階冪村落 ー グレッグ・イーガン『順列都市』勝手続篇   作:wash I/O

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2.気楽(きらく)改変(かいへん)

 只今のマリア・デルカの一日、というものを語ることは、容易なように見えて存外難しい。

 

 そもそも、一日という時間単位は地球が約二十四時間をかけて自転し、その結果として天空にあってやたらと目立つ太陽と呼ばれた恒星が現じる見かけ上の周天運動に由来するものであり、それを欠く今のマリアには関係がない。

 そして<コピー>であるマリアは、やろうと思えばすべての生理的欲求を無効化することが出来るが、一部の例外を除いてどうしてもそこには踏み込むことが出来ず、極めて非合理的な選択であることは百も承知の上で生体であったマリア・デルカに由来するそれを甘受している。

 となれば、すなわち一日とは睡眠の周期に他ならないが、オートヴァース中毒者(ジャンキー)であり、職業プログラマで数寄者(フリークス)であった彼女の睡眠周期(リズム)を司るところのメラトニン代謝その他諸々は本質的にとち狂っていたのであって、それを正確無比に非侵襲走査(スキャン)することで生じた<コピー>である只今のマリアもまた、悲しいほどにその(さが)を受け継いでいた。

 

 これを是正すること、はこれまた容易ではある。

 

 共通身体基盤におまけ的に実装されているところの非自我知性(ソフトウェア)健康相談(ヘルスアドバイザ)>に「私の睡眠周期を是正して頂戴」とお願いし、然るべき承認をおこなえばたちまちにそれはなされる。

 具体的には、<健康相談>はその行為が彼女の認識にもたらすであろう様々な変化や危険(リスク)について通り一遍の講釈をぶった後に最終的な承認を求める。<コピー>時にその数列(データ)構造に埋め込まれたマリアの個人秘密鍵(プライベートキー)で承認をおこなえば、その瞬間、人間マリア・デルカに由来するメラトニン代謝特性その他諸々は、標準的に健康な女性の理想のパラメータで上書きされる。

 

 安らかな眠りと爽やかな目覚めを貴女に!

 

 だがしかし。

 

 それは、ポールが彼自身におこなったであろう、と彼女が確信しているところの忌まわしき自己改変と何が異なろうか!

 

 さりとて彼女は超自然主義者(ナチュラリスト)であってすべての生得的気質を教条的(ドグマティック)に受け入れていたわけでは決してない。唯一の例外、は排泄であった。

 ポールによってエリュシオンで望まぬ覚醒をなされてしばらく、マリアはそのことへの反感もあって一切の自己改変を拒絶していた。が、ある日、既にエリュシオンには不要の施設となって久しく、わざわざ個室の個人特注(カストマイズ)を請け負う非自我知性<日曜大工(カーペンタ)>に発注(オーダー)して設えた白磁の便器に座って自身の実際には存在しようはずもない肛門を同じく存在しようはずもない大便が通過していく感触を堪能している最中に彼女は悟りを開いた。

 

 これは不健全だ!

 

 排泄が面倒になったわけではない。

 ジークムント・フロイトの仮説にまで遡らずとも、<コピー>技術が確立されるに至る人間身体と脳神経系の理解の過程で、排泄欲求が物理的な実装においては性欲処理系と密結合したものであり、これがしばしば関連した倒錯的な性嗜好の一因であることは既によく知られていた。

 自身が人間である、あり続けていることの証しとして、本質的には無意味な排泄行為の継続にこだわり続けることは、自身に潜在した歪んだ性嗜好の為せる業なのではないか、との疑念に一旦取り憑かれてしまえば、後は一瞬のことだった。

 彼女が<健康相談>の挙動一式を体験済みであるのは、そのゆえだ。かくして彼女が摂取した仮想食品は彼女の仮想胃、仮想小腸、仮想大腸を通過して身体パラメータに然るべき影響を与えた後、仮想直腸に至るや雲散霧消するようになったのである。

 

 

 

 勝手気儘な睡眠を終え、私室で非自我知性<万能執事(バトラー)>に軽食を用意させたマリアは、身支度を整えながら半ば義務的にそれを食べた。その行為は、マリアの主観的には人間であった時分のマリアのそれと何ら変わらぬように感じられる。

 が、実体としてのその食事は含有される栄養素各種のパラメータの集合に過ぎない。それを摂取すれば、マリアはそこから味覚と満腹感を覚え、身体基盤の血糖値その他諸々のパラメータが更新され、それらは人間身体がそうであったように決定的でこそないが無視できない影響を彼女の情動思考に与えた。

 

「おはよう、マリア。よく眠れましたか?」

 

 内側からしか決して開くことの出来ないよう設計された扉を通って制御室(コントロールルーム)へ向かうと、きっかり五分後に向かい側の扉が開き、やはり締まらない笑みを浮かべたポール・ダラムが現れて開口一番そう言った。

 

 彼がそこへ至るのに、未だ彼女が抱えている葛藤をどのように克服したのか、そもそもポールにそのような葛藤があったのか、は知る由もないし敢えて尋ねる気にもなれないマリアであったが、ポールは()うの昔に食事、睡眠といった生理欲求を無視可能な存在へと自身を改変済みだ。

 この場合ポールの情動思考に影響するところの血糖値、メラトニン代謝等のパラメータは、<健康相談>の推奨設定に従って平時の一般的な人間身体の通常活動時間帯の平均的な推移に追従する。つまりポールは、眠からず覚めやらず空腹ならず満腹ならずの、永遠の気怠い昼下がりの体調の中に暮らしていることになる。

 無論、たとえば激しい感情の揺れに際してはアドレナリンやドーパミンのパラメータが然るべく調整され、ポールの情動思考はそれに応じた性能(パフォーマンス)を発揮することになるし、必要があれば彼らはそれを任意に励起(トリガ)することも可能ではあるのだが。

 とまれ、つまるところ、ポールはマリアが今しがた迄貪っていたような眠りを必要とはしていない。

 

 二人は第二TVC宇宙での覚醒直後に取り決めを交わしている。

 

 第一に、TVC宇宙全域に影響をあたえる行為は制御室のみからおこなわれるべきこと。

 第二に、TVC宇宙全域に影響をあたえる行為は二人揃ってのみおこなわれるべきこと。

 第三に、自身の動作クロックの変更については事前に了解を得ること。

 

 そして……それ以外のすべてについては互いに口出しせぬべきこと。

 

 これを担保するために、制御室の制御卓(コンソール)は二人の個人秘密鍵が揃って指し示された場合に限って始動し、銘々の私室への入室施錠の検知を以て強制終了するよう改変が加えられた。

 従って、マリアが眠っている間それを必要としないポールは、少なくともTVC宇宙全域に対しておこなわれる何か、については無為に待たされていることになる。

 その間、眠らぬポールが自室で何をやっているのか……自室に居ながらも彼は彼が全権掌握する自身の領域(ピラミッド)については自由に利用できるので、その範囲で種々の実験をおこなったり、はたまた、新たな仮想空間を開闢しそこで愛妾を囲ったり新人類(ポストヒューマン)たちの皇帝として振る舞うことすら可能ではある……マリアには知ったことではないのではあるが、とまれ、この生活を始めて以降、ポールはマリアが制御室に姿を現すときっかり五分後に遅れて登場し、おはよう(グッド・モーニング)、と最早原義を失って久しい挨拶を発することが常態化していた。

 

 その日……も最早原義を失った言葉ではある……のマリアは何となく気分で珍しく普段は口にしない果物中心の食事を<万能執事>に注文(オーダー)した。そこに過分に含まれた果糖が彼女の血糖値パラメータに影響を与えたものか、あるいは、そもそもそういう気分を醸すに至った前日以来の何かの積み上げに起因するのかは定かでないが、自身の睡眠がポールを待たせていることを少しだけ、ほんの少しだけ申し訳なく感じ、たまにはポールのご機嫌取りをおこなっても罰は当たるまい、という気になっていた。

 

「待たせてしまってごめんなさいね。

 ……差し支えなければ、でいいんだけれど。私が眠っている間……何をして過ごしていたの?」

 

 問われたポールは一瞬だけ意外に感じた表情を見せたがさらりとこう応じた。

 

「仏典を少々。」

 

「……は?」

 

「ご存知ありませんか?」

 

「もちろん知ってるわよ。」

 

 マリアはまたも自身が余計なことを口にしてしまった、と後悔するが時既に遅し。

 

「かつての現実から持ち込んだライブラリの中に見つけましてね、退屈しのぎに時折読んでいます。返す返すも残念に思うのは、ライブラリには英訳版、仏訳版しかないことで、原典を持ち込み損ねたのは……」

 

「原典?

 何語なの、それ?」

 

「単一ではありませんよ。サンスクリット語、パーリ語、ガンダーラ語……」

 

「貴方、読めるの?」

 

 そう問われてポールの表情にまたぞろ「え、何をおっしゃってるんですか?」と言いたげな表情が浮かんだのに気づき、マリアは慌てて取り繕う。

 

「……まさか、そこから始めるわけ?」

 

「アラム語聖書はそうやって読みました。もう六千七百年ほど昔の話になりますが。」

 

 西暦二〇五〇年代に普通に通用している言語については、<コピー>であれば気軽に言語野拡張(アドオン)をインストールすることで読み書き可能になることは承知していたが、さしもの古代語ともなれば<コピー>と雖も通常の手順で一から学ぶしかなく、仏教原典を欠いたライブラリにそういった古代語の辞書などあろうはずもないから、それは事実上、暗号解読の(たぐい)だ。

 よもやとは思ったが……だがしかし。考えてみればポールには、そしてマリアにも、時間的にも物理的にもそういった行為を阻む壁は一切ないのだ。

 

 やるべきか(To do or)やらざるべきか(not to do,)それが問題だ(that is the question)

 

「自分で書きなさいよ!」

 

と唐突にマリアに怒鳴られて、ポールはきょとんとした顔をする。

 

「貴方、自分が何者かわかってるの?

 このTVC宇宙を造ったのは()()()、神様みたいなもんじゃないの。

 そんなもの読んでる暇で、自分でエリュシオン聖典でも書きなさいな!」

 

 が、ポールは涼しい顔でこう返し、マリアは口を噤むほかなかった。

 

「キリスト教はともかく、仏教は無神論ですよ。」*1

 

 

                    *

 

 

 目下二人は、最初の再現テストの準備に取り組んでいる。

 

 TVC宇宙の電脳(コンピュータ)上で実行されていたセル・オートマトンであるオートヴァースが、TVC宇宙崩壊の真因足り得るか、の実験。単純に実施して目論見通り現象の再現が叶えば、只今マリアとポールが依って立つところの二代目TVC宇宙もまた儚くも霧散することになる。

 それが決して憂うべき事態でないことは承知してはいるものの、さりとてそれを甘んじて受けるつもりもない二人は、月並みながら一つの防護措置を講じることにした。すなわち、オートヴァースを実行するTVC宇宙を、二代目TVC宇宙の電脳上で模倣(エミュレート)するのである。

 本来あるべきでない(ホスト)環境への影響伝播の作用機序が今以て不明である以上、これが完全な防護措置になる保証はまったくなく、エリュシオンでポールとマリアがオートヴァース探訪を試みた際、その拠点をオートヴァースが実行されている領域から論理的に最も離れた領域に設けたのと同様、これが気休めに過ぎないことは二人共に承知している。

 

 オートヴァースにおいて、ある時点におけるすべてのセルの状態P(t)に対し、P(t+1)すなわち1クロック経過後のすべてのセルの状態は一意に確定する。つまり、オートヴァースは決定論的オートマトンであり、そこに未確定要素はない。言葉の印象としては、これを以てオートヴァースで起こり得るすべての事象を前以て予測可能であるかのような錯覚を覚えもするが、実際はさにあらず。

 クロックを重ねる都度、P(t)からのP(t+x)の推測可能性は逆指数関数的に減衰しゼロと見分けがつかなくなる。結局のところ、P(t+x)を知るにはX回オートマトンのルールを適用してみるほかなく、それはセル・オートマトンを動作させるということにほかならない。

 

「ご承知の通り、オートヴァースは決定論的です。」

 

とポール。

 

「つまりそれは?」

 

とマリア。

 

 いつしか二人の会話は、かようにポールが結論を端的に示し、マリアがその含意について尋ねる行為を通じて掘り下げる様式(スタイル)が定型化していた。

 

種子(シード)が共通である以上、エリュシオンのオートヴァースで起こったことは、ここ……厳密にいえば、このTVC宇宙で模倣実行(エミュレーション)されるTVC宇宙内のオートヴァースにおいても間違いなく起こる、ということです。」

 

「……ややこしいから後者をオートヴァース・ダッシュ、と呼ぶことを提案したいのだけれど。」

 

「ご随意に。」

 

「オートヴァース・ダッシュは、間抜けにも自身が創造神だと名乗りを上げに干渉した役者を欠くわ。それでもまったく同じことが起こると?」

 

 マリアは、結果的にエリュシオン崩壊の引き金(トリガ)を引いた可能性のあるポールの決断を揶揄する意味合いも込めてそう言ってみたが、やはり今のポールは何処吹く風だ。

 

「マリア、貴女の言はまったく以て正しい。

 ですが、我々が最初に気づいた異変はオートヴァースが私の発した停止要求に応じなくなったことで、それはオートヴァース訪問どころか、貴女の……」

 

 言い淀むところを見ると、そこへの罪の意識はまだ持っているのね。

 

「……貴女の覚醒以前の話となります。」

 

「つまりそれは?」

 

 マリアは敢えてポールに垣間見えた内省には触れずに先を促した。

 

「かの不遜な企て以前、私の知る限りにおいてエリュシオンはオートヴァースの様子を受動的(パッシブ)に覗き見していたのみで、一切の干渉をおこなってはいません。そして、それ以前に停止要求無視が起きたからには、同じことがオートヴァース・ダッシュでも再現されるはずです。そのときオートヴァース・ダッシュ内部で何が起こっていたか……ランバート人が何を議論していたか、を知ることが出来れば、そもそも何が目下問題視している事象の要因であるかを知る手がかりとなることでしょう。」

 

「それを三十億年待つのね。」

 

「私にとっては七千年でした。

 そしてこの比率は任意です。」

 

 仕掛け自体は単純なものだった。

 模倣実行TVC宇宙の制御室には極簡単な非自我の代理人(エージェント)が配置される。一定クロック毎にオートヴァースに対し停止要求を発し、その結果を確認するのだ。停止に応じるようであれば再び実行を再開させ、また一定クロックが経過した後に同じことをおこなう。そして、停止要求に応じなかった場合、親環境、すなわちマリアたちの二代目TVC宇宙に対し割り込み信号(インタラプト)を発する。

 この信号を受けると二代目TVC宇宙は、目下設定されているTVC宇宙とマリアたちの実行クロック比を逆転させる。すなわち、オートヴァース・ダッシュを含むあらゆるTVC宇宙内の物体(オブジェクト)に対し、ポールとマリアは超高速で思考・動作出来るようになり、これがそのときオートヴァース・ダッシュ内部で何が起こっていたかを調査するための時間的余裕を稼ぎ出す。

 その後は、可能であれば模倣実行TVC宇宙を停止させるか、それを実行している領域を除去(パージ)するか、最悪の場合は三世代目となるTVC宇宙を発進(ローンチ)し、反省会はそちらでやればよい。

 

 唯一の問題は、この枠組みが停止性問題(ホールティング・プロブレム)を孕んでいることだ。

 

 効率最大を考えると、ポールとマリアは停止要求無視による割り込み発生(インタラプション)まで自身の動作を停止(ホールト)するのがよい。が、これをやってもよいのは割り込みが必ず発生するとわかっている場合のみだ。

 そんなことはあるまい、と楽観的に二人は考えてはいるが、未知の要因で現象が再現しない可能性はなくはない。そもそも、模倣実行TVC宇宙でオートヴァース・ダッシュを動作させている時点で、厳密な意味での前提条件は一致していないことにはなる。

 万が一にも現象が再現しなければ、二人は決してやっては来ない割り込みを凍結したまま永遠に待ち続けることになってしまう。そして、現象が再現するか否かについては、それがセル・オートマトンである以上、やってみないことにはわからないのだ。

 なので二人は、自身の対TVC宇宙クロックをあいかわらず極限まで下げつつ……つまりそれは、エリュシオンのポールが七千年間待ったオートヴァースでの三十億年をさらに劇的に短縮することを意味する……オートヴァース・ダッシュを監視する代理人には時限性を与え、所定の時間内に期待した事象(イベント)が発生しなかった場合にもまた同様の割り込みを発生させるよう設定し、その()()()()()()()()への対応猶予を担保した。

 

「始める前に、話し合っておきたいことがあるわ。」

 

 マリアはそう切り出した。相変わらずポールはにこにこ顔だ。

 

「これって……発進(ローンチ)だと思わない?」

 

 一瞬……ほんの一瞬ではあるがポールの表情が笑顔のまま凍りついたのを感じる。

 

「自己完結するセル・オートマトンという意味において、TVC宇宙とオートヴァースは前者が無限に成長し続けることを例外に、それ以外は等価よね。そうは思わない?」

 

 ポールは笑顔のまま続きを待っている様子だ。

 

「これは私達には原理的に知り得ないことだから厳密な意味での確証はないけれど、私達のオリジナル……元の宇宙の生身の私と……二十三人目のポールは、現実世界の電脳上でTVC宇宙を模擬実行(シミュレーション)し、その結果……最早その直接の結果ではなくなっちゃっているけど、その結果として私達は今ここにいるわけよね?」

 

「……貴女のおっしゃる通りです。」

 

「ましてや今回は、オートヴァース・ダッシュを抱き込んだTVC宇宙を模擬実行しようとしてるんだから、これって現実世界で私達のオリジナルがやったはずのことと同じよね。そしてその結果何が起こるかは他ならぬ私達の存在によって証明されている。

 だとすれば、オートヴァース・ダッシュは()()する。模擬TVC宇宙内でオートヴァース・ダッシュを停止させようが、私達がこの実験を無事に終えて計画通り模擬実行TVC宇宙を破棄(ドロップ)しようが。

 

 違うかしら?」

 

「そのお考えは理に叶っています、検証は原理的に不可能ですが。」

 

 思わずふふふ、とマリアは笑う。

 

「ポール・ダラムらしからぬことを言うわね。

 私達がこうして実在していることを、どうにかして元の宇宙の人たちに立証したい?」

 

 どうやらこの指摘は図に当たっていたようで、ポールは変わらぬ笑顔のままに沈黙した。

 

「……誤解しないでね、ポール。貴方を責めているわけじゃないのよ。

 これは私の問題なの。」

 

「貴女……の問題ですか?」

 

 この物言いはポールには随分と意外だったようで、二度目の発進以来の饒舌さを彼は失っていた。

 マリアは自らに言い聞かせるかの如く続ける。

 

「そう私の……神様としての責任問題よ。」

 

 ポールの瞳が笑顔のまま大きく見開かれる。

 

「原語で聖書を読んだと言う貴方のことだから私の見解には同意してもらえると思うのだけれど、聖書に描かれる神様って勝手よね。世界を創造しておいて、被造物のその後の運命にはほとんど関心がないか、むしろ故意に苦しめて楽しんでいたりするじゃない?」*2

 

「しかし、その神が独子(キリスト)を遣わして……」

 

「自分でも信じていないことで抗弁するのは反則!」

 

 再びポールは笑顔のまま口を噤む。

 

「みんなそうだと思うしそう考えなかったヤツは要するにただの阿呆なんだと思うんだけれど、聖書の神様に反感を抱かない人っていないと思うのよね、私もそう。まぁ、この神様への反感、が人類の進歩の原動力の一つだった、という点で貢献があったことは認めないでもないのだけれど。

 

 今私が……敢えて私達、ではなく、私、と言わせてもらうわ……私がやろうとしてることって、まさにそれなのよ。認めたくはなかったけれど、惑星ランバート、そこに暮らすすべての生物、とりわけ知的で不気味ながら愛らしくもあるランバート人は……皆、私の被造物なのよ。

 その子たちに、私は身勝手にも、切迫した理由もなくただただ知的好奇心を満たすためだけに、二度目の天地創造(クリエイション)を、しかも異なる歴史を歩むことがわかっている別(バージョン)のそれを起こそうとしてる、ってわけ。

 

 そんなこと許される?」

 

 しばし笑顔のまま沈黙していたポールは、ややあって口を開いた。

 

「貴女の知性を低く見積もっていたことをお詫びしなければなりません。」

 

 随分と失礼なことをさらりと事も無げに言ってくれるものね!

 

「実験を()めますか?」

 

「貴方が真に驚くのはこれからよ。

 

 さぁ!

 実験を始めましょう!」

 

 マリアは、ポールの、する必要もない呼吸が止まったのを感じる。

 

「……よろしいのですか?」

 

「神様はそういうもんだ、って旧約聖書も言ってるんでしょ。

 アレは今の私を予言していた、って解釈もありよね。」

 

 瞳に続いてポールの口があんぐりと開く。

 

「勘違いして欲しくないんだけど、私が被造物に責任を感じているのは本当。ランバート人には本当に申し訳ないことをする、とは思ってる。でも、それを言ったら確実に百億年で燃え尽きる太陽と、他にはどこにも逃げ場のない閉じた宇宙をあの子たちに与えた時点で私の有罪は確定済みで、今更何をしたって取り返しはつかないわ。」

 

「惑星ランバートを設計(デザイン)した時点で、あなたはその実現を信じておいでではありませんでした。そこに責任を感じる必要はないのでは?」

 

「旧約聖書の神様だって、天地創造の時点では私達が冒涜的にも母なる宇宙を捨てて脱出するなんて信じちゃいなかったでしょうよ。でもそれは為された、製造者責任よ!」

 

「……豪州消費者法(ACL)は、問題が製造者によって当該製品が供給された時点における科学的又は技術的な知見では発見することができなかった場合、その責を免じると……」

 

「よりによって()()の神を豪州法で裁こうとは、貴方にしてはイカす冗談(ジョーク)だわ。

 

 言葉の綾よ!

 

 ……私が言いたかったのは私の覚悟、ただそれだけ。

 ここまで来ちゃったからには後戻りはしない。それを言いたかったの。」

 

 ようやく、しばし笑顔のままに困惑していたポールが、従前の柔和な微笑みを取り戻した。

 

「もう一度私は同じことをお詫びしなければなりませんね。」

 

「私が貴方が思っていた以上に聡明だ、とでも言いたいわけ?

 それもやめて頂戴。

 

 私は貴方が案じている通りの女よ。今なお生身の人間だった時分に未練があって、自己改変も……極々些細な例外を除いて……受け入れることが出来ず、毎朝目が覚める都度、自分がランドー・クリニックのベッドの上に居て、左の手の平に『あなたは<コピー>じゃない』って書いてありはしないか、と考えてしまう愚かな存在。

 

 でも、睡眠もその愚かしさも、神への冒涜に内心ビクビクしているヘタレさ加減も、全部含めて私であって、その一部たりとも私は否定しないし取り除きたくもない、そんなことしたらそれは最早私じゃないから。毎朝のお通じだけは例外、ただそれだけ。」

 

 この瞬間までマリアはポールの変わらぬ笑顔をずっと作り笑顔である、と勘繰り続けて来たが、ここに至って彼は初めて、本当に心の底からの微笑みを浮かべた、ように少なくともマリアからは思われた。

 

「では言い方を改めましょう。

 貴女の魂を欲した私は間違ってはいなかった。」

 

「大間違いよ、この悪魔!」

 

 一瞬の沈黙の後、二人は顔を見合わせたまましばし大声を上げて笑いあった。

 思えば、マリアにとってもそれは、<コピー>となって以来初めての心からの笑いであった。

*1
本作世界のポールは主に英訳仏典を通してそのように理解している、という設定。

*2
本作のマリアはそのように理解している、という設定。

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