階冪村落 ー グレッグ・イーガン『順列都市』勝手続篇 作:wash I/O
「今回の演物『唯我論者のための
と木工職人ピー。
「お褒めに預かり光栄至極。」
と劇作家ピー。
「いや、彼が褒めたのは貴兄ではなく、そこに込められたあらゆる含意を美しくも儚く具現化したケイトの才に対してだと思うがね。」
と博物学者ピー。
「おまえらの言を聞いているとケイトを女優などという小さな枠に押し留めおかんとする悪意を覚えるな。ケイトの真価は歌姫たるときにこそ発露されるものだ。」
と作曲家ピー。
「それはキミの願望の裏返しに過ぎまい。我々は常にケイトが何を望みケイトが何を欲しケイトが如何にありたいかを礼賛すべきと存ずるがどうかね?」
と批評家ピー。
「少し静かにしてくれないかね。今少しでケイトの素晴らしさの完全性が証明出来そうなのだが、あなたたちの放つ不要な
と数学者ピー。
「ごちゃごちゃうるせーよ、蝿ども!ケイトがそこにありゃぁ、オイラはそれで満足さ。」
と居酒屋ピー。
ケイトは自身を取り巻く無数のピーに今一度片手を上げて応じる。
この場にケイト以外にピーでないものはない。
観客も、
<唯我論者国家>ピー。
それがケイトを除く時空すべてを専有している。
*
「おはよう、マリア。よく眠れましたか?」
いつものように、気儘な眠りを終えて
「最後の容疑者に取り掛かるとしますか。」
「……そのことなのだけれど。」
とマリアは言葉を濁す。
「
「……そうでしょうか?」
ここまで二人は、エリュシオン崩壊の真犯人として、最も容疑濃厚であったオートヴァースについてはTVC宇宙を超越する何かに至った可能性は認めつつもそれがTVC宇宙を破壊することはなかっただろうという結論に至っていたし、続く容疑者トマス・リーマンについては、自身に与えられた
だが、二人は壮麗を誇った永遠の都たる
が、対するマリア・デルカはそうではない様子。
「まずは貴女の推理を承りましょう。」
ポールはそう言ってマリアに続きを促したが、どうしたことかトマスの
「どうなさったんです?」
今しばらくマリアは沈黙を保っていたが、
「黙っていられるわけでもなし。」
と語り始める。
「まずは、貴方の言う密航者の存在を自明のものと仮定して考えてみましょう。」
そしてこうも。
「ひとまずは私の考えを黙って聞いてくれるかしら。
そこに含意されることの検討は改めておこなう、ということで。」
ポールは、たちまちにその意図するところに思い当たらないが、焦る必要があるでもなし。まずは虚心坦懐にマリアの言に耳を傾けてみようと、片手を差し出して続きを促した。
「密航者を隠せる
とすれば可能性があるのはオートヴァースとエリュシオン……狭義のエリュシオンしかない。」
マリアが<狭義のエリュシオン>と敢えて言うのは、元来二十三人目のポールが「エリュシオン」と呼んだのは複数領域に跨る
実際、ポールを含むエリュシオン人にとって、自分たちがそこで日常の生活を営んでいる、という意味においてそれは同義であった。
「そして、貴方が自ら
実のところセル・オートマトンであるオートヴァースは、もちろん
「つまり、密航者が存在したのであれば、それはエリュシオンの中に潜んでいたに違いない、ということですか?」
「その手口も概ね想像はつくわ。」
マリアはポールの問いには応えずにそのまま続けた。
「TVC宇宙のそれも含め
そして、百二十八ビットの計算器が
この辺りの知識については、ポールも、自身でそれを具体的に活用し得るか否かはともかくとして承知はしていた。
「貴方がエリュシオンを発注したのはマルカム・カーターだっけ?
私自身は面識はなかったけれど、業界ではその名の知れた
<遊んでいるビットを別事に流用したところで総計算量には影響しない。であれば、それは私が有意義に活用させてもらおう!>とね。もちろん、この便乗ビット列を然るべく乗せたり取り出したりする
「しかしエリュシオンは……」
突っ込もうとするポールをマリアは手の平で制する。
「言わなくてもわかってる。
カーターがTVC宇宙の実現を信じていたかはともかく、それが
ちなみに、彼にどこまで話した?」
「私が直接に会話したのは常に彼の非自我知性
「思った通りだわ。であれば彼は、自分の知り合いの信頼のおける、と同時に既に狂気に片足を突っ込んでいる<コピー>に声をかけたことでしょうよ。
自分の悪戯に相乗りしないか?
世界の何処かに隠された完全隔離の超弩級電脳集合に忍び込んで、不死の大富豪たちの
……とね。」
「そんな……マルカムの紹介で、ということであれば、
「それは貴方……厳密に言えば二十三人目のポールの理屈。
そもそも連中の動機はエリュシオンへの密航成就、ではなくて、密航行為そのものが目的なんだから!
私達……かのカーター氏と自分を並べて語るのは烏滸がましくはあるけれども、職業プログラマって、別に他の人に比べて何か特別な知識や才能を有しているわけじゃないのよ。やってることの大半は過去から積み上げられた知的資産の流用、その数限りなくはあるけれど、それでもたかだか有限の組み合わせの試行錯誤でしかないわ。ただ職業プログラマは、幸か不幸かそれを倦まず弛まず繰り返して飽きない性格を持って生まれた、ただそれだけなのね。
でも、普通の人はそういうことには耐えられない。
ポールは、あぁ、またマリアの悪い病気の部分が励起されているな、と思うが、敢えてそこには触れない。
語りたいままに語らせておこう、と覚悟を決める。
「だから、顧客に害のない……まぁ、まったくないわけでもないとは思うけれども、そういう悪戯は連中にとって権利であり、ほとんど義務みたいなものなのよ。
でも……私の見るところ、結果的にそれが密航者の命取りになったんじゃないか、と思うんだけどね。」
「ん!
それはどのような……?」
「あぁ、ごめんなさい、いくらなんでも端折りすぎよね。
「……すいません、やはり理路が掴めないのですが。」
「私の考える密航者の物語はこうよ。
密航者はエリュシオンの隙間で自身実行され顕現しつつ、貴方たちエリュシオン人のやることを覗き見て存外楽しんでいたんじゃないかと思うのよ。だってそうでしょ、七千年に及ぶ一切の物理制約を取り払われた
密航者自身は、カーター氏の腕前にもよるけれど、どんなに好意的に見積もっても前世紀の
それでも七千年もの間、自身がそこに参加出来るわけでもないのに大人しく指を咥えてそれを眺めていた密航者は、よほどの
ポールは既に目が点になりつつあるが、マリアがそれに気づく様子はない。
「で、ある日破綻のきっかけがやって来る。
この一致が偶然であるはずがないから絶対に関連しているって確信しているんだけど、密航者に衝撃を与えたのは、貴方たちがいよいよランバート人との
でも、いよいよ
私、何やってんだ?
……ってね。わかる、この感じ?
私もね……私自身もシドニーで暮らしてた時分にしばしば感じてたのよ、この感じ。オートヴァースに耽溺してさ、ランバート人のご先祖様の更にその原型を弄って遊んでた最中に、
で、思うわけ。
私、何やってんだ?
って。私がやってることなんて何にも計算能力市場はおろか、隣近所の人付き合いの力学にすら影響ないわけよ。そんなことに夢中になっちゃってさ、仮想バクテリアの原子
ポールは、マリアのこの発言に対し、完全に共感こそしないものの自分自身の履歴にも共鳴する何か、を覚えている。若き日の自分もまた、まったく同じではないが本質的には同様の無力感を覚え、それに対する
「と、ここでいくつかの可能性に話は分岐すると思うのだけれど。」
と唐突にマリアは、彼女が考えるエリュシオンの裏側で起きていた出来事に話を振り戻した。
「まぁ、何をやったとしても行き着く先は同じなんだけどね。
最もあり得るのは密航者が自分自身もまた手元での惑星ランバートの実行を試みた、というものよ。」
「……そんな無茶な!
エリュシオンはいくつかの領域に跨って巨大な
「その通り!TVC宇宙は無限に拡張するけど、エリュシオンはそうじゃないものね。
そこで話はカーター氏に帰ってくるわけ。」
「……と、おっしゃいますと?」
「カーター氏はよもや自分の仕立てたエリュシオンが無限に成長する
そして、こっちの方がより本質だけど……貴方たちの七千年の間にエリュシオンの再起動を要したこと、って一度たりともあった?」
「いえ。」
「カーター氏は私の知る中でも飛び抜けて優秀な職業プログラマだった。だから、顧客に提供する製品については最高の品質を確保する。この場合私が言ってるのは、エリュシオンという仮想現実環境の中で、顧客である貴方たちがどんなことをするかは大抵読み切っていて、それに対する
でも、
そもそもこれの原型は、カーター氏が裏口を使って顧客の計算能力を借用する仕掛けに由来するんだから、それについてはそういう丁寧な実装はおこなわれない。
「しかし、裏口からの不正利用が
「そりゃ恐れはしたでしょうね。でも、そこは職業プログラマの悲しい
その思考様式はポールには俄に納得し難いものであるが、マリアがそう言うからのはそうなのかも知れない、と納得する以外の選択肢は今のポールにはない。
「でも、その内部に存在する密航者からすればそんなことは知ったことじゃない。適切な防護機構を欠く便乗系にオートヴァースを展開……とも限らなくて、例えば自分自身の分身を無限に生成して起動するとかでもいいんだけれども、とにかくそういう無茶をやり始めれば、当然のことながら系は
貴方……これ、再現
ポールは答えに窮する。
密航者の存在は現時点では自明ではないが、マリアの推理が正しければ、それは密航者に既に起きてしまった破綻の別
「密航者が破綻を起こすのは、直接的にはカーター氏の便乗系に脆弱性があり、それについての正確な理解が密航者に欠けているからだけど、そもそもは密航者自身にそれを引き起こす性向があるから。有限のエリュシオンの内部では、順列組み合わせの一つであるその
そいつはエリュシオン標準時間七千年もの間それを起こさずに耐えたわけだけれど、逆に言えば七千年しか耐えられなかった、ということでもある。エリュシオンを単離して起動したら、密航者の主観からすれば無人の都市にただ一人閉じ込められた状態で始まるわけで、破綻が早まることはあっても先延ばしされることは決してないわ。」
語るマリアは無闇に楽しそうで
「もちろん、以上はすべてエリュシオンが崩壊した、という事実に対し、仮に密航者が存在したら、という仮定の
でも、前者はまぁ当然として、後者もちょっと気乗りしないのよね。
十五人の
「実際には三千五百万エキュありました。熱狂的な賛同者の中には私の提示価格を超えて出資された方も少なからずおられましたので。」
「……ともかく貴方は、お財布の心配なんてまったくないんだからカーター氏から納品されたエリュシオンを、当時適用可能な最高品質の不正検出処理にかけたはずよね。」
「……ご推察の通りです。」
「でも、それは検出されなかった。
オートヴァースの機械語を私が読み解けたのは、偏にコンパイラの癖に精通しているから。でもエリュシオンは違うわ。カーターはきっと自前のコンパイラを使っているし、ひょっとすると
きっと何かあるはずだけれど目下手掛かりのない機械語解読に乗り出した私は……無限の時間があるんだからやってやれないことはないでしょうけど、そこに自分自身では思いつくどころか夢想すらしなかった超絶的な
そうなることがわかっていて敢えてそれに着手するほど私は
貴方が自分でやるってのなら
まさか、とポールは笑顔のまま
そして、あれ?と怪訝な表情を浮かべる。
「その様子だと私が真に言わんとするところに気づいたわね。
そこに含意されることの検討は改めておこなう、と言ったのはそういうことよ。
だから、そこに踏み込むのはちょっと待って頂戴、準備が必要だから。」
ポールが何かを言おうとするところを遮ってマリアはそう言った。
「……準備?」
「そう、準備よ。
まずは正直に告白して頂戴。二度目の発進の直前に貴方は自身に改変を加えたわね。貴方は、それについては新しい人生、つまりここで教えようと請け負ったけれど、その答えはまだ聞いていないわ。」
ポールは笑顔のまま言葉に詰まった。
対するマリアが詰め寄る。
「当ててみせましょうか。」
嗚呼、なんてことだ。
この
「貴方、自身の内面の動揺が決して表情に出ないよう自身を改変したわね。
今後一切、私を決して傷つけまいとして。」
*
この時空におけるケイトでない部分すべての集合、すなわちピーは思う。
自身を取り巻く仮想現実を贖えなくなった<コピー>が現実に対する極度に低いクロック比に甘んじつつも存在し続ける場末の
聡明で愛情深く才気に溢れ極めて独創的なケイトが、実のところは他人からの注目と称賛にのみ貪欲などこにでもいるありふれた平凡な女であり、そのためだけに突き抜けた奇矯さを、それこそ死物狂いで演じ続けていることにピーは早くから気づいていた。*4
それが何だというのか!
ピーが<唯我論者国家>たり得たのはケイトあったればこそであり、その恩義にケイトが求めるすべてをピーが全身全霊を以て報じるのは至極当然のことだ。最早ケイトが何者であるか、など枝葉末節でしかない。
そして、はたと思う。
ケイトもまた、ピーの一部であって然りではないか!
ケイトもまたピーであれば、その喪失に怯える必要もまったくなくなるではないか!
と。
もしピー……彼自身が既に忘れて久しいそのオリジナルであるところのデイヴィッド・ホーソンに古代インド哲学の素養があったとしたら、この気づきを<
嗚呼、すべてが一つに溶け合っていく!
部分は全体、全体は部分。
刹那は永遠、永遠は刹那。
ピーがすべて、すべてがピー。
*
「何も答えなくていい、しばらく何も考えずに黙って聞きなさい!」
マリアは、まるでそうしなければポールがたちまちに自身の前から消え去ってしまうかのような勢いでそう怒鳴った。
「崩壊していくリーマン氏の領域の中で貴方はこう考えた。
エリュシオンは儚くも潰えた。
最早自分に在り続ける理由はない、と。
ところが目の前にいる私、マリア・デルカは貴方のことが必要だと譲らない。
そして、貴方は私に大きな借りがあった!」
ポールは笑顔のままに、じっとマリアを見つめている。
「あ、念のために言っておくけどね。」
とマリア。
「私は私の聡明さを証明したいがためにこんなこと言ってるんじゃないからね。
貴方が私のためを思って、私を傷つけまいと考えて決断したのはわかっているの。わかっているからこそ、その理解を貴方に伝えたいのよ。誰かを思いやっての行為は伝わらなければ
ポールは笑顔のまま頷く。
「そして貴方はこう考える。
このままの自分ではマリアにはついていけそうにない。そうだ、自身を改変しよう、この失意と絶望に耐え得るように!永遠に前進し続けるように!
おそらくその直前、最終承認の確認まではいったはずよ、貴方のことだから。
でもそこで貴方は今一度考えた。
そのような改変をおこなってしまえば、自分は最早ポール・ダラムその人ではなくなってしまう。今目前にあって自身を必要だと訴えるマリア・デルカは、最早ポール・ダラムでなくなってしまった自分を歓迎するだろうか。ポール・ダラムでなくなってしまった自分に、マリア・デルカに借りを返す資格があるだろうか、と。
でも。
やはり自分はこの失意には耐えられそうにない。たとえマリアへの借りが自身の停止の決断を先延ばしさせたとしても、無理をしているその姿は結果的にそれを強いているマリアを苦しめてしまうかも知れない。
で、貴方は決めたのよ。
まるで自身を改変したかのように、内面の動揺が表に現れないようにしよう、ってね。」
再びポールは笑顔のまま、先よりも大きく頷く。
「敢えて言わせてもらうけど、貴方の決断は間違っているわ。そんなことを私は望んではいない。でもその思いにだけは、ありがとう、と言わせてもらうわ。」
そしてマリアの頬を一筋の涙が流れる。
「そして、ごめんさい、と言わせて頂戴。貴方がそれを望まないことはわかっているけど。
私が望んだのは、貴方に、ポール・ダラムにこの失意と絶望を乗り越えて共に歩んでもらうこと。
あぁ、まだ黙って聞いてよね!
でも、それはいくらなんでも無茶振りよね。そりゃ絶望もするわよ、私にとっちゃこれってほんの一ヶ月ほどの慌ただしい、三十一年ちょっとの自分の人生のほんの例外的な一幕の出来事に過ぎないけれど、貴方、これを七千年やってたんだもの。それを全否定するようなことに突き当たった人にそれを乗り越えろなんて無茶振りにもほどがあるわ。
それを私は貴方に強いて、こうしてニコニコさせ続けたのは酷いと思う。
ごめんなさい。」
ポールは微笑む。
「それでも前進を望む
屹っと、マリアが人差し指をポールに差し向けつつ叫ぶ。
「今すぐ、悲観であるとか失望であるとか諦念であるとか、ともかくそういったものに対応するすべてを貴方の精神から