階冪村落 ー グレッグ・イーガン『順列都市』勝手続篇   作:wash I/O

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5.(らん)(いそ)ぐべきか

 順列都市エリュシオンの始原の種子(シード)、<エデンの園配置(コンフィギュレーション)>から抽出されたトマス・リーマン由来の仮想(V)現実(R)の大部分を占めるデータ断片(セグメント)について、マリアが利用したところの非自我知性<解析支援(アナライザ)>が示したそれが何であり得るか、の回答は、

 

 九十九%の確度で<コピー>の記憶野の一部と判定。

 

だった。

 

「記憶を舞台にした仮想現実、というのは決して突飛なものじゃないわ、むしろ平凡なくらい。もっともその恩恵を被ることが出来るのは<コピー>だけだけど。理由は言うまでもないわよね?」

 

「それは承知しています。

 離散(デジタル)記録された記憶を、本来連続(アナログ)の生体脳はたとえ直接接続(ハードワイヤード)したとしても再生できません。」

 

 それは、生体脳から<コピー>が非侵襲走査(スキャン)を経て<コピー>が生成されるに際し、ある程度の()()()が生じていることを含意するが、これについてはその解像度が等価性を保証している……とされている。そもそも、生体脳の主観における記憶と<コピー>のそれの完全一致を検証する方法はないし、有理数集合が実数集合の単射になり得ないレベルでの根源的な差異がそこには存在するが、実用上そこが問題視されることはない。

 

 うんうん、とマリアは頷いて見せる。

 

「そしてたとえ<コピー>であっても、あらゆる離散(デジタル)記憶を再生することは出来ないわ。記憶野の切片(パーシャル)は、その記憶の持ち主本人の記憶野にとってのみ意味のあるものであって、他人のそれは無意味な数列に過ぎないもの。」

 

 脳における記憶野の実装が個人に依存している、すなわち、外界の事物と一対一対応する普遍的な記憶領域が存在することはなく、極めて属人的に形成される神経網が記憶を保持していることについては、<コピー>技術の確立以前から知られていたことだ。

 その一部のみを取り出したとしても第三者はそこから情報を得ることが出来ず、全体を有する当の本人の記憶野との相互関係だけがそこに意味を与え得る。<コピー>技術の確立当初、各国の警察機関はこぞって犯罪容疑者を非侵襲探査(スキャン)しその記憶野から犯罪の証拠を差し押さえる夢想*1を弄んだが、それは結局のところ<コピー>を実行してそれを尋問することに他ならず、計算費用(コスト)と十七倍の時間を要するだけだとわかって断念された。

 

「だから、記憶野の意図的な一部を抜き出すことが出来るのも、それを再利用出来るのも当の本人だけ。リーマン氏が特定の意図を込めて作成したことが疑いない仮想現実に記憶野の一部が埋め込まれている以上、その仮想現実が包み込む客もまた、リーマン氏本人でしかあり得ない。」

 

「トマスが最も幸せだった時分の記憶で自身を包み込んだ可能性は?」

 

 それは二〇五〇年代において、現実社会との接点を維持する最低限の動作クロックが贖えなくなった<コピー>がしばしばおこなったと伝えられる消極的な自殺方法だ。

 が、言っているポールも聞いているマリアも、おそらくその可能性はないだろう、と考えている。

 

「そうであればいい、とは思うけれど、多分違うでしょうね。」

 

 そう口にしながら、マリアの目は制御卓(コンソール)に表示される仮想現実作劇(オーサリング)脚本(シナリオ)部分を、興味半分、怖い物見たさ半分で追い続けている。トマスの記憶と密結合したそれは容易には含意が読み解き難いが、執拗に組み込まれた条件分岐と、でありながら必ず同じ地点(ポインタ)への強制遷移(ジャンプ)で終わる無限循環(ループ)が、甘い夢の世界であろうはずがなかった。

 終了条件のない仮想現実作劇は、往時において建前上は違法であり、安全基準(レギュレーション)を満たすための制限機構(リミッター)が必ず組み込まれていたはずだが、それを回避するのは容易だし当局は本気でそれを取り締まろうとなどしていなかった。それに溺れた生身の人間は遠からずそのおかしな様子に気づいた第三者に救助されるし、自身の意思であるにせよないにせよそこに迷い込んだ<コピー>になど誰も関心を持つはずもない。消極的自殺者を誰も顧みなかったように。

 

「リーマン氏の領域で感じた禍々しさは錯覚なんかじゃないわ。

 見た目は無味乾燥な数列でしかないのに、確かにこれは禍々しいもの。」

 

「彼はどうしてそんなことを……」

 

「それは目下問題ではないし、原理的に知る術はないわ。

 私達が知るべきは、これがTVC宇宙を破壊し得るか、よ。」

 

 仮想現実は内部に居るものに主観的には現実と何ら変わりなく感じられる体験を提供しはするものの、それ自身には(ゲスト)を拘束する力はない。内部の存在が一度それが仮想現実であることに気づきそこからの離脱を望んで行動すれば、脱出の可能性は少なからずある。

 脚本に刻まれた条件分岐からは、まさにその可能性を虱潰しに塞ごうとする明確な強い意思が感じられはするものの、それが完璧であろうはずもない。そして、その作者であると同時に被害者でもある人物の人となりから考えれば、蜘蛛の巣の如く張り巡らされた罠がこれで終わろうはずもない。

 

「貴方、リーマン氏にエリュシオンについてどこまで詳細に話した?」

 

 ポールは言葉に詰まった様子で、そこからマリアは彼がこの問いの含意を自ずと理解したのだろうと判断する。

 

「答えにくいようだから私の方から確認させてもらうわ。

 貴方はトマスに、正当な権利者が自身の領域(ピラミッド)の自壊を命じ得ること、次世代のTVC宇宙を発進し得ること、を話した?」

 

 応えがないことがその答えだった。

 前者は創始者(ファウンダー)に与えられる自律性の極限として、後者は想定外の緊急事態に対する最後の安全措置(セイフティ)として、二十三人目のポールの主観としてはあくまでも前向きな説得材料としてトマスに示されたものだ。

 

「多分、探せば非自我の<監視代理人(モニタリング・エージェント)>が出てくるわね。

 命じられているのは……」

 

「トマス・リーマンが自身の停止、または領域の自壊に着手した場合、その直前の断面(スナップショット)を新たな煉獄に封じた次なるTVC宇宙を発進させよ……ですか?」

 

「……あら、貴方も悪の道に目覚めたのかしら?」

 

 そう応じたマリアは「少し眠るわ」と席を立って自室にその姿を消し、同時に制御卓の電源が落ちた。

 

 

                    *

 

 

 ハンブルクの何か特筆すべきところがあるでもない公園の一角に一本の(ロープ)を手にして佇む浮浪者(ホームレス)、トマスは今や確信を得ている。

 

 何故、自分は百万余回に渡ってアンナを殺し続けたのか?

 それは他ならぬトマス自身が、今の自分を今の自分たらしめた過去の履歴の上書きを認め難かったからであると。

 

 そしてそうであるならば、数千年の長きに渡ってトマスを苛み続けて来たこの状況をもたらした超越的第三者の存在などを措定する必要はまったくない。これを企図したのもまた、トマス以外の何者であり得ようか!

 

 つまるところ、この状況が永続するのは自ら欲するところであり、離脱を試みるのは本末転倒なのだ。

 が同時に、この状況からの脱出を望む自分自身があることも、これまた偽らざる事実だった。

 

 否、それを渇望しつつ果たせないこと、それこそがトマスがトマスに与えることを望んだ劫罰であり、その意味において、自身は叶えられたその望みに歓喜すべきですらあるのかも知れない。

 

 アンナと過ごした最後の一夜、百万飛んで云千回目の幼い感情に端を発した過失致傷に際し、トマスは救急車を呼び自らは自身の過失を認めて自由刑に甘んじることで、この永劫回帰から逃れることが出来るのではないか、と夢想した。

 が、それは叶うことはなく、むしろ、そんなちんけなたった一度の救命の試みで百万余回に渡ってアンナを殺し続けた自分が許されることを一瞬たりとも期待した自身に対するさらなる嫌悪感を深い傷として己に刻んだだけだった。

 

 そして、それは正しい。

 トマスはトマスを許すことを決して望んではいないのだから。

 

 だからトマスは手にした縄で輪を作り、自身の首に掛けて最早飽きつつありつつもそれでも決して()めることが出来ない企ての準備に着手した。

 

 

                    *

 

 

「おはよう、マリア。よく眠れましたか?」

 

 いつものようにマリアに五分遅れて制御室(コントロールルーム)に姿を現したポールからそう問われたマリアは、昨夜の微睡みの中に芽生えた自分でも被害妄想が過ぎると思わなくもない思索について、ポールに話すべきか話さざるべきかを一時思案した。

 が、永遠の時間の中であらゆる順列組み合わせ(パーミューテーション)を体験し得る自身にとって、何かを先延ばしすることに意味などないことは()うに得心済みだ。

 

「私から先に結論を話させてもらうと、リーマン氏について再現実験(テスト)は不要。

 同意してもらえるかしら?」

 

 先の眠りの直前、マリアは<解析支援>にトマス・リーマン由来の数列からの<監視代理人>の捜索とそれに課された使命(ミッション)の割り出しを命じており、二人の秘密鍵(プライベートキー)で始動させた制御卓(コンソール)にはその結果が報告(レポート)されていた。

 

 それは概ね予想通り、かつ、より悪辣なものだった。

 

 <監視代理人>が、仮想環境下の()()トマスの自己停止またはTVC宇宙解体の試みを監視していたのは想定通りだったが、その検出後の対処は、トマスの実行クロックを極端に下げて時間を確保した上で、過去の拷問記録(ログ)を解析してより練度を高めた仮想現実作劇を作成し、それに包んだ囚人を新たなTVC宇宙へ発進させる、というものだったのだ。

 

「仮にトマス・リーマン・()()()()を走らせたとして、起こることはもうわかってる。

 エリュシオン標準時間七千年経過の後、その領域(ピラミッド)は内部からの適正な指令(コマンド)で自壊解体……つまり私達が立ち会ったあの崩壊よね……し、それが完了する直前にトマス・リーマン・()()()()()()()を含む新たなTVC宇宙が発進する。

 

 控え目に言っても悪夢以外の何物でもないわ……」

 

 ポールは無言のまま頷いた。

 

「リーマン氏のこの(おぞ)ましい行為の動機について興味は尽きないけれど、知る術はないわね。仮に<エデンの園配置>からリーマン氏を単離して覚醒させたとしても、()()リーマン氏は二十三人目のポールと対面したリーマン氏そのもの、では決してないわ、私の読みではね。」

 

 ふと、マリアの視線がポールに向かう。

 ポールはマリアのその視線が「私の推理を聞きたい?」と問うているのを察して、片手を差し出し「語りたいのであればどうぞ」と続きを促す。

 

「こんなことを思いつくほど老獪なリーマン氏のクローンそのものであれば仮想現実迷路からの脱出にエリュシオン標準時間七千年を要しようもないから、おそらく被害者はリーマン氏の過去の断面(スナップショット)か、あるいは意図的に記憶の大部分を消去して作成された若かりし日のリーマン氏()()()ね。

 つまり、動機は彼自身が犯した若かりし時分の何某(なにがし)かの罪の断罪。どんなにうまく生成したとしても囚われのリーマン氏クローンは若き日の彼自身そのものではあり得ないのだから、こんな自己満足に二百万エキュを投じる?と問いたくはなるけど、本人がそれで満足なのであれば仕方ないわよね。

 恐らくリーマン氏は、この永遠の煉獄を二十三人目のポールに送った後、自身の記憶からその罪に関連する部分を除去(パージ)して折り合いをつけるつもりだったんだと思う。でも、推定される彼の性格からしてきっとそれは果たされないわ。彼の自前のハードウェアが朽ち果てるか、宇宙終焉を含む外的要因で強制終了を食らうそのときまで、リーマン氏は自身の行為について悩み続けたことでしょうね。まったく救いがないわ。」

 

 不意にマリアはポールの「随分と楽しそうですね」と問いたげな視線に気づき、

 

「ま、それはどうでもいいわ。

 知る術もなく、その価値もないことに拘泥するのは()めましょう!」

 

と慌てて取り繕った。

 

「そうですね。

 つまるところ、トマスは自身の領域を自ら破壊はしたが、TVC宇宙全体を破壊したわけではないということで、再現実験不要の判断については私も同意です。

 

 では続いて第三の容疑者の捜査に……」

 

「待って!」

 

 早くも次なる課題へと駒を進めようとするポールをマリアは呼び()める。

 その変わり身の早さこそが、今彼女が覚えている疑惑の証拠であると言わんばかりに。

 

「今少し論じるべきことがあるわ。」

 

「……伺いましょう。」

 

 相変わらずポールは微笑みのままにそう応えた。

 

「私達は少しでも実験に伴う危険性(リスク)を減じるべく、オートヴァース・ダッシュをこのTVC宇宙上で動作する模倣TVC宇宙(エミュレータ)で動作させた。結果的にやらなかったけれども、リーマン氏の領域についても最悪そうするつもりだった……そうよね?」

 

「その通りです。」

 

 ポールにマリアの言わんとするところに気づく素振りはない。

 そのことが返ってマリアの猜疑心を刺激する。

 

「より安全な方法がある、とは思わなくて?」

 

「……たちまちには思いつきませんが、良案(アイデア)がおありなのであれば承ります。」

 

「リーマン氏の愚行が私に霊感(インスピレーション)を与えたの。

 貴方は思いつかなかった?」

 

「随分ともったいぶりますね。」

 

「模倣TVC宇宙を使うのは同じ。

 

 そこで動作させるのよ、私達自身を。

 そしてその子たちがおこなう実験を上位宇宙から観察するわけ。」

 

 ん?とポールの目が見開かれる。

 それすらも、今のマリアには巧妙に考え抜かれた演技に見える。

 

「流石にそれは笑えない冗談(ジョーク)ですよ、マリア。」

 

「そうかしら?」

 

「仮に……あくまでも仮に、ですよ。

 そんなことをしたとして、覚醒したポール・ダッシュ、マリア・ダッシュもまた同じことを考え、以下無限ループ、ではないですか?」

 

「私達自身をそっくりそのまま動作させたらそうでしょうね。

 でも、どちらか一方が、本人がそれを自覚しているかしていないかにかかわらず、それを抑制するよう説得する役割を担っていたとしたらどうかしら?丁度今、貴方がそうしているように。」

 

 笑顔のままポールが凍りつく。

 

「今の私達がそれじゃない、って言い切れる?」

 

「……本気でおっしゃっているのですか?」

 

「私が思いついたくらいだから貴方が思いつかないはずがないでしょう?」

 

「私が別(バージョン)の自分自身を走らせることを決して望まないことは貴方もご承知のはずですが。」

 

「貴方の別版についてはそうでしょうね。

 でも、巧妙に設えた傀儡(マペット)という手段はあり得るんじゃなくて?」

 

「仮にそうだとしても、その傀儡と共に別版のご自身を走らせることに貴女が同意するはずがない。」

 

「あら、同意が必要かしら?

 二度目の発進に用いた<エデンの園配置>から私の断面を抽出すれば可能でしょ?」

 

「……まるで偏執病患者だ。」

 

「エリュシオンで覚醒させた私に、貴方同じことを言ったわね。覚えてる?」

 

「マリア……」

 

 ポールは立ち尽くす、笑顔だけは絶やさぬままに。

 

「どう言えば信じていただけるのか……。

 

 そう、私は既に一度、本来それを望むべくもなかった貴女をエリュシオンで覚醒してしまったことで、貴女を深く傷つけてしまっている。そんな私にこのようなことを言う資格がないことは百も承知です。

 

 ですが……。

 であるがゆえに、私は何があろうとも決して貴女を傷つけまい、と固く誓いました。」

 

「……よろしい。」

 

とマリア。

 

「では、こうしましょう。」

 

と、やおら自身の人間身体(モデル)制御画面を中空に開く。

 

「互いの身体接触許可と、標準触覚の有効化を提案します。

 その上で、互いの秘密鍵で状態の変更禁止(ロック)を。」

 

「……まるでかつての地球の冷戦期への先祖返りだ。

 相互確証破壊(M.A.D.)、というわけですな。」

 

 ポールは相互確証破壊と比喩したが、本質的に不死の<コピー>である彼らに互いの殺害は不可能だ。が、標準触覚有効の状態で身体接触が相互承認されていれば、互いに如何様な痛みも与えることが可能になる。

 そして、非自我知性<何でも屋(ジャック・オブ・オール・トレイズ)>に命じて入手できない武器はない。

 

「相互?

 貴方は私を決して傷つけない、と誓ったのでしょう?」

 

 ポールは笑顔のまま一瞬躊躇いを見せたが、素直に自身も制御画面を中空に開いた。

 

「その提案を受け入れましょう。」

 

 二人は互いの制御画面を操作し、自身の秘密鍵を用いて変更禁止を設定した。

 マリアも、それ以上に七千年もの長きに渡って身体不可侵の特権を享受してきたポールも、そんなことは起こるまいとは信じつつも久しくあり得なかった痛みを感じ得る状況に、本能的にたじろぐ。

 

「<何でも屋>!」

 

と先に声を上げたのはポール。

 

「適当な小刀(ナイフ)を。」

 

 その右手に鋭利な刃物が姿を現した。

 慎重にその刃を(つま)みとったポールは、柄の方をマリアへ向ける。

 

「私が示した制御画面が偽物(フェイク)であることをお疑いでしょう。

 何事も実証実験(テスト)は必要ですので。」

 

 無言のまま自身の右手でその柄を取ったマリアは刃先をポールに向けた。

 そして、ポールに向かって一歩踏み出す。

 

 

                    *

 

 

 ハンブルク郊外のゴミ集積場の生ゴミ仮置場で、自身の頬に唾を吐きかけられた感触にトマスは目を覚ました。

 

 不死身でありながら問答無用の復活の都度老化する体は既に明瞭な視力を失いつつあるが、そのあちらこちら欠けた視野の片隅に、自身に唾を吐きかけて立ち去る婦人を姿を捉え、不遜にもトマスは歓喜した。

 

 アンナ!

 あれはアンナであるに違いない!

 

 無論、彼女がトマスをトマスと認識して唾を吐きかけたはずもない。トマスとして認められる資格はないし、記憶の上では出所から数十年を経ている今のトマスを彼女が識別できようはずもないし、そもそも垣間見た彼女の姿は最後に見た姿、後頭部から流血するその姿にトマスが恐れ慄き、呻吟の末に救急車を呼んで救命したあの一夜の姿に比して加齢の様子が見られなかった。

 

 だがトマスは、それをアンナだと確信して疑わなかった。

 

 何故?

 理由は明白だ、トマスはアンナに侮蔑され唾棄されそれにもまして路傍の石と扱われればそれに苦しむのであり、そしてそのことこそがトマスの望むことでもあるからだ。

 

 百万余回、アンナを殺し続けたトマスにこそ、その仕打ちは相応しい。

 

 そして、垣間見たアンナの姿に一瞬たりとも「アンナは生きている」と歓喜した自分に然るべき報いを与えてやらねばならぬ、と決意する。都合のよいことに目前には、ゴミ集積場の前に林立するがゆえに最低家賃であろうことが容易に見て取れる薄汚い集合住宅(ヴォーヌング)があって、高さは七階建てと頃合いだ。

 必ずしも即死に至らず、さりとて確実に全身は砕かれ折れた肋骨は肺を貫き割れた頭蓋が辛うじて数分の悔悟の思考をおこなえる程度に脳を撹拌するであろう頃合いの高さの建物がそこにあり、また都合良くも屋上へと繋がる扉の一つが施錠されぬまま開け放たれているのもこれまた理由は明白。

 

 それこそがトマスの望むところであるのだから。

 

 運が良ければ、重力に引かれるままに地面に叩きつけられた自分の側を再びアンナが通り過ぎ、侮蔑の視線と唾を吐きかけてくれるやも知れない、と期待を抱いたトマスは、期待を抱いた行為を含む自身の罪を償うべく勢いよく宙へ舞い飛んだ。

 

 

                    *

 

 

 人間の精神活動が神経系の為せる(わざ)であることは疑うべくもないが、それは通俗考えられているような脳という一器官に局在するものでは決してない。脳は神経系の中にあっても一際目立つ結節点に過ぎず、それ単体で精神を発露するものではない。

 <コピー>についてもそれは同じで、脳の非侵襲走査結果のみから十全な精神活動を再現することは叶わず、とりわけ重要な五感に加え、末梢神経に至るまでの各種刺激、また内臓諸器官から届けられる意識的には自覚されない各種情報もまた、十全な精神の顕現には欠くべからざるものであった。

 そのような理由から、<コピー>は仮想空間内ではどのような姿を対外的に現じることが出来たとしても、人間身体(モデル)またはそれとの互換性を有する入出力系を必ず備える必要がある。飲食不要を設定した場合であっても、擬似的に血糖値は時間遷移を必要とするし、呼吸不要を設定した場合であっても血中酸素濃度は周期変動をおこさねばならない。

 そういった中にあって痛覚は、しばしば軽視されがちであるがやはり欠くべからざるものである点は変わらない。痛覚はすなわち元来の人体の生存の危機に対する警告(アラート)であり、これを完全遮断すると、普段用いない後天習得した言語が次第にうまく扱えなくなるように、当人の危機対処能力は麻痺していくことになる。

 これを避けるために常識的な<コピー>は、身体接触を許可性とし信用できない他の<コピー>からのその強要を排除しつつ、痛覚については標準設定とし、自身の不注意……本質的に彼らの身体認知機能は普通の人間と相同であるに過ぎない……から人間身体またはそれに相当する領域が何らかの仮想空間中の物体(オブジェクト)と接触した場合は、その性質(プロパティ)に応じた反動(フィードバック)に甘んじるのが一般的であった。

 

 ポールは、いささか理不尽なことであるとは感じつつも、小刀が突き立てられることによって自身に生じるであろう痛覚を覚悟した。それが彼の存在継続に影響を与えることはまったくないが、物体が彼が専有すべき領域に重複し続ける限り、その警告としての痛覚は継続するはずだ。

 

(自分が彼女にしたことを思えば、この程度の報いはあって然りだ。

 否、これを受動的な罰であると考えることは本質的には正しくない。

 

 これは私の能動的な意思によるものだ。

 この行為が彼女の心の平穏に必須であるならば、私はそれを喜んで受けよう。)

 

 だが。

 

 彼を襲った感覚は、第一に金属質の物体が床に落ちる不愉快な甲高い聴覚と、つづいて全身を包んだ優しい抱擁(ハグ)だった。

 

「ありがとう、ポール。

 そしてごめんなさい。

 

 貴女が私を決して傷つけないと誓っていることは気づいていたわ。

 でも、私にはこの儀式が必要だったの。」

 

 ポールは果たして自分は彼女を抱き返すべきか、と一瞬悩み、そうすべきではないと判断する。

 自身は棒立ちのまま、ただこう告げた。

 

「貴女は決して上位宇宙の実験素材などではありませんよ。」

 

 対するマリアはこう応える。

 

「それは証明不可能命題よ。」

 

 それはごもっとも。

 世界五分前仮説(ファイブ・ミニュッツ・ハイポセシス)同様、それは立証も反駁も出来ないものだ。

 

 だがしかし。

 で、あれば、この儀式には何の意味が?

 

「別に貴方が上位宇宙の邪悪なポールから派遣された傀儡であっても構わないわ。

 私の設問に対する貴方の回答は及第点だったから。」

 

 はぁ……?

 

 まったく、この(ひと)ときたら……

 否、まさにこれこそマリア・デルカ、ではある。

 

「私は……これを光栄に思うべきなのでしょうか?」

 

「そこはご随意に。

 私は他人の私に対する感想を恣意に強制するほど傲慢ではないわ。」

 

 ポールは、傲慢、という語の理解が自身と彼女の間で必ずしも合致していないと感じる。

 

「重要なのは……」

 

とマリア。

 

「貴方がポール・ダラムであるか否か、はさしたる問題ではない、ということ。

 私にとっては貴方が信頼と敬意に値する人であってくれさえすれば無問題よ。」

 

 どうにも褒められているのやら貶されているやらよくわからない複雑な感情がポールに湧き上がるが、笑顔だけは絶やさず心の中で深く安堵する。

 

 流石に今のはヤバかった。

 あのまま刺されていても、自分は笑顔を絶やさなかったのだから。

 

 と。

 

「では、改めて第三の容疑者に取り掛かりますか?」

 

 かくして二人の安楽椅子調査(アームチェア・インヴェスティゲーション)はいよいよ核心に迫る!

*1
原作には同様の行為の法制化議論について言及があるが、<コピー>についての世論誘導を目論んでの為にする議論であることが匂わされているため、本作では不可能なものと前提している。

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