0と1の信号で形作られた、エメラルドグリーンの電子の海。
その海原を、数千トンはあるだろう木造の巨体が、重く叩き切るように突き進んでいく。
切り裂かれた海は白く泡立ち、飛沫となって風と共に舞い上がる。
その一滴が頬を撫でた瞬間、俺は思わず小さく目を細めた。
生ぬるい潮風。鼻を抜ける塩の匂い。口の端に残る海水のしょっぱさ。
――何もかもが、本物と見分けがつかない。
船乗りにとって心地良い追い風を帆いっぱいに受けながら、巨体は快調に海を駆けていく。
俺は舵輪に手を添え、満足げに小さく後方を振り返った。
遥か後方、白い航跡の向こう。
沈みかけた一隻の帆船が、黒煙を噴き上げながら海へ傾いていた。
半ばからへし折れたマスト。砕け散った船板。海面を漂う積荷の残骸。
つい先程まで俺たちに襲い掛かってきた海賊船――その成れの果てだ。
その光景をぼんやり眺めながら、俺は自分の腕へ視線を落とした。
電子信号で構成されたはずの肉体。
なのに、指先に触れる肌の感触はあまりにも自然だった。
此処は『New World Online』。
全く捻りのない名前の、フルダイブ型VRMMORPG。
だが、その中身は“ありふれたゲーム”なんて言葉では済まされない。
自己学習型AIによって動くNPCたちは、人間と見分けがつかないほど自然に振る舞い、この世界そのものが現実と錯覚するほど精巧に作り込まれている。
今や、日本で最も人気のあるVRゲームと言っても過言ではないだろう。
「いやぁ!今回も大戦果でしたね、提督!」
背後から、弾んだ声が飛んでくる。
振り返れば、セーラー服を着たNPCの男が満面の笑みを浮かべていた。
「これなら女王陛下もきっとお喜びになりますよ!」
「そんなことより、さっさとトリムを合わせろ。風を逃がすな」
「あっ、アイ・サー!」
慌ててロープを引く船員の背中を見送りながら、俺は小さく肩を竦めた。
相変わらず不器用な奴だ。
最初はロープの結び方すら怪しかったくせに、今ではそこらの熟練船員より余程動ける。
自己学習型AI。
その一言だけで片付けるには、こいつらはあまりにも人間臭かった。
俺は小さく息を吐き、再び曇り空を見上げる。
……まったく。
今日は南西から吹き込む風が少し重い。
この時期の湿気を含んだ風は帆に余計な癖を作る。トリムが甘ければ船足はすぐ鈍るし、舵の入り方にも微妙な遅れが出る。
……まぁ、その辺りまで気にしているプレイヤーなんて、この世界にほとんど居ないんだろうが。
俺は、もっとのんびりこのゲームを楽しむつもりだったんだがな。
気付けばNPCたちからは重要な役職を任され、他のプレイヤーからは『海賊提督』だの『成り上がり者』だの、妙な二つ名で呼ばれる始末だ。
「はぁ……今日も良い風だ」
曇天の空を見上げながら、俺はふと思う。
そういえば、この世界に初めて降り立った日も、今日みたいな空だった。
もし、ゲームを始めたばかりの頃の俺に今の状況を話したとしても、きっと鼻で笑って信じなかっただろう。
そんな姿が容易に想像できて、俺は思わず小さく笑ってしまった。
あの日の俺は、ただ海が好きだった。
ただ、好きな船を作って。
好きな海を、好きなようにこの大きな海を旅したかっただけだ。
――まさか、それだけで世界がここまで変わるなんて、思いもしなかった。