階冪村落 ー グレッグ・イーガン『順列都市』勝手続篇   作:wash I/O

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4.(くら)既存(きぞん)(かべ)

 五年の刑期を終え、刑務所を追い出されたトマス・リーマンは途方に暮れていた。自身の罪状が傷害致傷であり、出所に際して被害者女性に対する終生の接近禁止命令を言い渡されたことが唯一の救いだ。

 

 少なくとも目下、自分はアンナを殺してはいないことになるのだから。

 

 出所に際して刑務官からは「とりあえず市民手当(ブーガーゲルト)でも申請するんだな、忌々しくも我が国(ドイツ)はおまえのようなやつにすら寛大なのだから」と吐き捨てるように言われた。一般論から言えば当事者間の示談で終わることの多い売春婦相手の傷害致傷、しかも状況的には限りなく事故に近いそれで、トマスが法定上限の量刑を受けたのは彼が自身の身元を証明できなかったからだ。

 審理を担当したハンブルク州裁判所は、トマス・リーマンが存在を主張する家族簿(ファミリエンブッフ)は実在しないと結論した。加えてこうも。

 

「被告人が出生地、居住地として主張するところのフランクフルトなる在所は連邦州(ラント)としても都市(シュタット)としても市町村(ゲマイン)としても、ドイツの歴史に存在したことはない。」

 

 トマスはそれに対し、今更「そんな馬鹿な!」などと驚いてみせはしなかった。今この瞬間に至るまでの自身の記憶は誰にも理解不能なもので、戸籍や故郷がその例外であろうはずもない。

 

 自分は永劫のときの中を、百万飛んで云千回アンナを殺し続けて来た罪人なのだ。

 

 国選弁護士は「被告人、自称トマス・リーマンは明らかに記憶障害、妄想の症状を示しており、刑事責任を問うべきでない」と主張したが、その求めに応じて実施された複数回の精神鑑定は例外なく、被鑑定者は正常でありゆえにその不規則発言はことごとく確信犯的偽証であると結論した。

 が、トマスが納得がいかなかったのはその鑑定結果ではなく、五年の自由刑という余りに軽過ぎる量刑だった。数千年に渡ってアンナを百万回殺した罪に対し、あまりにも敬意を欠く判決ではないか!と。

 

 トマスは、それが当然であるかの如く収監されてすぐに自殺を試みそれに成功した。筆舌に尽くしがたい痛み、苦しみが確かにあった。そして意識が消失し、何事もなかったかのように翌朝の監房の硬い寝台(ベッド)の上で目を覚ました。

 しかしトマスはそこに絶望したわけではない。こうなることは事前にわかっていたことだし、そもそもこの自殺は目下の状況からの脱出を目論んだものではなく、不当に軽い量刑に対し不足する部分を自ら補うべくおこなったものなのだから。だからトマスは、刑期の間中可能な限りこれを繰り返した。

 

 何か……何か繰り返される劫罰の中で変化が生じたことは理解している。それはこの煉獄にあって天上の世界からもたらされた一筋の蜘蛛の糸であるかの如く救いの光明であったかのような(ばく)たる思いがあるが、百万飛んで云千回のアンナ殺害の瞬間が生々しく思い出すことが出来るのに対し、この光明が何であるかだけが霞の中に浮かぶ幻のように思われ、それが記憶であるのかはたまた願望であるのかが判別できない。

 

 刑期を終え、自身の存在証明、原初の罪すら奪われた自分は、これからどうすればよいというのだろうか。

 

 

                    *

 

 

 TVC……チューリング(Turing)フォン・ノイマン(von Neumann)チャン(Can)の頭文字を取ったもの……もまた、オートヴァース同様にセル・オートマトンである。万能建設機であると同時にチューリング完全な万能電脳(コンピュータ)でもあるそれは、簡潔に記述された揺るぎない論理に基づき、状態P(t)に対し、P(t+1)を生成し続ける数学的な閉じた系である。

 自然数すべての集合Nは、元初の自然数1が存在し、すべての自然数が単射される後者を持つとき、誰が計算せずとも存在する。

 同様に、ポール・ダラムの順列都市(エリュシオン)は、TVC上にポールその人を含む十八人の創始者(ファウンダー)の<コピー>とその動作環境、彼らが必要とする諸々の資料(ライブラリ)、そしてオートヴァースすべてを含むP(1)を定義することによりP(∞)を虚空に現出させたものであった。

 そしてこのP(1)、エリュシオンにとってそれ以上遡ることの出来ない元初の状態はセル・オートマトン文化の慣習に基づき<エデンの園配置(コンフィギュレーション)>と呼ばれ、七千年に及ぶエリュシオンの栄華とその崩壊を経た今なお、不滅の金字塔としてポール・ダラムの個人保管庫(アーカイブ)に存在している。

 

「トマス・リーマン氏について、憶えていることを語ってくれるかしら?」

 

とマリア。

 

「それは構いませんが……」

 

と言い淀むポール。

 

「……まさか、とは思うけれども。

 <エデンの園配置>からリーマン氏を抽出して覚醒させるつもりじゃないでしょうね!」

 

「被疑者の尋問は犯罪捜査の基本中の基本ではありませんか?」

 

 はぁー、とマリアは溜息をつく。

 

「もちろん冗談(ジョーク)ですよ!」

 

 私にしたことをリーマン氏にもするのか!と怒鳴りつけられる前に、ポールはそう取り繕った。マリアは、マリアが怒気を顕にしなかったら、存外ポールは本気でそれを試みるつもりだったのではないか、と疑っている。

 

 トマス・リーマンは十八人の創始者の中でも、エリュシオンの発進以降、自身の領域(ピラミッド)外と一切交流を持たなかった三人の<世捨て人(ハーミット)>のうちの一人だ。あとの二人、イレーヌ・ショウとペドロ・カラスはエリュシオン崩壊を受けてポールが発した緊急信号に応答し、残る創始者たち、レペットやゼマンスキーを含むエリュシオン人たちと共に新たなTVC宇宙を発進させて去っていった。

 ポールとマリアは緊急信号に応答しなかったトマスの救出を試みて彼らに取り残され今に至るわけだが、結果的にその救出には失敗している。二人の目前で崩壊していくTVC宇宙の中にトマスは消えていった。つまるところトマスは、エリュシオン崩壊における唯一の犠牲者、ということにはなる。

 

 一方でポールは、そして薄々はマリアもまた、トマスが自身の領域において何か恐ろしいことを試みていたのではないか、それがエリュシオン崩壊の原因ではないか、と疑ってもいた。

 

 トマスの初期状態を含む<エデンの園配置>が手元にあるということは、容疑者は既にその身柄を押さえられていることを意味する。一方で、ここにあるのは<コピー>であるトマス・リーマンのある瞬間の断面(スナップショット)であるに過ぎない。

 オートヴァースのある瞬間のすべてのセルの状態、すなわち全原子の配置を知ったとしても、その意味するところを理解するのが困難であるのと同様に、それ自身がオートマトンである<コピー>を一断面から理解することは不可能だ。それは、処理系に委ねられクロックと共に遷移することで初めてその意味を現じることになる。

 そして、たとえ僅か数ステップであっても<コピー>の断面を然るべく遷移させることは、すなわち当人を覚醒させることに他ならなかった。

 

「幸か不幸か、オートヴァース・ダッシュと同じ実験は可能よね。

 複数の領域から成る模倣TVC宇宙を仕立てて<エデンの園配置>から抽出したリーマン氏の領域のみを注ぎ込み、始動させてエリュシオン標準時間七千年を経てそれが隣接する領域諸共に崩壊すれば、その手口はともかくとしてリーマン氏が真犯人である蓋然性は限りなく高まる。

 リーマン氏の領域は<世捨て人>であるがゆえにオートヴァース同様の閉鎖系でTVCもまた決定論的オートマトンだから、エリュシオンで起こったことは、私達が彼を救出せんとその領域を侵犯しそれに失敗したこと、を除いてすべて再現されるはず。」

 

 マリアは敢えて自身の良心に逆らってそれを口にした。

 もっとも、知性を有すると自ら認めたランバート人の暮らすオートヴァースに対して既にその再現実験をおこなった二人に、トマス・リーマンに対して同じことを試みることを躊躇う資格があるのだろうか、という問いは存在する。

 一方で、集合知として数学を弄ぶ知性を有しつつも個体レベルにおいてはその本能に従う、ポールやマリアの理解としては人間よりもむしろ昆虫に近い生態を有したランバート人と、曲がりなりにもポールとマリア同様の人間……その<コピー>であるトマス・リーマンを同等に扱ってよいものか、という倫理的な問題が目下の二人の懸案だ。

 

「被疑者の尋問は犯罪捜査の基本、と貴方は言ったわね。そこには同意するわ。

 問題は、この事件(ケース)においては尋問するという行為、そのものが被疑者に対する罰になり得ること。」

 

 そう言いながらマリアはぎろり、とポールを睨みつけた。

 確かに私は……シドニーのマリアは二十三人目のポールから過度な報酬を受け取りつつも、彼の言葉を真摯に信じようとせず、職業プログラマとして適切な助言をポールに与えるのを怠って、結果的にエリュシオンに大混乱を引き起こす罪を犯した。

 

 が、それはTVC宇宙に生きたまま埋葬される罰を受けるほどの罪だろうか?

 

「その点についてはもちろん……私も同意しますよ、マリア。」

 

 変わらず締まらない笑顔を浮かべるポールも、心の底からであるか否かは本人以外知る由もないが同意を示す。

 

「容疑を確定事実に持っていくのに再現実験(テスト)、あるいは本人の自白が必要なのは事実。

 でも、それは最後の手段であるべきで、まずは周辺事実から容疑を確定容疑にまで持っていくこと、もちろん推定無罪を前提にね。そのためにはまず根拠に基づく推論(プロファイリング)だと思うのだけれど。」

 

「……それで、私の憶えているトマスを語れ、とおっしゃるわけですね。」

 

 ポールは、自覚的にはほとんど記憶の片隅に押しやって久しかった、それでありながら、望めば掘り返すこと(サルベージ)が可能な主観七千年前の記憶への接触(アクセス)を開始した。

 

 自身の企てに多額の資金を要することを十二分に理解していた自身はまだ生身の二十三人目のポールは、まず、<コピー>向け財産保護サービスを提供する保険会社外交員の肩書きを用い、生者との交流を好むことで知られた有名無名の<コピー>たちを訪ねて歩き、彼らを慰撫しつつその信用を獲得することに努めた。

 これはポールが辛抱強く十七倍の、ときにそれ以上の速度差を甘受しつつ、でありながら、そのことを相手に気取られることのないよう、あくまでもポールはその<コピー>個人の見識や人となりに関心があるがゆえにこうして会話しているのであって、生身のポールがその代償としての時間の浪費を憂いてなどいないのだ、と<コピー>たちに信じさせるための細心の注意を払う努力を怠らなかったことを意味している。

 

 こうしてポールは、本来の標的(ターゲット)たるべき紳士録を入手した。

 

 ポールが創始者候補とした人物像は、計画に寄与する資産については当然として、第一に当人たちがポールが踏み台にした<コピー>たちのように人恋しさから生身の個人との接触を好むのではなく、生者の社会に対して純然たる影響力を行使することを指向していること、すなわちエリュシオンにおける永遠の共同体(コミュニティ)の一員として求められる資質を有していることであり、第二には、<コピー>に対する生者の社会の政治的動向に神経を尖らせており、その反動として社会に対する影響力を少なからず行使しつつも自身の存在が極力目立たぬよう配慮を怠っていないことであった。

 すなわちそれは、その<コピー>が多かれ少なかれ生者の社会が自分たちの脅威となり得ることに自覚的であることを意味し、それこそが彼もしくは彼女が自身の資産の少なくない一部をポールの計画に投資する強い動機となり得ると目されるからだった。

 

「トマス・リーマンは、その存在にたどり着くのに要した苦労に対し、会合約束(アポイントメント)を得るのが拍子抜けするほどに容易な……結果的に不参加となった方も含む全創始者候補の中でも際立って特異な人物でした。」

 

「ということは、リーマン氏は<コピー>のみを対象にした事業(ビジネス)利害関係者(ステークホルダー)か何か?」

 

「ご明察です。

 私が承知していた彼の肩書きは<コピー>専門の信託銀行、その名も<幽霊銀行(ガイストバンク)>の執行役員です。」

 

「外見は?」

 

「……は?」

 

「私、そんなに変なことを訊いたかしら?」

 

「彼はその時点で既に<コピー>ですよ。

 外見に意味がありますか?」

 

「私の判断に必要だから訊いてるのよ、貴方は事実を述べればよろしい!」

 

 ポールはやはり微笑みを絶やさぬままにあんぐりと口を開き、ややあってこう答えた。

 

「事前に聞き及んでいた彼の人間として(オリジナル)の享年は八十五歳。言動はきびきびとはしておいででしたが、外見は逝去時の姿を踏襲したものではないか、と思います。」

 

「……なるほどね、これは重要よ!

 面会(アポ)が簡単に叶った理由を貴方はどう考えた?」

 

 ポールは、おそらく本人は無意識のうちに見せるマリアの態度が、次第に先だってオートヴァースの機械語(ネイティブコード)書き出し(ダンプアウト)に立ち向かっていたときのそれに近似していくのを感じ取って目眩を覚えていた。

 

 まったくもってこの(ひと)ときたら……

 

「少なくとも彼は、人恋しさから生者との会話を欲しているようには思えませんでした。話し始めた当初の彼は、私を詐欺師またはその自覚なき手先と確信していたように思いますが、一方で、自身の金銭的に優位な立場を傘にきてこちらに何かを強いるような傲慢さも感じませんでした。ですが……」

 

「ですが……何?」

 

「彼は常識的に礼儀正しくはありましたが、私を論破することを楽しもうとしているように思えました。」

 

「実際、論破されたの?」

 

「いえ、議論が白熱したのは事実ですし、彼は極めて深く物事を洞察し前もって備えることを怠らない人物ではありましたが、むしろであるがゆえに、最終的に彼は私の目論んでいることを正しく理解し納得したように感じました。

 が、自分にはエリュシオンは必要ないものだ、とトマスは結論しました。その言葉に嘘はないように思えたので、正直今以て彼が土壇場で発進に参加したことは意外に思えます。」

 

「TVC宇宙が具体的にどういうものになるか、彼にどんな便宜(サービス)が提供されることになるか……話したのね?」

 

「彼はそこまで踏み込んで会話した数少ない候補者の一人ではあります。」

 

「なるほど……ひょっとして彼は自分が実行される電脳集合(クラスタ)を私有してたりした?」

 

「……トマス・リーマンをご存知だったんですか?」

 

「そう来るということは答えは(イエス)なのね。」

 

 マリアはここでしばし沈思黙考する。

 そして、やおらこう尋ねた。

 

「貴方……<エデンの園配置>の中にいるのはリーマン氏本人だと思う?」

 

「何を言い出すんですか!

 それが事実であったか否かは今更確認のしようもありませんが、それでもトマスがエリュシオンに乗船していたことは彼が二十三人目のポールに二百万エキュを支払ったことを意味しているはずです。そんな大金を払って自分以外の<コピー>に不死の世界を提供する者がいるとお思いで?」

 

「二百万エキュなんて七千年前の端金だと言わなかったっけ?」

 

「……随分と根に持つんですね。」

 

「冗談よ……。

 

 その通り、他人に不死の生命を与えるためにそんな大金を払うやつはいないわ。

 でも、それが宇宙の年齢を超えての永続が約束された煉獄だったらどうよ?」

 

「……まさか、そんな!」

 

 ここに至ってポールも、マリアが何を疑っているのかに思い当たった。

 

「そう。

 貴方、知らないうちに究極の誘拐監禁の片棒を担がされたのかも。」

 

 

                    *

 

 

 当初トマスは、自身が時間循環(タイムリープ)SFの世界に飲み込まれたのではないか、と考えていた。

 

 あれはH・G・ウェルズの古典だったろうか。超常的な能力を身につけた主人公が自身の犯した失敗をやり直すべく時間を遡るのだが、遡りによってそこに至った記憶までをも失ってしまい、果たして同じ失敗を永劫に繰り返す無限循環(ループ)の中に取り込まれる物語。

 だが、トマスは百万回の過ちを決して忘れることはなかった。

 ハンブルクのあの夜、アンナとの舞踏(ダンス)の下りを迎える都度、これから生じる悲劇に常にトマスは予感があったにも関わらず、そこから脱することが遂に叶わなかった。

 

 何故だ!

 

 そこには超越的な第三者の意思が介在している、としか考えられない。どのような理由でそうなったのかは知りようもないし、そもそもそのような超越者の思考は、旧約聖書の神があまりに理不尽であるのと同様に、類推することなど不可能だ。

 だからトマスは、不可避な悲劇を自ら繰り返し時間が巻き戻される(たび)に、古今東西に謳われたありとあらゆる神に赦し、慈悲、恩寵、思いつく限りのすべてを祈ってもみた。が、循環は断ち切られなかった。

 

 そして、何か重要な気づきを迎えたのだ。

 超越者によって自分は同じ過ちを繰り返させ続けられている、という考えは間違っている、と。

 

 ハンブルクの最後の夜、過去百万余回と寸分異なることなくアンナを転倒させ、その後頭部から溢れる鮮血を見つめながら、トマスは突如気づいたのだった。

 

 これは紛れもなく、他ならぬトマス・リーマンの意思であることに。

 

 そしてその動機は、ハンブルクに囲った愛人に重症を追わせたことが露見することによって自身が約束された未来を失う、などというものではないことに。

 

 

                    *

 

 

「結局のところ、必要なのはコレなのよね。」

 

 マリアはポールに命じて用意させた、粘りがあるのではないかと錯覚させるほど濃厚な珈琲(コーヒー)で満たされたマグを片手に制御卓と向き合っている。

 

「……思った通りだわ!」

 

 エリュシオンの<エデンの園配置>から目的の非活性データを抽出したマリアはほくそ笑んだ。

 

「説明……いただけますか?」

 

とポール。対するマリアは得意げに語り始める。

 

「見つけたのは仮想(V)現実(R)作劇(オーサリング)ソフトウェア。読み通りデータは暗号化も難読化もされていないから、リーマン氏の企図を読み解くのはそう難しくはないと思うわよ。貴方、彼に良くも悪くも信頼されていたのね。」

 

 その説明は、いささかポールにとっては端折り過ぎの感もあり要を得ない。

 二の句を継がないポールの様子に、マリアもそのことに思い至る。

 

「あぁ、ごめんなさい。ちゃんと順を追って説明するわ。

 

 貴方の記憶しているリーマン氏の人物像は、彼が理知的でありながらも極めて頑迷で執念深く、かつ自己愛の強い人であったことを思わせるわ。まぁ、これは私の女の勘に過ぎないけどね。

 ここに閉じ込められている哀れな<コピー>が、リーマン氏の政敵なのか、親の仇なのかはわからないけれど、そいつに宇宙が終わってもなお続く苦しみを与えてやろうと目論んだ彼が、自家製(ホームブリュー)の煉獄を設えようと思えば仮想現実作劇ソフトウェアを使うのは合理的な判断よね。」

 

 仮想現実作劇ソフトウェアは、最も一般的な用途としては自分好みの<夢>を仮想空間で楽しむために利用されたツールであり、直線的(リニア)に記述された物語(ストーリー)を仮想環境において現実さながらに体験可能であるのはもちろんのこと、他者に楽しませることを前提にその反応(リアクション)に応じた条件分岐を仕込むことも出来、ちょっとした冒険遊戯(アドベンチャーゲーム)を構築することも可能なものだ。

 マリア自身は、職業プログラマとして糊口を凌ぐべく顧客(クライアント)から発注された特注(オーダーメイド)の<夢>を納品することもしばしばあったがゆえに、その扱いには精通している。

 

「私の読みでは、リーマン氏は自分の過去に対して絶大な自信を有していて、そこに改変を加えたいとはまったく考えない人。<コピー>になってなお逝去時の容姿のままでいるのが何よりの証拠よ。そりゃ、よほどの自虐趣味(マゾヒスト)でもなければ死因になった病変なんかは除去してたとは思うけど。

 自分自身でエリュシオンに参加しなかったのは、彼にとってはまず何よりも先に銀行家である自分に意味があったからじゃないかしら。彼がどこまでエリュシオンの発進の現実味を信じていたかはわからないけれど、それが仮に実現したとして、そこに銀行家の出番なんかないことは彼くらいの見識がある人なら容易に想像できるでしょ。

 そして、自前のハードウェアすら所有している彼には少なくとも短期的な実存の危機はないんだから、焦って数学天国へ脱出する動機もないわ。」

 

 楽しそうに自身の推理を開陳するマリアを、ポールは笑顔のまま見守っている。

 

「そんな彼が、仮想現実作劇ソフトウェアに包まれた<コピー>を発進直前に送りつけてきたのだとすれば、中身はきっと他人よ。

 元からそういう相手がいたのか、あるいは貴方……二十三人目のポールからエリュシオンの話を聞いた後にそういう相手が現れたのかは定かでないけれど、何者かが彼の逆鱗に触れて、彼はこの究極の島流し計画を思いついたんじゃないかしら。ひょっとすると存外貴方の夢想に共感していて、そこに一助を与え得るのであれば一石二鳥と考えたのかも知れない。

 哀れな被害者がその時点では生身の人間でリーマン氏がどうにかしてその<コピー>を金の力で買い取ったのか、あるいは、その相手も<コピー>でそのコピーを不法に略取したか……ひょっとすると、彼の自前のハードウェアの同居人であった可能性もあるけれど、執念深い彼は喜々としながらそいつを苦しめる地獄の脚本(シナリオ)を人にやらせずに自分で作ったのに違いないわ、暗号化も難読化もされていないのがその証拠。」

 

「……どうにも俄にそんなことを考えつく人間……<コピー>がいることが信じられないのですが。」

 

「まぁ、それは誇っていいんじゃない?

 それだけ貴方が善人だ、ってことよ。」

 

 それは、言っている自分は同じことを思いつく悪人だ、と告白しているに等しいことにマリアが気づく様子はない。

 

断面(スナップショット)から被害者の人となりを読み取ることは不可能だけれど、仮想現実作劇ソフトウェアが何をしていたのかを読み取ることは出来るから、真相究明は時間の問題ね。」

 

「しかし……」

 

「……何かご不満かしら?」

 

 ポールは、やたらと自信満々なマリアの推理の正否自体もさることながら、それ以上に、仮にそうであったとして、それが目下問題視しているTVC宇宙崩壊の要因たり得るか、が甚だ疑問であった。

 が、当のマリアは既にそこに関心がなく、自身が読み解いたと信じる、おそらくは後にも先にも類例のない不可罰犯罪の証拠を押さえたくてうずうずしている様子。そこに冷水を浴びせてまたぞろ勘気を買うのも面白くはない。敢えてそこには触れず、しばらくはマリアのやりたいようにやらせるのがよかろう、とポールは腹を括るしかなかった。よもやそこに目下のTVC宇宙に対する危険はなかろうし、そもそも自分たちには永遠の時間があるのだから、何かに焦る理由はまったくない。

 対するマリアは珈琲をガブ飲みしつつ、口元には怪しげな笑みを浮かべながらポールには一瞥もくれずに制御卓に向き合っていた。

 

 嗚呼、職業プログラマの(さが)恐るべし。

 

「え……何これ!」

 

とマリアが素っ頓狂な声を上げたのは、それからほどなくしてのことであった。

 

 彼女がまず取り組んだのは、いろいろ出てくると確信していたところの出来合い資源(アセット)の抽出である。

 <エデンの園配置>から取り出された作劇ソフトウェアによって生成されたところの仮想環境は、その組み上げ(ビルド)によって埋め込まれた実行制御部(エグゼキュータブル)とトマスの意図を反映した舞台(ステージ)、脚本から成っており、それ自体は面一(つらいち)数列(データ)だ。

 マリアは、トマスが自らその作成をおこなったことが想定される以上、舞台の諸要素は当時ネットを散策すれば山程無償で入手することが可能であった出来合い資源を流用している、と想定していた。であれば、組み上げの後もそのデータ各々の冒頭には、資源の原作者が遺した情報札(タグ)が見つかると踏んだ。これもまた実体としては無味乾燥な数字の羅列に過ぎないが仕様上特有の値を含むため容易に判別が叶う。そこから舞台設定が把握出来れば、脚本の理解もより容易(たやす)くなるはずだ、と。

 そして実際少なからずそれは見つかったのだが、彼女が期待していた<ダンテの地獄巡り>であるとか<冥府(ヴァルハラ)の死闘>のような整合する仮想空間一式を指し示すそれではなく、極々当たり前に生活空間に現れて当然の小物の(たぐい)ばかりであった。これでは意味をなす舞台を構成することは出来ない。

 そこで彼女は、他のデータとの間を穿つ多量の(ヌル値)から、一まとまりであることはわかるがたちまちに何であるからはわからない、仮想環境全体の中で最も大きな断片(セグメント)について、非自我知性<解析支援(アナライザ)>にそれが何であるかの推定を命じた。

 

 そして、その蓋然性九十九%と太鼓判を押された回答に愕然とせざるを得なかったのである。

 

「ごめんなさい、ポール。思った以上に根は深いみたい。

 俄に信じ難いけれど、煉獄に閉じ込められているのは、どうやらリーマン氏本人のようよ。」

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