――お母さん、見て! 今日は幼稚園でお絵描きしたの!
――ねえ、ねえ! かけっこで一番になったんだよ! すごいでしょ!
――ほら、お部屋のお掃除したよ! 私、良い子になれたかな?
――プレゼントなんて要らないよ。お母さんといっしょなだけで嬉しいもん!
………………。
――ねえお母さん、苦しいの? なんで泣いてるの?
――誰かにいじめられたの? 私が怒ってきてあげる!
――私、良い子にするよ?
――お手伝いもちゃんとできるよ?
――だから……また笑ってよ、お母さん。
………………。
……………………。
ねえ、お母さん……。
私が生まれてきたから、お母さんは泣いてるの?
私が生まれたのは、いけないことだったの?
もう私のこと…………好きじゃなくなったの?
………………。
……そっか。
そうなんだ。
私がいたから……お母さん泣いてたんだね。
今まで気付けなくて、ごめんね?
……そっかぁ。
もう
――――愛じゃないんだね。
…………。
………………。
……………………。
◇◇◇
――B小町、初の単独ドーム公演開催!
――特集記事、究極アイドルの凄さとは? アイ復帰後の成長要因を分析。
――活躍の場はアイドルだけにとどまらず。若者のカリスマ、アイの素顔に迫る!
――女優としても高い評価を受けるマナ。来年は大河出演も?
――アイマナだけじゃない。私たちも! バラエティで輝きを見せるニノ・高峯コンビの活躍。
――今、最も世間を沸かせるトップアイドルグループ『B小町』の魅力に……
「おー……大絶賛」
ペラリ――と週刊誌のページをめくる。
巻頭15ページ以上を使ってのB小町の特集記事。普段は下世話な論調も多いゴシップ雑誌だが、今回はほぼ全てがプラスの内容だ。見本を貰った他社の紙面もほとんどが称賛一色。半分以上がアイ関連の記事とはいえ、自分たちのことをここまで褒めてもらえるとさすがに面映ゆく感じてしまう。
「まあ……おかげでこんな良い部屋に住めるわけだから、文句はないけど」
雑誌をマガジンラックに戻し、10メートルほど離れた窓際を見る。
「見て見て、ママ! ――サインはB!」
「おーー、すごいよ、ルビー! 角度もタイミングも完璧! もう天才!」
「ホント!? 私もアイドルになれるッ?」
「なれる、なれる! 私が保証するよ! もう連帯保証人だよ!」
「わーい! れんたーーい!」
広々としたリビングでルビーがダンスを披露し、アイが嬉しそうに手を叩いている。踊っているのはアイの復帰と同時にリリースされた人気曲――『サインはB』
メンバー全員が舞台上を駆け回る激しい振り付けだが、どんなに大きく動いてもここなら手足をぶつける心配はない。
子どもたちもずいぶん成長し、今後は行動範囲も広がるだろうということで、つい先日引っ越しを行ったのだ。前の部屋も決して手狭というわけではない――というか10代女子が暮らすには十分過ぎる広さだったが、少しばかりセキュリティが不安だということで、社長の薦めもあってこちらの高級マンションに移ってきたのである。
「ルビー、それは借金の話だからちょっと違うぞ。……あと、親子で保証人は拗れる原因になるからあまりお勧めしない」
「もー、お兄ちゃん! 今そういうマジレスいらない! そんなだから女子にモテないんだよ!」
「……は? いや、モテるし。アイの遺伝子受け継いだこの顔でモテないわけないだろ? だってアイなんだぞ?」
「……うわぁ」
曇りなき眼で主張する姿に、妹が一歩後ずさる。
「お兄ちゃん、私のことやばいオタクって言うけど、自分も大概やばいマザコンって自覚ある?」
「いや、ちげーから。客観的に見てアイはモテそうって事実を言ったまでだから。ほら今だって、幼児に合わせて間違った単語使ってまではしゃいでくれる優しい母――」
「え? 間違った単語って、私何か言ったっけ?」
「「…………」」
一瞬だけ、空気が止まった。
「て、天真爛漫で皆を明るくしてくれる人気者なんだよッ」
「そ、そうだよねッ。アイドルに学力なんて重要じゃないよね!」
「ねえ……なんで急に学力の話を」
「ママ! 私たちはママのこと愛してるからね!」
「そうそう! どんなにアレがアレでも愛してるからな!」
「うん、私も愛してるけど。ねえ、アレってどういう……」
「よーし、もう一回最初から『サインはB』歌っちゃおうかな!」
「おっ、いいな! 俺も混ざるか! いつも映像で見てるから振り付けは完璧だぜ!」
「なら三人で地下劇場バージョンの再現だー! イエーイ!」
「バックダンサーは任せろー! イエーイ!」
「子どもたちがゴリ押しで何かを誤魔化そうとしている……」
「……フフッ」
あのアイが渋い顔になる、というレア現象に小さく噴き出してしまう。普段何があってものほほんと動じない彼女が、子どもたちを相手にするとあんな風に翻弄されてしまう。完璧なアイドルから悩める一人の女の子に、子育てに手を焼く母に戻ってしまうのだ。
「……いいなぁ」
この光景を見るたびに、同じことをいつも思う。
――この子たちが今こうして笑っていられることが嬉しい。
――あのときあの子のそばにいられて本当に良かった。
――自分のやってきたことはきっと無駄じゃなかったんだ。
まるで過去の傷を舐めるような、そんな利己的な安堵を覚えてしまう。
この行いで自分の何かが変わるんじゃないかと、そんなありえないことを考えてしまうのだ。
この10メートルぽっちの距離は、決して埋まることなんてありはしないのに……。
「マナーー! ちょっと来てーー!」
「……ッ」
「子どもたちが母のこと虐めるんだよぅ! もうこうなったら二人で踊ってやろう! 小童どもにプロの実力を見せつけるんだよッ!」
その言葉に思わず吸い寄せられそうになり、浮かびかけた腰を無理矢理押さえ付ける。
「……いや、私はやめとく」
「えー、なんでー? やろうよー!」
「お前とやると張り合いになって疲れるからダメ。夕方には本番なんだし、体力は温存しとけ」
「ぶー、ぶー!」
……何を浮かれている。
何をその気になっている。
自分が“家族”の一員になれたなどと、ほんの一瞬でも思ったか?
アクアが小さく手招きしてくれるから……。
ルビーが唇を尖らせつつこちらを見てくれるから……。
アイが一片の曇りもない笑顔で呼びかけてくれるから……。
自分もその中に入っても良いと勘違いしそうになったのか?
――わきまえろ、彩木マナ。
今ここにいられるのはただの偶然だ。
たまたまお前にできることが少しだけあって、それがたまたま良い方向に転がっただけだ。
他人の幸せを過去の代償とする愚か者が、ほんの刹那、泡沫の夢に浸れているだけだ。
――ピンポーーン!
「あっ、誰か来た。社長たちかな?」
アイの注意が逸れた隙に立ち上がる。
「私が出るから、アイは子どもたちの相手してて。リハ始まったら何時間か会えなくなるし、またルビーがグズるぞ」
「わ、私もうそんな子どもじゃないし……!」
「嘘は良くないな、妹よ。お前この間も寝る前にジュース飲んで盛大にオネショ――
「信っじらんない! ほんと非モテ兄はデリカシーない!」
「はあッ? だからモテるって! 約束されたイケメンショタだぞ!」
「うわ、自分でショタとか言ってキモーー!」
「はいはーい! ケンカしないの、子どもたち!」
――そうだ。もうそろそろ、ここを離れた方がいい。
「あー……とりあえず出てくるわ」
「あ、ちょっと、マナ」
先週の祝いの席での社長からの釘差し。
『父親と連絡を取るな』と言われてアイは軽く頷いていたが、おそらくあれは彼女が久しぶりに吐いた嘘だ。
たぶん、誰にも知らせずにもう電話なりしていたのだろう。その罪悪感のようなものが僅かに表情に滲んでいた。
アクアとルビーが生まれてから三年余り。いろいろと暮らしも落ち着いてきたし、あの子たちにもそろそろ父親が必要だということだろう。ひょっとすると、近い内にいっしょに住むことだってあるかもしれない。
「……うん。……良いことだ」
これまで妻子を放っておいた男に思うところはあるが、子どもたちにとって不利益になることをするアイじゃない。相手が良い父親として振舞えるかどうか……慎重に見極めた上で判断するはずだ。
そして彼らが本当に家族になれたとき、そこに
アクアとルビーも昔より手がかからなくなったし、手伝いのためにいっしょに暮らす理由も薄れてきた。もともと、ただの仕事仲間が同居なんて歪な話だったのだ。
もう十分いろいろなものをもらった。
「……十分だ」
ここらが潮時だ。
これ以上入れ込む前に、離れた方がいい。
――ピンポーン!
「はいはい、ただいまー」
だけど、
それでも、
あの眩しい光の中に自分の居場所もあれば。
自分にもまた愛しい家族ができたら、と。
そんな、未練がましいことを何度も考えるくらいには女々しくて……。
「あー、ホント……私って……」
しょうもないヤツだなぁ。
――ガチャリ。
「ドーム公演おめでとう。双子の子どもは元気?」
「え……?」
ギラリと反射した陽の光に、思わず目を瞑っていた。
………………。
……………………。
◇◇◇
――ごめんね……。お母さんもう……疲れちゃった。
――頑張りたいのに……頑張れなくなっちゃった。
――お願い……。もうこれ以上、そんな目で見ないで。
――今日は久しぶりに、お出かけしましょうか。
――最近どこへも行けてなかったでしょう?
――そうだ、いっしょに動物園へ行きましょう。……ええ、きっと楽しいから。
――ごめんね。ここでちょっとだけ、待っててくれる……?
――お母さん、帰る前にちょっと用事があるの。
――うん……。すぐに迎えに来るから、良い子にして待っててね?
…………。
………………。
――ごめんね、■。
――ダメなお母さんを……どうか許して。
…………。
………………。
……………………。
――――
(あー……馬鹿やっちまった……。相手も確認せずにドア開けるとか、もうアイのこと怒れねえ)
フッと意識が浮上し、まず広々とした廊下が目に入った。どうやらほんの数秒ほど意識が飛んでいたらしい。しかも今朝方見た夢につられたのか、またしても昔の記憶を思い返していた。
はて……? こういうのは走馬灯と形容していいのだろうか?と、状況に合わない些末な疑問が湧き上がってくる。
なにぶん人生で初めての経験。不安を誤魔化そうと益体も無いことを考えるくらいは許してほしい。
「ッ……
自嘲とともに引き攣るような感覚が腹部全体を襲い、思わず身体がくの字に折れた。
「は……はははッ……痛いかよ? でも俺はもっと痛かったんだ!」
(……なわけねーだろ、ボケ。自分も同じ目に遭ってから言ってみろ)
と叫びたいが、そのために腹筋に力を入れることすらままならない。指の隙間から赤い雫がジワリと滲み、カットソーの生地を汚していく。
「へへ……言った通りだ……。家族四人で、マンション暮らし……。ガキだけじゃなくて……本当に旦那もいやがった!」
「……旦……那?」
一体何言ってんだコイツ……と思いつつ、はたと今の恰好を思い出した。
リハーサル開始二時間前、出かけるための準備をしていて、今は外出時の変装姿だ。帽子を目深に被り、長い髪はまとめて中へ。伊達眼鏡で表情を誤魔化し、ユニセックスな服装で身体のラインもぼかしている。
(なるほど……見ようによっちゃ男に見えるのか。……ハハ、頑張って作った変装のクオリティが証明されたってわけだ)
それで旦那と間違われて刺されるなど、普通なら踏んだり蹴ったりと言うべきだが。
「アイのやつッ、ステージじゃ散々愛してるとか言っといて、裏ではこんな男とよろしくやりやがって!」
――好都合だ。
目の前で叫ぶ黒ずくめの男。
アイの出産をどこかで知って、即座にナイフ持って殺しに来るような短絡思考のストーカー野郎。
近場に憎い対象があれば、他のことなど考えられずそこへ執着するはずだ。
「……シーン1……カット7……用意」
――成れ。
――成りきれ
稽古でさんざんやっただろう?
手足が震えようが全て無視しろ。
あと数分しかないこの舞台、気合いで最期まで演じ切ってみせろ。
「ッ……ハッ、なんだ、お前? アイのストーカーか? 推しのアイドルに旦那と子どもがいて許せない。僕ちゃんカワイソーってか?」
「あ? ……ああ゛!?」
低めに下げた声音で見下すように煽ってやれば、相手は目を血走らせて睨んでくる。
「――悪いなぁ、少年。俺、君と違って魅力ある男だからさ、推し活なんてしなくても女の方から寄ってくるんだわ」
「なッ……舐めてんのか、お前ッ」
「いやいや、ただの謝罪だって。俺アイドルにはあんま詳しくなくてさ、たまたま引っかけた女があのアイだなんて気付かなかったんだよ。食っちゃった後に本人から聞いて焦ったんだぜ? あー、ファンの子たちに申し訳ないことしたなー!って」
「な……な……てめ……、食った……って!」
具体的なことを聞かされて動揺している。
いいぞ、もっとこっちに怒りを集中しろ。
――
「おいおい、そりゃ子どもいるんだからヤることはヤってるって。あいつ顔も体もすっげー良いだろ? つい加減も忘れてやりまくっちゃったの。そしたらまあ当然デキちまってさー!」
「~~~~ッ」
「やー、女孕ませて家庭持っちまうとか遊び人の名折れだわ。昔の仲間にも散々煽られたしなー、ハハ……ッッ」
痛みも痙攣も無視しろ。
自分は女を軽く引っ掛けては遊ぶ軽薄男。
トップアイドルを孕ませてヘラヘラ笑い、ファンの想いを嘲笑するクズ野郎だ。
「て、てめえ……お、俺が、どれだけ……アイのことを……!」
「だからゴメンってばw。ナイフ持って旦那を殺しに来るくらい思い詰めさせたのは申し訳ないと思ってるって!」
さあ、大詰めだ。
天下の新人賞女優がここまでやったんだ。
お前も役柄を全うしろよ、クソストーカー野郎?
「あ、そうだ。代わりに俺の昔の女紹介してやろうか?」
「……は?」
「疑似恋愛の夢を壊しちまった詫びだよ、詫び。お前モテなさそうだしさ……、この際、女と付き合えるなら誰でもいいだろ?
――なあ、拗らせストーカー童貞君?
「~~~ッ……こ……このッ……、このクソカスがあああ゛ーーーーッ!!」
血まみれのナイフを持って男が突っ込んで来る。最初と違って刃の位置は頭上に。煽られてムカついた場合、体よりも顔を狙ってくるという話を聞いたことがあるが、どうやら正解だったらしい。
「死ね! 死ね! 死ね!」
「……ッ!」
防御しようと出した腕を斬り付けられる。
問題ない。
時間稼ぎには好都合だ。
――ストーカー、ナイフ、殺し。
物騒な単語と男の叫び声。
激しく争う衝撃音。
これだけ騒いで状況を知らせれば、異変はリビングにも伝わっているはずだ。
賢いアクアであればきっと気付く。
アイだって地頭と状況判断は悪くない。
内鍵の付いた寝室に逃げ込んで警察が来るまで持ちこたえれば、親子三人傷一つなく助かる。
そうすりゃコイツは目的も果たせずブタ箱行きだ。
「……はっ……ざまあ、見ろ」
「ハァ……ハァ! な……なんだとッ?」
こんな愛情と押し付けを履き違えたストーカー、あの子たちに近付けてたまるか。
いや、姿を見ることすら烏滸がましい。
厄介ファンには二番手アイドルごときで十分だ。
「
「がふッ!?」
最後の意地で拳を振り抜き、顎に一撃くれてやる。鍛えていたおかげで結構なダメージが入ったようでスッキリだ。
「……ケホッ」
「ッ……こ、この……野郎ッ!!」
……上出来だ。
殺意は十分引き出せた。
これなら確実に10年は食らうだろう。
あの子たちが大きくなるまでの時間は稼げた。
拗らせ自己満女にしてはよくやった方じゃないか。
嘘だらけのつまらない人生だったけれど、最後に誰かのために生きられたなら、きっとこの命にも意味はあったと思える。
「死ね……ッ!」
十分だ。
満足だ。
ああ……向こうに行ったらまず何をしよう?
もしかしたらまた、会えたりするのかな?
そしたら今度こそ、返事が聞けると嬉しいな。
……………………。
「ねえ、お母さん……。最後に私、良い子になれたかな?」
霞む視界にナイフが迫る――
そして――
私の命は――
「大丈夫。
「……え」
暖かい何かに、包まれていた。