もはや、なんて書いてあるのかすら分からない直筆サイン。これに女性客はお礼を告げていくと、親父は脚を組みながらイスに座ったその姿勢で、妖艶な仕草で応えながら向かいの席へと向いてきた。
正面にいる自分が、何とも複雑な眼差しで見遣っていく。これに親父は苦笑しながらも明るい声音で喋り出してきたものだ。
「久しぶりの家族団らんの外食だというのに、ファンの子にばかり構ってごめんなさいね」
「気にしなくていいよ。仕事を優先して」
「そんなにいじけないで? あ、ワインでも飲む? ここで扱っているワインはね、私が直々に品定めしてきたイチオシの一品ばかりなのよ!」
「今はお酒って気分じゃないからいい。それより、次の人が待ってるから対応してあげて」
「カンキは周りに気を遣ってくれるのね。優しい子に育ってくれて、お父さん嬉しいわ!」
「そういうのはいいから。ほら」
「はいはい。カンキは万年思春期ねぇ」
呆れというよりは、どこか満更でもないサマを見せてくる親父。それから、店内に列を成したファンの先頭へと声を掛けていくと、握手や会話といったファンサービスで対応していった。
自身がプロデュースする
ラミアやメー、レダやユノが忙しそうに動き回っていく光景の中、自分は芸能人の息子として恥じない姿勢で暫し座り続けていた。
ここに来店してから1時間ほど経過した頃だろうか。列の最後に並んでいたファンの対応が終わり、店内は一時的に落ち着きを取り戻す。尤も、店の中にいるほぼ全ての客が視線やスマートフォンを向けてくる空間に、自分は未だ緊張が解けない面持ちのまま親父を見遣っていた。
で、こちらに向き直ってきた親父。仕方なくひそめた眉で笑い掛け、色気を帯びた中性的な声音で喋り出してくる。
「お待たせ、これでカンキと2人になれるわね」
「家族団らんなら、自宅でも良かったんじゃないのかな」
「いいじゃないの~! だって、念願だった自分のお店を、自慢の息子に見せたかったんだも~ん!」
「結構な頻度で邪魔させてもらっているよ。まぁ、良いお店だと思う……」
「まぁ嬉しい! お父さんには素直じゃないカンキがストレートに褒めてくれるなんて、お店を開いて正解だったわ~!」
「いちいち余計なこと言わなくてもいいって……」
「ねぇカンキ! 内装の家具とかデザインも全部、お父さんが自分で選んできたのよ! どうどう!? センス良いでしょ!?」
「自画自賛か。まぁさ、悪くないとは思うけど……」
「やったぁ! カンキに褒めてもらえるのなら間違いないわね!」
「だから、そういうのはいいから……!」
嫌というわけではないけれど、なんか気恥ずかしいからやめてもらいたい……。
きっと、自分は少し頬を赤く染めてしまっていたのだろう。突っ掛かるようにツッコむこちらの反応に、親父はすごく満足げな明るい笑みを見せてきたものだ。
伝説などで語られる雪女が如く、この世ならざる不可思議で妖しい神秘を纏う親父の風貌。そこから繰り出される子供みたいに無邪気な笑い顔は、緩急のメリハリ、所謂ギャップというものを想起させることで、周囲の人々は彼に魅入られるのかもしれない。
芸術家兼音楽家という堅苦しい肩書からは想像もできないほど、愉快で朗らかなお兄さん……いや、おじさん。年齢こそは48歳とそれなりではあるのだが、如何せん化粧の効果と元々の引き締まった顔つきにより、実年齢よりもだいぶ若く見られるらしい。
中には、20代と見間違う人もいるくらいだ。そんな親父が、見守るような優しい眼差しで、微笑しながら見つめてきたものだったから、自分はついつい視線を逸らしてしまったりなど、露骨な態度で素直な気持ちを隠し続けてしまっていたものだ。
さぞ、生意気に見えていたことだろう。
少し自己嫌悪になりながらも、それでもきっと親父は息子のことを理解してくれている、という根拠の無い確信に甘えてしまう。この、遣り様の無い気持ちにモヤモヤしていると、次にも歩み寄ってきたタキシード姿のユノが、親父へとそう言葉を告げてきたものであった。
「柏島さん。お時間の方を気になされる頃合いかと存じます」
「あら、もうそんな時間? ファンサービスをしていたら、あっという間に時間が経っちゃったわね~」
腕時計を確認する親父の様子に、自分は不思議に思うように首を傾げていく。それから親父はこちらに視線を投げ掛けてくると、次にも穏やかな調子でセリフを口にしてきた。
「お父さん、これからテレビのお仕事でスタジオに向かわなきゃいけないの」
「え? 俺、それ聞いてなかったんだけど」
「だってカンキ、いつもお父さんのこと気にしてくれないじゃない」
「別に、そういうわけじゃあ……」
「ウソウソ! 冗談! いつも冷たい態度を取られちゃうから、仕返しでちょっと意地悪しちゃった。ごめんね!」
「おいおい……」
「あはは、そんな残念そうな顔をしないでちょうだい! いつになるかは分からないけれども、お父さんまたお家に帰ってくるから!」
「残念そうって……まぁ、その……。間違ってはいないけどさ……」
全面否定をしなかったこちらの返答に、親父は意外そうな表情を見せてくる。それから鼻を鳴らすようにフッと微笑すると、直にも親父は立ち上がりながら、神妙な面持ちで言葉を掛けてくれたものだった。
「カンキ」
「え、なに」
「家に帰ってこないお父さんでごめんね。寂しい思いばかりさせちゃっているでしょ」
「気にしなくてもいいってば。その分、親父には稼いできてもらって、不自由無い快適な暮らしをさせてもらっているもんだからさ。……俺は、親父に対して何か言えるような身分じゃない」
「私とカンキはいつでも対等よ。そんなに卑下しないで、お父さん悲しくなっちゃうわ」
「でも、間違ったことは言ってないから……」
「……カンキ」
「なに?」
おもむろに差し伸べられた手。親父の意外と大きな手の平に、自分は呆気にとられていく。
そして、親父の手はこちらの頭を撫でてきた。
わしゃわしゃと無造作に撫で回すそれ。まるでペットの背中を撫でるかのような手つきだったが、一方で愛情が圧し掛かるような重みも感じられたことで、自分は周囲の人目を気にしてしまいながらも素直に撫でられていく。
「お、親父っ……!」
「カンキ。……仕事が忙しかったとはいえ、小学校、中学校とか、そういう一番大切な時期に貴方の傍に居られなかったことを、私は今でも後悔しているわ……。どうして、私は一人息子を家に放っておいて、仕事を優先してしまったのだろうって。仕事なんかで外に出ているとね、貴方と一緒に過ごす時間を無駄にしてきた自分自身のことを、許せなく思えてくるのよ」
「親父、何を言って……!」
「カンキと一緒に居る時間を大切にするって、お母さんと約束したのにね……。それなのに私は、お母さんとの約束を破って、貴方を独りぼっちにしてしまった。……貴方が産まれる前、お母さんと最後に交わした約束だったのに……私はどうして……っ」
余程、後悔したのだろう。言葉を口にする最中にも、親父の目元が震え出す。
このままじゃあ親父の化粧が落ちてしまう。それを思って、自分は撫で掛ける手を慌てて取りながら答えていった。
「親父! 別に親父は悪くねぇって!! 確かに1人でいる時間の方が長かったし、寂しいなって思いながら1人で布団にこもって寝たりしていたもんだよ! でも、だからと言って俺は親父を責めるつもりは無いからな! だって、母さんとそれを約束したからこそ、親父は俺を守るために、俺が安心して暮らせるように、頑張って仕事して働いてきてくれたんだろ!? 俺、ちゃんと分かってっから!! 多分、親父が思っている以上に俺、親父のことしっかり見てきてっからさ!!!」
「カンキ……」
「親父は何も悪くねぇからな! だから、もっと一緒に居てあげれば良かったとか後悔しなくてもいいんだよ……! 実際、今は親父の計らいで俺、寂しい思いなんかしてねぇしさ……!! 親父は罪滅ぼしのつもりで、ラミアとメー、レダの3人を寄越してくれたんだろうけど、俺は別に、『これは親父が罪滅ぼしでしてくれたものなんだ』って意識してなんかいねぇから! ……だから、もうこれ以上、後悔しなくてもいいんだって……! 思春期は拗らせたけど、俺、昔も今も自分なりに元気にやってるからさ……っ!!!」
今までずっと、恥ずかしくて言えなかった想いを一塊にしてぶつけいく。
その結果、親父は左手で口元を抑えるなり号泣し始めてしまったのだ。
むしろ逆効果だった。
自分とユノは慌てて親父に駆け寄り、必死に慰めていく。だが、親父はダムが決壊したようにボロボロと涙を流してしまったため、自分らは親父を座らせて、しばらくと傍で付きっ切りになったものであった。
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昼下がりとなり、親父が店を出てから30分ほど経過した頃合いとも呼べる時刻。
自分はいつもの席で待っていると、直にも出入口の扉からユノが入ってきた。
彼女の姿を見て、自分は立ち上がってから歩み寄りつつ問い掛ける。
「ユノさん、親父は?」
「安心してちょうだい。乗車予定だった電車に間に合ったわよ」
「良かった……。仕事前なのに親父の化粧が涙で落ちた時は、さすがに終わったと思いましたよ……」
「それだけ彼は、貴方の身を心から案じてくれていた。柏島さんは駅の中で、長年と抱え込んでいた苦悩から解放された旨の話を、私に打ち明けてくれたものよ」
「そうだったんですね……。俺の代わりに見送って頂き、ありがとうございました。その……あの話の後ですから、ちょっと気恥ずかしくて」
「気に留めないでちょうだい。見送りに関しては、貴方の心情を汲んだ上での、私からの提案だったものですから。大丈夫、柏島さんは貴方の成長に喜びを見出していらっしゃった。そして、先の会話を遂げた上での再会を望んでいる様子だったわ。そんな彼からの伝言よ。『次は2人で飲みに行きましょう』、ですって」
「分かりました。今度、電話で返答しておきます」
こちらの返事に、ユノは軽く腕を組んだ佇まいでフッと凛々しく微笑んでくる。それに自分は首を傾げていくと、彼女は安堵したようにその言葉を告げてきたものだった。
「長年と不信や不安を生み続けたのでしょう、親子の間のわだかまり。それが糸のようにほつれ、互いに心を通じ合わせた瞬間の立ち会いには、この生涯において随一とも言い表せる多大な感銘を受けたものよ」
「えっと……あの、面と向かってそう言われると、めっちゃ恥ずかしいのですが……」
「恥ずべき事柄ではないわ。私は改めて、柏島の血筋が尊敬に値する高潔な血族であることを認識したものですから。さぁ、柏島くん。この胸に揺らめく至上の敬意を形にするべく、今現在の私が尽くせる限りの献身を貴方に施行するといたしましょう。お席にどうぞ。
「あ、はい…………それじゃあ、いただきます……」