競馬界のレジェンドになったら…   作:展開郎

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本当にお久しぶりです。
マティリアル関連のことでストーリーも沼っていたり、私事で忙しかったりして投稿出来てませんでした。
これからの投稿は不定期となりますが、暖かく見守ってください。


第十七話 物質と過去と北斗の繋がりはなんだろうか?

土浦駅に着いた。とは言っても何も言うことはない駅である。

よくある、普通の駅…としか言うことはない。待ち合わせ場所に着いたのはいいが、迎えに来てくれる人が誰か分からないし、そもそも来てるのかすら分からない。

こういう時にケータイがあったらさぞ便利だろうなぁと思ってしまう。あれぞ、まさに究極の暇を潰す名器である。暇どころが重要なことさえも潰してしまう厄介な物であるが。

しかし、美浦の馬は良い。1990年代以降は西高東低と呼ばれているが、まだ今は1987年でギリギリまだ東高西低の時代である。最近じゃ聞かない、関西の秘密兵器というワードもちょくちょく新聞で見かける。坂路コースが出来、そのコースによって鍛えられた馬が世間に出て活躍する間までは、馬主たちも馬質が良ければ美浦に預ける傾向が強い。まぁ、美浦トレセンの厩務員の労働組合が強いというのが西高東低となった原因の一つではあるのかもしれない。故に後に大きく発展する社大グループは、栗東に強い馬を所属させ外厩で馬を仕上げさせるようにしたのもあって更に西高東低となったのだろう。

そんなことはさておき実際過去には、シンボリルドルフ・ミスターシービー、ダイナガリバーに今じゃニッポーテイオーと強い馬が勢揃いである。それも小粒揃いではなく大粒揃いである。

待ち合わせの時間になっても人は現れない。待てど、待てど僕の方へ向かってくる人は現れない。もしや、この服装が問題なのか!?

 

「お待たせしました、豊さん。山田厩舎のスタッフで、マティリアルの厩務員の戸澤と申します。よろしくお願いします。」

 

「いやいや、こちらこそよろしくお願いします。」

 

「豊さん、わざわざ来てくださりありがとうございます。丘部さんが乗ってくれないだそうで、誰が乗ってくれるかなと思ったらまさか竹豊さんだとは思いませんでしたよ。先日の京都大賞典、素晴らしいレースでしたね。」

 

「いやいや、乗ってたトウカイローマンが粘ってくれたお陰ですよ。正直言って、後ろの多原さんが怖くて怖くて、ビクビクしてましたよ。よく言うじゃないですが騎手たちの間で、『強い馬が後ろから迫ってくるほど死にそうなものはない』ってやつです。」

 

「そうなんですか。僕にはあっ、こちらが私の車です。後ろに乗られます?それとも前に?」

 

「いや戸澤さんと少し喋りたいので前の席に乗ろうと思ってます。」

 

『ガチャっ』「どうぞ、入ってください。」

 

「いや、本当にわざわざ迎えに来てくださって本当にありがとうございます。」

 

『ブルンブルンっブルンッ』「いやいや、最近暇なもんでしてやることがないんですよ。」

 

最近暇…ね。やっぱし、あれなんだろうか。前の世界の未来と似てるようで似てない状況が起きてる。

厩務員が暇になるということは本来ならまずない。朝は午前3時から、夕方の午後4時まで担当の馬の状態などを確かめたりしている。ハッキリ言って()ということが起こり得ないのが厩務員の仕事である。

例えばサクラバクシンオーの厩務員は彼のために休日返上で馬体の調整を行ったことなどは有名なことだ。

そんな厩務員が()()()というのは恐ろしい発言である。最近と言っているから、ここ数週間から一ヶ月の間のことだろう。放牧の期間まで入れたら二〜三ヶ月以上の間美浦トレセンにいないのかもしれない。

そして恐らくその原因は、マティリアルの経歴的にも日本ダービーの敗戦が恐らく起因だ。マティリアルの馬主である倭田さん…すなわちシンボリ牧場には独自のトレーニングを務めれる牧場、外厩がある。未来では社大グループのノーザンパークかみやま、などが良い例であろう。馬主にとって馬を預ける厩舎とは仲間と見る人もいれば、所詮は他人とする人もいる。他人が調整するより自分が雇った調教担当に任せて万全な状態でレースを行う、そうすると厩舎なんて出走手続きをするために行く場所になる。となると必然的にマティリアルはこの美浦トレセンに訪れる必要性はないと言える。

 

「マティリアルに乗りたいなぁって来たんですけど、多分いませんよね?」

 

「…………ハハハっ」『ブロロロロロォォ』

 

戸澤さんは僕に乾いた笑みしか返してくれなかった。痛いことなんだろうと思う、真横から見える戸澤さんは心の芯から痛そうな顔をしていた。

今頃マティリアルは千葉シンボリ牧場で調教をしている最中だろうか?時間的に昼だし、もう調教の時間は終わってるかもしれないな。

千葉シンボリ牧場はトレーニング施設としては今の時代なら格別に良いだろう。まだ栗東トレセンにない坂路、それも栗東トレセンに作られる坂路より急勾配な坂路は強い馬を作るのに適している。シンボリルドルフが皐月とダービーの間、そこで調教したというのも分かる話である。三冠に繋がる大事なところは、一番分かっている自分が調整したいというのは僕でも思うだろう。

シンボリ牧場のオーナー、倭田さんは典型的なワンマン馬主である。有名な例で言えば、シンボリルドルフの調教師山平さんとの破局、シリウスシンボリの転厩騒動だろうか。僕自身はワンマンを悪いとは言わない。良い点もあれば、悪い点もある。しかし今回のマティリアルの状況は悪い点のてんこ盛りである。それもどんどん悪い方向へと向かっていっている。そしてそのまま向かう間にマティリアルは真っ逆様に落ちていく。

 

倭田さんはマティリアルをマティリアルとして見ていないのだろう。あのスプリングSのレース映像を川内先輩から何回も見せられたが惚れ惚れした。

乗ってみたいとも思ったし脳内には三冠など無理などとは分かっているのに、脳裏に三冠の可能性を考えてしまう。

そんな素晴らしい馬なのだからシンボリルドルフと同じ三冠になるはずだと考えているんだろう。マティリアルをシンボリルドルフと同格の存在と考えているんだろう。未来から来た僕でさえ思ったのだから、現在を生きる人はそれしか考えられない筈だ。それに倭田さんはシンボリルドルフがアメリカで故障し、シリウスシンボリも欧州競馬で歯が立たない…そんな失敗もあって更にその同格化の考えはどんどん深まっている。

ルドルフにしたようなことをマティリアルにもして、きっと良くなるだろうと思っている。馬を愛す気持ちは確かである、しかしマティリアルはマティリアル。その方法が合うとは限らない。

短期放牧も、薬物投与もマティリアルには効果がないどころか悪影響を及ぼしたのだろう。マティリアルがシンボリルドルフ並みの勝利のビジョンを掴める素質を持っているのは事実である。だがそれは、中・長距離ではなくマイルという分野に対してである。こんなにも虚しいほどの空回りは、正直哀れにすら思えてしまう。

 

「戸澤さん…正直に言います。僕はマティリアルの馬体だけ見て、菊花賞の騎乗依頼をお断りしようと思っていました。」

 

「えっ!!?!」

 

「今のマティリアルが菊花賞に出ても大敗するだけです。例え状態が良くなろうと結果は同じではありますが。丘部さんが乗ろうと南井さんが乗ろうと、僕の先輩である川内さんが乗っても負けるだけです。」

 

「…そっ、そんな訳……」

 

「これは僕の予想ではあるんですけどレース振りからしても恐らく、マティリアルは本質的にマイラーなんだと僕は思っています。」

 

「………………」

 

「今までマティリアルが勝ったレースは全て上がり3ハロンが全て一位でした。それに対して負けたレースでは良くて三位まででダービーでは上位勢が50秒以内に対して50秒を超えていました。そして勝ったレースと負けたレースの違いは1800以上から負け出すということです。ギリギリではあると思いますが、2000までは皐月賞のレース振りからも状況さえよければ勝てるでしょうが、それ以上は絶望的だと思います。」

 

「それに、あんなにも素晴らしいと言われたスプリングSも上がりハロンは36…パッと見は素晴らしい末脚で勝ったと思えますが内容的には前の馬が潰れたことで差し切れた…前が潰れたのと、マティリアルの素晴らしい末脚が加わることで相対的にデータ上のマティリアルの末脚よりももっと早く見えて評価値は上がったことでしょう。丘部さんが好まないミスターシービーみたいな走りを出来るマティリアルに対して陣営の皆さんはそのまま皐月を余裕綽々で勝てると思ったのでしょう。現実は違いましたが…」

 

「………………」

 

黙り込んでしまった。未来の知識を混ぜながらした話はやはり、他人から見れば恐ろしいほど馬のことを当てているのだろう。そしてそんな騎手が敵になる可能性すらあると思えばさらに怖く感じる。

僕でもそんな騎手や調教師が敵で戦わなければいけないと言われたら嫌である。敵になるぐらいなら味方になって組みたいぐらいである。

運転中にも関わらず戸澤さんは横にいる僕を見ながら喋り出した。

 

「豊さん…騎手じゃなくて調教師になったらどうでしょう。絶対に百戦百勝の名伯楽になれますよ。」

 

「ははは、ご冗談を。僕は父と同じジョッキーの道に進んで勝ち続けるのが僕の夢ですよ。」

 

「それなら引退後、お父さんと同じように調教師になったらいかがで?」 

 

「それは…まだ考えてないですね。なんせ数十年後の話です。つい最近まで青春を謳歌してた僕にはまだイメージがつかない話です。青春と言っても競馬学校での青春なんて馬に乗るだけですけどね。」

 

 

 

「.......豊さん。なぜあなたはそんなにマティリアルのことを思ってくれるんですか?まだ会ったこともないというのに。」

 

「そりゃ……僕が竹豊だからですよ。」

 

強い馬に、どうしても惹かれてしまう。ジョッキーの性というより、竹豊としての性であろう。出来ることなら全部のレースの全部の馬に自分が乗りたい。

マティリアル、どんな馬なんだろうか…本当に本当に気になってしまう。そして乗って、戦って、勝ちたい…

 

 

 

 

 

やはりド田舎だ…

その感想がまず脳裏に浮かぶ。美浦トレセンは昔から交通のアクセス×で有名な話であるが自分が何度も訪れてもやはり田舎だなぁと感じる。競馬学校の時に何回も訪れたことがあるが関西在住の同期生は全員、「ド田舎だっ!!」と言ったものだ。

栗東トレセンは“栗東市”、美浦トレセンは“美浦村”と所在地の名前からしてどっちが田舎でどっちが都会寄りかはすぐ分かるだろう。

なぁんで、そんなド田舎にあるかは当時の政治家のおっちゃん連中の利権ってやつである。まぁ、自分と関わりのある社会ではないのであまり関わろうとは思わないが…いやでも待てよ、JCRAって農林水産省の外局だから関わりがあるっちゃあるのか…?まぁ内閣総理大臣の山田角栄さんも馬主だったことで有名だし、そういうのはあるのかもしれない。

美浦トレセンの悪いところを挙げるとキリがない。先程言った通り、田舎にあるので交通のアクセスが悪く近くの中山競馬場、東京競馬場へ行くのですら一苦労である。競馬学校時代に何度も来たが、正直栗東の方が学生の立場としては好きだった。今は好き嫌い関係なしにわざわざ騎乗依頼を出してくれているので来るのだが…やっぱし栗東の方が合うような気がしてしまう。

有名な話ではあるが美浦と栗東では水の質が違い、栗東の馬が美浦に来たら水の質が悪くて飲むのを拒否したりする。だからわざわざ栗東から水を持ってくる厩舎もあれば浄水器を持ってくる厩舎もある。

ただ唯一、自分が美浦の方が良いなぁと言うことを挙げれば、気温がちょうど良いことであろう。

 

「マティリアルって追い込みする馬ですけど、蹄とかに問題とかあります?ダービー後に蹄が割れたりとか、元から蹄が弱かったりとかは。」

 

「そういう面でマティリアルは全然問題はありませんでしたよ。馬のパワーに足はちゃんと追いつけてましたよ。ただ体調面はすこぶる悪かったですね。精神的なものなんでしょうか、ダービー前に来た時も正直に言えば掲示板はキツイだろうなぁとは思ってました。それでもマティリアルを信じて送り出したんですけど…まぁ結果はお分かりのような感じでしたよ。あの時は悔しかった…勝ったメリーナイスが余計目立つような馬体のせいで、物凄く惨めな気持ちになりましたよ。鞍上の丘部さんなんて騎乗を拒否しようとしてましたし…マティリアルも2400をなんとか堪えて厩舎に戻って来れたんですが、すぐに牧場の方に移ってしまってちょくちょく来てはまた帰ってを繰り返してて、厩務員からの意見ではあるんですがダービーから調子は快復してないと思います。」

 

「そうですか…いやはや、本当にマティリアルのことをよく分かりますね。」

 

「う〜ん、そうですねぇ…」

 

 

「先程の返しとなりますが、私はマティリアルの厩務員ですので…それではちょっと待ってくださいね、テキを呼んできます。」

 

少し緊張してきた…厩務員の戸澤さんがいなくなって少し熱を帯びている頭脳が事実をただ突きつけてくる。脳にも心臓にも絶対零度まで冷やされたメスが入る感覚がする。正直言って、マティリアルには乗りたいが菊花賞では乗りたくはない…出来ることならマイルCSに乗りたいが、馬体の調整的にも間に合いそうにはない気がする。ボロボロの馬体をたった二ヶ月ちょっとの調整だけで戻すのは至難の業だろう。目指すとすれば来年の安田記念だろう。もし上手くいって来年のマイルCSに出走するならどうしようか。サッカーボーイかマティリアルか…まだ自分が乗ると決まったわけでもないのに取らぬ狸の皮算用をしてしまっている。

いや、サッカーボーイを別にマイルCSに出走させなくても秋古馬三冠に挑ませたらよいのだ。同じ歳のオグリキャップでも出来たことだ、恐らくサッカーボーイが無理ということはなかろう。

 

 

「豊さ〜ん、連れてきました。こちら山田調教師です。」

 

「豊くん、よろしくお願いするよ。電話の方、急で申し訳ないね。予定とか崩してしまったなら申し訳ない。」

 

「いや、全然問題ないですよ。マティリアルに乗れるというのなら、どんな予定でも蹴ってこっちに来ますよ。」

 

「いや豊くん…申し訳ないんだが、今マティリアルが厩舎にいなくてだねぇ…まぁ…その…なんだろう…」

 

「いや大丈夫ですよ、先生。事情は戸澤さんから先程聞きましたので。とりあえず…中に入って話しませんか?」

 

さぁてと、戦い…舌戦が始まる。どうにかしてマティリアルを長距離じゃなくてマイルで走らせたい…自分が未来を知ってるから、見たいのだろうけれども彼がマイルで勝つビジョンを見たい。

 

 

「あぁ、それもそうだ。いや…本当に頼めるのが君ぐらいしかいなくて…本当に申し訳ない。マティリアルの上に載せれるほどの腕を持って、乗ってくれるのは君だけなんだ。」

 

「そう…ですか。」

 

丘部幸隆さんがマティリアルを断ったとなったのなら、みんながみんな断るだろう。丘部幸隆が乗るをやめたということは勝てないか、もしくは他に強い馬がいることになる。

だが後者はないだろう。恐らく丘部さんが菊花賞で騎乗するのはローマンの京都大賞典の昨日の東京で開催されたオクトーバーSを勝ったウイルドラゴンだろう。オクトーバーSの前走であるオールカマーでは四歳でありながら三着に入っており弱い訳ではなく、なおかつ丘部さんが新馬戦からずっと手綱を握っている。ウイルドラゴンは弱い訳ではない…しかし強い訳でもないのだ。突出した強さをウイルドラゴンからは感じ取れない。

シンボリルドルフの縁もある丘部さんが、わざわざマティリアルを切ってまで乗りたいような強い馬ではない。となると、結論としてはマティリアルが弱いから乗るのをやめたということが分かるわけだ。

そんなどう見ても失敗すると書かれてあるような馬に誰が乗りたいだろうか…僕以外は。未来を知ってるからこそ僕は乗るが、正直に言えば知ってなかったら乗らないという判断をとっただろう。恐らく、スプリングSが強かっただけで、よくある早熟な馬だったのだろうと思って記憶の片隅にすら残らない末路を辿っていただろう。

 

「本当なら神戸新聞杯を前哨戦を挟んで叩きたかったけど、シンボリさんの意向で菊花賞にそのまま直行することになったんだよねぇ。」

 

「いやいや、先生挟まなくて良かったですよ。神戸新聞杯で乗ってましたけど…強かったですよ、マックスビューティは。あれならメジロラモーヌの次の牝馬三冠馬になりますよ。馬も良し、鞍上もよし、次走のエリ女も勝てるでしょうね。」

 

「そんなに強かったのかい?」

 

「えぇ、それはもう…う〜ん、本当に強かったです。本当に強かった………」

 

そうアレは初めて僕が勝利のビジョンが一切見えなかったレースだった。どんなレースでも勝利のビジョンは見える、しかし見えてもその状況にならない限り勝利は訪れてくれない。だからこそ、僕は勝利のビジョン通りに限りなく近く沿っていくようにレースをする。勿論、その場その場のリアルな状況判断にもよって勝利のビジョンの内容を変えている。それで勝てたり、勝てなかったりする。

しかし神戸新聞杯…あのレースだけは勝利のビジョンが常に映らなかった。どんな戦法も、通用しなかった。多原さんの権利バイアスが働いた訳でも、天才的な騎乗が行われた訳でもない…本当に何もかもがシンプルだった。馬の上に跨っているというのに蹄の音は聞こえもしなかった。2分ちょっとの時間が永遠に感じれるほど、無音がただただ続く世界になっていた。無音ゆえに耳が痛くなりそうな感覚までしていた。

勝ち方が本当に綺麗だった…勝つのが分かっていたようで。僕の勝ち方とは全然違う勝ち方を、魅せられた。あのレースは因果が逆転していた。元から勝つということが決まっていた。

 

 

 

 

「さぁ、ところで大した話も出来ないけど、何か聞きたいことはあるかい?」

 

「聞くことはないんですけど、言いたいことは一つありますね。」

 

「何か疑問に思うことがあるなら、答えれる限りは答えるよ。」

 

さぁ、ここまで来たんだ。言うしかなかろう。ある意味、大きな賭けをするしかない。ひょっとすれば…いや、多分シンボリ牧場に喧嘩を売るようなものだろうがやるしかない。親父がすごいだけのジョッキーである今の俺が、やるべきではないかもしれないがやるしかない。

 

「菊花賞を走るんなら、僕はマティリアルに乗りません。」

 

「………すまない。君は今なんと言ったかな?」

 

「もう一度言いますけど、僕は菊花賞でマティリアルに乗りません。いや、もっと正確に言えばマイルのレースではない限り僕は乗りません。」

 

「…豊くん、それでも私が菊花賞を走らせるとしたらどうするんだい?」

 

「それは…もうマティリアルには乗らないですね。」

 

これ以上、マティリアルにとって悪影響なことが起きすぎてはいけない。限界ギリギリまで詰められてるマティリアルが更に、追い詰めたら…僕のいた世界同様、レース中に故障してしまうだろう。

だがマティリアルはそんな結末にさせてしまうには惜しいほどの馬だ。どうにかして、田中先生が僕の意見に頷いてくれなかったらマティリアルは悲惨な末路を辿ってしまう。

 

 

「…す、すまない。豊くん。君の発言は分かったよ。申し訳ないが、その返答を今は出せない。この問題は、私だけではどうしようもない問題でね。明日、明後日くらいまで美浦にいることは…出来るかな?その間までには返答がお恐らく出来ると思うから。」

 

「ええ、一応予定などは事前に空けていたので問題ないです。それに僕も少し美浦トレセンを回りたいですし。」

 

「そうか、すまない。調整ルームの部屋を取っておくから、マティリアルの資料の一部だけは部屋に置いてるから寝る前にでも読んでていて欲しい。」

 

「はい、分かりました。それじゃあ、失礼します。」

 

やはり田中先生だけでは決めれないのだろう。やはり倭田さんをどうにか説得するしかないのだろうか。もし、失敗すれば山田先生には申し訳ないことをしてしまう。シリウスシンボリの転厩騒動みたいになりかねないかもしれないし、もう馬を田中先生の所に預けなくなるかもしれない。交渉をどうするかは…僕に掛かっている。未来を知っているからか、もどかしい。僕だけが結論を分かっていて、皆んなはそれを知らない。そのせいで、正解への道を進みたくても、みんなが違う道を進んでしまう。未来の知っていることも、今は少しだけ重い枷のように感じる。

 

 

 

 

とりあえず、その日の会話は終わり美浦トレセンの調整ルームで泊まることになった。この目まぐるしい一日が終わって思うのは、シンボリ牧場のオーナーと戦わなければいけないという事実に背筋どころか冷蔵庫にキンキンになるまで冷やした脊髄に交換されたような気分である。

しかしこの世界というものは幾ら小さな改変程度では因果は変わらない、それは陽一おじさんの件で分かっている。だからもし交渉に失敗したとして、今シンボリ牧場を敵に回そうと恐れる必要はない。これからの時代はメジロから早川牧場、そして社大グループへと勢力図は変遷して行く。シンボリ牧場は今から衰退の一途を辿る、そう心に言い聞かせてはいるが怖いものは怖いわけで、後ろから追い込んでくる馬が来るかのように怖く感じる。

 

「もし、交渉に失敗すればマティリアルは菊花賞に出走になるけどレオテンザンがいるから騎乗依頼を承諾するわけにもいかないから、多分誰かがマティリアルに乗るんだろうなぁ。しかしまぁ今年の菊花賞はヤバすぎる…サクラスターオーとかいうバケモンをどうやって倒すかに尽きる。」

 

サクラスターオー、杉本アナウンサーの中で一番を争えるほどの名実況を生み出した二冠馬。前の世界から見ていて思うのは、菊花賞のあの走りは論外すぎる走りということだ。サクラスターオーが故障によりダービーを、即ち三冠を断念したように、その前に同じような道を歩いた馬としてミホシンザンがいる。これは自分の意見ではあるが、ミホシンザンとサクラスターオーどちらが強いかと言われたらサクラスターオーと答える。ミホシンザンは骨折なのに対して、サクラスターオーは靭帯…人間の部位でわかりやすく言えば膝の下の肉のところの炎症であり非常に大事な部位である。人間が高いところから飛んで着地したときにものすごく足が変なような感覚がするだろう。それは足に衝撃が行き渡るからである。そしてサラブレッドは、人…どころか陸上の世界記録保持者より速く、長く走る。では、そんなサラブレッドの脚に衝撃は来ないのかと言われたらそんなことはない。それどころか滅茶苦茶来る。その衝撃を用いることで身体中に血液を送っていたりもしている。だからこそ、サラブレッドに人間より衝撃に耐えうるようにと靭帯が存在しているわけだ。ではそんな靭帯に炎症が起きれば完全に治り、全力で走れるだろうか?

よっぽどの限りないのである。繋靭帯炎は屈腱炎と並ぶほどのサラブレッドが走れなくなる病気であり、その末に引退まで追い込む病気である。

“皇帝”シンボリルドルフ、“名優”メジロマックイーン、“西の一等星”アドマイヤベガ、ハープスターなど様々な名馬がこの病気にかかり引退することになった。と言っても中には復活をした馬がいるわけで、“芦毛の怪物”オグリキャップ、“最後の軌跡”コントレイルなどがいる。他にも復活した馬はいるにはいるのだ、その中にはサクラスターオーも含まれる。しかし、名前を挙げなかったのは一度復活したもののまたもや繋靭帯炎になったり、故障による死亡などがあったからである。そしてサクラスターオーは後者である。勝負根性という面では他の馬より強い物を持っている筈である。

そして僕が騎乗する馬であるレオテンザンは逃げ馬である。しかし菊花賞というのはレースの構成上、逃げ馬は勝ちにくい。この前の京都大賞典とは違ってコーナーを六回も、淀の坂をそのうち二回も回る。その頃には走るスタミナも残っていないだろう。ミホノブルボンやセイウンスカイ、イングランディーレ、タイトルホルダーなどは豊富なスタミナを持っている。さて僕が騎乗するレオテンザン、正直言って京都新聞杯は勝てるだろう。だけど菊花賞となると…という感じである。いや勝利のビジョンが少ないわけではないが、その数は少ない。やはりサクラスターオー、ゴールドシチー、ユーワジェームス、メリーナイスなどが敗北のビジョンを僕に見せてくる。

 

レオテンザンをそれでも逃げさせようと思うが、逃げには逃げで幾つかの種類がある。大逃げ…即ちカブラヤオーやツインターボ、パンサラッサの走法で走るか、ラップ刻みの走法…ミホノブルボンやジャックドールみたいに走るのか、番手で逃げる…キタサンブラックやタップダンスシチーみたいに走るかのどれかを取らなければいけない。

まず一つ目の大逃げは無理である。理由を挙げるなら、元から3000では保たないスタミナで大逃げなんかしてみたら二度目の坂で完全に止まることはビジョンを頼りにしなくても理性で分かる。

二つ目の走法であるラップ走法は、まぁやれば出来るのではないかと思う。ただ懸念点とすれば、二つある。一つは僕の集中力が持つかの問題である。ラップ走法というのはある種、騎手の才能にかなり依存する戦術であり一瞬でも崩れれば、そこから完璧に逃げていたのが一瞬にしてコロッと変わってしまう。二つ目はレオテンザンがラップ通りに走ってくれるかである。例えばもう一頭逃げ馬がいた場合で競りかけられて気性を激しくせず騎手の言う通りに、ラップ通りに走ってくれるかどうかである。

三つ目の走法である番手での逃げは、一番しやすくて一番勝ちにくい走法である。何が怖いってやはり差しの脚が怖いと言える。これが中山や阪神だったら逃げでも…と考えるが京都となると途端に難しくなる。そして番手で逃げということはスローペースになり、直線ヨーイドンで差し馬たちが強襲してくる。そいつらが届かないうちにゴール板に辿り着いているのは到底難しい。粘ろうと思っても、それ以上の足で向こうはやってくる。やはりラップ走法で戦うしかないのか。

 

「………やっぱりサクラスターオーが問題だな…規格外の強さやわ。みんながブロックでもしてくれるんやったら話は別やけど、骨折明けの皐月賞馬に誰も期待なんかせ〜へんしなぁ。」

 

考えても、考えても答えを出すのが難しい。化け物を倒すのに、普通の剣を渡されてもいくら中身が強い勇者であろうと勝てる確率は低い…そして勝とうと思えば裏技なりバグ技なり緻密なチャートを組まなければいけないが、それを組むには膨大な情報を集めて、失敗したパターンから何まで全て考え付かなければいけない。それがどれだけ大変かは…誰でも分かるだろう。

不謹慎とはなるがレース中に故障でもしてくれるのならまだ勝率は上がるだろうが、そんなことは恐らく起きない。競馬に絶対はないが、因果はある。その因果の外の結果を出すのは至難の業である。僕が今の所、唯一出来たのはサッカーボーイの函館三歳Sである。本来史実で負けていたところを勝利させたのである。それは僕の状態もあったが、サッカーボーイが因果の外を引き出すに足る馬だったからである。だからレオテンザンにそれが出来るとは到底思えない。だからこそ、僕の腕が肝となる。レオテンザンを勝たせようと思うには、僕がどうにかするしかないり

菊の舞台に獅子の咆哮を轟かすことは難しい。それならまだ季節外れの桜を咲かせる方が簡単だ。

 

「考えるのも、億劫になってきたぞ…」

 

ノートに展開予想を何個も書いても、やはりレオテンザンが勝てるビジョンを思い浮かべない。サクラスターオーを退けても他の馬が出てくる。やはりレオテンザンの能力が足の枷になる。今更別の脚質に変えるなんぞ無理な話で、競馬ゲームじゃあるまいし変更なんてよっぽどのことがない限り無理である。

菊花賞のことを永遠と考えると頭が痛くなってきたし寝るとしようか。田中先生が言ってた、マティリアルの資料でも読みながら寝るか。

 

 

 

 

 

気づけば時計は朝の3時ぐらいだった。調教の兼ね合いもあり、いつもの癖で早めに起床してしまった。いかんせん、調教に乗る馬がいないわけで暇なので少し散歩でもしようと思った。

散歩して気づくのはやはら栗東と美浦とでは景色も何もかもが違う。今頃の栗東はもう少し残暑があるというのに美浦では涼しい空気だけが体にぶつかってくる。汗を少しかいた体に涼しい風は予想以上に気持ちよく、もう少し散歩していたい気分になる。脳裏にふと、折角美浦にいるのだからエビちゃんに会いに行こうとでも思ったが、アポをとっているわけでもないし、どこの部屋に住んでいるかも分からないので止めることにした。散歩して少し時間が経つと、日が上り出してきた。綺麗だなぁというよりは自然の壮大さを感じられた。やはりいつになっても人間というのは自然の壮大さを感じれば、何かを忘れさせてくれる…そんな作用があるはずだ。諦めによる忘却ではない、言葉では形容し難い感情による忘却である。それは感動とは違う大きすぎる感情が僕の胸中に染み渡っていく。

日が上り始めると、厩舎のあちこちから馬たちを調教コースへと向かわせるそんな音が聞こえ出す。その音だけは栗東でも美浦であろうと変わらないものだった。調整ルームに戻り、横になって再び目を閉じようと努力してみるが閉まらない。それどころか目がずっとクッキリ開いてしまう。どうやら腹が減っているようで食堂へと向かうことにした。

 

どうやら食堂はまだ仕込みの時間がかかるそうだ。しかし腹が減って仕方ない。しょうがないので、おばちゃんに頼んでもらって紅茶を作ってもらおうと思ったがないらしく、コーヒーを作ってもらえるようにお願いしたところ喜んで作ってくれた。自分の顔が便利だと思える瞬間である。コーヒーはすぐに出されて、飲んでみるが苦かった。いやコーヒーというものは苦い飲料であるのは事実だが、どうしても受け付けれない。空腹感を紛らわせるために飲んではいるが、飲む前に吐いてしまいそうになる。

しょうがないので近くにあった角砂糖を死ぬほど入れまくって飲むことにした。とまぁ、こうすると逆に腹が減ってくる。苦ければ吐くし、甘ければお腹が空く、なんとも面倒な飲み物である。真っ黒なこの原油のような飲み物に僕は未だ慣れない。歳のせい…ということはなく恐らく感性的に無理なのだろう。歳のせいだったら前の世界も含めて計算すれば余裕で飲めているはずなのだが…

何もやれることがないので、部屋に戻って再び横になろうとした。

 

部屋に戻って何かをするわけでもなく、目を閉じるわけでもなく天井をボケ〜っと見ていた。変わるわけでもない景色、だけど退屈さを感じさせない。中学校の修学旅行で泊まった旅館のような感じがする。あの頃はトシちゃんと朝早く起きて、みんなで大富豪でもしてたんだっけ?騎手になってから思い出していなかった、過去をゆっくりと、じっくりと思い出していた。

一番の思い出はなんだろうか…そうだな、弟の孝四郎が生まれたことかもしれない。前の世界では女性とは縁がなく赤ちゃんを直に触ったことがなく、この世界で僕の中では初めて赤ちゃんを触ったのだがその感触というのは…感触は暖かった。勿論、人間なのだから熱はあるのだけれども何だろうか命を感じさせてくれる暖かさだったな。

あとは洋一おじさんのことだろうか…今でも悲しい。一緒に同じレースで戦いたかった。

少し感傷な気分になる…本当に尊敬していた。いつ見てもあの騎乗を天才だと思えた。なんでも勝てる…僕には到底不可能なことばっかやる。

 

「あぁ、暇だ。本当に暇だ。」

 

いかんせん、調教に参加できないと暇である。基本的に騎手というのは調教がないときは暇である、せいぜいトレーニングをすることぐらいだが…まぁ、今日はそういった気分ではない。サボりたいとかではなく、マティリアルのことでしっかりやれないような気がしていたのだ。暇なので致し方あるまい…美浦の厩舎に挨拶回りでもしようと思った。自分を売り込むチャンスでもあるし、色んな馬と触れ合えることが出来る。何もしないよりかはマシだろう。というわけでとりあえず、調教スタンドに行こう。

 

 

 

 

 

勝負師の匂いがする…あぁ、ここにいると、物凄く感覚が澄むような気がする。知らず、知らずのうちに眉間の皺がどんどん深く深くと刻まれる。この場所では緊張をほぐす事なんて出来やしない。なぜなら、ここ調教スタンドには騎手や調教師からメディアまで、競馬関係者が勢揃いしている。

周囲に目を走らせる。

そこには、若手たちで集まっている騎手たちの集団があったり、厩務員と調教師が馬体について話していたり、他方を見れば、調教師が記者たちが次走について話し合っていたりもする。まさしく、ここは競馬場とは別の戦いの場所である。

遠くを見れば、エビちゃんもいたが…どうやら誰かと話しているので呼び掛けるのはやめよう。そうこうしていると、誰かがこちらに向かってくる。

 

「豊くん、おはよう。今日は…どうしたんだい?」

 

「横谷先輩、お久しぶりです。いや、美浦の先生に会いに来たんですよ。」

 

「そうなんだね…そうだ、そうだ。重賞二勝目おめでとう、ちょうどその日は騎乗がなかったからテレビで見てたけどよく捌ききったね。」

 

「トウカイローマンが強かったんですよ。僕はそんな勝ち負けに関わってはいませんよ。」

 

「そう。コーヒー奢ってあげるよ…それとパンも食べるかい?」

 

確かに…朝ごはんを食べてない気がする。なんか色々、朝からやる事をやっていたら朝ごはんを食べていないということすら忘れている。折角久しぶりに会えたわけだし、ご好意に甘えて奢ってもらうことにした。横谷さんが買いに行くと、僕の周りから人は消えていた。

もう一度、周りを見渡す。よく見ると周りの人達は僕のことをちらちらと見ていた。その目つきはライバルを見るようで、頼もしい味方を見るようで…なんともまぁ、恐ろしい目つきで見られる。見られてるこちらは、心臓が雑巾しぼりにされてるかのごとく緊張してしまう。さっきまで感覚が澄むと思っていたが、前言撤回ここは魔境だ。まだ競馬場の方が生易しい気さえしてしまう。

 

「はい、アンパンどうぞ。あとコーヒーに角砂糖入れてあるから。」

 

「あ、ありがとうございます。」

 

「それじゃあ、僕はもうそろそろ乗らないといかないから、また暇な時喋ろうね。」

 

そう言って、先輩は消えていった。あの人混みの中、一体どこへ行ったかは見当もつかない。一瞬にして消える…ものすごく空気感が薄いというか…何というか…こう…やはりファンだった頃からもそうだが、やはりスター性がないというか…スター性が無い反面職人的な一部が見えて好きでもあったが…本当に風のような人間だ。心地よいそよ風にも、恐ろしい暴風にもなる。競馬学校での記憶が蘇ってきそうだ…

 

「………ウッ…甘っっ、まっ。」

 

朝から甘々のコーヒーを飲んだというのに、またもや砂糖たっぷりのホットコーヒーを飲むと…舌が麻痺してしまいそうなほどおかしくなる。それに先輩が持ってきたパンはアンパン…うぅん…何でこうも相性が悪いものを持って来てくれたんだ…

そう思っていたら、群衆の中から誰か一人がこっちに向かってくる。近づいてくれば、来るほどえも言えぬオーラを感じる。物凄く…物凄い感じがする。今出会った方がいい気がする…ビジョンとかとは関係がない。何か僕の脳裏の片隅から出会った方がいいと警鐘が鳴らされている。そしてメガネを掛けたその頑迷な人は、僕に向かって喋り出した。

 

「やはり…やはり!!馬に携わる者はあんぱんを食うのが鉄則のようだな!!あぁ…すまないね、あんぱんをどんどん食べてくれ。育ち盛りはバクバク食わねばな、豊くん。」

 

「えっ…あー?えっと…はい。じゃあ頂きます。」

 

なんというか…物凄く、期待の眼差しを向けられている。断ろうと思えば、断れるのに…断れない。致し方ない、期待通りあんぱんを食べるか。

…うぅむ、胃が途轍もない拒否反応を起こしてる。というより、アンパンが本当に甘ったるすぎて泣きそうなぐらい吐きたい。あぁ、なんで適当にパン持ってきてもらったんだ。サンドイッチでも貰ってればこんな、ことにはなってなかった筈なのに。

 

「本当に、良い食べっぷりだ。それを見れたら、私も満足、満足。それじゃあっ!」

 

結局、一体誰だったんだあの人?あぁ、本当に今すぐにでも何か甘くないもの…美味しいものが食べたいっ!!

調教スタンドの売店には、食べれそうなのものはあr…いやないな。全部が全部、売り切れている。あぁ、なんでこうも全部売り切れてるんだか。

 

「やぁ…豊くん。お久しぶりかな?ちょっと2階に行こうか。」

 

「ええ構いませんよ、前平先生。」

 

調教スタンドの2階に登ると、1階とは違い調教師しかいなかった。みんながみんな、双眼鏡で自分の厩舎の馬の調教の様子を見ているか、ディスプレイに映っている調教の様子をじっと観察している。

 

「川内くんは、最近どうだい?」

 

「お久しぶりです、前平先生。先輩は、毎度毎度感謝の言葉を言ってますよ。」

 

前平先生というのは僕の先輩の川内先輩が数年前お世話になった調教師だ。トウショウ系の馬を預けられることでも知られている。そして史上初の牝馬三冠メジロラモーヌを鍛え上げた人だ。そして数年前お世話になったというのは、メジロラモーヌのことである。今でも、僕が思う史上最強の牝馬三冠でもある。

 

「そうか…もし関西で乗せれる鞍があったら乗せるよ。新人でありながら、リーディング争いしてる豊くんを美浦の中で一番目にゲットしておこう。」

 

「お目が高いですね。ではそんな僕を一番目にゲットしたい先生に一つお願いがありますが、いいですか?」

 

「ほぉ、なんだい?」

 

「あの黒い馬…先生の馬ですよね?」

 

調教スタンド内にある一つのディスプレイ、それが出力している映像には黒鹿毛の馬がいる。ダートコースを力強く、走っている姿だ。しっかりと見出すと、目がむず痒くなってくる。あと少し、といった成長具合だろう。しかし均整が取れた馬体は素晴らしい。そして、そのディスプレイは先生のディスプレイと分かるようにシールまで貼ってある。

 

「合ってるよ、豊くん。それであの馬がどうしたんだい?」

 

「あの馬を僕にください。乗せたくなくても、乗せてください。僕が乗れば()()()()はしません。」

 

「豊くん、もしかして知っているのか?この馬のことを。」

 

「知っているというより、推測に近いものです…どうです?急な売り込みで失礼だとは思いますけど。」

 

本当は知っている、いや知っていた。あの見事な黒鹿毛の馬体で、あの大きな馬体を持つ馬を。そして先生の厩舎の馬で、そんな馬なんて一頭に限られる。

 

「ほぉ…そこまで豪語するのか?そんな馬なら、君に乗せなくて良いじゃないか。」

 

「競馬の神様は、絶対より奇跡が好きです。そして奇跡よりも、更に大きい奇跡を求めます。」

 

「その大きい奇跡とはなんだい?」

 

()()()()()()()()()()()と、前平厩舎初のダービー制覇と、あの奥田長吉を越える最年少ダービー制覇。神様は、こっちに賽を振るでしょう。それになんと言ってもメジロラモーヌの半弟ともなれば…」

 

「そんなに、乗りたいのか?君には、ほら函館三歳Sを勝利したサッカーボーイもいるんだよ?」

 

「サッカーボーイもいる、そして()()()()()()()()()()()()。強いからとかではなく、単純に乗りたいからです。」

 

メジロアルダンは日本ダービーをサクラチヨノオーとの死闘の末、二着に惜敗したまさしく惜しい名馬。

スーパークリークは恐らく体調の関係もあって本格化するのは来年の秋明け、ヤエノムテキは距離が2400までは持たない。そしてサッカーボーイも距離適正もそうだが、パワーに耐えれる足がダービーまでに出来上がらない。

となると、僕のお手馬でダービーを勝てる馬がいない…いや、展開や枠順さえ考えれば勝てない可能性がないわけではない。ダービーへの手札を増やさないよりは、増やした方が良い。

 

ディスプレイに映る黒い馬体から、僕の目は離れなくなってしまいそうだ…

 

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