隣の部屋の前に黒ずくめがいたから金○を蹴り上げてやった 作:ハッピーエンド大好きクラブ
ついに訪れた舞台「東京ブレイド」公開。
化粧室には虎次郎が座っていた。先程メイクアーティストによるメイクアップを終えて舞台衣装を着込んでいる。鏡に写るのは虎次郎ではなく「刀鬼」。
彼は鏡に写る自分を瞬きもせずじっと見つめている。
ふと顔を下ろして左手に目をやった。
────手の震えはない。
全身の震えもない。脈拍も正常、呼吸も普段と変わらずコンディションは安定している。
一つだけ異常なのは、心が緊張していること。
初めて出演した映画作品。初めて出演したドラマ。どちらも演る中で緊張したことはなかった。寧ろ演技できることが嬉しくて、自分の中の表現を模索して夜中まで台本を読んでいた。
けれど今回は何かが違う。
本番が近づくにつれて次第に食事が喉を通らなくなる。辛うじてサプリメントを飲むことが精一杯の状態で、彼は稽古に励んだ。
なぜこんなに緊張しているのか、原因は分かっている。
母親が舞台を観に来てくれるからだ。仕事を理由に来ないものかと思っていたのに。
あの事件から母親は自分に対して歩み寄ろうとしてくれている。
勿論虎次郎も、以前よりほんのちょっぴり優しく接することを心がけている。
見つめている左手を握りしめて、力を緩めるのを繰り返す。自分は虎次郎ではなく「刀鬼」と言い聞かせて席を立った。
「馬鹿馬鹿しい」
客席は舞台を取り囲むように設置されている。それに本番中は役を準ずるのでいちいち客席を確認する暇なんてない。そもそも客席の方へ視線を向けること自体「刀鬼」はしない。
こんなことで緊張するなんて自分はまだまだ未熟だと嘆息する。
化粧室から廊下に出ると、「鞘姫」の衣装を着たあかねが虎次郎の側へ近づいてきた。
「やっと出てきた。虎次郎君、気分はどう?」
「上々」
「鞘姫」は原作でも妖艶な身なりをしたキャラクターだ。それを容姿の優れたあかねが衣装を着てメイクをすれば原作再現以上の美しさとなるのは必然。虎次郎は自然とあかねの頬に手の甲を当てて腫れ物を扱うようにやっくりと撫でていた。
「綺麗だな」
あかねは嬉しそうに微笑み、虎次郎とは逆の手で頬に触れる。
「虎次郎君はカッコいいね」
突然我に返った虎次郎は彼女から手を離し、「わ……悪い」と視線を反らしつつ謝った。
「虎次郎君緊張してるでしょ」
図星。返事の前に肩がビクッ!と跳ね上がった。分かりやすい反応にあかねは口元に手を当てて笑った。
「虎次郎君も緊張するんだね。ちょっと意外」
「そりゃ初の舞台なんだからな。ていうかよく分かったな、隠してたつもりなのに」
「そりゃ分かるよ、彼女だもん。君のことなら、なんだって知ってるよ?何もかも」
「お、おう…………」
自分の胸に手を当てて不敵に笑うあかねの表情はどこか闇を感じさせるものだった。思わず返事を詰まらせる。気のせいかもしれないが時折あかねのことが恐くなる瞬間がある、虎次郎はこれを雑念として直ぐに振り払った。
「準備できたみたいね」
「つるぎ」役、かながズカズカと大股でやってきた。近づくやいなやあかねを睨み付け、対する彼女もかなを冷たい視線で見下ろした。
なんの前触れもなく始まった睨み合いに虎次郎はどうすればいいかわからず、バツの悪い表情を浮かべるので精一杯。
「かつて天才だと持ち上げられた私と、今まさに天才と言われてるアンタ。悔しいけど、意識しちゃうのよね」
過去の天才と、現在の天才。かなは心のどこかでこの日が来るのを待ち望んでいたかもしれない。
だって、こうして真正面から戦えるのだから。
でも、かなの討ち取る敵はあかねだけじゃない。
「バカ虎、アンタもそうよ。私達以上に天才と呼ばれるアンタのことも。正直癪だけど、アンタ達と演るの楽しみにしてたのよ」
「えぇ………………」
ものっすごい迷惑な表情で拒絶の意志を示す虎次郎。
「なんなのよそのクソ迷惑な顔は!もっとこう……あるでしょ!」
「いや知らねぇよ。勝手に天才だとか言われても迷惑なんだよ」
「はぁ!?アンタエゴサしないわけ!?ネットじゃあアンタの演技を褒めちぎる記事とか腐るほどあんのよ!!」
「なんで自分で自分の評価確認しなきゃならねぇんだ?そんな無駄な時間あるなら稽古したほうが良いだろ普通…………役者ならさ」
「ぐげぼぁあぁ!!!!」
日々エゴサーチに明け暮れ、有馬かなを絶賛するコメントや記事を見つけては自己顕示欲を高める彼女にとって、虎次郎の何気ない一言はチェンソーとなって心臓を切り裂いた。
血を吐き、地べたに崩れ落ちる。「うぅ……うぅ……!」と呻くかなの姿に虎次郎は余計困惑し、あかねへ顔を向けた。
「お前もエゴサーチとかしてんのか?」
「ウ、ウウン。ソンナムダナコトシナイヨ」
カタコトで返事をするも口元からは少量の血が滴っていた。
「と、とにかく!ここでアンタ達に勝って、誰にも私を元天才子役だなんて呼ばせなくしてやるから!覚えときなさいよバカ虎!」
血反吐を吐きながら捨て台詞を飛ばし、ヨロヨロになりながらも行ってしまった。
なんだったんだ………?と虎次郎は眉を顰める。まあ宣戦布告と受け取っておこう。
「なぁエゴサってみんなやるもんなのか?」
「ヴッ……!と、虎次郎君はしなくてもいいと思うよ。それより私達も行こっか」
あかねは虎次郎の手を引いて歩き出す。腑に落ちないものの、コレも雑念なので思考から破棄した。
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舞台「東京ブレイド」開幕三十分前にも関わらず、客席は既に満席に近かった。星野家は斉藤夫婦と後ろの席に座り、立川明美はミヤコの隣に腰掛けた。
アイとルビーは「なんだか偉い人になった気分」とドヤ顔でいて、アクアは澄ました表情を浮かべている。
原作者のアビ子、「今日あま」作者の頼子、超弩級変態妄想女こと桃衣の三人は上座の席に。
MEMちょの他にも「今ガチ」メンバー全員が劇場へ足を運んでくれた。
「まだ始まらないかな〜。虎の演技楽しみ〜」
ルビーはパンフレットを手に無邪気な笑顔でいる。アイは「こらこらあまりはしゃぎ過ぎないの」とルビーを嗜める。
「虎は馬鹿だけど芝居だけは上手いからね。この私が認めてるんだもん。間違いないよ」
「どの口が言ってんだか」
妹の上から目線な口ぶりにアクアは鋭いツッコミを入れた。
────開演十分前
明美は左手をぎゅっと握ってはパッと開くのを繰り返す。その様子を見たミヤコは彼女の左手を両手で包み込む。
「心配いらないわ、明美さん。あの子なら100点以上の演技を魅せてくれるはずよ」
「ええ……私の息子だもの。ただ…………いえ、何でもない」
緊張なんかしていない。不安なのは、虎次郎の役を最後まで涙を流さず観ていられるかだ。
息子がこの舞台のために積み重ねた努力の結晶を、最後まで見届けられるのか。
まだ心の準備が出来ていない明美を置いていくように劇場全体に柔らかなベルの音が響いた。
これは本ベル、ついに始まる。
舞台に掛けられていた幕がゆっくりと上げられていく。
舞台「東京ブレイド」、開演。
〜おまけ〜
席順
右からアイ、ルビー、アクア、壱護、ミヤコ、明美の順。
次回は来月のクリスマスまでに投稿する予定です。その間に番外編をちょこっと更新します。
更新ペース遅くてごめんね。