以前よりは人通りのある商店街へと足を踏み入れた時、私は平静を保つために、こっそりと深呼吸をする必要がありました。
冬海が差し向けた洗脳集団に襲われたのは、ほんの数日前のことです。私としてはもうそんなこと忘れ去っているつもりでしたが、商店街の風景を眼にするなりビクッとなってしまった身体のほうはそんなこともなかった様子。体温が一気に下がる感覚がしました。
そして結局、そんな予期せぬ身体の反応を咄嗟に誤魔化しきることはできず、隣を歩いていた秋さんに心配そうな顔をさせてしまうのでした。
「佳ちゃん……やっぱり、戻る? 無理しなくても……」
「別に無理なんてしちゃってません。秋さんが気にし過ぎなだけですよ」
「そう……? なら、いいんだけど……」
「………」
言い訳はしましたが、あんまり信用されてはいないみたいです。秋さんどころか、豪炎寺さんまでもが無言で、痛ましいようなものを見る眼で見てきます。
実際、無理していないというのは嘘なわけで、正しい心配なのですが……いたたまれません。それを今度こそ誤魔化すために、まだ遠めですが響木さんのラーメン店の方を指さしました。
「それよりほら、あれです。例の監督さん候補のお店。……円堂さんと雷門さん、ちゃんと話し合えてるんでしょうか? なんだか静かですけど……」
言いながら気付きました。この時間まで説得が難航しているのなら、円堂さんのことです、もっと派手に言い争っていてもおかしくないのに、その気配が全くありません。
もしかして、行き違いになっていたりするんでしょうか。
「ああ、あれが……。こう言うのは何だけど、伝説のイナズマイレブンのお店って感じには見えないね……」
「そもそもほんとに伝説のイナズマイレブン当人なのかはわかりませんけどね。……ともかく、中を覗いてみましょう」
秋さんのごもっともな感想に頷いてから、私たちはお店の傍までたどり着きました。やはり近付いてもぴったり閉じたお店の戸はしんとしており、その向こうに人の気配が感じられないくらいに静かです。
本当に誰もいないのでしょうかと、訝しみつつ戸に手を掛けた、その時でした。
「――そんなことにはならない!! 絶対に!!」
円堂さんの怒りの大声が、お店の中から唐突に吹き出てきました。
さすがにびっくりして、手が戸の取っ手から弾かれるように離れます。呼吸が喉の奥に滑り落ちてちょっとむせて、それから口を覆って秋さんと豪炎寺さんと顔を見合わせます。
しかしお店の中の言い合いは、私たちの存在に気付かなかったようです。ため息のような息づかいの後、続けられます。
そして、響木さんが言いました。
「いくら否定しようが……断言する。このままでは確実に起こることだ。……あのベータという少女は、今後必ず、お前たち雷門イレブンを破壊する。悪意のあるなしに関わらず、な」
「っ……!」
息が止まったような心地がしました。
脳みそが、響木さんの言葉を直視するのを拒否しているかのようです。一瞬にして何も考えられなくなってしまい、続く彼らの声だけが耳を素通りしていきます。
「それに、影山にも眼を付けられているようじゃないか。巻き込まれれば、やはり破滅だ。……俺たちと同じ末路を辿ることになりかねん」
「なにぃッ!! このっ……!!」
「よしなさい円堂くん。……末路……それはつまり、件の“イナズマイレブンの悲劇”のことかしら。そんな昔のことがなぜ、米田さんと繋がるの?」
「……同じだからだ。彼女のプレーは、どこか
「それは……」
ヒートアップしかけた円堂さんを諫め、尋ねるのは雷門さん。しかしその雷門さんも、響木さんの静かな声に反論の続きを言い淀んでしまいます。
私の脳裏にも、記憶の映像が流れました。今までのモヤモヤ、疎外感、雷門イレブンでプレーしている姿が似合わないと言われた時の、あの肌寒い悲しみ。
私も、響木さんのその指摘を否定するだけの材料が、見つけられません。
「でも……それでも、違う!! 雷門が破壊されるなんて……ベータはそんな奴じゃない!! 俺はベータを信じてる!!」
「それは“信じている”のではない。“眼を逸らしている”だけだ。ベータのサッカーからな。……俺に監督をやってほしいのなら、まずはそれを認めろ。認めて……そしてあの子を、チームから外せ。話はそれからだ」
「ッ……」
理屈で押し込められた円堂さんが唸る声。反論が、聞こえてきません。
途端に、私の内にはっきりとした恐れが滲み出てきました。私をチームから外せ、という、聞く限りでは交換条件。監督がいなければフットボールフロンティアに出られないという現状と合わさって、最悪の結論がちらついてなりません。
思わず一歩、それから遠ざかるように後退り、そして――
秋さんと豪炎寺さん手が、私の肩に触れました。
「嫌だッ!! 絶対にベータはチームから外さない!!」
同時、戸の向こうで円堂さんがきっぱり拒絶を叫びます。
「たとえおじさんの言う通り、ベータが雷門を壊してしまうのだとしても……それでもベータは俺たちの仲間だ!!」
「……自分たちのサッカーを捨て、彼女のサッカーに呑まれるつもりか?」
「違う!! 雷門が壊れてしまうのなら、俺が接着剤になればいい!! 破片も全部集めてくっつけて……イナズマイレブンとは別の形になってしまうかもしれないけど、でも、それが俺たちのイナズマイレブンだ!!」
「円堂くん……!」
『俺が接着剤になればいい』なんていう、なんとも子供っぽく、そして間抜けな宣言は、しかし私の胸を包み込むように温めてくれました。
安堵が満ちて、思考能力が戻ってきます。円堂さんがそう言ってくれる限りは、きっと私は大丈夫。そうやって恐れに区切りをつけることも叶い、強張る身体から力を抜きます。
それほどの円堂さんの硬い意思は、私だけでなく響木さんにもしっかりと突き刺さったようでした。一瞬、ハッとしたように鋭く息を呑む音がして、それから彼は苦笑を滲ませ言いました。
「……やはり、大介さんの孫なんだな、お前は」
「え……?」
「お前の覚悟は見た、と言ったんだ」
いきなり何をと円堂さんは呆けてしまったようですが、私には響木さんが何を言いたいのかすぐにわかりました。
つまり彼は、円堂さんを
「もし俺の条件を受け入れていたら、監督の話は断るつもりだった」
「それってつまり……最初から雷門の監督は引き受けるつもりだった、ってこと……!?」
「まあ、な。御影専農との試合を見て、坊主が大介さんと
だからこの“条件”に命運を託した、ということなのでしょう。少し遅れて気が付いた雷門さんが呆れ半分の驚きを零し、それを認めた響木さんは、椅子から立ち上がったような音の後、続けてさっきまでとは異なる決意のこもった声で言いました。
「だが、俺ももう腹をくくった。お前たちがサッカー界の闇に挑むというのなら、全力でサポートしてやろう。……今まで散々言った俺を監督にするのは気が進まんかもしれないが――」
「そんなことない!! 俺、嬉しいよおじさん……いや、響木監督! これから、よろしくお願いします!」
「ああ……!」
どうやら、全てが丸く収まったようでした。響木さんを監督にする、という目的は完了です。
なら、私たちがここにいる必要はないでしょう。
「……帰りましょっか」
「う、うん……そうね……」
しかしどうやら、私の内に残る恐れの欠片は、秋さんには隠しきれなかったようでした。
私がいずれ、雷門を破壊する。試していたとはいえ、響木さんが口にしたこの言葉は決して嘘でも冗談でもないのです。
私はそれに背を向けて、足早にその場を去りました。幼少期にサッカーをやめた時はあんなにあっさりだったのに、今はやめたくないと、円堂さんたちと一緒にサッカーをしていたいと、強烈にそう思っている自分を持て余しながら。
「ベータ、やはり、お前は……」
呟く豪炎寺さんの声も聞こえないふりをして、私は商店街を出るのでした。
「今日から雷門サッカー部の監督になった、響木 正剛だ。ビシバシ鍛えてやるから、覚悟しておけ」
翌日、河川敷のグラウンドにやってきた響木さんはそんな挨拶の言葉を皮切りに、私たちの練習に口出しを始めました。
新必殺技の開発に励む皆さんに、それぞれ的確な指摘やアドバイス。聞いていた限りでは全部かなり真っ当で、それは響木さんが本当に四十年前のイナズマイレブンの一員であると確信できるほどのものです。
少なくとも、響木さんの監督としての能力は疑いようがないでしょう。皆さんにもそれは一目でわかったようで、新たな監督への反感の類はどこからも上がってくることはありませんでした。
だからつまり、また私だけが疎外感を感じる羽目になっています。円堂さんの言葉があっても、
けれどそれを表に出せぬまま、私は取り繕った微笑みで、自己紹介と練習指示に次いで私へと向いた視線を受け止めることとなったのです。
「――そして、ベータ。お前の練習内容だが……」
「はい、何を特訓しちゃえばいいんでしょう? ドリブル? それともシュート力の強化ですか?」
「……お前の、御影専農でのラフプレーを見た」
「……そうですか」
皆さんへの指導が済んで、とうとう私の番。思わずびくっとなってしまいましたが、辛うじて声音は平静を保てたのが幸いしたのか、そのことに気付かれた様子はありません。
それでも心臓がバクバク鳴っている私をよそに、響木さんはサングラスの眼でじっと私の下半身を、というか足を見つめ、唸るように言いました。
「身体に大分ダメージがあっただろう。念のためだ、練習の前に病院に行って検査してもらえ」
「……はい、わかりました」
特別、身体に異常なんかは感じていませんが、心臓を休ませるためにも頷きます。響木さんはそれで満足し、次いで同じサングラスの視線を豪炎寺さんへ。
「豪炎寺もだ。特に足首、スライディングタックルにやられた時、痛めていたはずだ。診てもらえ」
「……はい」
私は隔意からの返事でしたが、豪炎寺さんの場合、少なからず怪我の自覚があったのでしょう。お互い嫌とは言えず、そのままグラウンドを追い出されてしまうのでした。