やはり俺の青春ラブコメは短編でもまちがっている。 作:石田彩真
土曜日の昼下がり、リビングには柔らかな陽光が差し込んでいた。
俺の膝の上には、穏やかな寝息を立てるいろはの頭。つい先週、婚姻届を提出したばかりだ。
比企谷八幡、ついに既婚者。冗談みたいだが紛れもない現実。
ほっぺを何度自分で抓り、いろはにも引っ張ってもらったことか。ちなみにいろはが本気で抓ってきてかなり痛かったです。
左薬指にあるリングを眺め、ふと笑みがこぼれる。
──まさか俺が結婚するとは。
しかも、相手があのあざとくて高校時代は少し鬱陶しいとさえ思っていたはずの一色いろはである。
……人生、何が起こるか本当に分からない。
「ん……、先輩」
ふと懐かしい呼び方をしたいろはが身じろぎ、俺の膝に顔を擦り付ける。
その仕草一つが、甘くて、少しだけくすぐったい。
高校時代、あんなにも人を振り回すことに長けていた小悪魔が、今は俺の膝の上でこんなにも無防備で可愛らしい顔で眠っている。
「ん……」
「起きたか?」
髪をそっと撫でると、彼女はゆっくりと瞼を開く。とろりとした視線が俺を捉え、ふにゃりと笑う。
「おはよ、八幡。……って、もうお昼ですよね」
「ああ。よく寝てたな」
「んんっ、だって八幡の膝枕が最高なんですもん」
悪びれる様子もなくそう言って、いろははゆっくり身を起こす。
伸びをするその姿はしなやかで、新婚の甘ったるい空気がリビングに満ち足りる。
「今日、どうします? せっかくだしどこかに出かけますか?」
寝起きなのに随分と元気な様子でいろはが尋ねてくる。
結婚したばかりの奥さんの提案を無下にできるほど、俺は捻くれていない。
いや、もはや捻くれる隙すら与えてくれない。それが一色いろは……いや、比企谷いろはという女性だ。
「そうだな……、どこか行きたいところはあるか?」
「んー、水族館とかどうですか? お昼からでも楽しめますし、お魚さんでも見てのんびりしたい気分です」
それは意外なチョイスだった。彼女の行動の多くは、常に何かしらの意図を孕んでいるのが常だったからだ。
だが今の彼女からは、ただ純粋に楽しみたいという気持ちが伝わってくる。
「いいな。行くか」
俺が頷くと、いろはは嬉しそうにパッと顔をあげた。
その笑顔を見るたびに、俺の心は満たされていく。この感情を世間では「幸せ」と呼ぶのだろうか。
× × ×
ささっと準備を済ませ車で水族館へ向かうと、休日ということもあり家族連れやカップルで賑わっていた。
はしゃぐ子供たちの声、水槽の中を優雅に泳ぐ魚たち。実に平和な光景だ。
入館すると、いろはは我先にと歩き出し、興味を引かれる魚がいれば立ち止まりキラキラした瞳で水槽を眺める。
そのたびに、俺は少し後ろから彼女の横顔に見惚れていた。
「八幡八幡、見てください! このチンアナゴ可愛くないですか?」
身を屈めて、水槽の中のチンアナゴに夢中になっているいろは。
その姿は、小学生の子供のようで──。
俺は適当に相槌を打つ。
「そうだな」
「八幡のそういう薄い反応、ほんと変わらないですね〜。……ふふっ、でもそういうとこもなんだか安心します」
そう言って、いろはは俺の腕にそっと自分の腕を絡ませた。
温かくて、柔らかい感触。周囲に人がいても、彼女は全く気にしない。いや、むしろ見せつけるようにしているのかもしれない。
「次、どこ行きます? わたしはクラゲのところ行きたいです!」
聞いてきた割にすでに行き先を決めており、俺の腕を引いて先を促す。
そのペースに、俺は抗うことなく従う。
彼女と付き合い始めてから、気づけば引っ張られるのが当たり前の日常になっていた。
だがそれが楽しく、心地良い。
俺を引っ張る彼女がいつも楽しそうに笑ってくれるから。
クラゲの水槽の前は薄暗い空間に青や紫の光が揺らめき、幻想的な雰囲気を醸し出している。
ゆらゆらと漂うクラゲの群れを見ていると、心が洗われるようだ。
「綺麗ですね……」
ふと、いろはが呟いた。
その声は普段の小悪魔的なトーンとは違い、しっとりと耳に響く。
隣を見ると、彼女は水槽に映るクラゲの姿にうっとりとした表情を浮かべていた。
「八幡……」
いきなり、いろはが俺の顔を見上げた。
暗闇に慣れた瞳が、俺の目をじっと見つめる。
「わたし、八幡と結婚できて本当に良かったです」
その言葉は、まるでクラゲのよつに揺蕩いまっすぐ俺の心に触れてきた。
普段の彼女からは想像できない、素直で甘い言葉。
「……俺もだよ」
だから俺も柄にもなく、素直にそう答えた。それは俺の偽りない本心だから。
伝えるといろはは嬉しそうに微笑み、俺の腕をぎゅっと抱きしめる。
「もう、八幡のそういうとこずるいです」
顔を赤くして言ういろはの言葉に俺は小さく笑う。
手を繋ぎ直し、俺たちはルート通りに水族館を堪能していく。
× × ×
水族館を出て夕食を済ませた後、俺たちは夜の公園を散歩していた。
街灯が間隔を開けて道を照らし、昼間の喧騒とは打って変わり静かな空間だ。
「わたし、将来が楽しみです」
いろはが、ふと立ち止まりぼそりと呟く。
「将来、ねぇ……」
「はい! 例えば十年後とか、わたしたちどうなってると思います?」
いろはは楽しそうに、未来の展望を話し始めた。
「十年後か……。多分、今と大して変わらない生活をしてるんじゃないか?」
「え〜、つまんないですよ。もっと夢のあることを想像してください」
不満そうに口を尖らせるいろは。
その表情を真正面から受け止めつつ、逆に質問してみる。
「じゃあ、お前はどうなんだよ。十年後、何してると思うか?」
「んー……、わたしはきっと八幡の隣で幸せに暮らしていますね」
それを当然のように言ってのけるいろはの言葉に、俺は胸の奥が熱くなる。
「そして八幡は、わたしにメロメロになってるはずです!」
悪戯っぽく笑い、いろはは俺の顔を覗き込んだ。その確信めいた言い方に、思わず苦笑する。
「それはないな」
「え〜、嘘だ〜。もうすでにわたしにゾッコンなくせに〜」
ぐいぐいと顔を近づけてくるいろは。
その距離の近さに心臓が跳ねる。
「ゾッコンなわけないだろ。ただ、お前がそばにいると妙に落ち着くし、いろはがいない生活なんて考えられないだけだ」
半ばやけになってそう口にすると、いろはは満足そうに微笑んだ。
「それって結局ゾッコンってことですよ、あなた」
そう言って、俺の腕に絡ませていた腕をさらに強く抱きしめる。
その温かさが、俺の心にじんわりと広がっていく。
「それから十年後のわたしたちには子供がいるはずです」
いきなりの発言に俺は言葉を失った。
子供。想像したこともなかった未来だ。
だから言葉につっかえてしまう。
「や、何を言い出すんだよ急に」
「え〜、いいじゃないですか! 八幡にそっくりで、でもわたしに似て可愛い男の子とか。八幡に似て目つき悪いけど、わたしに似て要領良い女の子とか! ……あっ、その双子とかもいいですね!」
いろはは楽しそうに、次々と未来の子供像を語り始める。
その想像が、俺の頭の中に具体的なイメージとして浮かび上がり、自然と顔の筋肉が綻んでいく。
「八幡の子供、絶対捻くれてるんでしょうね〜」
「おい、勝手に決めつけるな」
「でも、安心してください。わたしの子供でもあるので、きっと可愛く育ちます」
自信満々にそう答えるいろは。
「ふふっ、でもちょっと楽しみじゃないですか? 八幡とわたしの子供ですよ? 捻くれてても、きっと優しい子に育つはずです」
いろはの瞳が、未来の期待に満ちている。
その真っ直ぐな瞳から俺は目を逸らすことができなかった。
確かに想像してみると少しだけ、いや、かなり楽しみな気がする。
「……八幡。十年後も二十年後も、その先もずっと……わたしは隣にいますからね」
いろははそう言って、俺の手に自分の手を重ねた。指に嵌ったリングが、街灯のライトを反射してキラリと煌めく。
「……そうだな。せいぜい、飽きられないように頑張るよ」
「わたしが八幡に飽きるわけないじゃないですか〜。八幡はわたしの唯一無二の“旦那さん”なんですから!」
そう言って、いろはは屈託なく笑う。
その笑顔はかつての小悪魔のそれとは違い、純粋な愛情に満ちていた。
公園を抜け、マンションへと向かう道すがら、俺といろはは他愛もない会話を続けた。
子供が出来たら家はどんな間取りがいいか、どういう子育て方針にしようか、子供が生まれたらどこへ連れて行こうか──。
彼女の言葉に乗せられて、俺の想像も膨らんでいく。
俺の人生はずっとぼっちで、極力人と関わらない。あわよくば専業主夫になれたらなぁ、などそんな未来を望んでいたはずだった。
それが、いつの間にか一色いろはという存在よって大きく軌道修正されていた。
だがそれは全然悪いことではない。むしろ心地よく、幸せなものだと感じていた。
家に着き、玄関のドアを開ける。
「ただいま、八幡」
「ああ、ただいま。……いろは」
いろはが真っ先にリビングに向かい、俺はその後を追う。
彼女が隣にいてくれるだけで俺のの人生が色鮮やかに染まっていくような気がした。
時には喧嘩をすることもあるだろう。
けどそれでも、俺の隣で小悪魔的な笑みを浮かべ、しかし同時に誰よりも素直な愛情を向けてくれる愛しい奥さん。
この甘い日々が、この先もずっと続いていく。その未来に想いを馳せるだけでわくわくが止まらないのだった──。