「兄貴……オレ、頑張ったぜ」
オレは目の前の広い背中にそう投げかける。
「兄貴からしてみれば、普通のことかもしれねぇけどさ……オレにしちゃあ結構頑張っただろ?」
彼はピクリとも反応しない。
オレの言葉が届いてないのだろうか。
「なぁ、オレ……またお前と話してぇよ。まだまだ色んなこと、教えて欲しいんだよ」
──だから、こっちを振り向いてくれよ。
手を伸ばして兄貴の肩に触れると、彼はオレの方を振り返る。
「あ、にき……?」
こちらを振り返った彼は、プロシュート兄貴ではなかった。
それは黒髪の──
「ッ!?」
瞼を開いて上半身を起こす。
ここはアジトのリビングだ。日差しが一切入らないこの部屋にいると、今が朝なのか昼なのか見当もつかない。
オレはソファの上にいて、自分の左足に新しい包帯が巻かれていることに気がついた。
そういえばオレは昨日の夜に任務に向かい、アジトに帰ってきてすぐ、ソファで寝てしまったのだ。
その後にメローネが左足を手当てしてくれたのだ。彼の治療のおかげだろうか、もう痛みは引いている。
「さっきのは夢か……」
うーん、と唸りながら頭を抑える。
──不思議な夢だった。
プロシュート兄貴のように広い背中だった、黒髪の男。
「兄貴」、オレが最初にそう呼んだ人間……あのままずっと寝ていれば、彼の名前や顔を思い出せたのだろうか。
……夢の続きが見たい。
モヤモヤした頭をかきむしる。
「悪い夢でも見たか?」
「ああ、スッキリしねぇ夢を見た。どれだけ話しかけても、目の前にいるはずの兄貴にオレの声が届かなくて、それで……」
乾燥した目を擦り、オレに話しかけてきた人物に視線を向ける。
「逆夢になって良かったじゃあねえか」
「ん……お? おぉぉぉぉッ!? 兄貴!?」
自分が寝ぼけているのか現実なのかが分からず、何度も自分の頬をつねって、何度も目を擦る。
だが、確かに向かい側のソファにはプロシュート兄貴がいた。
「オイ、強く目を擦るんじゃあねえ。傷になるぜ」
「あ、兄貴、怪我は大丈夫なのか!?」
「ただの軽傷だ。平気に決まってんだろ」
「で、でも意識が戻らなかったって……」
嬉しさと驚きと疑問が同時に襲いかかり、狼狽える。
「あァ、そういう風になってたのか」
「そういう風?」
「オレはしばらく鏡の世界の中にいた。オメーが任務から帰ってくるまでな」
疑問が更に疑問を呼ぶ。
なぜ兄貴がイルーゾォの鏡の世界に?
「アイツはオレに不信感を抱いたみてェだ。オメーを庇いすぎだってな」
「そういうことだったのか……ごめん、また迷惑をかけちまってたんだな」
「何謝ってんだ。お前には感謝したいくらいだぜ。面白れェもんが見れたからな」
──面白いもの?
首を傾げると、兄貴はポケットから紙切れのようなものを取り出した。
よく見ると、それは金だった。
「イルーゾォと賭けをした。オメーが帰ってくるかどうかってところでな」
「ってことは……」
「オレはお前が帰ってくることに五百万リラ賭けた」
「兄貴ィ〜〜〜〜ッッッッ!!」
結果は言うまでもなく、兄貴の勝ちだ。
兄貴はずっとオレの無罪と生存を信じ続けてくれていたようだ。
しかもそれを当たり前のことかのように言うのだから、改めて彼のかっこよさを痛感する。
「アフェット、目が覚めたか」
書斎から、目の下をクマだらけにしたリゾットが出てきた。
彼はオレとプロシュートの姿を確認すると、書斎に来いと手招きした。
オレたちが書斎に入ると、リゾットは作業机下にある椅子を引き出して座った。
「お前は裏切っていない、それをボスに立証することができた」
「本当か!?」
「ああ。今回、情報をプリマベラに流していたのは間違いなく『情報処理チーム』のうちの一人だ。既にボスの命令で殺した」
あまりの展開の早さに絶句する。
さっきまで寝ていたとは言え、オレがアジトに帰ってきてからまだ一日も経っていないはずだ。
自分の罪が晴れた安心とは裏腹に、容赦ないボスの行動に背筋が凍った。
運が悪ければ……いや、リゾットがリーダーでなければ、その矛先はオレだった。
「そして、オレたちには任務が与えられた。プリマベラの殲滅だ」
「なるほどな、大がかりな戦いになりそうだが……やってやるぜ」
ゴクリ、と唾を飲んで覚悟を決める。
自分は一度、一人で大きな山を越えた。そのことがオレの中で大きな自信になっている。
今のオレならどんな任務が来ても大丈夫だ。
「少し言いにくいが……アフェット、お前は戦いには参加しない」
「……へ?」
「足のこともある。連日の戦闘は体に負担がかかるだろう」
オレの隣では何かを察した様子の兄貴が、ため息をついて眉間に皺を寄せた。
「オイ、リゾットよォ……まさかオレにアレの指導役をやれって訳じゃあねぇよなァ?」
「……頼めるか、プロシュート」
兄貴はそれを聞いて、再びため息をつく。
それはオレが今まで聞いてきた中で一番大きく、長いため息だった。
「考え直せ、リゾット。コイツはハニートラップなんて出来るヤツじゃあねえ」
「ハ、ハニートラップゥゥ〜〜〜ッ!?」
どこか気まずそうに目を逸らすリゾットの目の前で、そう叫んだ。
あまりにも衝撃的な言葉に、開いた口が塞がらない。
「……ああ。アフェット、お前にはハニートラップを仕掛けてもらう」
「ま、待てよ! オレじゃなくてもよくねーか!?」
オレ以上に美人なヤツがいるだろ、と言ってリゾットの真意を探る。
ハニートラップとは、女性が男性を誘惑して罠に嵌めること……だった気がする。
メローネや、ガタイが良すぎるかもしれないがイルーゾォだって、頑張って女装すればできるのではないか。
一瞬そう考えたが……仲間が女装して男を誘惑する姿は見たくないな、とも思ってしまった。
オレは屋敷に閉じ込められてから、女性と関わっていない。
自分が女性の仕草ができるとは到底思えず、隣に立つ金髪の美人に目を向ける。
「な、なぁ……兄貴はやんねぇのか……?」
「オメー、本気で言ってんのか?」
兄貴はすごく不機嫌そうに、軽蔑するかのような目でオレを見る。
彼からの圧に体が縮まる。
「悪かったよ」と言って彼の目から視線を逸らした。
二度とこんなことは言わない、と心に決めた。
「プリマベラのトップは女癖が悪い。まずお前がトップの部屋に潜入し、指定の時間内に部屋の中にある電話の線を切れ。その後、プロシュートとギアッチョが乗り込む形になる」
「なるほど、その二人が来るなら心強いな」
リゾットは静かに頷く。
「今回の任務はプリマベラの殲滅だが……アイツらがどこのギャングと繋がっているか、こちらで掴みきれていないからな。『救援を呼ばれること』は避けたい」
確かに下手に人数が増えて銃撃戦にでもなれば、後始末が大変そうだ。一般人を巻き込む可能性もある。
「ハニートラップを仕掛けないといけねぇ理由は分かったぜ。で、どうしてオレなんだ」
「お前にとっては耳が痛くなる話かもしれないが、いいか?」
大丈夫だと言うと、リゾットはオレを選んだ理由を語り始めた。
「気づいていないかもしれないが、お前の体はかなり中性的だ。メローネですら、お前の性別が分からないと言うほどにな」
「それで、オレがやった方がターゲットにバレる可能性が低い、ってことか」
「その通りだ」
確かにオレ以外のメンバーは体ががっしりしている。その中でもメローネは細身だが、男性的とも言える肩幅の広さがある。
リゾットの言う通り、この作戦の適任者はオレのようだ。
「それなら仕方ねぇ、頑張るよ。そういえば、プリマベラのトップはどこにいるんだ?」
「ネアポリスだ。……そうか、言っていなかったか。悪い」
リゾットは少し驚いたようにそう言った。彼は目と目の間を指でつまむ。何度か目を瞑ったり開いたりしてから、兄貴の方を見て言った。
「プロシュート、お前が指導しないならオレがやる。作戦の実行日は明日だ。時間はない、このまま寝ずに……」
「クソ、オメーはもう寝てろッ! コイツの指導はオレがやるッ! 報酬は弾んでもらうぞ」
「ああ。プロシュート、感謝する……」
リゾットはそう言い残すと、椅子の上から動かなくなってしまった。
ただ寝ているだけのようだが、こんな無防備なリーダーは初めて見た。
「リゾットは大丈夫なのかよ、兄貴?」
「しばらくはオレが業務を肩代わりする必要があるかもしれねえ」
「……リゾットがこうなったのはオレのせいか?」
「いらねーことに気遣ってんじゃあねえ。早く部屋を出るぞ」
兄貴に背中を押されて書斎を出ると、兄貴はオレに衝撃的なことを言い放った。
「アフェット、今から女を口説きに行け」
「ちょっと待て、何がどうしてそんなことを言ってんだ」
「任務まであと一日しかねえからなァ……女の振る舞いは女から見て盗め。一度引き受けたんならとことんやるぞ」
そんなバカなと口をぱくぱくさせていると、彼はオレのボロボロの服を指差して言った。
「その服じゃあ無理だな……少し待っていろ。オレのスーツを貸す」
オレの返事を待たずに、兄貴は自分の部屋へと向かった。
取り敢えず言われた通りに彼を待っていると、突然リビングの扉が開いた。
そこにいたのは、少し溶けかけたジェラートを片手に持ったギアッチョだった。
「アフェット……」
「お、おう。心配かけたか?」
「…………」
ギアッチョは何かを言いたげに歯をギリッと食いしばる。彼の口の中に含まれた言葉が今にもバツンと吹っ切れて飛んできそうだ。
だが彼はそれをゴクンと飲み込み、叩きつけるように扉を閉めてリビングを出ていった。
「な、なんだったんだ……?」
昨日のことを気まずいと思っているのだろうか。
明日の任務ではギアッチョも一緒になるはずだ。こんな調子で大丈夫なのだろうかと不安が過ぎる。
そう考えていると、次はプロシュートがリビングに入ってきた。
「部屋でこれに着替えて来い。着替え終わったらすぐに出発する」
兄貴は何着か服が入った紙袋をオレに押し付けると、オレに着る順番を説明した。
その後兄貴にリビングから押し出され、自分の部屋へと向かう。
「ほ、本当にやるのかよ……」
部屋に入って、着ていた服を脱ぎ捨てた。
シャツの袖に腕を通す。
サイズは少し大きいくらいで、着れないことはなさそうだ。
袖を通しただけで、前ははだけている。
これを直すのに、前のボタンを留める必要があるのだが……
「ちっくしょう!! なんだこれ、ボタンがちっちぇよッ!!」
手先が上手く動かず、ボタンを留める穴になかなかボタンが入らない。
数十分かけても一つも留めることができず焦ると、更に手先が震えてしまった。
「いつまでやってんだ、アフェットッ!」
部屋の扉の向こうから、兄貴の怒声が聞こえた。
「兄貴、ボタンが付けれねえ!! 部屋に入ってきてもいいから、助けてくれ〜ッ!!」
そう言うと、兄貴は勢いよく扉を開けて部屋に入ってきた。
オレがあれだけ苦戦していたボタンを、慣れた手つきで留めていく。
兄貴は一分も経たずに全てのボタンを留め終える。
「このマンモーニ、いやマンモーナ……マンモー……クソッ」
「こんなに早くボタンを留めれるなんて、兄貴はすごいな! ありがとう!!」
お前が下手なだけだ、と兄貴は呆れたようにため息をつく。
兄貴に催促されるままシャツの上からジャケットを着る。
「これでいいのかよ、兄貴?」
「似合ってんじゃあねえか」
兄貴はふと顎に手を当てた。
そして何かを思いついたかのように、オレのボサボサの髪を手で軽く整え始める。
その後、オレの長い襟足を小さなヘアゴムで一つにまとめた。
全ての工程において、彼の手際の良さが輝いている。
兄貴にできないことはないのか、と疑問に思うレベルだ。
兄貴がオレの髪を結ってくれたことが嬉しくて、つい結われた髪を撫でてしまう。
「元々の顔も悪くねえ。このくらいで十分だろ」
「おおっ! 今日はすげー褒めてくれるじゃあねえか、ありがとな!!」
「あとはここさえどうにかなればな」
コンコンと額を小突かれる。
せっかく兄貴の言葉に舞い上がっていたというのに、その一言で台無しだ。
「準備はこれでいいな。よし、行って来い」
落ち込むオレをよそに、兄貴は机の上に金を置いて部屋を出て行く。
「金は惜しみなく使え。相手にも自分にも恥かかすんじゃあねえぞ」
部屋を出る直前、兄貴はオレにそう言い残した。
バタン、と部屋の扉が閉められる。
「ま、待て、これって……オレ一人で女を口説いて来いってことか!?」
オレは兄貴が置いて行った金を見つめたまま、しばらく部屋の中で立ち尽くした──