリスはゼノンから目を逸らせるほどの余裕はない。

 

「ほーら!」

 ゼノンの顔に、邪悪の笑みが浮かぶ。

「きちんと受け止めないと、後ろにいる連中諸共、死んでしまうさぁ!」

 

 暴風を巻き起こしながら斬撃を放つゼノン、アイリスはそれらの威力を逸らすだけでも精一杯だった。

 反撃などできるはずもなく、技こそ力を扱え切れていないゼノンに上回るが、今のアイリスは純粋なる力量が足りていない。

 このままではジリ貧だ。

 

 判断を間違えたと、アイリスは思う。

 

 ゼノンが錠剤を取り出すとき、心臓を狙うのではなく、彼が動くよりも早くその錠剤を持った手を切り落とすべきだった。

 判断を間違えた結果がこのざまだ。

 ただ、後悔してももう遅い。

 アイリスは今、その代償を払っている。

 

 ついに、力が衰え続けているアイリスはゼノンの斬撃を防ぎきれず、剣の威力を十分に逸らすことができず、衝撃が巻き起こす暴風がアイリスの後ろに直接伝わってしまう。

 

 声にもならない声を上げ、アレクシアたちが後ろにある瓦礫と衝突し……

 アレクシアの口から、鮮血が噴く。

 

 それを見ているしかできずアイリス。

 湧き上がるのは、怒りだ。

 

 ゼノンに対する怒りはもちろんあるが、より多いのは、自分自身に対する怒りだ。

 

 なぜ自分は、ゼノンの技を受け流せるほどに強くなかった。

 なぜ自分は、ゼノンが錠剤を取り出すとき判断を間違えた。

 なぜ自分は、ゼノンが覚醒する前に彼を仕留められなかった。

 なぜ自分は、ゼノンに会った時、一旦彼のことを信じているのを装い、アレクシアを安全な所へ連れ出さなかった。

 なぜ自分は、もっと早くアレクシアを逃がすことができなかった。

 なぜ自分は、ノアを引き留めなかった。

 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……

 

 後悔していても、目の前にいるゼノンは腕を止めるはずがない。

 更に悪趣味なことに、次の一撃、彼はアイリスを狙うことなく、アレクシアのほうに向けて……

 

 ダメだ。

 それだけはダメだ。

 絶対にダメだ。

 

 アレクシア。

 アレクシア。

 アレクシア、アレクシア、アレクシア……

 アレクシア!!!

 

 赤黒い嵐が、アレクシアを襲う。

 

 嗚呼……

 はなんて、愚かなんだ。

 

 

████████████(Verweile doch, du bist so schön!)

 

 

 頭が冴えわたる。

 思い出すのは、ノアが自分の魔力源を扱っているときの感覚。

 圧縮と膨張の繰り返し、魔力を爆発的に向上させる魔力操作法。

 しかしそれは恐らく、自滅になりうる魔力暴走を引き起こし諸刃の剣。

 

 今はもう、迷う暇はない。

 

 魔力が、爆発する。

 一瞬、誰の目にも届かない刹那、紅の奔流と共に、アイリスはアレクシアの目の前に現れ。

 身をもって嵐を止めた。

 

 アイリスの剣が砕け散り、彼女の胸元に、紅の蓮華が咲く。

 

「姉さまァ!!!」

 

 アレクシアを切り裂くはずの剣がアイリスのほうに届いたことに、ゼノンが少し驚く。

 しかしすぐに新月のような笑みを浮かび、この機を逃すはずもなく、隙だらけのアイリスに向けて、ゼノンは必殺の一撃を放つ。

 

「ーー死ぬがいい!アイリス・ミドガル!!」

 

 斬撃が、アイリスと、後ろにいるアレクシアの命を諸共刈り取ろうとし、彼女らの体を通り抜いた。

 ()()()()()のだ。

 

「何ッ!?」

 手応えがないことに、ゼノンが間抜けな声を漏らす。

 

 目の前にいるはずのアイリスとアレクシアは、いつの間にかそこにいなかった。

 

「どこだ!?どこにいる!!?」

 

 ゼノンは周囲を見渡す。

 そして気付く、いつの間にか、アレクシアを抱えているアイリスが自分の後ろに現れたことに。

 

 アレクシアを下し、彼女を守るように立ち塞がる。

 アレクシアも体力が大分回復したようで、傷こそ残っているが自力で立てるようになった。

 

 前に立つアイリスはというと。

 斬撃により切り裂かれた彼女の服の下、その柔肌に傷跡は見えず、代わりに黒い痣が、傷があったはずの場所から広がり、全身を侵食しているかのように、彼女の白い皮膚を黒に染まった。

 それは眼白をすらも黒く染まり、その瞳とその髪だけが元の紅色に保っており、瞳が紅色に輝き、髪は魔力の影響下で燃える炎のように揺らめく。

 

「なんだ……その姿は?」

 アイリスの異常にゼノンが動揺する。

「悪魔憑き?なぜ今更……いやこの魔力、まさかっーー覚醒!?」

 

「姉さま……」

 アレクシアは心配そうにアイリスを見る。

 

「ちょっと離れて、アレクシア」

 体が大きく変貌したが、アイリスの意識がまだ正常に保っているようだ。

 

「まぁいい。ここで貴様を仕留めて、その死骸を持ち帰ってまた別の者に研究させればいい」

 流石にゼノンも、今のアイリスを生け捕りできるほど慢心してはいなかった。

 

 アイリスは応えない。応える必要がないからだ。

 砕け散ったはずの剣を、ゼノンの首を狙うかのように左薙ぐ。

 

 刃がなかったはず。

 なのに何故、ゼノンは、命の危機を感じたのだろう。

 

 とっさに剣を右側に構える。

 次の瞬間、来るはずのない衝撃が剣を通じて全身に伝わり、ゼノンは大きくよろめく。

 

「ナッ…ニィイ!?」

 

 ゼノンがこの訳の分からない現象に頭が混乱しているうちに、目の前にいるはずのアイリスがいつの間にかいなくなった。

 背後から、極寒が襲いかかる。

 

 またしても首を狙う一撃、今度こそゼノンが自分を襲った衝撃の正体を認識できた。

 どことなく現れた凝固した血で作られたような黒い刃、反応しきれないほどの速さで、精確に自分の首に向かって飛んでくる。

 

「ガァアーー!!!」

 悲鳴にも似た声をあげながら、ゼノンは剣で必死に自分の首を守る。

 

 衝撃が走る。

 首に届いていないはずなのに、まるで斬首されたような錯覚を覚える。

 それがどうしようもなく、ゼノンの心に潜む根源的な恐怖を呼び覚ます。

 

 死への恐怖だ。

 

「貴様ァアアアア!!!!!」

 

 斬撃を放った直後に消え、また死角から現れる。

 アイリスは今、信じられないほどの速さでゼノンの視界から駆け抜けていく。

 なぜか執拗にもゼノンの首だけを狙う。

 

 まるで、罪人を断罪するギロチンのように……

 

 さっきとは打って変わって、今はゼノンのほうが防戦一方になってしまう。

 自分の首だけ狙われる原因を分からずにいるゼノンは、自分の命がアイリスに弄ばれているように思った。

 

 恐怖のせいか、ゼノンは自分の体温がどんどん下がっていくように感じた。

 いや、おそらくこれは恐怖によるものではない。

 実際に、ゼノンの周りだけが、気温が異様に下がる。

 寒気が空気中の水分を凍らせ、ゼノンの体に霜が付着する。

 

 隣にある水路すらも凍結され、小さな氷柱を生やしている。

 凍り付いた水路に、薄氷によって白く染められた道路に、見たことのない、大きな花びらを持つ紅色の花が咲いている。

 

 体温が低下するせいか、ゼノンの動きが段々と鈍くなり、その逆に、アイリスの速度が少しずつ、少しずつ、上がっていく。

 早く、早く、何より早く……

 

 紅の息吹を放ちながら通り過ぎるアイリスを辛うじて目視し、ゼノンはようやく分かってしまう、周囲の気温を低下させる寒波の発生源がアイリスであることを。

 

 アイリスから発せられた攻撃は単調だ。

 首だけを狙うからだ。

 ゼノンは斬撃が届く前に剣で首を守れば、攻撃を防げる。

 反応できれば、の話なのだが。

 

 ゼノンの反応が、寒さによって衰える一方で、なのにアイリスが未だに加速し続けている。

 自分が反応しきれなくなるその一瞬、自分の頭は首から落ちる。

 ゼノンはそう確信する。

 

 死神が自分の後ろに一歩、また一歩に近付いてくる。

 周りに一輪、また一輪に、次々と咲き誇る紅色の花が、まるで自身の死へのカウントダウンを象徴しているかのように覚える。

 

「やめ……」

 必死に反応して、必死に視認できなくなっていく攻撃を防いでいるうちに、思わず、ゼノンが声を上げる。

 

「やめろ……」

 惨めな、哀れな、尊厳のない声。

 

「やめてくれーー!!!」

 命乞いだ。

 

 しかし当然のことに、アイリスはゼノンの命乞いごときで止めるはずがない。

 

 だけどここに、ゼノンの理解を超えた出来事がまたして起きた。

 

「もうやめて、姉さま!これ以上は……!」

 なぜか、アレクシアの声が響いてくる。

 

 彼女が、ゼノンのために命乞いしている?そんなバカな。

 誰もがそう思う。ゼノンもそう思う。

 

 当たり前だ。

 ストックホルム症候群でも発症しない限り、自分を誘拐した誘拐犯のために命乞いなどするものか。

 したがって、ストックホルム症候群とハナアレクシアがゼノンなんかのために命乞いするはずもない。

 ならば、この声が一体、誰のために?

 

「姉さまやめて、これ以上は……」

 アレクシアの哀願する声がまた伝わる。

 それはゼノンのためではない。

 

「これ以上は……」

 それは……

 

「血がなくなっちゃう!!!」

 アイリスのためだった。

 

 アイリスの全身から、血が溢れ出し、黒い肌と黒い制服のせいで分かりづらいが、彼女の全身がすでに血に染まってしまう。

 地面に咲く紅色の花が、彼女の血が氷結され形成された、血の蓮華。

 

 そして、アイリスの刃がゼノンに届く前に、その体が崩れ落ちた。

 アレクシアの声が届いたのか、それとも血が流れ尽きたのか、誰にも分からない。

 

 アイリスが倒れるのと同時に、周りの気温が一気に正常に戻る。

 氷が水に戻り、霜が解けていき、紅色の花も、赤く輝く星屑のように消えていく。

 

 訳の分からないまま命の危機から脱した現状に、ゼノンはまだ飲み込み切れず、剣で首を守りながら呆然と立ち尽くしている。

 彼の全身から、冷や汗か、霜の解けた水か、それとも漏れてしまったものかは分からない液体が滴り堕ち、地面に水溜まりを作った。

 

 ゼノンがここにいるにも拘わらず、アレクシアは地面に倒れたアイリスを抱き上げ、アイリスの血が自分の白い服をも赤く染めることに気にもせず、彼女の鼓動を確認する。

 鼓動が微弱だ。だがまだ生きている。

 

 アイリスの体中に黒い痣が消えていき、瞬く間に元の白い肌に戻った。

 今度は流した血によって、赤く染められているが。

 痣が消えるのと同時に、全身から溢れ出る血も止まったようだ。

 

 魔力の流れの活発化による生命力に対する増幅作用により、魔剣士の造血機能は常人よりはるかに優れている。この国最優の魔剣士たるアイリスの造血機能が、並の魔剣士よりもはるかに高いはず。

 うろ覚えた浅い知識に縋って、アレクシアはただアイリスの無事を願う。

 

 ついに、ゼノンは死への恐怖から目を覚ました。

 気絶したアイリスと、彼女を抱えているアレクシアを見て、恐怖が薄れていくゼノンの心に新たな感情が湧き出る。

 

 屈辱だ。

 

 アイリスに命乞いをした屈辱に、アイリスやアレクシアに対する怒りに、すでに浮き出ている血管が破裂しそうになるほど脈動し、ゼノンの顔が見る見るに赤くなっていく。

 真っ赤になったその顔が、発育不全なリンゴのようにも見える。

 

 無言で剣を上げ、アレクシアたちに振り下ろそうとする。

 今のゼノンは、すでに剣士としての尊厳も、次期ラウンズとしての誇りも、すべてがその脳裏から消え去ってしまった。

 

 マルコやグレン、カーラたちが気付くも、彼らには間に合わないし、間に合ったところで、彼らの力ではゼノンを到底止められない。

 せめて声を上げ、アレクシアとアイリスに警告するも、今のアレクシアとアイリスには届かない。

 

 ゼノンの剣が、アレクシアとアイリスの命を奪おうとする、その瞬間。

 

 黒き一閃。

 

 ゼノンが腕を振り下ろすも、何も起きなかった。

 気付けば、剣を持っているはずの右手が、手首から綺麗さっぱりに切断された。

 

「て、手が……」

 何なんだよ、何なんだよ、何なんだよもう……

 天国から地獄への繰り返しが、ゼノンの理性をほとんど蒸発させ、彼は今、自分が果たして落ち着いているか、それとも動揺しているかも分からなくなった。

 

「私の手がぁぁあああ!!!!!」

 とはいえ、体が正直のようで、ゼノンの口が勝手に悲鳴を上げた。

 

 コツ、と。

 声が響く。

 

 コツ、コツと。

 靴が、地面を叩く声。

 何者かが、近付いてくる声。

 

 コツ、コツ、コツと。

 道路の先に。

 ゼノンの目の前に。

 アイリスとアレクシアの後ろに。

 

 漆黒を纏いし者が現れた。

 

「分不相応な力に溺れ、無様を晒す醜いものよ」

 フードを深くかぶり、顔に奇術師の仮面。その男は語り掛ける。

 

「我が名はシャドウ、陰に潜み、陰を狩る者……」

 仮面の下、男が名乗りを上げ、宣言する。

 

「ーーその命、貰い受けよう」




 今回の新キャラ――カーラ・ヘインズ。
 ただのモブです。
 ネームドモブです。

 そういえば原作の紅の騎士団初期メンバーの二人:獅子髭のグレンとマルコ・グレンジャー、どちらも名に「グレン」が入ってますね……

 ではまた次回でお会いしましょう。
 感想、および誤字や文法的な間違いの報告などがあればぜひ、できれば評価も……(乞食)
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