「喜多ちゃん…」
「ごめんなさい、ひとりちゃん。私たち、別れましょう。」
告白されて、喜多ちゃんと付き合い始めて、2ヶ月。
舞い上がっていた。手の届かない人だと思っていたから。私にとって彼女は夜空さんざめく一等星で、私と繋がることなんてあり得ないと思っていたから。
嬉しい。少し怖い。少しの不安と大きな期待を持って臨んだ新たな関係は、私にはすごく刺激的で、蠱惑的なものだった。
手を繋いだ。手汗を気にしながら。
彼女は驚いた顔を見せながら、優しく握り返してくれた。
一緒にご飯を食べるようになった。ファミレスでだけど。
彼女が好きなパスタを知った。
たまには映画も見に行った。
彼女が意外と、クソ映画を楽しそうに見るんだなと初めて知った。
家でギターの練習をした。
今までとは違って、斜めで向かい合うように座るんじゃなくて、私の右隣に彼女が座って。
時折触れる肩の温もりが優しくて、吐息がやけに甘ったるいのを知った。
このコードが難しい。彼女がそう言う度に、手に触れながらコードの押さえ方を教えていた。本当は弾けるのに、と思ったけど、彼女なりの照れ隠しとか、甘え方なのかな、なんて思った。
彼女にとっての初めての恋人が私なんかで良かったのかな、と思っていた。けれど、彼女は事あるごとに私に構ってくれて。
『ひとりちゃんと一緒ならなんでも楽しいわ!』
なんて、私と一緒に過ごしてくれていた。
好きだ。
ふとした瞬間にそう感じることが増えて、これからも些細なことで『好き』を感じるのかな、なんて思った。彼女と歩くなら、人ごみに溢れた渋谷でも、落ち着く場所のように思えていた…と、思う。
だから、別れを告げられた時は戸惑った。
なんで。どうして。
別れたくない。
離れたくない。
喜多ちゃんの隣にいたい。
もっともっと、好きを重ねたい。
溢れ出そうな想いは、掠れた吐息に掻き消されて。
「やっぱり、お友達のままの方がいい気がするの。」
彼女の言葉は、私の…漸くひとりで立てるようになった赤子のような自尊心を、根元から刈り取った。
あれから、1週間ほどが過ぎていた。
バイトの休みの連絡も、バンド練習のためのロインにも、目は通していなかった。定期的に鳴り響くロインの通知音が鬱陶しくて、4日ほど前から電源を落としたままにしてある。ギターヒーローの活動はPCとカメラがあるから十分だった。そうだ、前の生活に戻っただけじゃないか。今までの活動は、私には過ぎた夢だったんだ、と、そう思うことで必死に心を守った。
今日も今日とて、宅録をしていた。時間だけは、沢山あったから。
弾いて、弾いて、弾いて、空腹を感じたらお母さんの用意しておいてくれたご飯を。眠たくなったら布団を被った。
自堕落な生活。このままじゃまともな大人になんてなれないな、とは思うけど。
不安を紛らわせるために、こっそりお父さんのお酒と煙草をくすねてみたりもした。以前にお姉さんが言っていた、幸せスパイラルと言うものを欲したから。
結果的に言うと、酔えなかった。どんなに飲んでも、意識が朦朧とすることはなくて。身体はふらつくし、熱を持つ。なのに、思考だけはクリアなままで。
煙草も、一本吸って、咽せて。けど、口寂しくなって時折吸うようになった。煙草の先から立ち上る煙が、吸い込んだ煙で脳が酸欠気味になった時に視界が揺れるのだけが、何故か心地よかった。
3日もすると、煙草を吸う量が多くなった。食事とギター、睡眠のルーチンの中に、煙草を吸うのが当たり前になっていた。
ピンポン。
遅めの昼食…いや、もう夕飯だろうか。時間的には。レンジで温めた冷凍パスタを平らげた私は、動画撮影の前に煙草を咥えていた。百円ライターで火を灯し、一口目を吸う。そんな至福の時間を、インターホンの無機質な音が妨害した。両親はふたりが春休みなのと、何か実家に用事があるとのことで先々日くらいから実家に帰っているから、少なくとも家族ではない。居留守を決め込むか。そう思いつつも、宅配便の可能性もあったので玄関へと向かった。
つけたばかりの煙草を消すのが勿体無くて、私は火をつけた煙草をつけたまま、玄関へと向かう。
ガチャ、と扉を開ける。目に映ったのは、水色のキャリーケースと、長い黄髪。足元から視線を上げると、見慣れた顔がそこにはあった。
「に…じか、ちゃん…?」
私は言葉を失った。
充血した、腫れ上がった目元が見えたから。
洟を啜る彼女の姿なんて、見たことがなかったから。
いつも太陽のような輝きを持つ彼女の笑顔に、翳りが見えたから。
「ごめん、ぼっちちゃん。」
開口一番、謝罪の言葉。
私が何も言えずに狼狽えていると、彼女は言った。
「家出、してきちゃった。」