結局、前平先生からの返事はないままに色んな厩舎関係者と喋った後に調整ルームに戻ってきた。正直なところ、メジロアルダンの騎乗依頼に関しては賭けみたいなところがある。もしメジロアルダンに乗れなくても、その時はその時で受け入れるしかない。ただ、やはりマティリアルとの交渉が怖いところだ。なんとしてでも、マティリアルの菊花賞出走を拒みたいところだが…どう言いくるめるかが難しい。そもそも相手が何を言うか、分からないと言うのに対策なんてしょうがない。せめてあるとしたら、マティリアルが何故マイラーか示せと言われるだろう。『レースの勝敗から距離適正はマイラーだ』、というのは恐らくなんの意味もないのだろう。彼、マティリアルがマイラーであるということをどうにかして証明出来なくても納得させるものがあればいいんだがなぁ…
父はパーソロン、母父はスピードシンボリ…うぅん、血統的にはステイヤーからクラシックディスタンスの適正なんだがなぁ。いや正確にいうならパーソロンも、マイラー系の馬を何頭も輩出して重賞を勝ったりなどはしているが…やはりスピードシンボリが長距離適正◎なせいか、どうやっても倭田オーナーを納得させるには心許なさすぎる…実際に牧場自体では、マティリアルはルドルフ2世と呼ばれるだけあって能力がないわけではなかったと思うんだけどなぁ…
この時代にエクイノム検査があるわけでもないからなぁ…もしあったら速筋と遅筋のどちらが、マティリアルに多く含まれてるかとか言えたらすぐ解決ではあるけど、そうもいかないのがなぁ…速筋は強い力を瞬発的に、遅筋は弱い力を永続的に生み出す、これがマティリアルの場合ではややこしい。結果的に言えばマティリアルはマイラー、しかし脚質は追い込み…別にそういう馬は過去も未来も何頭もいる。となればマティリアルは潜在的に両方の筋肉を持っていたことに他ならない。だとすれば、シンボリ牧場側がマティリアルを過信するのも分かる。となれば、納得させるにはより高いハードルが積み上がる。
何かシンボリ牧場が…言い方が悪いがやらかしている物事を突くことができないかなぁ。
『コンコンコンっ』「豊さ〜ん、お電話ですよ〜!」
「え?本当ですか、ちなみに誰かとかって。」
「山田調教師からだそうです、是非とも今すぐ、美浦トレセンの入り口まで至急向かってくれだそうです。」
「え、ええ!!?い、今から!?」
「は、はいっ、そう仰ってますが…」
「分かりました…今すぐ向かうという旨を電話で伝えてください。」
なんだって、こんな急なんだよ!!
「ぜぇ…はぁ…ぜぇ…はぁ…ほんっとうに…はぁ…遠い…」
「す、すまない豊くん、今すぐ車に乗ってくれ。」
車の中に入ると、息が絶え絶えだった体が少しは落ち着きを取り戻した。いくら騎手だからといって、ここから調整ルームまではあまりにも遠すぎる。軽自動車の中には、運転席に山田先生がいて助手席は空いていて、後部座席に僕だけの二人しか居なかった。一体、何のようだろうか。今は夕方の5時と、もうそろそろで夜ご飯を食べる時間帯であって…今から流石に倭田さんのところに向かうわけでもあるまいし。
「じゃあ、今から豊くん…シンボリ牧場に向かうから。」
「………えぇぇぇ!!??今、先生なんて!?」
「だから、今からシンボリ牧場に向かうから。書類作業とか色々やることして、オーナーに電話をしたら君を今すぐにでも私の元に連れてこいって言われたから。…豊くん、一つだけ安心してくれ。」
「え?一体何を安心するんですか?」
「僕もいるから、安心してくれ。死ぬわけじゃないんだから。」
「いや、それって死ななくても大変なことにぃぃぃ!!」
僕が言葉を言い切る前に車のエンジンはかかり、車内から見る窓の景色が流れていく。あぁ、あまりにも急すぎるシンボリ牧場への旅…てっきり明日か明後日だと思ってたのに。というか先生も明日、明後日ぐらいとか言っていた筈だというのに、まさかの今日だ。はぁ、本当に交渉をどうしようか。最悪の場合、菊花賞を走るとしても僕が乗る場合にはレオテンザンの騎乗を断らなければならない。だがそれは中々難しい…レオテンザンの調教師はつい先ほど、前平先生と分かれた後に出会った比野さんだ。わざわざ栗東の僕に依頼してくれたというのにそれを断るというのはかなり印象が悪くなる。それは是非とも避けたい、ともなるとやはりマティリアルを他の人に乗ってもらうことになるが、果たしてそれでマティリアルがマイル路線に進むかというと、確証はないどころか恐らく史実のマティリアルと同様の結末を辿るだろう。はぁ、結局のところ交渉が成功するしか僕の道にはないようだ。いかにも神様というのは僕に対して試練を与える…それも馬鹿でかい試練をだ。全く、過去の自分がマティリアルと聞いて遥か遠くの関東の地まで足を運んで来たわけだが…自分ば大変なことをしようとしている。
勿論、ハナから大変なことをしようとしているのは分かっていたが…こう、現実に直面すると妙に背中から汗が出る感覚がする。背中をペタペタ触っても、全然濡れてなどいないのに。もう日も暮れて、一日の終わりの時間である夜が始まる。まさか、深夜の時間に交渉するのかっ!?嗚呼、考えるだけで眉間に皺が寄せる。
「先生、先生はどうやったら交渉出来ると思いますか?」
「う〜ん、そうだね、私には分からないね。」
「ちょっと先生、そこは嘘でも出来るって言ってくださいよ。」
「…ただね、一つだけ言うと君になら出来そうな気がする。豊くん、君には何というか運が良いという言葉では言い表せない…何かがあるんだよ。ただの18歳の青年だとは少し思えないんだ。竹邦彦さんのことは抜きにしても、そうは見えない。」
唐突な褒め言葉に少し照れる。勿論、僕を良く言ってくれる人はいる。勿論、お世辞などではなく心から言っているというのも知っている。ただ、この動いている密室の中で先生は僕の顔を直接には見ずにバックミラー越しに間接的に見る。それが心の奥底にスコンっと沈み込む。不思議と今の状況では心が落ち着く感じだった。
「そ、そこまででしょうか?」
「調教スタンドで、どれだけの調教師が君のことを見ていたか…いやはや、君は自分のことには無頓着というか。まぁ、オーナーとの交渉には積極的には補助は出来ないが合間合間に助け舟なりでも出してあげるさ。だから、安心して話したまえ。もし、何かあったとしても私が君の責任を取るさ。」
車内で話していること約1時間が経った先生とは他愛もないことを話していた。明日の天気から、厩務員一人一人の話まで、何から何まで喋ったような気がする。そして満足感さえある。それは、今ここで終わっても大丈夫という満足感であった。あぁ、本当に憂鬱だ…連休明けの学校のテストよりも嫌だ。緊張のせいか、吐き気までしそうな気がする。しかし、ここを乗り越えなきゃいけない。
そうでないとマティリアルが…
「もうそろそろで着く…大丈夫か?豊くん?」
「ええ、まぁ、大丈夫です。…とりあえずこっちも頑張ってはみます。」
「うん、そうだな。頑張ろう。」
僕と先生は直接、目を合わせずともバックミラー越しに確かに決意に燃えた瞳同士を見つめあった。漢としてのプライドであろうか、背水の陣だが敵が突っ込んでこようものなら後ろにある川を泳いですら戦うという意志がある。どちらとも死ぬ気はあっても、退く気はなかった。シンボリ牧場がそろそろ、見える。もはや、緊張するだの怖いだのを言うことはない。ただマティリアルの為に話す。それだけであって、何も恐れるものもない。体を使うレースより簡単なものだと思えば、今まで色んなものを抱えていたはずの胸がスッと軽くなる気さえする。ヤケクソ気味になったとかではなく、ようやくここまで来て決心が着いた…それだけのことだ。
「着いたよ、豊くん。あとは頑張ろう。」
「はい。」
喋っていると、ようやくシンボリ牧場についた。1時間弱ものの間、車内では交渉に関する具体的な話はほとんどしていない。行き当たりばったりのようにも思えるが、実際にそうである。しかしそれでいい。当たったのなら、ぶつかればいい。そしてぶつかった壁をぶち破ればいい。
車から降りると、鼻腔には牧場で感じ取れる匂いと、トレセンで感じ取れる匂いがした。本来排反する匂い同士が、ここシンボリ牧場では同居している。その匂いが少し凛としていて元から目覚めている頭がより、目覚めようとしてくる。
「あっ、豊くん、豊くん…ちょっと耳貸してくれるかな?」
「どうしたんですか、山田先生。僕は全然大丈夫です。先生も、頑張りましょうよ。」
「いや豊くん…そうじゃなくてだ。もし交渉が無理なら無理でも大丈夫だから。君はレオテンザンに乗って、マティリアルのことは忘れなさい。それでいいから。」
「せ、先生…今更そんなの言っても遅いですよ。忘れるには遅すぎますよ。出会ったことがないまま終えるなんて、そんなの酷すぎますよ。平安時代の恋愛じゃないですし。」
何故急に自分の口から平安時代というワードが出たかは分からないが、言い切る瞬間、少し僕は山田先生に苛立ちを覚えてしまった。僕の返し言葉に、先生は朗らかに笑っていた。安心したというよりは、普通にツボにハマっただけの笑いだった。よほど面白かったのか、場所が場所なせいもあって噛み殺しながら笑っているが口の間からは不規則な呼吸音が聞こえる。それを聞くとこちらまで苛立っていた心が笑い出そうとしてしまう。
「…竹豊さんと山田調教師で、お間違いないですか?」
僕らの元にひっそりと人がやってきた。恐らくは目の前に見えるシンボリ牧場のスタッフなんだろう。メガネを掛けていて、少し大人な雰囲気を漂わせている。単純にスーツを着ているから、そう見えるというのもある。トレセンとかでスーツを見る人は滅多に見ないせいなのかもしれない。
「はい、竹豊で合っています。」
「すまないが、早速だが…倭田オーナーの元に連れて行ってくれないか?」
「…えぇ、分かりました。」
すると、目の前のスーツの人は僕らを先導するようにシンボリ牧場の中に入った。
中に入って、思うのはやはり見事な牧場と言える。いや本当にさすが日本有数の生産牧場でもあり、育成牧場でもある。右を見れば、かなり大きめなダートコースがあり左には雄大な牧草地らしきものまで見てとれる。これを見れば、シンボリ牧場が本当に名門と言えるのが分かる。そして千葉県にあると言うのにも関わらず広々としているせいか、北海道の広大な牧場にいる気分である。どうやら、もう夜のせいか馬はいないらしいが地面を見るとつい先ほどまで馬がいたと思われる蹄の跡が見てとれる。
「えっと、これってまだ歩く感じですか?」
「まぁ、そこまで道のりは長くないですよ。せいぜい数分程度です。」
どうやらまだまだ、話し合いの場所はまだまだ遠いようだ。
本当にこの牧場は大きい…こんな牧場が日本にあと2、3個もあるというのだからやはりシンボリ、さすシンボリといったところか。
あ、もしかしてあの建物か。ものすごく円形の建物をしている、あの建物か。いやぁ、なんというか本当に大きい。アメリカに旅行に行ったら、何もかもがビックサイズで驚くあの感覚…テーマパークに来たような感覚がする。別にそんな楽しいというよりは大変な状況であるのに。
「あ、あの建物に倭田オーナーがいらっしゃるのですか?」
そう言って僕はスーツ姿の男性の方に右斜め前を指差して、建物を確認させた。
「え?あ〜、あの建物は違います。あれはうちの牧場だけの設備である、坂路トレーニングの施設です。栗東トレセンにある坂路より勾配は高いですし、屋根もついてますからいつでもハードなトレーニングを積むことが出来るんです。それが我らシンボリ牧場が隆盛した一因ですよ…あ、話長かったですね。オーナーがいるのは左前のあちらの建物ですよ。」
どうやら、僕は思い違いをしてしまったようだ。しかし坂路…か。栗東トレセンにもあるが、未だ使い道は手探りという状況ではあるが、もう少しもすればミホノブルボンが出たりなどで坂路調教で活躍する馬が増えることだろう。しかし、そんな坂路調教を前々から作っていたとは…恐るべシンボリ。
いよいよ建物が視界の真ん前にまでやってきた。数分と言っていたはずが…何故か1分ぐらいにしか感じられなかった。
隣を見ると、先生は足の筋肉がピクピクしているようでその振動が体にまで行き渡っていて変な上下運動をしているように見える。そういう自分も緊張しているせいか、腕時計をチラチラと見てしまったり腕時計のベルトを調整したりといつもは大してやらないことを、何故かずっとしてしまう。
「それではオーナーがお待ちしております、部屋まで案内いたします。」
建物の中に入ると、意外と質素な部屋ということが分かる。元から質素な建物なんだろうと思って入ったが予想より一段質素だった。正しく、馬のことだけを考えている…そんな人の建物であった。床も所々土や砂埃で汚れていたりしたりしている。これがシンボリ牧場だ…といわれると少し戸惑いそうな内装であった。
階段を登ると、綺麗な内装の階層が現れた。客室用の部屋なのか、何かは知らないが先ほどまでの質素な内装を見た後だと少し頭がクラッとしそうな感覚がしてしまう。
「こちらの部屋でオーナーは待っております。」
スーツ姿の男の言葉に、心臓に激震が走った。決心をしたにも関わらず、心臓だけはそれに反してドクドクと音を僕の体内の中で響かせていた。先生は、ポケットに入れてあったハンカチで汗を拭っていた。先生も先生で、決心はついていた筈だというのに自然に汗がずっと湧き出るのだろう。僕も身だしなみをパパッと整えて、重厚な木製の扉を開くことにした。金属製のドアノブは暑い体に反してひんやりしていて不気味な感覚がした。
扉を開けると、そこには見るからに高級な革のソファにドッシリと座っている男性がいた。この人が恐らくオーナーの倭田さんなのだろう。
「こんばんは、竹豊です。」
「こんばんは、お世話になっております山田です。」
「…嗚呼、山田と…竹豊くんか。とりあえず、そちらに座りなさい。」
倭田さんはこちらをほんのチラリと見た。その瞬間に自分はとてつもない圧を感じた。それは京都の料亭で出会った社大のオーナー吉田さんと似たようなものだった。
こちらはずっと倭田さんから目が離せないのに対して、相手はこちらを一瞥しただけだ。僕にとっては見なければいけないのに、相手からは見なくてもいい…今同じ部屋にいるというだけで物凄く大きい差があるように感じる。革のソファに僕と田中先生は一緒に座り込んだ。座った瞬間に、僕はとてつもない違和感を感じた。
それはまるで、一切の革の感触が感じられないのだ。感じられないどころか、手のひらからは見えない場所から汗が溢れてきだし、こめかみが急に湿り出す感覚がし、首から背中にかけては寒気までして、お尻は汗で蒸れて焦ったく感じる。相手の目をしっかりと見てみると、熱い目をしていた。てっきり、僕らに冷たい目をしているのかと思ってみると全然違っていた。
「さて、ところで山田くん、電話の件だが…菊花賞を回避しろとはどういう用件だ。」
「ち、違いますオーナー。菊花賞を回避しろというのではなく、一旦はマティリアルの馬体の調子もありますし療養をですね。」
「何を言うか、バカもんが!!」
あんな体がどこから、そんな声が出るのかと不思議に思うほどの怒鳴り声がこの部屋中に響く。前を見ている筈なのに、なぜか首が徐々に、徐々に下に下がっていくような感覚がする。
自分の体が、目の前の人から感じる圧にどんどんと屈していく。精神だけでなく身体までもがだ。
「マティリアルは私が作って、私が育てた馬だ。ルドルフの後継になるように作り上げているのだ、お前に預けようものなら壊れとるわ。お前のところにマティリアルを預けているのはお前の才能を見込んだわけではない。お前の仕事は出走手続きをするだけだ。」
「お、オーナー、それは決して違います。マティリアルは我々田中厩舎一同全員も関わっているのです。丘部さんも騎乗してくれないとのことで、私が様々な騎手の方に連絡をかけてようやく、竹豊くんが今後騎乗すると仰ってくれたのです。…ひとまずは豊くんの話を聞いてはくれないでしょうか。」
「こんばんは、初めまして竹豊です。よろしくお願いします。」
「よろしくだ、豊くん。」
オーナーがそう、言葉を言い切った瞬間にこの部屋は僕とオーナーの二人だけの空間になった。実際には隣に田中先生もいる筈なのに、それを全く感じさせなくなった。それは目の前の倭田オーナーの圧なのかもしれない、目は完全にロックし続けている状況だった。まるで時代劇の殺陣シーンかのような緊迫感が辺りに流れる。
「単刀直入にいってよろしいでしょうか?」
「構わんよ。」
「マティリアルはシンボリ牧場で調教するより、美浦トレセン…つまるところ田中厩舎で調教すべきです。」
「ほぉ、その心は?」
「まず、マティリアルの担当厩務員である戸澤さんがおっしゃっていましたが、マティリアルが厩舎に入厩するときやその後はいつも、いつも調子がガレでいます。それはオーナーの短期放牧という方針が間違っているからです。これに関しては『マティリアルに対しては』という枕詞がつきます。」
「それで、それで、続きを聞かせてくれたまえ。」
…何かが、おかしい。理路整然と少しずつ、この牙城を崩していると思っているのに前方に聳え立つ城は揺らぐどころかこちらが攻撃する側だというのに崩されかけているような気さえする。
「短期放牧というのは競走馬のリフレッシュという観点ではピカイチですが、競走馬とて生き物です。環境が変わればそれだけでストレスなのです。それもリフレッシュよりも大きいストレスを抱えることだってあります。マティリアルはその面が顕著に現れてます。ですから、シンボリ牧場で短期放牧させるより田中厩舎でレース後も休養取らせながら調整を加えて行ったほうがマティリアルにとっては良いんです。」
「豊くん…いやぁ、うちの牧場スタッフにならんか?いやはや、騎手としても素晴らしいが…調教助手とかでも腕はピカイチかもしれんな。さて、言いたいことは分かった…ならば、こちらも問い返そう、それならばレース出走間際までの長期放牧をすればよいではないか?短期放牧のデメリットというのは環境の変化によるストレス…ならば環境に慣れさせる時間を与えればよいではないか。いや、それどころか調教まで全て私たちの牧場で済ませればいいことだ。私たちの牧場はプールから坂路まで様々な施設がある。それでも、田中厩舎にマティリアルを預けろというのか?」
「それは、非常に理想的なものです。それがオーナーブリーダーとしては一番素晴らしい手法だとは思いますが、それを否定する根拠は2つあります。まず1つは輸送するという段階でまず馬はストレスを抱えるということです。そもそもマティリアルは今までの出走成績などを見ると関東以外は行ったことがない。そもそもマティリアルが輸送に対して耐えうる体がどうかが不明な点ですし、二つ目は確かに長期放牧では環境の変化に対してのストレスが軽減されますが、レースに出走する前に美浦トレセンで馬体検査をしてから入厩し、その後競馬場まで輸送…となると環境が二転三転と変わっていてやはりマティリアルの馬体にはよくない状況ではないでしょうか?短期放牧と何も変わっていないではないですか。」
「ふむ…成る程。しかし、マティリアルは私の馬だ。それでもトレセンで全てを任せろと言うのか?」
その瞬間、急に眩暈がし出した。何故だろう、父さんや母さんに叱られたときのような感覚がする。四方八方がぐるぐる回って、視界もボヤけたり、黒ずんだりする。
物凄く気持ち悪い、本当に…本当に…気持ち悪い。だけど、
「はい、そうです。それが
「そんなこと、当たり前だろう。それを私が考えれなかったと言いたいのか?」
「恐れ多いとは思いますがその通りです。というよりこの意見は、俺みたいな若者だからこそ言える言葉です。何も経験していない…それ即ち何も知らない、だからこそ別のモノを繋ぎ合わさないのです。オーナーのように様々な経験があることは非常にプラスです。しかし経験が多いということで別のモノを繋ぎ合わした、似ているせいで。膨大な経験は量だけは圧倒しますが、それを判断する側が迅速に細部まで判断出来るかが問題なのです。マティリアルは非常に才能優れた馬です、それはレースの映像を見ているだけの私でも分かります。才能という意味では非常に酷似していますが、能力という形ではかなり違います。ルドルフがオールマイティに対して、マティリアルはマイラーなのです。」
そう言い切ると、先ほどまで大きく感じていたオーナーがどんどん萎んでいくように感じてしまう。俺が言った様々な言葉はどうやらオーナーの胸中にグサグサと急所を的確に貫いたようだった。
隣に先ほどまでいなかった、山田先生が徐々に輪郭が現れてきた。つい先ほどまで、オーナーの顔しか見れていなかったというのに今や先生の顔がしっかりと見える。先生が僕に目を遣っていた。それはもう一言、添えろというアイコンタクトなのだろう。
「………オーナー、よろしいでしょうか。マティリアルはマイラーとしては格別な能力があると信じています。あのニホンピロウイナーやニッポーテイオーを越えます。ですからマティリアルがシンボリルドルフと顔を並べるためにも今年一杯までは療養させてください。そして、マティリアルが復活するとき是非とも俺を鞍上にしてください。俺が責任を持って、マティリアルを勝たせます。」
言い切ったと同時に俺は頭を下げた。そのせいか、俺の視界は真っ赤なカーペット以外見えない…オーナーが一体どんな顔をしているのか分からない。しかし、直感的に良い雰囲気を感じ取れる。先ほどまで剣山のようだった雰囲気が、安穏とした雰囲気に変わっているからだ。
「確かに分かった、しかし私が見たあのスプリングSは一体なんだったのか。」
「それは………あっ、そういうことか。」
成る程、だからマティリアルはマイラーのような馬体になったのか。
…どうりで。そういうことか、このシンボリ牧場にあるアレが原因だったのか。
「簡単です、坂路トレーニングのせいだからです。」
「…坂路だと?しかしあの坂路トレーニングはパワーや、スピードスタミナもアップする最高の施設のように感じるが。」
「坂路トレーニングは確かにパワーやスピード、スタミナが鍛えられます。それは事実です。しかしそれと同時に速筋が鍛えられるのです。体というのには速筋と遅筋があり、速筋は瞬発力が遅筋は持続力が鍛えられあげます。マティリアルは確かにスタミナもパワーも鍛えられましたが、速筋も鍛えられ、増加したのです。」
そう、それが坂路の利点であり欠点なのだ。
「坂路というのは側から見れば、全てが鍛えられるようなトレーニングに見えますが欠点として遅筋が鍛えられない…疎かになるのです。それがマティリアルでは顕著だったように思えます。そのせいで距離を伸ばせば、伸ばすとほど着順が落ちていったのはそういうことです。実際、坂路トレーニングによって長距離が走れるというパターンもあります。それはスタミナが馬にとってどのように活用するかによって変わります。短距離の間に全力で走るのか、長距離をある程度の配分で走り切るか、それは馬によって違います。ですから、坂路トレーニングが悪いとはいいませんがマティリアルの長距離適正には意味がなかったと言えます。ただその代わり、マティリアルはマイルの適性はずば抜けていると思われます。だからこそ、倭田オーナー是非ともマティリアルをマイルで走らせてください。この責任は竹豊がすべて負う所存です!!」
そう言い切った瞬間、心がスッキリした感覚がした。目の前の人物が納得しているからなのかもしれない。
「…豊くん。ありがとう、そして山田くんも申し訳なかった。」
「…!!いや、オーナー、オーナーが悪いわけではございません。」
「いや…私が悪いのだ。そうだな、豊くんの言ってることは今まで私が不思議には思っていながらわざと見過ごしていたことだ。…非常に申し訳ない。」
「では、次走の予定はいかがしますか?」
「それなら、次走は——————」
その夜、シンボリ牧場の応接室で男たち三人は夜通し、マティリアルの次走や調整について語り合った。つい先ほどまで敵対していた者同士が1頭の馬にたいしてまるで子供のように考えていた。その場面は微笑ましいことに違いないだろう。きっと、きっと、そうなのだろう。
次回…ようやくレース回。
『ライン 菜っ葉 Eino 猫好きの人 カオ ECCセル kuma4649 nomaneko』さんお気に入り登録ありがとうございます。
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中規模なIF(レース結果)
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