推しの子-偶像になる少女と空想に生きる少年- 作:アルトサックス
5/5加筆しました。
―――幸福に生きよ。
ウィトゲンシュタイン
小学校を卒業し、俺達は中学校へと入学した。
アイと出会い、早三年。三回目の春。その傍ら、常に隣にはこの嘘吐きが居た。
「おはよー!」
アイのその声と共に1-Bと書かれた教室の扉を潜る。
その一番星に惹かれる様に、クラスメイト達が各々に声を掛け、アイへと人が集まり、会話を向ける。
ようはクラスのアイドル的存在。
星野アイという少女は自然と人を惹きつける、そんな才能があると思えてしまう。
……まあ、その話している大半の人間の名前すら、こいつは覚えてはいないのだが。
本人達はそんな事も露知らず、彼女と親しい様に会話を繰り広げる。
それを悟られない、感じさせないだけの嘘。そこまで行くとそれはもはや本当だ。
「…アイドルは偶像と、昔の人は良くも言ったものだ。…ん?」
それを遠巻きに見ながら、席に座る。
朝にも思ったが、そう思うとアイドルというのはやはり向いているのだろう。
机の中に一つ、桜色の便箋が入っていた。
相手の名前は無いが、女子らしい丸っこい字でそこには『夜川瑠璃』様へと書かれていた。
「おーい瑠璃君。今日って確か数学の宿題あったよね?」
「…あったけど。お前まーたやってこなかったのか?」
アイのその言葉に、その便箋をそっと机の中に戻す。
「だって勉強苦手なんだもん!だから、ね?」
「だから、じゃないアイ。そんなんだと将来マジで困るぞ?アイドルとして売れなかったらどうする」
「大丈夫でーす、アイドルになるからには絶対にトップになるから!それに、もし成れなかったら瑠璃君が貰ってくれるもんね?」
「……ハァ、貰うつもりはないからな」
深々と思わず溜息が出る。お願い!と手を合わせる彼女に鞄からプリントを差し出す。
「やたー!瑠璃君、愛してるー」
「はいはい愛してるー。そういうのは本当に好きな奴が出来た時にやれ」
彼女とそう軽口を叩きつつ、心からそう思う。何時の日か。
こいつが嘘を吐かないで、本当に誰かを愛せる時が来る事を。
―――〇●〇
本日もつづがなく学校が終わった。
教室よりクラスメイトがそれぞれの行先へと散っていく。部活、帰宅、遊び。
何時もなら俺とアイも帰路に着くのだが、彼女は今日はカレーがいいなぁと早々事務所に行くのに、既に別れた。
今日の夜はカレーが食べたいと言っていたので、買い物をする為に早く帰りたい。だが。
俺も帰りたい所ではあるが、手元には桜色の便箋がある。
「これ、悪戯とか果たし状とかじゃなければいいけど」
封を開けたそれには、時間と場所の記載がされていた。
本来は下へと向ける足は上への階段を上っていく。この学校は珍しく屋上が開放されている。
これから対面するそれが俺の自惚れではなければ、足取りが重くなる。
ぽっかりと空いたその“空洞”へと手が伸び、それを埋めるかの様に握り締めた。
「桜が綺麗だな」
屋上の扉を開ける、相手はまだ来ていない。
俺の心象とは裏腹に春風が吹き、柔らかな光の下、空へと桜吹雪が舞ってゆく。思わず感慨に深けってしまう。
……両親が亡くなった時もこんな風に桜が舞う季節であった。父親が亡くなった時。
―――俺は一つの約束をしたがその約束はまだ、果たされていない。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「いや、全然待ってないよ」
そうして空を眺めていると、扉が開く。相手は可愛らしい女の子であった。
少なくとも果たし状の可能性は減った。故に気が重くなる。これから想定される事を思い浮かべて。
…確か、隣のクラスの子のだったよな。
ウチのクラスでのアイドルをアイとするなら、彼女は隣のクラスのアイドルというべき存在。
「単刀直入に言うね、夜川くん。……好きです」
一瞬だけもじもじとし、意を決した様に一呼吸して、彼女はその双眸で此方を捉えてそう宣言する。
「…ごめん、今は誰かと付き合うとか考えてないんだ」
その真摯な愛の言葉を俺はそう切り捨てる。答えは最初から既に決まっていた。
「…そっか。星野さんが好きとかじゃなくて?」
「うん、アイとはそういうのじゃないよ。今は誰かと付き合うとか本当に考えられないだけ」
「…ごめんね、時間を取らせて」
「いや、大丈夫だよ。でも、君の気持ちは本当に嬉しい。…応えてあげられなくてごめん」
それだけ言葉を残して俺は屋上を後にする。
扉を閉めた向こうで彼女の泣く声が聞こえたが、それを聞かなかった事にして俺はその場を去る。
「これはアイの事を言えないな、俺も。……嘘吐きは、そう俺もか」
嬉しいと言ったけど、最初から受け取るつもりなど無かった。
―――だって俺はもう、愛を諦めたのだから。
それでも胸の空洞がズキズキと、まるで生きているかの様に痛んだ。
―――〇●〇
スーパーで今日の夕食の買い物をして、一人帰路に着く。
今日は鶏肉が安かった、なのでアイの希望を通してチキンカレーにする事にした。
本来家は別であるが、あいつは最早半ば住み付いている。
家の近くに辿り着くと、ふと自宅の前に立つの姿に女性に気が付いた。
高校生か、大学生位の年齢だろうか。ともかく、ウチに客人が訪れる事は非常に珍しい事である。
「……誰だ?」
奥ゆかしい日本家屋、その家に聳える桜の樹を感慨深く見る女性は自然と絵になる。
美しい黒羽色の髪が靡き、優しい翡翠色の瞳は何処か昔を懐かしむ様に見える。
「……心、姉さん?」
その特徴に合う人は、俺の記憶にはその一人しかいない。
その声に反応する様に、彼女が此方を認識する。
「…るーくん?お久しぶりです、大きくなったねぇ」
記憶の中と変わらない、柔らかな声と眼差し。
それはまだ幼かった一ノ瀬心という少女の認識を現実の物へと書き換える。
嘗ての父の教え子というべき存在、俺にとっての姉というべき存在。
―――父の葬儀以来、実に五年振りの再会。
それだけの時間が既に経過していた。それだけの時間が経過してしまった。
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