残業に次ぐ残業。
処理しても減っていかない書類と作業の山。
継ぎ足す暇すらなく底をつき、そうしてしばらく経ったコップが私の絶望を代弁していた。
「休憩……ダメだ、終わらなくなる……」
今この状態なら、きっとどこかのサボり魔がやってきても誘惑に気をやることすらできないだろう。
ふと時計を見れば午後八時。そういえば夕飯を取っていなかったが、食べるのに時間を費やすくらいならこの仕事を一つずつ潰していたい気分だった。
キーボードを叩き、ペンを握りしめ、積み重なったデータや紙へ立ち向かう。これも全て生徒のため、そう思えば辛さも薄れてくる。
──まあ、この仕事をギリギリまで残しておいたのは自分なのだが。
栄養ドリンクがまた一つ開栓される。こんなものよりコーヒーのほうがまだ何倍も身体にマシなのは分かっている。だが、今はこの成分に頼らねばやっていけない。
そうして新しい空き瓶が増えようとしたとき、シャーレの入り口がノックされる音が鳴り響いた。
「入っていいよ」
こんな時間に誰が?そんな疑問が浮かぶのも束の間、私の目の前に並んでいた壁のごとき書類が思考を霧散させた。
「夜遅くにごめん、せんせ──……先生?」
「ごめんね……!せっかく来てもらったのに、忙しくて……!」
物理的に訪問者の顔が見えない。しかしこの声は恐らく、白洲アズサそのものだろう。
トリニティ総合学園、補習授業部所属の二年生。とある学校から転校してきて、他の補習授業部の生徒とモモフレンズを愛する一人の少女だ。
そんな彼女が自らシャーレにやってくるのは少々珍しい。どちらかと言えばコードネームを名乗ってメッセージを送り、そして指定の座標に呼び出すのがアズサの常套手段なのだが。
わざわざ足を運んできたアズサは、同じく物理的に顔の見えない私に対して困惑し、立ちすくんでいる様子だった。
「もしかしなくても、忙しい?それなら、また別の日にする」
「それはアズサに申し訳ないよ。ちょっと待ってて、すぐに目途をつけるから」
普段ここにやってこない彼女が現れたのは、それだけ重要な用があるということだろう。ならば仕事が忙しいからと追い返すわけにはいかない。
緩んでいた精神を奮い立たせ、私は急いで仕事を片付けることにした。
「えっと、私に役に立てることはある?」
「いいんだよ、アズサは座って待ってても」
「それだとダメだ。先生が頑張ってるのに、私だけ怠けているのは違う」
「なら……、このコップと、あと他の適当なコップにもコーヒーを淹れてもらえるかな?」
「分かった。任せて」
彼女は書類の横から顔を出すと、素早くコップを持って去っていった。
しばらくしないうちに、アズサは二杯のコーヒーを携えて戻ってくる。デスクの空いたところにそれを置くと、不思議そうな表情でこちらを見つめてきた。
「先生は二つもコーヒーを飲むのか?」
その問いに、私はつい微笑みながら返した。
「ううん。アズサには、私の隣で待っててほしいなって」
「え……。その、それって本当に手伝いになってるの?」
「もちろん。大切な生徒が傍にいてくれるだけで、私はもっと頑張れる気がするから」
アズサは困ったように首を傾げていたが、じきにキャスター付きの椅子を転がしてきては私の横にちょこんと座った。
こうしてみると、彼女はやはり細くて小柄だ。単独行動や隠密が得意と自負しているだけあって、ひとたび身を隠されてはすぐに見失ってしまうだろう。
だが、今は隣で小動物のようにじっと待ってくれている。そんな彼女のためにも、もっと頑張らないと。
ペン先の擦れる音。
飲み物をすする音。
キーをカタカタと叩きつける音。
一切の声もなく、二人の間で交わされるのは浅い呼吸の音だけ。
そうしてそれなりの時間の後、ようやく優先すべき事項の処理が完了したのだった。
「先生の仕事って、結構大変そう。私たちの普段の勉強のほうが何倍も簡単だ」
「まあ、これも全て皆のためって思えば、なんとかやる気が出るよ」
「そう。……えっと、おつかれさま」
ありがとう、そう返事をしながら、私はすっかり温くなってしまったコーヒーに口を付けた。
「それで、アズサの用事って何?」
「そうだった、どうしても気になることがあって来たんだ」
ここからが本題だ。決して、生徒に見てもらいながら仕事をこなすのが現在の目的ではない。
いつもならシャーレを訪れないアズサが、わざわざ来てまで私に聞きたいこと。それは一体何なのだろう。
私がコップを呷っている間、彼女は荷物から一冊の本を取り出すと、あるページを開いて見せてきた。
「先生。これってどういう意味?」
「うん?どれどれ……って!」
それは間違いなく漫画の一ページ。アズサが指で示したそのコマには、衝撃的な内容が記されていた。
『お前はもう、どこにも行かせない』
『首輪が繋がっている限り、私のものだ』
そんなセリフの書かれた、衣服のはだけた二人の絵。
私の脳がそれを認識した瞬間、条件反射のように本を取り上げてしまった。
「……先生?」
「──この本、どこで手に入れたの?」
「コハルが隠していたのを、こっそり借りてきた」
コハルか──!私は思わず頭を抱えてしまいそうになった
ガッツリスケベのハナコやムッツリスケベのコハルは、もはやそういうものかと納得してしまっている。だが、アズサは純粋無垢を形にしたような存在のはずだ。
ちょっと世間知らずな彼女がこんないかがわしい本に興味を持つはずが──いや、だからこそなのか?何も知らないからこそ、そういったことはこれ以上なく魅力的に見えてしまうのかもしれない。
しかし推測ばかりでは無く、まずは本人にその故を問わねば何も始まらない。何もかもを質問したいのをぐっと堪え、アズサから話すのを促すことにした。
「一つ、確認させてほしいことがある」
「何かな」
「先生は、生徒のことを大切に思ってる?」
私ははっきりと首を縦に振った。
「……この本は、私の認識が合ってれば愛というものを描いたものなはず。その中だと、先生のような大人が女の子に首輪を着けていた」
何故だろう、初めて聞く話じゃない気がする。以前、同じようなことを耳にしたような──。
そうしてはっと思い出す。この本は、前にシロコから預かったそれと同じであることに。
つまりそれが意味するのは、誤った知識の蔓延。青少年には刺激の強い漫画が出回っていることにより、首輪に対して間違った印象を抱いてしまう生徒が続出してしまうということだ。ちょうど目の前の彼女のように。
どう窘めるべきか、私の思考は再び回転し始めた。
「つまり、首輪とは片方から片方への気持ちの表れだと思う。だから、本当にそうなのか身をもって体験したい。私はまだ、多くを知らないから」
「えっとね、アズサ──」
「分かってる、道具が必要なんだろう?それなら大丈夫。用意してきた」
そう言って彼女は、明らかにペット用の赤い首輪を取り出した。
何食わぬ顔でそれを私に渡すと、何かを期待しているのかしていないのか分からない表情でこちらを見てくる。
「その、あくまでもこれはペットとかにつけるやつだから……」
「……違いが分からない。飼っているペットが心配で、大切だから首輪を着けるのは理解できる。じゃあ、同じように人に付けてもおかしくないと思う」
「う、うーん……」
人間社会における倫理という前提に目を瞑れば、筋が通っているのが困る。ただ“間違っている”と言うだけでは、納得させるのは難しいかもしれない。
説得も困難、断るのも困難と来たなら、
──逆に、いけないことだと気付かせるのはどうだろう。
「分かった、それじゃ試してみようか」
「うん、お願い」
人に首輪をするのは危ないこと、いけないこと。漫画で得た知識は誤っていること。それを、彼女の望む通り体験してもらおうではないか。
百聞は一見に如かず。論理で凝り固まった思考には、実際に確かめるのが一番いい。
私はすっかり手慣れた手つきで首輪を広げると、そのままアズサへと手を伸ばした。
「苦しかったり嫌な気持ちになったらすぐ言うんだよ」
「うん」
幾度生徒に首輪を掛けてきただろう。シャーレで、アビドスで、ゲヘナで、トリニティで、そしてシッテムの箱で。先生としては、その行為こそが失格のはずだと言い聞かせてきた。
だが、これまで一人も嫌がる素振りを見せてこなかった。それどころか、プラナによれば「望んでいたもの」ですらあるという。
正直、今でも私はやってはいけないことだと思っている。できれば生徒にはこんなこと知ってほしくはない。しかしこれこそが生徒の求めているものならば、それも先生として叶えてあげるべきことなのかもしれない、最近はそうも考えてしまっているのだ。
どうすればいいか分からない。だから、今思う最善の行動を続けるほかない。
「着けたよ」
「ふむ……。なるほど、不思議な感じがする」
できれば、このまま満足してほしい。華奢な彼女の首に嵌った赤色の首輪は、私の心に違和感を残してしまう。
そんな意に反し、アズサは垂れ下がるリードを手に、思い立ったようにこう言った。
「先生。このまま、これを引っ張ってみてほしい」
「……」
思わずため息を吐きそうになるのをぐっと抑え込む。
「どうしてかな」
「飼い主はリードを引っ張るから。その行動に、“大切”の意が隠されているのかも」
「そうかな……?ひとまず、やってみるね」
アズサの身に何も起こらないよう慎重に。私はそっと、赤色の紐を引っ張った。
しかし彼女はびくともしない。その小柄な身体に反して、強靭な体幹を持っているのだろう。
「先生」
「えっとね──」
「それじゃ何も分からない。私なら大丈夫だから、転ばせるくらいに引っ張って」
転ばせてしまったら大切にしているとは言い難いのでは?そんな疑問を口にしかけたが、またもや我慢する。
彼女の様子を見る限り、この要求は単純に知識欲、好奇心から来ているようだ。少なくとも私の危惧している不純な欲ではない。
このままいけないことだとは気が付かなくとも、満足してくれればそれでいいだろう。
「それじゃ、行くよ──」
アズサに言われた通りに、私は思いっきりリードを引き寄せた。
「あっ」
彼女の身体がぐらりと揺れる。そのまま、飛び込むように私の元へと寄りかかった。
驚いた様子でアズサはしがみついている。何が起こったのか理解していない様子だ。
「アズサ?大丈夫?」
「──っ」
放心したように、どこか一点を見つめている。ようやく動き出したかと思えば、リードを確かめるように掬い上げた。
「アズサ?」
「今のは……。よく、分からないけど──すごくドキドキする。先生、もう一回……!」
「もう一回!?」
私の手に押し付けられるように、リードの持ち手が預けられる。よく見ればアズサの頬は僅かに紅潮しているように見えた。
おかしい。この一瞬で何があった?明らかにさっきと目線や様子が変化していて、アズサは催促するような目線を送ってきている。
先生として私はどうするべきだろう。ここで諫めて終わらせるべきなのか、だがそれでは彼女の心は中途半端に満たされないことにならないだろうか。
アズサの視線。しがみつかれてくしゃくしゃになる衣服。私は、私は──。
ええい、ままよ!
「ふあっ!?」
甲高い声が上がる。二度も首を引かれたアズサの顔が、より赤くなる。
「なんだこれ……?っ、もう一回!」
「──えいっ!」
「うっ……!もう一回だ!」
引っ張られては嬌声を上げる彼女の姿に、何も感じまいとしていた私の中に背徳感が生まれてくる。
やめなきゃ、次こそやめなきゃ。
そうは思いつつも、アズサに求められるままリードを引っ張っては反応を確かめてしまう。
アズサの求めていることだ。そう言い聞かせては、彼女の言う“大切”を実践する。
「せん、せい……。もう、いっかい……」
「っ──」
いつもの彼女らしくない、息の乱れた姿。私は遂になけなしの理性すら融かされて──。
「ひあっ──!」
◆ ◆ ◆
朝。
アビドスでの出来事のように、生徒と一夜を明かしたわけでもなく、アズサはその日のうちに満足げな顔をして帰ってしまった。
コハルから借りた本はちゃんと返すように。そして、今日のことは秘密にするように。いつもらしい口止めを添えて。
「はあ……」
毎度のごとく、結局は首輪を嵌めてしまう自分が嫌になる。あくまでも私は先生で、あの子は生徒。こんなこと、あってはならないはずなのに。
──当の本人は満足そう?そんなことは関係ない。結局いけないことには変わりないのだから。
アズサにこの行為をいけないことだと諭すこともできなかった。
「そろそろ、本当にヴァルキューレに出頭したほうが良さそうかな……」
そんな責任の取り方すら考えてしまうほど、私は忍びない気持ちに陥っていたのだった。
お腹が鳴る。そう言えば昨日の夜から何も食べていない。
──今日のご飯はカツ丼かな。そんなことを考えながら、私は目的地へと歩き出した。
そういえばこの前の超電磁砲コラボで、キヴォトス人もヘイローを肉眼で視認できている描写がありましたね。
これでヘイローをチカチカさせる表現が書けるぜぐへへへへ。
まあ後書き書こうと思った時に思い出したので、本話にそんな表現ないんですけどね。