「かんぱーい!」
「乾杯」
中身の詰まったビール缶がかち合って、鈍い音が部屋に響く。
そのまま直接缶を呷れば、よく冷えた炭酸とアルコールが喉に熱を生じさせる。
幾度か喉を鳴らして、耐え難くなってきた刺激と痛みから逃れるように口を外し、ふぅっと息をついた。
アルコールが入ってくるのを知覚しながら、俺より一拍遅れて思いっきり声を上げる茜を眺める。
「くぅーっ!」
「相変わらず美味そうに飲むな」
顔をしかめて悦びを享受する姿を見て、少し笑いそうになった。彼女はその余韻に浸りながら、チッチッと指を振る。
「美味いからこうするんやない、こうすると美味いからやるねん」
「ははっ、なんだそれ」
今度は本当に笑いがこぼれて、気の抜けた雰囲気が流れ始める。
4月24日。琴葉茜の誕生日、その前夜祭。
仕事帰りに携帯を確認すると、茜から一つメッセージが届いていた。曰く『弓鶴〜!パーティやるからビール買ってこい!』と。
もちろん誕生日の前日だということは把握していたし、その関連のパーティであることも察せた。
ただ、なぜ今日なのだろう。なんてことはない週の真ん中、明日も明後日も、どちらにだって仕事がある。
休みに合わせたわけではない、今日が特別なわけでもない。なら、なぜ?
「なぁ、なんで今日なんだ? 誕生日は明日なのに」
結局納得できる理由は思いつかず、直接聞いてみることにした。
ついでに買ってきたスナック菓子をつまみながら、んー、と悩ましげにうなる。
しばらくすると、得意げな顔になって語り始めた。
「キリストさんだって誕生日のイヴにお祝いするんやから、ウチの誕生日のイヴも祝ったってええやろ?」
随分とまぁ。
「それ、今考えただろ」
「はっ、バレたか」
少し笑ってから、背もたれに寄って宙を見上げる。
「でも実際、すごい話よな。ただ単に生まれた日ってだけやのに、それをおめでとうって祝うねんで? それこそキリストぐらい偉いんならまだしも」
話はそらされたが、それ自体は結構面白い話だなと思う。
「まぁ、それくらい人の誕生はめでたいってことだろ。そもそも生まれてこなけりゃ俺とお前も出会えてないしな」
「それはそうなんやけどなぁ……」
何か腑に落ちないのか、もたれかかったまま生返事を返す。
かと思えば突然起き上がり、そのまま机に身を乗り出してきた。
「ただ生まれただけの日を誕生日言うて祝うんなら、その出会うた日はなんて祝えばええんやろな?」
言われて、少し考える。
「普通のカップルなら、そういう日を付き合った記念日とか結婚記念日とかって言うんだろうな」
「結婚、はまだやしなぁ。付き合った記念言うても、ウチらは結局いつからなんかわからんし」
「そりゃあの日だろ。お前が高校卒業した日」
「あれは……まぁ、あの日になるんかねぇ」
俺たちが正式に付き合い始めた日、それは二つ年下の茜が高校を卒業した日だった。
元々俺たちは幼馴染で、小学校の頃からずっと一緒にいた。
昔の茜は今よりも随分大人しい性格だったと思う。クラスに友達が少なかったのか、休み時間になるとよく俺の近くに寄ってきていたのを覚えている。
そんな関係だったものだから、俺は茜のことを妹のように思っていた。しかし、その逆は然りではなかったようだ。
俺が高校三年、茜が高校一年の頃。俺は彼女に告白された。
今でも当時を鮮明に思い出せる。歳を重ねるにつれて社交的に、そして多少勝気な面すら見せ始めてきた彼女が、俺の後ろを付いて回っていた時のようないじらしさで、俺への想いを吐露しているのだ。その時の感情の揺らぎは、今なら理解できる。
だが当時は。俺はその告白に明確な返事を出せなかった。
正直にすべてを答えた。俺はお前のことを妹のように思っていた。今お前に向いている感情が、お前からのものと同じである自信がない。
だから、少し時間が欲しい。俺と茜が大人になるまでの間、俺の気持ちを確認させてくれないか、と。
そんな自己中心的な願いを、彼女は快く受け入れてくれた。
それから二年間、俺と茜はいつものように過ごした。ただ茜は少し積極的になって、俺は少し彼女を意識するようになって。
そして運命の日が訪れる。
昼下がり、茜は荷物を抱えながら、息も切れ切れになって俺の部屋へやってきた。家にも帰らず、おそらく友達との挨拶も最小限にとどめて。いや、あの子らはいい子たちだから、むしろ背中を押して送り出したかもしれない。
卒業した。笑顔でそう伝える彼女に、おめでとうと言葉を返す。
今度は俺の番だった。二年も待たせてしまったことへの謝罪と、その二年で培った想い。
俺は彼女を、愛していた。
「あんときの弓鶴は傑作やったなぁ。高校卒業したての小娘に愛してる〜言うて」
「ぐっ……お前だってぐちゃぐちゃになって泣いてたくせに……」
「……ま、お互い様ってことにしといたるわ」
露骨に目をそらして酒を呷っている。俺もここは退くべきか。
しかし、本気で気持ちをぶつけ合った時間を振り返って笑うのも存外悪くないものだ。
*
「しっかし、弓鶴と会うてもう十年ぐらい経つんか。それ以上?」
「さぁ、なんなら十五年ぐらいじゃないか?」
冷蔵庫から二本ビールを持ってきて、一つ手渡しながら言う。
こうして考えてみると、俺たちはもう人生のほとんどを共に過ごしている。今や朝起きれば隣にいて、家に帰ればどちらかがいるのだから、もはや家族みたいなものだ。
「もし仮に今ウチが急にどっか行ってもうて、もう会えへんってなったらどないする?」
缶を開けながら茜が言う。正直考えたこともなかった。
「どうだろうな。今まで長く離れたことすらなかったし、なってみないとわからん」
言い終わって、茜が妙に気味悪くニヤついてるのに気づく。
「なんだよ……」
「いや〜、ウチとしては一人でも大丈夫やって言葉を聞きたかったんやけどな〜。まだまだ弓鶴は寂しがりさんやなぁ!」
なんなんだこいつは。
「そういうお前はどうなんだよ。俺がいなくなったら寂しくないのか」
「ウチか? ウチはなぁ……」
そう言って、缶を口元に近づけたまま静止する。
しばし遠い目でなにか考えた後、ふっ、と観念したような顔を向けてきた。
「寂しくない、なんて言えるわけないな。だって惚れたんはウチなんやから」
いつもと違ってやけに素直に物を言うから、呆気にとられてつい黙ってしまう。
反応がないのを怪訝に思ったのか、恐る恐るこちらを確認する茜と目があった瞬間、思い切り吹き出してしまった。
「なっ!?」
見る見るうちに顔が赤くなっていくのが妙にツボに入って、もはや吹き出すどころか爆笑になっていった。
真っ赤なままいろいろ言っている茜にごめんごめんと謝りつつ、酒のせいだろうか、それでも笑いが止まらない。
こうしていて、やっぱり考えが変わった。茜がいなくなってしまったら、俺はきっと心の底から泣き腫らすだろう。
「あーもう、弓鶴のせいで暑なってもうたわ! 窓開けるで?」
ひとしきり笑って言い合って、二人とも随分体が熱くなっていた。
窓を開ければ、涼しい夜風を受けてレースカーテンがふわりと膨らむ。その隙間から見える景色は特にいつもと変わらず、ただ道路の街灯といくつかの家の明かりが見えるだけだった。
遠くに聴こえる車の走行音、そよそよと吹く風の音、それに揺られて優しく響く木々の葉擦れ。そこにはただひたすらに、穏やかさがあった。
「気持ちええな」
外を見ながら茜が言う。また遠い目だった。
「だな、そろそろまた暑くなりそうだ」
その視線につられて俺もまた外を見る。穏やかな空気が流れ込んできて、それに感化されたようにしばし静寂が訪れた。
その静寂を静かに割くように。
「この夜がずっと続けばええのに」
茜がそうポツリと呟く。
「らしくないな」
茜がロマンなことを口にするなんて珍しい。ましてや停滞を望むなんて。
俺の言葉を聞いた茜が、こちらを向いて少し息を漏らすように笑う。
「なんやろな、ウチ今めっちゃ幸せやねん。ずっと追っかけとった弓鶴と一緒に酒が飲めて、こんなええ夜で。それこそ、これが最期でもかまわんくらい」
そう言う茜の顔がどうにも儚く見えて、思わず手を彼女の頭に載せてしまう。
「別に今日で終わるわけじゃない。明日だって、その次の日だって来るさ。俺だってずっと一緒だ」
突然頭を撫でつけられて、少し不意を突かれたような顔になった。しかしその驚きを飲み込み、また柔らかく微笑む。
「せやな、でも──」
自分の手の甲が小さな手に優しく掴まれる。そのままさらさらとした髪を滑って、彼女の頬まで導かれていく。
「この幸せは、きっと今日だけやから。今はただ……浸らせてな」
俺の存在を確かめるように、自らの幸福をかみしめるように、ゆっくりと掌に頬擦りをする。
手から伝わる熱く柔らかい頬の感触と、皮膚と皮膚が擦れる感覚。俺はただ、穏やかだった。
*
トイレから出て手を洗いながら、洗面所の鏡に映る時計を見遣る。時刻は十二時を過ぎていた。
4月25日、琴葉茜の誕生日。
リビングに戻ると、随分空気が冷たくなっているのに気づく。窓を開けてしばらく経ったから、外気と一緒に部屋も冷えてきたのだろう。
窓閉めていいか、と茜に聞こうとして、テーブルの方へ向いてみれば、机に突っ伏している彼女の姿が見えた。
少し心配になって寄ってみる。と。
「すー……」
小さな寝息が聴こえてきた。
少し安堵して、ポンと背中を叩きながら声をかける。
「ほら茜、起きろ。風邪ひくぞ」
「ん~……ゆづるぅ、おさけ~……」
もう随分飲んだだろうが。
半ば呆れながら、窓を閉めて対面の席に座る。こんなに気持ちよさそうに寝る奴はなかなかいない。見てるだけで眠くなってくる。
そういえばと思い出して、仕事用のカバンに入れておいた物を取り出す。
それは小さなプレゼントの箱だった。店の人が綺麗にラッピングしてくれたおかげで、買ったときとまったく同じ形で入ってくれていた。
未だ熟睡している茜のそばにコトリと箱を置く。髪と同じ赤色のリボンがキラキラと輝いていた。
その光景が思ったよりも様になっていて、すぐさま携帯を取り出しカメラを起動する。
今日だけの幸せ、それを明日に持っていくことはできないかもしれない。それでも、幸せだった気持ちを残すことはできるだろ?
「ハッピーバースデー、茜」
カシャリ。
このまま起こそうかとも思ったが、サンタクロースでもあるまいし、きっと起きてからのほうが良いだろう。帰ってきたときにでも渡すか。
プレゼントの箱を戻しながら、カーテン越しに外を見る。
夜も更けてきて、家の明かりはさっきよりも少なくなっていた。明日も早い、俺たちも寝る時間だ。
さっきよりも少し強く背中を叩いて茜を起こそうとする。今度は体を起こすまでは行ったが、それでもまだ夢うつつだ。
「ほら茜、起きろって」
「ん~……」
らちが明かない。腕を上げさせ肩を貸すような形を作り、そのまま立たせることにした。
「ベッド行くぞ」
「…………といれ」
「はいはい」
相変わらず世話のかかる奴だ。まぁ、今日くらいは大目に見てやろう。