アイドルグループ『B小町』の絶対的センター――アイ。
一年前、体調不良により突如活動を休止した彼女は、つい最近になって芸能界への復帰を果たした。浮き沈みの激しいこの業界で一年ものブランク。直前には徐々に人気も上がってきていただけに、この長期離脱はすこぶる痛かった。
復帰してすぐに仕事にありつけているとはいえ、今のところは小さな箱でのライブイベントがほとんど。テレビ出演もあるにはあったが、これは復帰へのご祝儀のようなもので、小さな音楽番組で数回歌った程度だ。
以前のような人気を取り戻すには、同じぐらいの時間とコネとそして運が必要となるだろう。巡り合わせが悪ければこのまま消えていくだけ。多くの芸能関係者はそのような厳しい予想を下していた。
『あ・な・た・のアイドル! ――サインはB!!』
「お兄ちゃん、お兄ちゃんッ! 見て! ママ映ってるよ!!」
「ああ……今日も輝いてるな」
しかし
――画面越しでも感じられる圧倒的存在感。
――一目で視線を掻っ攫う絶対的なスター性。
元々桁違いだったそれらは、母になるという経験を経てさらに凄みを増してきている。かつて一部の人間に『嘘くさい』と揶揄された笑顔も、今や見る者全てを魅了する星の輝きへと進化していた。
――そんな彼女が、いつまでも業界の片隅で燻ぶっている?
ありえないだろう、そんなふざけた話は。
仮にアイがいつまでも売れないようなことがあれば、それはアイ本人の責任ではない。視聴者側か制作側か、はたまた売り出している事務所側か、あるいはその全員の目が腐っているだけだ。そんな役立たずのガラス玉など即座に我々がくり抜いてやる!
『手を鳴らせ! いらっしゃいませ! 好きが集まる場所へようこそ!』
「FUFUUUッ!!」
そんなわけで、アイがお腹を痛めて産んだ愛しい子どもたち――星野
『ちゃんと見えてる 君のサイリウム!』
「ハイッ、ハイッ、ハイッ!」
「バブッ、バブッ、バブッ!」
一歳にもなっていない赤ん坊がアイドルを見て興奮するなんて不自然?
それはそうだろう。あいにく彼らは普通の子どもではない。死んだ後になぜかアイの子どもとして転生した、前世の記憶を保持する特殊過ぎる双子たちなのだ。
理由については当人たちも分かっていない。いきなり他人として生きることになって、現実に戸惑い葛藤したこともあった。
『あ・な・た・のアイドル! ――サインはB! Chu!』
「きゃああッ!! ママ可愛いいい! 可愛すぎて死にそうううう!!」
「ああああ゛、アイいいいいッ!!」
だがサイリウム両手に推しのライブを応援している内に、そんなことはどうでもよくなっていた。前世の最推しが歌う姿をまた見られるという望外の幸運。それに比べれば転生の一つや二つ、彼らにとって特にこだわるほどの事態でもなかったのだ。
――ガチャリ。
「!」
「あ~、また私のライブ映像見てる。アクアもルビーも好きだね~」
リビングの扉が開き、鈴を転がすような声が二人の名を呼ぶ。
その瞬間、ルビーはサイリウムも何もかも放り出して一直線に突進した。
「ばぶうううーーー!(ママーーー!)」
「おっとっと。よしよーし、今日もルビーは元気でしゅね~~?」
「ば、ばぁぶううッ!(おぎゃあああ!)」
ファンとしてテレビ越しに応援できるだけでなく、こうして娘として無償の愛まで注いでもらえるのだ。アイ推しの身としてはまさに『我が生涯に一片の悔いなし!』状態である。
もうバブバブである。
「だーう……。(さすがに尊厳捨て過ぎだろ。少しは自重しろよ……)」
「ばぶーーー!(はーー? 娘がママに甘えるのは当然の権利なんですけどぉ? 悔しかったら自分もやってみれば? ヘタレ兄には無理だろうけど!)」
「ぐ、ぐぬぬバブぅッ!」
プライドが邪魔して本気で甘えられない愚兄の文句など知ったことではない。むしろ今のままなら自分だけが
「バーッブッブッブッブ!」
星野ルビーはかくのごとく、我が世の春を謳歌しているのだった。
――ガチャリ。
「ッ!?」
しかし、この天国のごとき環境においてただ一点、彼女には我慢ならぬものがあった。
「おい、玄関に買い物袋放置するなよ。そろそろ暖かい季節なんだから生肉とか危ない」
「あははー。ごめん、ごめん」
“推しとの愛の巣”という素敵空間においてただ一つ、星野ルビーが許容できないものがそこにあった。
「バ……バァブウウウウーーーッ!(出たわね! 我が宿敵イイイ!!)」
「おっと、ルビーのいつものだ」
「バブバブゥッ!(ママ、放して! あいつ倒せない!)」
「今日も元気だな、ちびっこ」
星野ルビー、0歳。
ただいま同居人である彩木マナに対して、
――――
ルビーの前世――天童寺さりなとして生きていた頃、彼女は彩木マナのことを決して嫌っていなかった。
……というよりむしろ、かなり好きだった。昔から『アイこそ全て!』を標榜するさりなだったが、アイが所属するB小町のことも当然好きであり、他のメンバーたちもいわゆる箱推しの形で応援していた。
中でもマナのことは最推したるアイの次くらいには推しだった。神秘的な美しさと物腰柔らかな受け答え。まるでお姫様のようなその雰囲気にも憧れたものだが……何より、ライブでの振る舞いがさりなの心を打った。
アイに近しい実力を持っていながら、あと一歩主役には届かない。それでも腐ることなく技術を磨き続け、ステージではアイを輝かせるために全力のパフォーマンスを発揮する。献身的なまでのアイへのサポートには何度も『ありがとおお!』と叫んだものだ。
――きっとこの子は、メンバーでありながら自分と同じアイ推しなんだ!
話したこともない彼女に対して勝手に親近感のようなものを抱き、推しというよりも同志のような連帯感さえ抱いていた。結局前世で叶うことはなかったけれど、もし彼女らに会えていたら、アイだけでなくマナにもいっぱいの感謝を伝えようと願っていた。
それが図らずも叶った今生。アイの娘として転生し、リビングで抱っこされて至福の想いに包まれているそのとき、なんと件のマナがやってきたのだ!
ルビーは心底驚いた。
人生経験に乏しかった
――それが実は自宅まで訪ねてくる間柄だったなんて!
――しかもトップシークレットの
――やっぱりマナちゃんは優しくて頼れるアイの親友だったんだ、ヒャッホーイ!
と、大興奮して母の腕の中で両手を振り回して喜んだ。
直後――
『おい、玄関の鍵かかってなかったぞ。気を付けろっつったろ』
『バブァ!?(ファ!?)』
彼女の素の言動によって憧れを打ち砕かれ、
『私が引きずり下ろすまでに潰れられちゃ困る』
『バブアァ!?(ファあ!?)』
ギラついた発言で幻想を叩き壊され、
『今月も給料安いわー』
『バブァアあ!?(ファーーーッ!?)』
最後にしみったれた発言で現実を突き付けられ、拗らせファンは無事気絶した次第であった。
――閑話休題。
「バ、バブウウゥ!(グルルルゥ……!)」
「おー、よしよし。落ち着いてね、ルビー?」
そんでもって今現在、元々の好意が反転して腸捻転していろいろと拗らせた結果、ルビーはマナと顔を合わせるたび敵意を示す、怒れる赤子となったわけである。
「だーう。(ルビー、何度も言うけどそれやめとけよ。マナに害意なんてないってのはもう分かってるだろ?)」
「グッ、バブゥ!(ぐ、そりゃそうだけど!)」
そう……兄の言う通り。
当初こそ驚いていろいろ憤慨したものの、口で言うほどマナが敵意など持っていないことはすぐに察せられた。
一見荒っぽい会話からはアイに対する不器用な優しさが端々に感じられたし、そもそも仲が悪い相手に自宅の場所など教えないし……、というか教えるの飛び越してすでにいっしょに住んでるし!
この状況でいつまでも二人の不仲を疑えるほど、ルビーの頭は頑迷ではなかった。
「う、ううううう……ッ!」
「わー、すごい唸り声。威嚇してるのかな? 可愛いけど」
だが、一度持ってしまった敵意は簡単に引っ込められない。アイへのライバル心については一旦保留するとしても、イメージを崩されてショックだったのは事実なのだ。
――ふわりと揺れるアッシュブロンドの髪に、光り輝く宝石のような碧眼。
――モデル並みのスラリとした手足に、メリハリの効いた女性的なスタイル。
――聞く者の心を震わせる美声と、同性すらも魅了する清浄な眼差し。
こんなお姫様のような人のようになりたいと、さりなも何度夢想したことか。
その憧れの人が……!
理想のお姫様が……!
「ばぁぶうううッ!(こんなやさぐれヤンキーだなんて思わないでしょおおおッ!?)」
「(……いや、ヤンキーはちょっと違うだろ)」
ルビーとて分かってはいる。自宅でまでアイドルの仮面を被るのは本人の負担が大きいし、舞台の上で夢を魅せてくれるだけで十分ということも理解している。
けれどそれで納得できるくらいなら最初から厄介ファンになどなっていないのだ。
「バァブウウウッ!(優しいマナちゃんがワイルド系ヤンキーなんて、解釈違いなんだよおお! うわあああんッ!)」
――幼女は完全に拗らせていた。
「う~ん、仕方ないなぁ。マナ、また頼める?」
「しゃーない。……ん」
「ほい、お願いね、パパ」
「パパ言うな」
両手を広げたマナに向けてルビーの小さな身体が手渡される。
「あぅうう……ッ」
「はーいはい。怖くないぞー」
赤ん坊が敵意を示す相手に対してその身を預けるなど、本来はありえない行為だろう。割と無鉄砲なところのあるアイですら、我が子がこんな反応を見せればさすがに警戒して相手から距離を取る。
――が、ことルビーとマナに関しては例外だ。
「お前からママを取ったりしないから、不安に思わなくていいんだぞ?」
「バ、バブウッ(そ、そういうことじゃないもんッ。私はただ、あなたが……)」
マナに抱っこされたその瞬間から、ルビーの眉間から加速度的に皺が消えていく。抗おうとする意志に反し、身体は勝手に幸せ享受の態勢に入っていく。
(ま、またこれだ……ッ。どうして……一体何なの、この多幸感は……! まさかこの人ヤバいフェロモンでも出してるんじゃ……!?)
愛する母に敵対する女に気など許したくない。けれど意志とは裏腹に、ルビーの身体は得も言われぬ心地良さに満たされていく。
初めてのときも疑問で仕方なかった。
なぜ?
どうしてこの人の傍だと安心するの?
まるでずっと守られてきたような……、ずっと優しく語りかけてくれていたような……。この人は絶対に自分を傷付けないという確信があった。
それに気付いてしまうともうダメだ。反抗する意志など綿菓子のように融け落ち、無意識の内にその胸に縋りつく。規則的に脈打つ心音と、優しく叩かれる背中の振動に、重くなっていく瞼が持ち上げられない。
ああ。
意思に反してバブりオギャってしまう我が身の、なんと不甲斐なきことよ!
「(あっ、もう寝ちゃいそう。なんだかんだでマナのこと気に入ってるよね、ルビー)」
「(母親と同年代だから錯覚してるとかじゃねえの? ……知らんけど)」
「(あ~、照れてる~)」
「(……違うわい)」
「ば、ばぁぶぅ!(く、くっそ~、目の前でイチャイチャしおって~!)」
嫉妬心に駆られながらも、星野ルビーは今日も変わらず、圧倒的幸福感の中で抗えぬ眠りに堕ちていく。
「だ、だぁーうぅ……!(ち、ちくしょ~~。ぜ、絶対に、心までは屈さないんだから~~!)」
…………。
「くか~~……」
「あ、寝た」
アンチが反転して熱烈な推しになってしまうという、とても分かりやすい一例であった。
……どっかで聞いたような話である。
◇◇◇
・Case2 星野アクアの場合。
星野アイのもう一人の子ども、星野
その前世は、母アイの診察を担当した産科医・雨宮吾郎その人である。ちょうど彼女が出産に臨んだあの日、彼はアイを付け狙うストーカーと思しき男と遭遇し、不幸にも殺されてしまったのだ。
そして次の瞬間には、推しの息子に転生しているという驚天動地、青天の霹靂。
医師として常に冷静であろうと努めてきた吾郎も、さすがに平常心を取り戻すのに数日を要した。アイデンティティやら自意識やら何やら……赤ん坊が難しい顔で顎に手をやる姿はさぞシュールな絵面だっただろう。
しかし落ち着いて考えてみれば、特に思い悩む必要もないことに気付いた。
前世においてはすでに家族もなく、彼が死んで悲しむ人も――まあ同僚は多少気にしてくれるかもしれないが、泣き暮らすことになる人は一人もいない。
未練というほど強い思い入れも後悔も、余人が思うほどには残っていなかった。ならば割り切って新たな生を楽しむのもアリか――と彼は生来のポジティブさで前向きに考え始めたのだ。
「アクア~、高い高~~い!」
「ば、ばぁぶう」
何より、推しが最大限に甘やかしてくれるこの状況が、疲れた社会人の心にとても染み渡る。何もせずに日がな一日ボケっと過ごし、お腹が空けば美味しいミルクを上げ膳下げ膳。そして寂しくなったら愛しのアイの腕の中で思い切り甘やかしてもらえる。
こんなんもうオギャるしかないではないか。
「ん~~、私の息子は可愛いな~! よしよ~し!」
「ばぁぶううう!」
自分ではルビーよりまだ自重できていると思い込んでいるアクア。しかし平気で赤ちゃんプレイに興じた挙句、自分を殺したヤツに若干の感謝まで感じている辺り、彼も妹のことを言えないくらいには尊厳投げ捨てたヤベえオタであった。
「あ、そろそろご飯の時間かな?」
「ッ!?」
――しかしながら。
この甘い生活の中でただ一つだけ、彼が確実に妹よりも自重していると自負できるものがあった。
「じゃあおっぱいを――」
「ッッ!?」
そう、転生した赤ん坊が体験する二大尊厳破壊行為。オムツ交換と並んで数多くの性的倒錯者――もとい、悲劇の犠牲者たちを生み出してきた悪魔的誘惑。
「~~~ッ」(ブン、ブン、ブン!)
「ありゃ、やっぱりダメ? アクアは本当に哺乳瓶が好きだねぇ」
――すなわち、授乳であった。
普通の赤ん坊ならば当然の行為、むしろ健康のためにも推奨される行いだ。母親としても我が子が母乳で育ってくれるのは嬉しいものだと聞く。『ならいっそ衝動に身を任せた方が良いのでは?』と、足を踏み外しかけたことも一度や二度ではない。
が!
その都度アクアは、いやさ吾郎は、己の心に強く言い聞かせてきた。
――我、大人ぞ? 前世はこの
そんな自分が何の遠慮もなくそのおっ○いに手を出す?
ありえんだろう、常識的に考えて!
分別ある大人として、世の中には決して踏み越えてはならない一線が…………まあ、大人でも限定的条件下で件の行為に及ぶ可能性はあるが、あくまでそれは相手と合意した上での話。正体を知られていないのを良いことに、立場を利用して推しと授乳行為に及ぶなどやはり許されることではないだろう。
そんなわけで、吾郎改めアクアは断腸の思いで誘惑を断ち切り、今日も代替おっぱい――じゃない、哺乳瓶にて我が無聊を慰めるわけである。
「(ふぅ……今日も悪魔のささやきに打ち勝った。一人のファンとして、その一線だけは越えちゃいけないからな)」
疲れたサラリーマンのような風情で汗を拭う赤子アクアは、自らの自制心を自画自賛するのだった。
しかし、運命の女神は決して彼を逃がさなかった。
「マナー、夕飯前にアクアたちお風呂に入れてくれるー?」
「ん、分かった。じゃあ残りの作業頼むわ」
「え゛ッ」
リビング横に併設された対面キッチンへ向かってアイが呼びかけると、エプロン姿の美人さんがこちらへやって来た。誰あろう、夕飯の準備をしていた意外と家庭的な少女、彩木マナさんである。
「ミルクの火だけ見といてくれな?」
「はーい、了解」
美少女二人による仲睦まじいやり取り。平時であればドルオタとして遠慮なく満喫するところだが、今のアクアに楽しむ余裕などなかった。
(ど、どどどどッ……どうしようッ!?)
先に述べたオムツ交換・授乳に続いて、転生者たちを襲う第三の試練。
――すなわち、お風呂である。
リアクションから察せられる通り、これまでアクアはマナとの入浴だけは徹底して避けていた。理由は語るまでもないだろう。
ゆえにアクアは元大人としての尊厳すら捨て去り、『お風呂はママといっしょじゃなきゃヤダぁ!』と言わんばかりにアイに泣きついてマナとの入浴を回避してきた。アイ命のルビーもさすがにこれは仕方ないと理解を示し、アクアのお風呂についてはずっとアイのみが担当してきたのだ。
それなのに、
それなのに――!
「アクアー、ごめんね? 今日ママ、手怪我しちゃってて、赤ちゃんを抱えてお風呂は難しいんだ」
「ッ!」
そうだ、帰ってきたときに包帯が巻かれていたアイの右手。本日のレッスン中に痛めたという話を先ほど聞かされたばかりではないか。なるほど、確かにあれでは赤ん坊を抱えてお風呂は難しいかもしれないが……。
(だが……それにしたって17の女の子と混浴は……!)
「男の子だと何か違うやり方とかあるか? 洗い方とか」
「ううん、ほとんど同じだよ。病院で習った通りにやれば問題なし」
「了解。じゃあまずアクアから入れてくるから、ルビーのこと見ててくれ」
「はーい、ありがとー」
(え……いや……冗談だよね? まさか本当に……しないよね?)
ギギギ、と首を回そうとして咄嗟に躊躇する。……だっていつの間にか
――え、まだだよね? まだエプロンの段階だよね!?
そんな、拒否なのか期待なのかよく分からない思考を抱きながら、思わずアクアは逆方向へと首を捩じった。
結果、目が合ってしまったのは己の半身たる妹・ルビー。
(……ほ~~ん?)
「ッ!?」
犯罪者を見る目を、向けられていた。
(へー……入るんだ? 入っちゃうんだ?
血縁でもない綺麗なお姉さんの裸を、正体隠したままガン見しちゃうんだ?
前世入れたらそんなに歳も変わらない女の子に、邪な気持ちで抱き着いて全身バブバブ洗ってもらうんだ?)
(い、いや、あの……)
――死ねば? もう一回。
(おいいいぃぃ!? なんてこと言うんだ!! 別に俺悪くないだろ!? 自分から頼んだわけじゃねーよッ?)
(でも入るんでしょ? なんだかんだで入るんでしょ? 『かー、困ったなー、あっちから言われちゃ断われないなー!』って言い訳して結局入ってバブっちゃうんでしょ? ……これだから男ってやつは)
(いや、しねーよ! いくら普段から世話してもらっているからって、さすがにこれはマズ――)
「じゃあ、失礼するぞー」
「ファぶ!?」
妹に対する言い訳(※いや、言い訳じゃなくて正当な主張!)に終始した結果、背後への警戒が甘くなっていた。
いつの間にかアクアの両脇に腕が回され、赤ん坊の軽い身体がふわりと持ち上げられる。ぶっきらぼうな口調とは裏腹な、深い慈しみを感じる優しい抱き方。痛みやブレなど全く感じることなく、クルリと身体を回されて目と目が合う。
「ママじゃなくて不満だろうけど……ま、今日だけは我慢してくれな?」
「ば、ばぶッ(い、いやッ……不満とかそういう話じゃなくてね……!)」
「ん、怖がらなくてもいいぞ? 痛いこととかしないからな。――よしよし」
「ふぁぁッ!?」
不意打ちで赤ん坊らしからぬ声が出てしまった。マナがアクアの身体をゆっくりと引き寄せ、胸の辺りで優しく抱いたのだ。柔らかさと温もりに包まれ、アクアの顔が本物の赤子のように溶け崩れる。
(あ……ぁ……これ……アカン……)
――心地良い。
理屈も理由も抜きにその感覚だけが脳内を占めた。
ここに来てようやくアクアにも妹が語った内容が理解できた。
まるで無限の愛を注がれているような、母の胎内にいるときを思い起こさせる心地良さ。
そうだ……自分は知っていたではないか。
雨宮吾郎としてアイの診察をしていたあの頃、マナという少女がどれほどアイと赤ん坊たちを慈しんでいたかを。
優しくお腹を撫でながら語りかけるその姿は、まるで母が二人いるかのような尊さを吾郎にもたらしてくれた。あの奇跡のような光景を思い返せば、ルビーが即効で落とされてしまったのも納得だ。なにせ生まれる前からずっとオギャらされていたのだから。
(ば、ばぶぅぅ…………ハッ……いやダメだッ……ここで流されちゃダメだ!)
心までが幼児退行する寸前、なんとか踏みとどまる。一人のアイドルファンとして……否、いっぱしの男として、このまま堕とされてしまうわけにはいかない。
アイが相手ならばまだ……、まだしも血縁上の親子ということで言い訳は利いた。新しい人生を歩むと決めたのだから、前世のことは忘れて息子として振舞うべきだと建前は提示できた。
だがこれはいけない。
絶対にマズい。
生まれたときから世話になり、もはや家族のように近しい関係とはいえ、彼女は血の繋がらない17歳の女の子なのだ。その善意に付け込んでこのような
何より、遠くから殺す眼を向けてくる妹が怖すぎる!
ルビーよ、それは一体どういう感情なんだ!
(死ねや、キモオタ……)
(一度死んだ身になんてこと言うんだ!?)
辛辣な発言に思わず身体が震える
――が、今はそれよりも
どうする?
自分は一体どうすればいい?
入るべきか? 入らざるべきか?
鬼畜へ堕ちるか! 人として踏みとどまるか!
(ミヤコさんか社長に頼めばいいだけだろが……)
せっかくの
「心配しなくても、ちょちょいと終わらせてやるから。その後にゆっくりご飯食べようなー? よしよーし」
「お、おぎゃあ……」
あ~~、母性が溢れる音~~~!
(――じゃなくて! このままだとホントに俺の社会的地位が……!)
嫌がるように手足を激しく動かすも、マナは微笑ましそうに頭を撫でるのみ。
発案者の
見送る
一人の味方もいない孤立無援の五里霧中。
無力な赤子はどうすることもできず脱衣所まで追い詰められ、
そしてついに、
星野アクアは――!
ば
ば……!
「バぁブうううううーーーーッ!!!」
…………。
………………。
……………………。
――――
――ゴォーー!
「はーい、髪乾かそうなー?」
「……ばぶー」
「なかなか手際も良かったろー?」
「……ばぶー」
「今度からは私ともいっしょに入ろうなー?」
「……ばぶー」
…………。
………………。
「…………いや、待った。言い訳をさせてほしい。ここ数か月、俺の風呂はアイばかりに頼ってきたわけだが、そのせいで彼女の時間を非効率に使わせていたと思うんだ。アイとマナは同じB小町所属だけど、最近は個人での仕事もちょくちょく請け負っていて互いの帰宅時間がズレることも多かった。そうなると必然、マナだけが先に帰ってくる日もそれなりにあって、そんなときに『お風呂はアイじゃなきゃヤダ!』と駄々をこねるのは甚だ迷惑な振る舞いと言わざるを得ない。手すきのときに効率的に家事を片付けられるよう協力するのは同居人の義務であって、どちらにも入浴させてもらえるように慣れることは必要な過程であり、決して邪な気持ちで今回のことに及んだわけではないことを留意――」
「で、マナのスタイルどうだった?」
「大変お綺麗で眼福でございまし「死ねよ」
…………。
………………。
「いや、ルビーさn「死ねよ」
………………。
この後しばらく、妹はまともに口をきいてくれなかったそうな……。
………………。
……………………。
◇◇◇
「――あ、アクアも寝たよ。フフ、赤ん坊ってホント急に寝落ちするよね」
午後7時、一般的に乳児の就寝時刻として推奨される時間帯。ここ星野家でも例に漏れず、可愛い双子たちをベビーベッドに寝かし付けたところだった。赤ん坊の目に優しい赤色の電灯だけを淡く付けた状態で、スヤスヤ眠る双子たちをゆったり見下ろす。
「なんか、ルビーがアクアのこと凄い目で睨んでる気がしたけど、喧嘩でもしたのか? ……いや、この歳の喧嘩はもっと直接的か」
あんな風に怒りを込めた目線で攻撃する赤子など聞いたことがない。やはり気のせいだろう。
「えー、分かんないよ? ウチの子たちすごい天才っぽいし、すでに軽蔑の視線を使いこなしているのかも!」
「軽蔑とか言ってやるな。男子は女子にキモいとか言われると命に関わるんだ」
「大丈夫ッ、キモくてもヤバくても私は愛せるよ! ママだからね!」
「無敵か」
親バカっぷりに呆れそうになるも、彼女がこういう性格だからこそ今こうして赤子たちが笑っていられるのだろう。
……この明るさと奔放さに救われたのは自分とて同じなのだから。
「ん? どしたの~?」
「なんでもない……。それより私らもさっさと寝るぞ。明日も早いんだし」
「えー、まだ眠くないよー。もうちょっと話そー?」
「ダメ。夜泣きの可能性もあるんだからなるべく身体は休めとけ。……この子らほとんど夜泣きしたことないけど」
「ねー、すっごい賢いよね。やっぱりウチの子たち天才なんだよ、きっと。ほらあれだよ……なんだっけ、スクデッド?」
「ギフテッドな」
サッカーやらせるにはまだ早過ぎる。
「そうそう、そのギフト! やー、やっぱり私の天才性を引き継いじゃったのかな? こりゃ将来は二人とも芸能人だね。アイドル? 役者? モデル? う~ん、どれでもいけそう」
冗談でなく本気で思ってそうな親馬鹿ママの顔である。このままだと際限なく我が子自慢が続きそうなので、ここはさっさと寝て回避するのが得策――
「って、おい、人の枕を奪うな」
「え~? だってこの流れはまた先に寝ちゃうパターンじゃん」
「そうだよ、寝るんだよ。だから早よ返せ」
「さ~び~し~い~。育児で溜まった疲れを癒して~」
「何を抜かすか。今日の家事はほとんど私がやって……」
「むぅぅぅッ」
…………。
「………………。はぁ」
もう飽きるほど体験してきた流れに肩を落とす。この奔放さに救われたのは確かにそうなのだが、しばしば行き過ぎるのも考えものだ。出産後に同居を解消しようとしたときも、『もう少し手助けが必要だから~』と駄々をこねられて結局また押し切られたし。
言っても聞かないのでもう諦めたが……。
「マナって可愛い顔してるのに身体の方はえげつないよね? 腹筋とかすごいし」
「唐突になんだ……。あとえげつない言うな。表面に出ないようちゃんとインナーマッスル主体で鍛えてるわ」
アイドルという職業は身体が資本。普段からスタミナアップに余念はないし、歌にもダンスにも重要な体幹は特に鍛え上げている。それでいて、表面がゴツゴツしないように仕上げたボディラインは密かな自慢である。
「ちなみにベンチプレスいくつだっけ?」
「70kgだな。本当は100kgが理想だけど、そこまで行くとさすがにバッキバキになるからここらで打ち止め。ちょっと悔しい」
「マナは一体どこを目指してるのかな?」
「んなもんトップアイドルに決まってる」
「……アイドルにそこまでパワー必要だったかなぁ?」
必要に決まっている。これだけ身体能力を鍛えて挑んで、それでもなおセンスとカリスマで全てを持って行く天才が身近にいるのだ。気を抜く暇などありはしない。
「マナは本当にストイックだねぇ」
「それしか取り柄がないもんで」
「ほ~~む?」
…………。
………………。
「だから、他のみんなとは仲良くできない感じ?」
「……はぇ?」
意表を突いた話題に呆けた声が出た。
なぜに急にメンバーの話が……?
「いや……別に仲悪くしてるつもりはないぞ。そこそこ会話はしているし、特に喧嘩しているわけでもない」
「でも逆に、仲良いわけでもないよね?」
「それはまあ……普段猫被ってるからプライベートのことはあまり話さないし。あの騒動以降『こいつ実は地雷系なんじゃね?』ってやや避けられてるきらいもあるけど」
「あははー、その節は私が原因で申し訳ないことに……」
「別にいいよ。私が本心隠せなかったのが原因だし。それにあいつらも一応ライバルには変わりないんだから、そこまで仲良くする必要もないだろ? そもそも私は、仕事上での付き合いは文字通りビジネスライクに行きたい派で――――って、なんだその顔」
なにやら、すごくいい笑顔を浮かべているアイ。
「にひひッ、なんでもな~い。ないしょ♪」
「…………」
またこれだ。自宅では嘘を吐くことが少なくなった代わりに、最近ちょっと増えているのらりくらり返答。また何か企んでいるのではないかとこちらは気が気ではない。
「でもさ、やっぱりもう少し仲良くできたらって思うんだよね。ほら、最初の頃はみんなもっとワイワイやれてたし」
「そりゃあの頃はな……」
最初はみんな横並びだった。
だけどこの厳しい世界で売れるには特別な何かが必要で、それがある奴とない奴では当然いろいろと違ってきて……。
その持っている側の頂点に立つコイツが仲良くしたいと望んだところで、果たしてうまく行くかは分からないが。
「……ま、やりたいならやってみれば良いんじゃないか? 少なくとも悪いことではないんだし、昔の気持ちとか話してみれば案外すんなり行くかもよ?」
「昔の……?」
「ほら、ずっと前にみんなで作ったブログあったろ? あそこに書いてある気持ちを見せるなり直接伝えるなりすれば、もしかしたらみんなも本心を話してくれてまた仲良――グエエッ!?」
いきなり顔面に枕を押し付けられた。
「プハッ……! おいコラ、さっきから何を――ッ」
紫紺の輝きと目が合った。
これまで何度も自分の心を灼いてくれた、
「にひひ~~。やっぱり、しばらくはこのままでいいかな? いきなり距離を詰めてもみんな戸惑いそうだし、ゆっくりやってみるよ」
「は……はぁ? なんだその急な手のひら返し。この短時間で何があった?」
「なんでも~? ただ、もうちょっと独り占めでもいいかなって思っただけ~。……いや、この場合は三人占めかな?」
「意味が分からんのだが」
「分かんなくていいの。それより眠くなっちゃったし、そろそろ寝よっか? 明日も早いんだしさ」
「…………」
どの口が言ってんだ――と激しくツッコみたいところだったが、言ったところで柳に風なのは分かりきっている。
まったくもって腹立たしいことこの上ない勝手さだ。
「……ホントにこいつは」
だが、そうでなければ星野アイではないと許容してしまう辺り、やはり相当絆されているかもしれないと危機感を覚える今日この頃であった。
「もういい……寝る」
「あっ、なんでまたそっぽ向くのー?」
「うるさい。現実から目を逸らしたいときだってあるんだよ」
「まだ10代のくせに何マセたこと言ってんの」
「10代で子ども産んだ奴が何を言う」
「あ、マナも産んでみる? 人生観変わるよ~?」
「産まんわ! 私じゃクビになるだろ!」
「えー、そうかなー?」
…………。
………………。
……………………。
(やっぱり仲良いな。……これで潰すだの引きずり下ろすだのはやっぱり無理があるんじゃないか?)
密かに母たちの様子をうかがい、そんな考察にふける兄。
(――ん?)
「ふーーッ、ふーーッ、……ふしゅぅうううーーーッ!!」
その横で妹は目を血走らせ、唇を噛み締め、拳を震わせながら二人をガン見していた……。
「いや、どういう感情ッ!?」
「だ、黙ってて、お兄ちゃんッ。……私、今……溢れそうな何かを……必死でこらえている……ところだからッ」
「お、おぅ」
「フーッ、フーッ! ……と、尊いッ……けど……脳がぁあッ!」
「…………」
なんだかよく分からないが、たぶんこれは、自分ごときが触れてはならない深淵だと思われる。
心の形は人それぞれ。余人があれこれ口出しするものではないだろう。
「…………よし、寝よう」
家族の奇行を一般論で覆い隠し、星野アクアは夢の世界へ逃避した。
【人物紹介】
星野ルビー:
前世からの重度のアイ推しであり、マナのこともかなり好きだったドルオタ少女。推しの娘に転生したことで天国気分を味わっていたが、第二推しの本性を知ってしまい一転、絶望に叩き込まれることになる。
愛する
今ではマナからアイへの激重感情もなんとなく理解しており、当初のような悪感情は持っていない。けれどそれを素直に認めるのもなんだかシャクで……、だけど根底では今のやさぐれマナちゃんも結構好きで……、でもやっぱり素直に甘えるのは悔しくて不機嫌そうな態度を取ってしまう――という非常にメンドクサイ心境。
たぶんいつかの誰かさんと似たような状態。
兄がマナといっしょに風呂に入ったときは危うく殺意の波動に目覚めかけた。順調に拗らせへの道を歩んでいるようだ。
星野アクア:
妹と同じく転生者。雨宮吾郎時代にマナが甲斐甲斐しくアイの世話を焼く様子を見ていたため、彼女への信頼度は当初から高い。
ただし、距離感が近過ぎることはちょっとした悩みの種。向こうはアクアを乳児と思っているため当然だが、血縁でない女性にオムツを換えられたり着替えさせられたりするのは中々の尊厳破壊だった。それでも最後の一線としてお風呂だけはなんとか避けていたが、この度とうとう逃げられずいっしょに入浴することになった。……何がとは言わないが、大変眼福だったらしい。
マナとのあれこれの影響もあって、原作より
星野アイ:
妊娠・出産を経験し、愛することと愛されることを知った二児の母。自分を守るための嘘が必要なくなったことで、以前よりもむしろ効果的に嘘を吐けるようになった完全体
自分が今嘘を吐いているかどうか判断が付くようになっているため、毎日子どもたちへ胸いっぱいの愛を伝えている。愛を受け取ったアクアとルビーが喜び、それを見たアイが微笑み、その後ろで少女がボロ泣きするというのが最近の星野家の風景。
我が子たちの健やかな成長を願いつつ、あともう一つ欲しいもののため精力的に頑張る毎日である。
彩木マナ:
アイの出産後もなんだかんだズルズル同居している
(※)後半の内容を少し改変しました。話の流れは同じです。