人を推すとはなんだろう
その瞬間に考えていたことであった。些末なことだ。俺が誰かを本気で好ましく思うことなんてあり得ないというのに
「お忙しいなかすみません。サインお願いしてよろしいでしょうか」
それは或いは、偶然とも言えた
ただこれを偶然ととらえることはにわか残酷が過ぎるだろう
「サ、イン……?」
付き人であろうサングラスの男の顔面が蒼白になった
そう。サインだ。彼女をこそ、Bなんとかというグループに所属する十六歳にして世間の注目の的になってる星野アイその人だった
「良いですよ」
これが意外と快く通ってしまって。おいと星野アイの付き人の男に言われる始末であった
当然である。彼女の腹は不自然に膨らんでいるのだ
命の芽吹きを明らかにするそれは彼女にとって致命的な兆候でもあった
アイドルの妊娠。努力のかいあって、山掛けのかいあって俺はついにそのスキャンダルを掴んだのだった。この情報を出汁にして一攫千金も夢ではない。顔には出さないが舞い上がっていた
「お名前は?」
「鈴木と申します」
へぇ、と彼女はなれた手つきで筆を走らせた
しかし、その所作がもはや芸術作品だった。偶像が偶像たる所以があった。その腹を見なければ──
「──どうぞ。鈴木さん」
ありがとう、と告げて両手で差し出されたそれを鞄にしまう
ところで、鈴木って誰だ。偽名の偽名であることは確かだ。この病院で妻に先立たれた男が確かに存在して、そいつが鈴木だっただけだ
それで産婦人科の亡霊へと化すのは我ながら誇張した設定ではあったが、嘘とは案外ダイナミックについてしまった方がバレにくいものらしい
「こちらこそ」
帽子にサングラスにマスク。そんな完全防備でも笑みを張り付ける彼女からは隠しきれぬ華があった
とはいえ、俺はこういった華には疎い。とてもとても疎い。俺は嘘吐きでそれを生業としているが、これだけは真実だ。彼女が弱冠十六歳にしてここまで覚悟をもった選択をするのかというある種の好奇心は覚えるが、そのくらいである
人は人で小娘は小娘だ。そこに境目はない。星野アイにあてられてすらそうなのか、と聞かれると俺は迷うこともなくそうだ、と言える。痛む心はない。これっきりの付き合いだ。痛むはずもなかった
「あ、あんた……なぜ、なぜわかった……!」
病室に消える星野アイと入れ違いになったようにその男は飛び出してきた。身支度をして帰ろうとふてぶてしく病室前の椅子に座っている俺をそいつはやはり見逃さなかった
サングラスの男だ。愕然、とした様子だった。病室に入っていった小娘をいとも簡単に医者に任せておいて、なぜわかったとの言い草はなんだろう。むしろ、なぜバレないと思っていたのだろうかとすら思った
「亡くなった妻が……好きだったんです」
そういって目頭を抑えてみる。そもそも俺に結婚歴はない。だが妻に先立たれた夫の役目をやってやれないことはないのだ。待てよ。あったのかもしれないな……少なくとも今はないのは確かだ
そうして何気なく立ち上がりその場を後にしようと背を向けた時、むんずとトレンチコートを捕まれた。シワになるだろう気を付けろ、とは流石に言わなかった
「そんなこと聞いてんじゃねェ」
病室前だというのに随分声を張ったものだ
サングラスごしの目は合わせていなくとも怒気に光ってることがわかる。震えてることがわかる。あぁこわいこわい。もしかするとその道の人物だったりするのだろうか。いっそ納得できる風貌であった
幸いなのか災いなのか俺とこの付き人男しか周りに人は見当たらなかったのだが、これではどちらが不審者なのかわからなくなってしまう
男には疲れが見える。焦りが見える。動揺がみえる。当然だろう。それは理解できた
「離して頂けませんか」
だが、いい加減離してもらいたかった
本当にシワになりそうだから。俺はこの状況ですら服のシワのことしか興味がなかったのかもしれない。このスキャンダルを横流しにして至福を肥やそうとしか思ってなかったのかもしれない
それを察してかわからないが意地でも離してくれそうもなかった。実に勘の良いことだ
「離してあげて」
だから、助け船は意外なところから来た
大きな腹を抱えて医者らしきメガネの男と出てきた。或いはそれは救いの女神とも言えた
「あの、とりあえず中へ」
医者の一言。医者とグルだったかと内心頭を抱える。よく考えれば当然のことだった
流石にそう簡単には解放されそうもない。うんざりとした気分だった
「……わかりました」
しかし、俺はここでは死に伏した妻が好きだった虚像を追う男だ
そういう設定は守らねばならない。こういう時のプロ意識とはいっそ呪いだった
言うのが先か、病室の扉がしまる。相変わらず顔面蒼白な男二人と笑みを浮かべる偶像、星野アイがいた
「バレちゃったね」
さもことの重大さがわかってないかのようにそいつはおどけた
それは単なる偶然と片付けるより、数奇なこと。彼女の輝かしいばかりの運が尽きた瞬間とも言えるかもしれなかった