苦しい。
どろりとした蜜に沈められたように全身がだるい。
「う、」
指を一本動かすにも相当に気力を使うが、それでもこのまま眠っているよりはマシだとピートは身を起こした。
未だに霞が掛かったような視界の中で辺りを見回すが、壁の色がおかしい。瞬きを繰り返して立ち上がろうとすると、手のひらに不快な感触を覚えた。
「なっ……なんだ、これ」
薄桃色で小さく脈打つ床は、動物の体内を思わせる。慌てて顔を上げてみると、どうやら肉で出来た檻のような場所に入れられているようだということが分かった。檻の中にはピートを合わせて十数人ほどの生徒が寝かされていて、その全てが男子生徒のようだ。
「……マリア?」
あの得体の知れない魔獣に囚われる瞬間、ただ一人手を伸ばしてくれた友人。握られた手の感触は今でも残っていて――
「っ!」
足音だ。檻の外、どこかは分からないが通路があるようだ。足音はそこから響いている。ピートは咄嗟にうつぶせになった。皆が眠っている中で一人だけ起きているのは状況的に良くないだろう。
ゆっくりと近づいてきた足音は、檻の前で止まった。必死に眠っているさまを装っていると、足音の主は何かを呟いて去って行った。言葉は聞き取れなかったが、あの声には覚えがあった。入学して間もない頃にオリバー達と共に迷い込んだ迷宮で出会った上級生の片割れだ。
「……っ、はっ、はっ」
五分にも満たない時間で、相当な体力を消耗していた。呼吸を整えながら部屋に誰もいないことを確認し、恐怖心を押し殺しながら次に取るべき行動を考える。
杖も剣も無い自分では、何の役にも立たない。であれば周りで眠っている生徒の力を借りるしかない。
「……頼む。起きてくれ……」
頬を叩く。肩を揺らす。二の腕をつねる。
足音に警戒しながらそれを繰り返すこと十回以上。ほとんどの生徒が何の反応もせず、深い眠りについていた。次が最後の生徒だ。これでダメなら――
「いや、」
嫌な想像を振り切る。体格の良い男子生徒の頬を思い切り引っ張りつねる内に、その眉が不快気に顰められた。
「! 眠るな、眠るなよ……」
反応を返した相手に、藁にもすがるような思いで声を掛ける。若干大きくなった声が幸いしたのか、その生徒は薄っすらと目を開けた。
「……む……」
「気が付いたか!?」
「お前……オリバーと居た雑魚か」
ぎょっとしてピートは身を退いた。よくよく見れば、その生徒は連れ去られる前にオリバーと戦ったオルブライトだった。オルブライトは周囲を見て顔をしかめた後、ピートに怪訝な視線を向けた。
「雑魚。お前はなぜ動ける?」
「え……?」
「ここは十中八九サルヴァドーリの工房だ。男であればその
ピートはその指摘に当惑した。確かに臭いは気になったが、思考が鈍るほどのものではない。そこでさっきのオルブライトの言葉を思い出し、無意識に体に指を滑らせた。
「あ――」
「成程。お前、男ではないな?」
見抜かれたことに少なからず動揺したが、そんなことを言っている場合ではない。ピートは簡潔に、自分の体質について話した。
「ふん。
「それは分かったから、脱出に協力してくれ!ここから出るには、んむッ!?」
「喚くな。やはりお前は自分の立場が分かっていないようだな。――あれを見ろ」
オルブライトに下顎を掴まれたまま、その視線を辿る。檻の外の影になっている部分。目を凝らすと、そこにも見知った顔があった。
「Mr.ウィロック……!」
「半人狼は生命力を搾り取るにはうってつけだ。この様子を見るに男の精が必要なのだろう。ここまで言えば、分かるな?」
ごくりと唾を飲みこむ。下級生を攫うような相手に、見逃してくれなどと言える筈もない。もし見つかれば、処分されるだろう。なら、
「どうした」
「マリアも攫われたんだ」
「……あの金髪か。だが、」
「あぁ。ここにいないってことは、
「そうか」
自分なんかを助けようとしたために攫われ、おそらく命を落とした。拳を握りしめたピートに対し、オルブライトは何も言わなかった。
「なおさら死ぬわけにはいかんな。良いだろう――」
「お、おい、」
「黙って見ていろ」
会話の途中で唐突に脇腹へ指を突き入れたオルブライトに、思わず手を伸ばすも制される。慎重に体内を探っていたオルブライトは、そこから四つの珠を抜き出した。それを中途半端に伸ばされたピートの手に乗せる。
「杖を取り上げられた時のための備えだ。全てお前に預ける。俺はこのザマだからな」
手の中に転がる、未だ熱を残す四つの珠。そこに全ての責任が乗っているように感じられて、離すまいと握りしめた。
「チャンスを待つ。サルヴァドーリが工房を離れているのが望ましい。救援にこちらの位置を伝えることが最優先だ」
それが唯一にして最大の希望となる。
ひとまずの方針を擦り合わせ周囲の音を探っていると、オルブライトがこちらに視線を向けた。
「命を預ける雑魚の名前くらいは聞いておこう」
「……ピート=レストン」
硬い声音に鼻を鳴らすと、オルブライトは檻の外に目を向けた。
「――この窮地を抜け出せたなら、その名前も覚えてやろう」
◆◆◆
その頃、リュディアたちもまた、重大な局面を迎えていた。
「……生き物の気配が随分減りましたわね」
「あぁ。しかし土が無くなった訳じゃない――先輩、これは?」
オリバーがそう尋ねる間にも、リュディアは周囲を観察していた。先頭のミリガンが足を止めたのをいいことに足元の土を掬ってみると、決して固まっているようでもない。植物が生えるには十分な環境だろう。
「そろそろ説明しようかと思ったけど、百聞は一見に如かずだ。見ていなさい」
ミリガンがつま先で地面を叩いたのとほぼ同時に、小さな揺れが伝わってきた。いつでも剣を抜けるように待機しているとどんどん揺れは強くなり、ミリガンの眼前に白い棒が飛び出した。
「おっと」
「それは、」
「もう少し下がろうか。あ、攻撃してはいけないよ」
それはどうやら白骨化した人間の腕のようだ。少し離れたところからそれを見守っていると、視界いっぱいの地面から何千もの骨が突き出し、あまつさえ剣や鎧で武装している。
「
「壮観だろう? こちらも
そう言ってミリガンは魔法で地面を隆起させてその上に乗り、死者たちの
「――合戦にござるな、これは」
「そう、ここが二層最後の関門。人呼んで『冥府の合戦場』だ」
着々と戦線が構築されていく間に、ミリガンが四人にルールを説明した。敵将を討てばこちらの勝ち、逆に討たれればこちらの負け。一度負けると三時間は挑戦できないから一度で決めること。箒は使えないこと。放っておくとこちらが負けること。
そこまで言い終えて、ミリガンは少し離れた場所に移動した。怪訝な表情をしたオリバーに、申し訳なさそうに告げる。
「悪いが私は参加出来ない。今年度の初めに済ませてしまったからね。一度勝てば一年間ここを素通りできるんだ」
オリバーの顔が目に見えて引き攣った。またしても上級生の助力を得られず、一年生四人だけでこの戦いを突破しなければならない。
そうしているうちに低い笛の音が鳴り響いた。戦場に目を向けた四人に後ろから声がかかる。
「角笛から五分で開戦だ。急ぎたまえよ」
そう言ったきり、ミリガンは口を閉じた。刻一刻と時間が迫る中、オリバーとシェラが口々に指示を飛ばす。
「これが戦争を模したゲームであるなら、両軍の戦力の把握が重要ですわ」
「加えて地形もだ。二分時間を取ろう」
その提案に否は無い。四人は頷き合って、すぐさま行動に移した。
きっかり二分後、元の場所に戻って情報を出し合う。
「平原の戦場にござるな。地形に特筆すべき部分はござらぬ」
「兵力はほぼ同等ですが、あちらの方が騎兵が多いですわ」
「だが、こちらの前衛には
こちらはどうあがいても素人だ。辛うじてナナオだけは戦場に立った経験があるが、兵を率いた訳ではない。行き詰ったオリバーはリュディアにも話を振った。
「リュディアは何か分かったか?」
「敵将にちょっかい掛けて来たけど、あれは手強いね。単騎突撃は難しそう」
「はぁ!?」
「け、怪我はありませんの!?」
「遠くからつついただけだから。取り巻きにちょっと絡まれたけど」
それを聞いてシェラは頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てた。確かに傷は見当たらないが、よく一人で仕掛けようなどと考えたものだ。マリアもそうだが、こういうところは後々大きな失敗に繋がりそうなので、どこかで話し合う必要があると思う。
「……ともかく、将の位置と戦力は割れた。問題はどう対処するかだが」
「乱戦になったタイミングを狙うしかありませんわね。呪文の間合いに入れば、あたくしが一撃で仕留めて見せますわ」
また角笛が鳴り、
「シェラの案で行こう。前線の戦いに巻き込まれないように距離を保ちながら、敵将を狙い撃つ好機を探す。二人もそれで良いな?」
オリバーの言葉にリュディアとナナオは頷いた。それから間もなく
「突撃に備えてござった。この兵さばき、名のある将の采配か」
ナナオが感心したように呟く間に両翼の騎兵がぶつかり合った。数が少ない分初撃以降は不利だろうと予想していたが、実際はそれよりもあっさりと勝負が決まった。前線が押し込まれるや否やこちら側の騎兵が敗走し出したのだ。
「まずい、騎兵も押し負けた!」
「見てばかりもいられません!
シェラに倣ってリュディアも前線にハイマの砲丸を投げ込む。しかしどちらも少しの兵を減らしただけで、すぐにその穴は他の兵士で埋められてしまう。
「拙者が前線に加わることもでき申すが――」
「お止めなさい、ナナオ! そんなことをするくらいなら、今回は退きます!」
「……待って。侵攻が止まった」
リュディアの視線の先、魔獣の突進を受け流され壊滅したかに思えた前線が、敵の前衛を押し返していた。最後尾に配置された兵が粘っているようだ。
「まだ勝負は決まっていません!今のうちに敵将を……オリバー?」
先ほどからオリバーは黙りこくって何かを考えているようだった。素通りさせられた魔獣に前線でのぶつかり合いと、逃げ出した騎兵を追って背後に抜けて行った敵の騎兵。これらにどうしようもなく既視感を抱き、その印象がオリバーの記憶と結びつく。
「……ディアーマの戦いだ」
「何?」
「紀元前にあった、普通人の国同士の戦いだ。ピートが話していた――」
そこまで言って、オリバーは背後に顔を向けた。そちらでは逃げ惑う自軍の兵を敵の騎兵が追いまわしている。その光景に確信を得て、三人に向き直って言葉を放つ。
「詳しいところは省くが、今から戻ってくる騎兵を止められなければ
「入学式の時に聞いた雄叫び。あれはどうでござるか?」
「あれは生き物の生存本能に訴える術だ。死霊には効果が薄いだろう」
「壁……は強度も時間も足りませんわね」
「騎兵を倒すのは?」
「危険すぎる。命を捨てるべき場所じゃない」
意見を出し合う間にも、生き残りの騎兵は数を減らしていく。案は無いかと知恵を絞っていると、ナナオがぽつりと呟いた。
「『平地で戦うは愚か。騎兵とは森で戦え』。……父はそう言ってござったな」
「森……? そうか、木か!」
オリバーは懐から種がぎっしりと詰まった巾着袋を取り出した。同じくそれを預けてあったシェラと目を合わせる。そしてナナオとリュディアに待機を命じると、左右に走り出す。
「
「機にござる」
ナナオは今なお続く乱戦の向こうに、敵将の姿を捉えていた。今にも走り出さんと柄尻に手を添えている。オリバーを呼ぼうかとも考えたが、これで勝負が決まるとなれば、リュディアに手伝わない理由は無い。
「前だけ見て。邪魔なものは全部片づける」
「うむ。心得申した」
がらがらと崩れていく兵たちに安堵の息を漏らすと、刀を振り抜いた姿勢のナナオの後ろで崩れかけた体のままに剣を振り上げる近衛の姿が見えた。
「ナナオ!」
呪文では遠すぎる。声も、届いてからでは遅いだろう。
それでもと声を上げたオリバーは、近衛兵の後ろに突然現れたリュディアが袈裟懸けに剣を振り下ろすのを見た。
「……あたし、居なくても良かったんじゃ」
「目前に集中出来たのは、リュディア殿がいると分かっていたからにござる」
「そうかなぁ」
大量の骨の上で気の抜けた会話を交わす二人に無言で近づくと、ナナオがこちらを振り返った。
「すまぬ。つい先程、敵の守りに隙が見えた故」
「……」
ふい、とそっぽを向いてしまったリュディアは一旦そのままに、オリバーはナナオの肩に手を置いた。
「君の判断を疑う気は無い。……だが、攻め入るのは俺達と合流してからでも遅くはなかった。今回はリュディアが居たからまだ良いが、一人で危険に飛び込むな」
訥々と語るオリバーに、リュディアはこの後のお説教を想像しつつ剣を収めていると、シェラとミリガンが合流してきた。シェラは非難がましい目を向けてきたが、特に何も言わなかった。
「二層突破おめでとう。ここを一年生で初見の内に突破するのは容易いことじゃない。本当に素晴らしいよ」
そうして拍手と共に賛辞を示したミリガンは、励ますような明るい声で休みを告げる。
「しかし疲れただろう。次の野営が最後の纏まった休みになるだろうから、ゆっくり疲れを取りなさい」
◆◆◆
二層と三層の間に位置するという洞窟で、一行は休息を取っていた。ナナオとシェラは食事を摂ってから早々に横になり、オリバーも少し火を眺めていたが、ミリガンの悪ふざけに耐えかねて眠りについた。
そのミリガンも何やら地面に細工をしてから目を閉じ、起きているのはリュディアだけになった。
(……っ)
本音を言えば、眠りたい。この強行軍でかなりの体力を消耗した上、明日からは三層全域を探すことになる。
しかし眠れない理由もまたあった。マリアを助けるために授かった力は、リュディアの身には大き過ぎた。竜餐の儀式を経ないまま竜の力を得るなど、正に神の御業である。
「ぅ、」
あの夜から、リュディアは突発的な心臓の痛みに悩まされてきた。馴染めば痛みは無くなるというが、一体何時になるのかと焦燥感を抱き始めている。
(でもこれはエゴだ。あたしの我儘に過ぎない)
助ける必要は無い。勝手に帰ってくるだろう。
神はそう言った。それでも、助けたいと願ったのは自分だ。マリアが死ねば、自分は価値を失ってしまうと考えたから。
リュディアは昔から『自分のため』を考えるのが苦手だった。誰かの役に立ちたかった。それを叶えてくれる主を失いたくなかった。
(それに、)
家族以外で初めて好きになったひとだった。
初めて守りたいと思った、大切なひと。
(絶対に助ける。絶対に……)
痛みを胸に抱え、冷たい血が巡るのを感じながら、リュディアは目を閉じた。
【月光の心臓】
輝石竜、アデューラの心臓
冷えて固まり、青い微光を放っている
竜餐の儀式とは異なり
暗月の女王が手ずから食らわせる
騎士は暗月の力をその身に宿す
それは冷たく、美しい