「私なんか」の続きです。
呆然としながら、震える彼女の肩に手を置いた。
なんで。どうして。
突き放すような言葉をかけてきたのは、虹夏ちゃんの方なのに。なんで。なんで。
「に…じか、ちゃん…?」
毛羽だったカーディガンには、木の枝や小さな木の葉が何枚も付いている。探していた?私を?そんなわけ…
「よがっだぁ…」
私のお腹に顔を擦り付けた虹夏ちゃんの声が聞こえた。掠れて、枯れて。洟をすすりながら、涙声でよかった、よかった、と何度も繰り返している。
「な、んで、ですか。」
突き放したのはそっちなのに。
私を否定したのは、他ならぬあなたなのに。
頬に擦り傷を作って、手のひらは転んだのか擦りむいていて。膝には、血が滲んでいる。
訳がわからない。私が嫌なら、放っておけばいい。
全部失うつもりだった。このまま、またあの狭い箱に閉じ籠って、1人でギターをかき鳴らすだけの人生に戻るだけのつもりだった。
見つけて欲しくなかった。追いかけて欲しくなかった。だって、顔を見たら、ひとりに戻れなくなってしまうから。
「私のこと、なんて…放っておいてくださいよ。」
分かってるんです。私みたいな下手くそが、バンドなんて夢を見たのが間違っていたんだって。私みたいな欠陥だらけの人間が、虹夏ちゃん達みたいな凄い人なんかと、一緒にいられる訳がないんだって。一生、ひとりぼっちで生きていけばいい人間なんです。私なんて。だから…
「離して、ください。」
「もう、この町から消えますから。虹夏ちゃんの視界には、映りませんから。」
ぎゅっと、腰に回された手が握られる。じわりと湿り気を帯びたジャージ。虹夏ちゃんの涙が染み込んで、薄いピンクのジャージはポツポツと濃い桜色に染まっている。虹夏ちゃんのくぐもった涙声だけが、明かりの消えた住宅街にこだました。
「……ないで。」
しゃくりあげる声。
「…かないで!」
まるで、幼子が独り取り残されたような慟哭が響く。
「いか、ないで…」
細い。今にも、途切れてしまいそうな声だった。
「ぼっちちゃん、いかないで…!」
顔を上げた彼女の瞳に、いっぱいに涙が溜まっていた。月明かりが薄く反射して、ゆるゆると揺れる。
「ごめん、なさい。」
「ひどいこと、言った…。」
「ぼっちちゃんがいてくれたから、バンド続けられてるのに…」
「あんなこと、言っちゃった…」
唸るような嗚咽。呼吸すらままならない状態でなお、虹夏ちゃんは私への謝罪を続ける。
「…落ち着いて、ください。ちゃんと、話、聞きますから。」
彼女が落ち着くまで、ゆっくりと背中を摩る。彼女の涙が止まるまで。彼女の呼吸が、整うまで。私は、彼女の背中を摩ることしか、できなかった。
「…落ち着きました?」
10分ほど経つと、彼女の嗚咽は次第に治っていった。目元は泣き腫らして赤くなり、未だに呼吸は少し荒い。けれど、先ほどよりはだいぶマシだった。
「ごめん…迷惑、かけちゃった。」
「…それで、なんで追いかけてきたんですか。」
私の言葉に、ぴくりと肩を震えさせる虹夏ちゃん。おずおずと、目を伏せながら話し始めた。
「怖く、なったんだ。」
「…怖く?」
「…うん。日に日に、上手くなっていくみんなが、ぼっちちゃんが、怖くなった。」
ぐす、と洟を啜る。
「あたしが、みんなの足を引っ張ってるんじゃないか。あたしが、あたしとの約束が、ぼっちちゃんを縛る呪いみたいになっちゃってるんじゃないか、って、そう思っちゃったんだ。ぼっちちゃんは、ほんとは結束バンドにいるべきじゃないのかも、なんて。もっともっと、上手い人たちと…それこそ、プロの人たちとでも、ぼっちちゃんなら演奏できるんだよ。あたしたちみたいな、中堅以下のバンドにいるべきじゃないんだ。ほんとは、もっともっと高い場所で輝ける人なんだって、そう思った。」
私は、無言で話を聞くしかできない。引っかかる場所は、何個もあったけど。
「そんなこと考えてたら、さ。もう、怖くて。いつか、人前でギターヒーローと同じ…ううん、それ以上のクオリティの演奏ができるようになった時には、周りがぼっちちゃんを放っておかない。それこそ、大手のレーベルから引き抜きの声掛けがあるかもしれない。リョウも、癪だけど上手いし、いつか引き抜かれちゃうかもしれないし。もしそうなったら、あたしの夢は終わっちゃう。ぼっちちゃんも、リョウも。喜多ちゃんだって、他バンドに引き抜かれちゃうかもしれない。ぼっちちゃんのお陰か、ギターも日に日に上手くなっていってるし。それに、ほら。喜多ちゃん、歌もうまいしさ。」
乾いた笑い声を零しながら、虹夏ちゃんが言葉をつづける。
「あたしには、何もないんだ。ぼっちちゃんみたいに楽器に秀でてる訳じゃないし、心を揺さぶる歌詞も書けない。リョウみたいに、いつも冷静じゃいられないし、作曲なんてできないし。喜多ちゃんみたいに楽器にひたむきに向き合って、それこそ成績落ちるまで…自分の将来の可能性を潰してまで頑張れるわけでもなくて。」
自虐的に笑う虹夏ちゃんの言葉に、ふつふつと、怒りが湧いてくるのが分かった。
「怖いんだ。ぼっちちゃんがいなくなって、リョウもいない。ぼっちちゃんとリョウが居なくなったら、きっと喜多ちゃんバンド辞めちゃうだろうし。そしたら、あたしだけ、ひとりになっちゃう。大好きなバンドも、STARRYを大きくするって夢も…それに、友達さえ失っちゃうかもしれない。それが、怖くて…」
「…だから、私に会わなければよかった、ってことですか。私が居なかったら、結束バンドは再結成できなかったから。」
ちりちりと湧き上がる怒りを抑えながら、問う。虹夏ちゃんは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「ぼっちちゃんに出会わなかったら…結束バンドは、きっとそこで終われてた。何も成し遂げないまま、夢は夢のまま。もしかしたら、それで良かったんじゃないか…って…」
「……けないでくださいよ。」
虹夏ちゃんの言葉を遮るように、口から怒りに満ちた声が出た。抑えられない。いや、きっと、抑えることすらできなかった。それほどに、頭の中がぐちゃぐちゃだった。怒りと、悲しみと、寂しさで、思考が埋め尽くされていた。
「ふざけ、ないでくださいよ!」
私の怒声が、閑散とした住宅街に薄く響く。
「っ…」
びくっと虹夏ちゃんの肩が震える。私に向けられる視線は、困惑と恐怖を孕んでいた。
「私があの日、どれだけ嬉しかったか知ってますか。虹夏ちゃんが私を引っ張って、STARRYに連れて行ってくれて。即興でバンド組んで、散々な演奏だったのに、私に『次頑張ろう!』って言ってくれて、どれだけ嬉しかったか、分かってるんですか。あんなに下手くそで、もう誘ってもらえないって、バンド組めるのなんて、私にとってはきっとあの時が最初で最後で。もうだめなんだ、って思ってた時に虹夏ちゃんのかけてくれた言葉で、私がどれだけ救われたのか、分かってるんですか。」
つらつらと言葉が出る。思考は落ち着かない。ただただ、溜め込んだ苛立ちと虹夏ちゃんがくれた日々が土石流のように言葉を成して口から溢れていく。
「初めてのバイトで緊張してる私に優しく声をかけてくれて、私がどれだけ嬉しかったか知ってますか。私みたいなダメ人間に優しくしてくれて、私みたいな碌でもない人間に声をかけてきてくれた人なんて、虹夏ちゃんだけなんです。虹夏ちゃんの言葉に背中を押されて、バイトも頑張ろうって思えたんです。」
「…ぼっちちゃん」
「ライブの時も、周りの音は聞こえないのに、虹夏ちゃんのドラムの音だけは、はっきり聴こえて。頑張れって、背中を押してくれているような、そんな気がして。そんな虹夏ちゃんがいてくれるから、私は頑張れるんです。頑張ってこれたんです!」
視界が揺れる。頬に液体が伝っていくのが、やけに鮮明に分かる。
「虹夏ちゃんとの約束が呪いな訳、ないじゃないですか!結束バンドが…虹夏ちゃんの夢が、私の足枷な訳、ないじゃないですか!私は、結束バンドのメンバー以外とバンドなんて、考えたこともないんです!リョウさんがいて、喜多ちゃんがいて、虹夏ちゃんが笑いながら私を引っ張って…!私の隣に立つギタリストは喜多ちゃんがいいです!ベースはリョウさんがいいんです!私は、私の後ろでドラムを叩くのが、虹夏ちゃんじゃなきゃ嫌なんです!だから、だから…!」
結束バンド、やめたくありません…
恐ろしいほど、か細い声が出た。本当に、蚊の鳴くような、小さな声。微風にかき消されてしまいそうな声。けど、なんとか虹夏ちゃんには届いたようで。
「…ぼっちちゃん!」
ぎゅっ、と抱きしめられたことに気がついたのは、背中に回された手が恐る恐る私を撫でた時。耳元で、虹夏ちゃんの荒い呼吸と洟を啜る音だけが聞こえる。ごめん。ごめんね。と、何度も繰り返す虹夏ちゃん。体は小さく震えていて、背中と胸から伝わる体温が冷えた体に染み渡っていく。
「うぅ…」
頬を伝う液体が勢いを増す。泣いて、泣いて。お互いの涙が落ち着く頃には、すっかり声が掠れていて。泣き腫らした顔が、どこか面白くて。お互いに顔を見合わせながら、ふふっと吹き出した。
「ひどい顔だよ、ぼっちちゃん。」
「虹夏ちゃんこそ。顔、パンパンですよ。」
「なにおう。」
なんて、今までより少しだけ、距離が縮まった気がして。
「…ね、ぼっちちゃん。今日、泊まって行きなよ。終電、無くなっちゃったし。」
「はい。少し、お父さんに電話をしてきますね。」
「お待たせしました。」
「ううん、待ってないよ。どうだった?」
「虹夏ちゃんたちがいいなら、そうさせてもらいなさい、だそうで。連絡が遅いことは、ちょっと怒られちゃいましたけど。」
「ありゃ…悪いことしちゃったなぁ。」
「そんなに、怒ってはないと思いますから、大丈夫ですよ。」
「そう?それじゃ、行こっか。」
「あ、はい。」
「飲み物だけ買おうよ。喉カラカラ。ぼっちちゃんは何飲む?寒いけどコーラ?」
「あ、カフェオレを…いや、私が出しますよ。迷惑かけましたし。」
「だーめ。…あたしが悪かったんだからさ、少しだけでも罪滅ぼしさせてよ。」
「…じゃあ、ココアを。」
「ん。じゃあ、あたしはカフェオレにしよっかなぁ。」
ガコン、と音を立てて、自販機から缶が落ちてくる。虹夏ちゃんはあちち、あちち、と言いながら、私にココアを手渡した。
「あつ…」
「あ、やっぱり熱いよね!」
「すごく熱いです。」
手、火傷しちゃうよー。なんて、虹夏ちゃんは笑いながら隣を歩く。…沈黙が辛い。
「…ね、ぼっちちゃん。」
虹夏ちゃんが立ち止まって、ぽそっと言葉を漏らした。
「あんなこと言っておいて、あれなんだけどさ。」
「…はい。」
「あたしね、やっぱりぼっちちゃんとバンドしたい。あたしの前で、ギターを弾いて欲しい。リョウがいて、喜多ちゃんがいて、ぼっちちゃんがいて。そんなみんなの後ろ姿を、ずっと見ていたいんだ。」
「…」
「もう、弱音なんて吐かないよ。ぼっちちゃんと肩を並べられるくらいのドラマーになる。」
「…はい。」
「だからさ、これからもぼっちちゃんの傍に居たい。後ろで、ぼっちちゃんの背中を見続けたい。」
「…はい。」
「だから、傍で見させてね。ぼっちちゃんのロック。『ぼっち・ざ・ろっく』を!」
あの日以上の笑顔で。あの日以上に明るい声で。とびっきりの、渾身の笑顔を、私に向けて。
あぁ、やっぱり。
私、この笑顔が大好きなんだ。
きっと、卑屈は治らない。
きっと、コミュ障は治らない。
奇行癖は…治したいけど、きっと難しい。
けど、虹夏ちゃんなら、笑って許してくれるから。
虹夏ちゃんなら、どんな時でも、私の手を引いて、暗い箱から連れ出してくれるから。