ぼっちちゃんが練習に来なくなってから、おおよそ1週間。シフトの出勤日にも来ず、ロインを送っても、メッセージに既読はつかなかった。リョウに相談してみても、そっけない内容ばかりが返ってきた。喜多ちゃん曰く、体調でも崩したのではないか、とのことだったが、そうではないのだろうと何となく直感した。喜多ちゃんにぼっちちゃんのことを聞いても、どこか他人事と言うか…付き合っている2人の関係からしたら、もっと心配をしてもいいような気がするし。
そう言えば、リョウの様子もおかしい。あたしにお金を借りなくなった。…いや、何度シメてもあっけらかんとした顔でお金を要求してきた今までと比べたら、きっとまともになったと言うことではあるんだろうけど。けれど、違和感だけが募った。リョウは、あたしといる時間より、喜多ちゃんといる時間が増えたような、そんな気がしていた。
「ねぇ、やっぱりぼっちちゃんのお見舞い行かない?」
練習の休憩中、あたしは何気なくそう話を切り出した。
リョウのベースの音が止まり、喜多ちゃんのスマホをいじっていた指先がぴたりと止まる。静かなスタジオ内に、ピリピリとした沈黙が降りた。
「虹夏ってさ。」
静寂を、リョウの低い声が破る。
「わたしのこと、本当に好きなの?」
「…は?」
唐突な言葉を投げかけられて、頭に疑問符が浮かんだ。まとまらない思考を整えようとするあたしに、リョウは畳み掛けるように言葉を投げかける。
「ぼっち、ぼっち、ぼっち、ってさ。四六時中わたしの前でぼっちの話ばっかりしてさ。わたし、虹夏の彼女じゃないの?わたしの前で他の女の話ばっかりしてさ。」
「…それ、は…」
あたしにとってのぼっちちゃん。それは、雲の上の人だと思っていた、憧れの人で。それが、ひとつ歳下の女の子で、面白くて、いざという時は誰よりも格好良くて…有り体に言ってしまえば、あたしにとってのヒーローで。
そんなことをつらつらと言えるわけでもなく、あたしは息を呑むことしかできなかった。
「…答えてくれないんだね。」
「ねぇ、虹夏。別れよっか。」
あたしが状況を飲み込む前に、リョウは冷酷にそう言い放った。
気がつくと、目の前にはお姉ちゃんがいて。
「スタジオ片してさっさと出ろ。もうすぐ次のバンドの番なんだよ。」
と言われたことで、あたしの意識は覚醒した。お姉ちゃんにリョウの居場所を聞いても
「さぁ?家じゃねえの。」
と言うばかりだし、ロインに既読すらつかない。電話も出ないし。家の方に連絡を入れてみても、固定電話の線が抜かれているのか、繋がらなかった。
あたしはSTARRYを走って出て、リョウの家へと向かった。昼下がりの下北沢を走り、リョウの家へと辿り着いた。インターホンを鳴らしても、リョウは出てこない。ご両親は仕事で家にいなくて、あたしにとれる手段はここまでだった。
とぼとぼと家路に着き、玄関の扉を開けて、自室の机に置かれた簡素な走り書きと鈍く光る鍵に気付く。
『鍵は返します。借りていたお金も、後日まとめて振り込みます。部屋の私物はお好きなように処理しておいてください。』
他人行儀な書き方。いや、実際『恋人同士』から『赤の他人』へと、リョウの認識が変わったのだと気付く。あたたかな思い出の品ばかりだったはずの部屋が、途端に居心地の悪い空間へと変わってしまった。自分の部屋のはずなのに居心地が悪くて、あたしは修学旅行で使ったスカイブルーのキャリーバックに衣類と通帳を詰め込んで、部屋から抜け出した。
走った。走った。
ひたすらに、キャリーケースを引き摺りながら、駅を目指した。あたしに残された、最後の希望へと向かって。止まってしまいそうな、歩くことすらままならない棒のようになった足を、ひたすらに進めた。駅を乗り継いで、2時間。泣くまい、泣くまいと堪えていた涙腺が、ついに決壊した。声を押し殺して、閑散とした駅のホームの端で、ただただ泣き続けた。
声が枯れて、頬に伝う涙が乾き、あたしは再び目的の場所へと足を進める。金沢八景の駅で降りたあたしは、漸く彼女の家に辿り着いた。息を整えて、逸る心臓を撫でつけ、ゆっくりと呼吸をする。決意を込めて、彼女の家のインターホンを押した。
数十秒。聞こえなかった足音が、ひたひたと近づいてくるのが分かった。がちゃりと鍵が回り、扉の隙間から桃色の髪が覗く。
ふわりと漂う、彼女の匂いと、懐かしい独特な臭い。足元に向けられていた視線が徐々に登って、あたしの目を射抜いた。薄暗く濁った、燻んだ空色の瞳。
「に…じか、ちゃん…?」
声が掠れていた。髪もぼさぼさだった。けど、そこにいた彼女の瞳は、こちらを真っ直ぐに見つめていて。あたしは、上手く笑えているだろうか。いつもの伊地知虹夏でいられているだろうか。彼女の顔を見れば、分かる。何も取り繕えていない、歪な笑顔で。
「ごめん。ぼっちちゃん。」
「家出、してきちゃった。」
切り貼りしたような、歪な笑顔で。枯れた声で。あたしは彼女に、そう言った。