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畳の上で目が覚める…
この畳の心地は非常に愛着もあり離れ難い。
だが既視感自体は少ない、何故ならここは調整ルームでも、東京競馬場の調整ルームだからだ。
そうだ、今日は11月1日の日曜日。天皇賞・秋の日がようやく来た。
シリウスシンボリと初のG1出走を各競馬雑誌で面白おかしく書かれてしまったが、そんなことはどうだっていい。ようやくシリウスシンボリと一緒に戦える。
ただし、その前に一つ僕が乗るレースがある。それは第7Rの四歳以上400万下のレース、天皇賞(秋)の練習になる…と思っていたけどダートの1200だから、東京の初芝レースは天皇賞・秋になる。
京都や阪神とは違って、僕の乗鞍は少ない。もちろん新人ということもあるが、急遽の東京ということで集めきれなかったのもある。
あまり好きではないが親父の影響もあるおかげもあるのだろう。あまり好きではないが。
まぁ…7Rと10Rだけではあるが、この騎乗機会をこれからの騎手生活のために是非ともいいものにしたい…
そんなこんなを思いながら、起き上がって朝ごはんを食いに食堂に向かった。そこに行くと、多原さんがご飯のプレートを持ちながらこちらに向かって手を振っているようだった。
お辞儀をして挨拶をすると多原さんは片手だけでプレートを持ってこっちにどんどん近づいてくる。というか、よく片手の指先だけでプレートを持てるものだ…上に味噌汁とかあるのにこっからみても全然水面は揺れてないどころか不思議と両手で持っている以上の安定感がある。
「やぁ、豊くん。君も朝ごはんかい?」
「そうですね、そういう多原さんは…えっとA定食ですか?」
「そうそう、朝はこれぐらいで十分。ところでだけど、この間のレースのレオテンザンの逃げ切り…すごいもんだ。」
「正直なところ、サニースワローが内から突いてきて危なかったです。レオテンザンの能力だけで勝てたようなレースだと僕は思ってます。」
「う〜ん…君は相変わらず自己評価が低いなぁ〜。僕的にはレオテンザンのあの好スタート…びっくりしたよ。あんなにぴょいっと出られたら、あぁいうレースでは負けてしまうよ。まぁ負けちゃった私が言えるのは君を褒める言葉ぐらいかな、ハハハハハっ。じゃあ天皇賞・秋、楽しみにしてるよっ!」
そんなことを言って多原さんはテーブルの方に向かって行った。
天皇賞・秋を…楽しみに…あの人だから言える言葉なんだろうなぁ。僕はシリウスシンボリをどうするか、それだけで頭が一杯だっていうのに。
なんというか、何処となくあの人と喋るのが怖く感じる。この時代によくある根性論とかパワハラの類ではないのだけれど…何かが怖い。
嫌な感じがするというか。あの人と長話をしたくない印象だけが僕の心に刻み付けられる。フェアなのだが、それと同等に勝利に貪欲だ。
僕が適当に削り切った黒曜石のナイフだとすると、あの人は名工が作った美しい刀そのものだ。
勿論ナイフが刀にだって勝てるように僕だって多原さんに勝てないわけでは無いし、折れないように勝つつもりで挑む。
だが多原さんにとっては刀がナイフに負けたとなっては恥。僕は勝っても負けてもマイナスはないが、多原さんにはプラスはない。多原さんには勝つしかない。
そんな訳だからあまりこの騎手の世界に入ったからにはあまり言ってはいけないかもしれないが、あの人とは本当に戦いたくない。川内さんと同じレベルで一緒のレースに乗りたくない。
「おばちゃん、B定食で。」
「あいよっ、ご飯は大盛りにする?それとも普通?」
「普通でええよ。」
天皇賞・秋…正直勝てる未来はないと思っている。
なぜなら、今回の天皇賞・秋には名マイラーたちが集まっているからだ。正直なところ天皇賞・秋に勝てるタイプは2種類だけだと考えている。
マイラーか、パワーでゴリ押し…このどっちかのタイプである。ところでうちのシリウスシンボリはどちらにも当て嵌まらない…
正直シリウスシンボリはクラシックまでの成績からして、恐らくはクラシックディスタンスホースに間違いないと思っている。
ヨーロッパ遠征のおかげか少しピッチ走法気味なところもあるが、やはり大元はストライド走法…マイラーとは言えない走り方だ。
勿論、走法だけでマイラーかどうかなんて区別が完全につくことはできない。ただ、傾向として実際に表れている。
走法だけが勿論、負ける原因ではない。もう一つは東京競馬場の左回りにある。
日本競馬はヨーロッパとアメリカの要素を取り入れるように形成されたせいで、主要四場のうち中山・京都・阪神はヨーロッパ式の右回り、それに対して東京はアメリカ式の左回りになっている。
シリウスシンボリが勝った日本ダービーは東京競馬場なので、自明で左回りが得意のように思うが、長年のヨーロッパ遠征により恐らく体質としては左回りより右回りの方がコーナーリングおよび直線の伸びが良い。
シンボリ牧場で、実際に幾度か調教として乗せてもらったが完全に把握してるわけではないが現時点ではやはり右回りの方がシリウスシンボリに合ってるように思える。
だからこそ、この天皇賞はハナから負けると殆ど予想はついている。ただ、負けてもシリウスにとって何かが得られる負けになるようにする。
それが僕の今回のミッションだ。その負けをジャンプ台にして、僕と菊澤先生やオーナーの三人が交えた結論は、宝塚か有馬のどちらかを勝つことになった。
天皇賞・春は長距離故に適性なし、天皇賞・秋とジャパンカップはさっきの理由により除外…となるとこの日本で中距離のG1なんて残るは宝塚記念、そして距離は少し伸びて長距離の区分にはなるが有馬記念のどちらかになった。
「あぁ…もう食べちゃったか。」
いつのまにか、僕はもうご飯を全て平らげていた。考え事をしていたせいか、ご飯の味もなんも考えずに全てが胃袋の中に消えたようだ。茶碗の中はご飯の一粒も残っていない。
他人事みたいな言い方になってしまうが、ちょっと今日の僕はピリピリしているようだ。
やはり、マスコミのシリウスシンボリ騎乗で変に書かれたせいかストレスでも溜まっているのだろうか…
いつの時代もマスコミには悪い印象しかない。頼むから信頼性のある記事を書いてくれ。
多原さんのサルノキングについてもそうだ、せめて関係者からしっかり話を聞いてから書いて欲しいものだ…まぁマスコミなんてそんなもんだと言われたらそうでしかない。
ご飯のプレートを戻して、僕は調整ルームの自室に戻った。テレビの下のビデオ再生器にVHSをぶっ刺してあぐらのポーズをしながらビデオを再生する。
瞬間の暗転と、数秒の砂嵐のあと分厚い埃臭いブラウン管のテレビに色がついた。このサイケデリックな色合いには、やはり少し抵抗感が心の奥底にはまだあるようだ。
記憶の奥底に眠る4Kや8Kの映像を思い出すだけで目がしばしばしそうになる。
映像を自分が見たい時間まで早巻きしながら、ついつい僕は感嘆してしまった。
「しっかし…まぁ、
とある日のレースのビデオを再生していたが、やはり凄いと思える。
七馬身差の圧勝…正直なところ今の日本競馬界で今、最も完成された馬を挙げろと言われたらこの馬になる。是非とも乗ってみたいが、まぁそれは無理なことだろう。
乗ってみれば強味も、そして弱味も分かる。その経験さえあれば、立ち向かうことが出来る。
蜘蛛の糸に縋るように弱点を知りたい馬と僕がいつかは戦わないといけないと考えると頭が痛くなる。こんな馬と戦うには、こっちもそれなりの馬と戦略を持って戦うしかない…
実際のレースも見ていたというのに、もう一回ビデオで見ても色褪せない…本当に僕はこんな馬に怖気つくことなく戦って、そして勝てるのだろうか。
勝てるビジョンが中々見えない。どうしても、怖気つく。全身全霊の全力でも勝てるかどうか…そう思えてしまう。
乗り越えなくてもいいが、
「…もうこんな時間か、ちょっと準備体操でもするか」
そういって、テレビを消して調整ルームの自室を後にする。
時間はあっという間でもう、午前が過ぎて午後12時とちょっとの時間だ。
もうそろそろで…始まる。不思議なことにデビュー戦の時みたいに緊張する。阪神競馬場の初デビューはそこまでだったというのに。
どうしても見慣れない環境が僕の心を焦らせる。京都、阪神、中京に小倉、函館…そして初めての東の主要競馬場でのレース。
3月から騎手になって、もう八ヶ月…だというのにまだまだ新しい体験がある。それはきっといいことなんだろう。
それと同時に、こんなにもたくさんの経験をさせてくれた周りの人たちに感謝の気持ちしかない。暖かい
「………ん?」
ロッカーが…ない。
ん?嫌、確かにここだって職員に言われていたような気が…あれ?間違ったのか?いや右から数えて1、2………
「あれ?ないな。」
勝負服やヘルメット、鞭なり色々が入ってるはずのロッカーがない。そもそも存在がないように…消えている。
JRAの職員の人に何回も聞いたはずなんだが、間違ったかな…
あ、ちょうど職員の人がいるな。聞いてみるか。
「すいません、あの僕の…ロッカーでどこでしたっけ?」
「えっと、…そこの角っこの右から五番目のロッカーですね。」
「はい、ありがとうございます。」
そうか右から五番目だったか、そりゃ見つからないわけだ。
………右から五番目っ!?さっきの人と同じことを言ってるじゃないか!!
ふぅ…ちょ、ちょっと待てよ。右から五番…目…いや4つしかない…ロッカーは5つなんかない、4つしかない。見間違いとかそんなことはない、どこからどう見てもこの列にはロッカーは4つしかない…
職員の人にもう一度聞きたいが、あっ、もうどこか行ってしまったみたいだなぁ。
どうしよう、こんな状況はちょっとおかしいんじゃないかな。ん、職員じゃないけど誰かいるな。
ちょっと忙しいかもしれないけど、聞いてみようか。
「あの〜、すみません。ここにロッカーとかってありませんでした?」
「………」
「忙しいところ、すいません。職員の人にロッカーの場所を確認してもここだって言ってて。」
「………」
「………あ、あの。」
「あぁ、お前のロッカーか。それなら場所知ってるよ。」
「えっ、本当ですか!?」
あぁマジでこれで助かった。このままなら、レース前にバタバタしそうだったけどこれなら問題なさそうや。
けど、すんごい奥のところにロッカーがあるみたいやな。職員さんで意思伝達が上手くなっとらんかったのか…まぁ謎だ。
そして目の前の人、なんにも喋らないせいか謎に悪寒が走る。
こっちを一切見ることも、喋ることもなく、ただぶっきらぼうに僕のロッカーの場所まで案内する。美浦は栗東とは違って暖かさはないけど、優しさはあるみたいだ。
「うん、これがお前のロッカーだ。」
「………え?」
おかしい…うん、おかしい。
間違いなく、僕は今日疲れてるんだろう。そうだ、なんたってロッカーが
最近どこか、精神的にしんどかったのかなぁ。重賞も連続して騎乗して連勝、シンボリ牧場で色んなこともあったし…あぁ、何度目を開けたり閉じたりしてもロッカーがゴミ箱に見えてしまう。
目を擦っても何も変わらない。
「関西の坊ちゃんはせいぜい、そこで着替えな。」
いや訂正する、これはロッカーなどではない。ゴミ箱そのものだ。
これは徹底的な僕に対してのいじめ、そうでしかない。脳みその中が暑いのと同時に冷たくもなる…こいつの顔面をぶん殴りたい。
どんな大先輩であろうと、ぶん殴りたい。冷静に、獰猛にぶん殴りたい。ぶん殴りたくなる。
そうか、これが先生の言ってた
だけど、同時に理性が働く。自分は“竹豊”だということを、頭の中で響き渡る。こんなところで力任せに暴力を振るう男ではない…そう踏み止まることがなんとか、ギリギリできた。
もし僕が本当の“竹豊”なら一発でも殴ってたかもしれない。心でわかる、今の僕は穏やかなレジェンドではない。まだまだ切れ味が鋭すぎる若武者だということに。
あ、でもやばそう。マジでぶん殴りたくなりそう。
落ち着け、落ち着くんだ。こういう時は10秒息止めたら落ち着くっていうし。いや10秒も息止める時間なんてないわ。
「………そうですか、分かりました。ありがたく使わせてもらいます。」
ハキハキとそう言うと、そいつはどこかへ行った。反応が面白くないのか、足早に去った。
僕はそれを見るのと同時に、壁をぶん殴った。殴った自分自身の拳が痛くなったが、これでいい。ストレスは発散できた。
……さてと、とりあえずJRA職員を探しに廊下に出るか。
事の次第を伝えると大騒ぎで、予備の勝負服などを少し時間は経ったが手渡された。
騎手控え室に入ると、さっきのやつがいた。暴力なんかじゃない…それよりもっと恐ろしいレースでこの恨みを返してやる。
ニコニコしながら、僕はそう考えた。
…こりゃ関東が落ちぶれるわけだ。いくら競馬の世界が村みたいな構造であろうと、これは酷すぎる。
結果はなんとか、掲示板入りの四着だった。
先行しつつ、後続の他馬を蓋をして、有利な進路を取りのまま直線での勝負で後ろから差されて馬券圏内とはいかなかった。
初めての府中でのレースは、まぁまぁな形で迎えれたとは思う。ゴミ箱をロッカー呼ばわりした奴は、掲示板外でレースが終わった後、僕は変にニコニコしていたに違いない。
負けているというのに、ニコニコしていたら調教師の人や馬主に怒られそうだ。
7Rが終わると、8Rと9Rはあっという間に過ぎ去った。特別競走だというのに、自分の乗鞍がないせいかすぐさまに時間が過ぎ去るような感覚がする。
しっかし、まさか第10レースでもロッカーがまた消えているとは…関東って実はヤバイ場所なのでは?こんな所でエビちゃん大丈夫なんかな…
自分のことを心配しないといけないのに、つい友達のことを心配してしまった。エビちゃんもこの騎手という荒波より恐ろしい世界に来た物好きだ、こんなことでへし折れない人間に違いない。
「豊くん、とりあえず頑張ってくれ。」
シリウスに乗っている僕に、わざわざ手を高く伸ばして僕の手を握ってくる。
僕も握り返すと、つい2人で笑ってしまいそうになる。
「わかってます、菊澤先生。とりあえず先生は待っといてください。」
地下馬道のせいか、音が妙に反響して謎にクリアな感じになる。
不思議だ…いつものレースではこんなに緊張しないのに、今日だけは心臓がキュッとなるほど緊張する。
「なんだろうな、君に言われるとすごく安心するよ。ただ私より君の方がリラックスしてくれよ?G1初出走なんだから。」
「はい。それじゃあ、行ってきます。」
「行ってきたまえ。」
菊澤先生の最後の声を境に、僕の目の前には地下馬道が今まで遮っていた日光によって彩られる真っ白の世界が待っていた。
それと同時に大きな歓声が聞こえてくる。あぁ、これがG1の舞台か…
東京競馬場 第10R 天皇賞(秋)(GⅠ) 芝2000・左 芝:重 ダ:稍重
桃⑧ああ23あああ⑧ | 橙⑦ああ23あああ⑧ | 緑⑥ああ23あああ⑧ | 黄⑤ああ23あああ⑧ | 青④ああ23あああ⑧ | 赤③ああ23あああ⑧ | 黒②0あ⑧ | 白①0あ⑧ | 色枠番0ああ⑧ | 東 京 10 R 第 96 回 天 皇 賞 (秋) GⅠ | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
14 | 13 | 12 | 11 | 10 | 09 | 08 | 07 | 06 | 05 | 04 | 03 | 2 | 1 | 馬番 | |
トウショウボーイ 鹿毛 ウインドストース ホッカイフアイブ 2勝 (ヴェンチア) 牡5 | ブレイヴェストローマン 鹿毛 トチノニシキ セイビニシキ 3勝 (シャトーゲイ) 牝6 | ハードツービート 鹿毛 ハーバークラウン ハーバーソロン 3勝 (パーソロン) 牡7 | ソーブレスド 鹿毛 フォスタームサシ ビューティサラ 0勝 (トサミドリ) 牡6 | ヴァリィフォージュ 鹿毛 カツタイフウオー カツタイフウ 3勝 (ファバージ) 牡5 | コリムスキー 栗毛 スーパーファントム エイミ 未出 (アポッスル) 牡4 | フィリップオブスペイン 鹿毛 フレッシュボイス シャトーハード 未出 (ダイハード)ダ 牡5 | ノーザンテーストダ 鹿毛 ダイナアクトレス モデルスポート 7勝 (モデルフール) 牝5 | ニゾン 鹿毛 マウントニゾン オキノメロディー ダ0勝 (ダストコマンダー) 牡5 | ミルジョージ 栗毛 スーパーグラサード グラサード 未出 (ハクホオショウ) 牡6 | モガミ 鹿毛 シリウスシンボリ スイートエプソム ダ 未出 (パーソロン) 牡6 | ノーザンテースト 鹿毛 レジェンドテイオー ロイヤルハイブ 輸入 (ロイヤルパレス) 牡5 | ハードツービート 栗毛 アサカツービート ランフアスター 未出 (チャイナロック) 牡7 | リィフォー 鹿毛 ニッポーテイオー チヨダマサコ 1勝 (ラバージョン) 牡5 | 父 毛色 馬名 母 競走成績 (母の父) 性齢 | |
| 58 | 56 | 58 | 58 | 58 | 56 | 58 | 56 | 58 | 58 | 58 | 58 | 58 | 58 | 22斤量 | |
| 11佐藤 | 11大津 | 11尾島 | 11関戸 | 11的葉 | 1芝田政 | 11多原 | 11丘部 | 11杉田 | 11中谷 | 11竹豊 | 1恵比沢 | 11高山 | 11豪原 | 11騎手 | |
| 1一本松 | 11栗園 | 11笹山 | 11伊藤 | 11羽崎 | 11大村 | 11井坂 | 11弓原 | 11高木 | 11水永 | 11菊澤 | 11野村 | 11荒井 | 11保科 | 11厩舎 | |
『大一番を前に緊張感がこの東京競馬場を支配します。昼下がりの、この決闘の場に姿を現す14頭を紹介します。
この大舞台に君臨せよ。一枠一番、一番人気のプライドに賭けて今度こそは逃げ切ってやる。ニッポーテイオー、豪原洋行。
キャリア三十八戦の古兵が、他馬を蹴散らす用意は出来ている。アサカツービート、高山富男。
帝王は帝王でも、勝つのはこの俺。逃げ切り最速伝説は譲らない。レジェンドテイオー、恵比沢誠治。
海外帰りのダービー馬、府中で輝いた世代の星が若き天才と再び同じ場所で。シリウスシンボリ、竹豊。
サードであろうと、欲しいのはファースト。スーパーグラサード、中谷英治。
さぁダービー以来の大舞台へ、今こそ全ての力をここに。マウントニゾン、杉田宏昭。
名手と繋いだヴィクトリーロード、杯も王冠もいらない。必要なのは秋の盾。ダイナアクトレス、丘部幸隆。
同期の帝王をもう一度打ち破る、府中マイルの王者が勝利の声を響き渡せる。フレッシュボイス、多原成貴。
ビッグタイトルを望む幻影はまだかき消えていない。バックダンサーは御免被る。スーパーファントム、芝田政人。
四度目の府中への挑戦、波乱の台風の目はここか。カツタイフウオー、的葉均。
札幌ダート三戦三勝の雄が来た。ここ府中の芝も乗り越えて二刀流皆伝。フォスタームサシ、関戸睦介。
勝利の女神に見放されて二年、今こそ自分の力で王冠を戴く時。ハーバークラウン、尾島太。
紅一点と言わせてなるものか。今年の金杯勝ち馬、十戦目の旅路の先に見えるものは何か。トチノニシキ、大津栄三。
大外枠にはなりましたが、帝王と名女優に競い合った実力は疑いなし。ウインドストース、佐藤和夫。』
「ふっ…ふっ、ふっ。」
なんの問題もない。走ること自体に嫌気は出していない。
ぎこちない走りだが、それも少しずつ僕が慣れていけばなんの問題もなくなってきだした。
これがダービー馬の背中か…発汗はそれほどない。ヨーロッパと違って人が多いというのにこの落ち着きようは、シリウスシンボリは賢い馬なんだろうか。
周りの馬もチラチラ見てみるが、まぁ、うん。中々手強そうなのが一杯だ。
この天皇賞・秋は前も後ろも要注意だ。前門のニッポーテイオー、後門のフレッシュボイス。
そして真ん中のダイナアクトレス…この3頭が、この天皇賞・秋の戦局を作り上げる。そしてもう一頭、レジェンドテイオーも要注意だ。
この馬がどんなペースで逃げるかによって、前が潰れるか後ろが潰れるか…それが変わってしまう。
大逃げ宣言みたいなのはないにせよ、前走の毎日王冠みたいに控えて先行で勝負を仕掛けに来るやもしれない。
三つの要素と一つの不確定要素…とりあえずはスタートしてみないと何も分からないが、とりあえず外枠を引かなかっただけ感謝というしかない。ただ奇数枠だけは頂けないかな…
ただ、このレースどうなるか…混戦模様というべきか…
今回の天皇賞・秋は
ある馬の人気が圧倒的な場合に、その馬だけ1つの枠に1頭だけとなるのだが今回の有力候補のニッポーテイオーとフレッシュボイスの両馬共に単枠ではない。
JCRA自らの見解として、能力は拮抗しており、なおかつこの両馬を倒せる可能性が大いにある馬もいるということだ。
まぁその馬は丘部さんのダイナアクトレスだろう。要するにシリウスに勝てるチャンスがないわけではないということだ。
ニッポーテイオーよりも、フレッシュボイスよりも、ダイナアクトレスよりも先にゴール板を過ぎ去るように僕がエスコートすればいい。
『さぁ、ファンファーレが鳴り止むと同時にたくさんの歓声がこの府中にどよめきます。さぁ、1コーナーのポケットに集まる十四頭の枠入りが始まります。』
これがG1のファンファーレ…今までは奥にある観客スタンドで聴いていたのがここで聞くようになるなんて。
シリウスシンボリを少し促してゲートに入る。
ふぅ…重馬場のこの東京競馬場でどうやって走り抜こうか。とりあえずはウチに潜って様子を伺うか。
いや、ここは思い切って前めに出てみるか。レジェンドテイオーがもし逃げないのなら二番手ぐらいでニッポーテイオーを行かせて、後ろに蓋をしつつ仕掛けるのも悪くはない。
『奇数枠が入りまして、偶数枠も続々と入っていきます。』
今の気分だとゲートとか無視してスタートしてしまいそうな勢いだ。
レースはレースでも、G1というだけで何故こんなに緊張するのだろうか…いや勿論、函館三歳Sに京都大賞典、京都新聞杯などでも緊張していたが、なんというか体にずっと変な重みがのしかかってきている。
鞭と手綱を握る掌から不思議と汗がずっと出てしまう。いつものレースではこんなことは一切なかったというのに。
僕がこんなに緊張をしている中、シリウスシンボリも興奮している。僕の緊張が移ったというよりはゲートでの待機がストレスになっている。偶数枠が当たったら良かったんだがなぁ…
今は人を少し怖がる節はあるものの、やはりこの馬はモガミ産駒らしく気性が少し荒い馬だ。
『大外枠のウインドストースが入ります、秋の最強伝説、勝鬨上げるのは一体誰なのか。』
「はぁ…はぁ…はぁ…」
ゲートが開いたら出る、ゲートが開いたら出る、ゲートが開いたら出る。
それだけの行為、ついさっきまでやってたはずの行為ができなくなりそうな感覚に陥る。
頭の中身が全部真っ白なそんな感じがする。
周りの様子なんてほんの今だけは気にすることなんか出来ない。落ち着きたくても心臓が落ち着かせてくれない。
ゴーグルの視界が自分の息で曇りそうで、下ろしたくなる。
ただそんな緊張もシリウスの背中を感じると落ち着くような気もする。
僕より雄大な背中というか…頼れるというか…物凄く不思議な感覚に襲われる。
『府中に集まった14頭、さぁ一体どんな結末を迎えるのか、第96回天皇賞(秋)』
体感1秒もないのは分かっている。だけど、この時間だけが永遠に感じる。
まだスタートして欲しくなき。勝てないと分かっても勝ちたい。わざわざ負けるようなレースはしたくない、一矢報いたい。
強い馬に乗って勝ちたいとかではない。自分がもっと強くなって戦いたい。
だからこそ、強くなるために悔いのないレースをしよう。
『ゲートが開きましたっ!!』
「君はシリウスに対して、どういう印象を持つ?」
シンボリ牧場でシリウスシンボリと運動をし終えたあと、菊澤先生はそう聞いて来た。
どういう印象か…そう聞かれると、少し自分としても言葉として表すにはすごく難しい。
運動をした後で水筒を飲みながら、考え込んでしまう。
「私は正直に言うと、面倒な馬が来たなぁと思ったさ。」
「ちょ、え、」
聞き間違えとかじゃなく、菊澤先生は何を言ってるんすか。
ここ、シンボリ牧場ですよ!?シリウスシンボリのオーナーの人の牧場で何言ってるんですかぁぁ!?
「もっと正確に言おう、引き受けたくなかった。」
「………ぉぉ…」
なんか、才能ある人ってどこかネジの一本どころかそもそもネジ一切使われてなさそうな頭してるんだなぁ…(呆然)
そこまでズバッと言いますぅ?普通!!
「私は色んな縁のおかげで、調教助手として強い馬をたくさん担当させてもらった。」
「強い馬って言いますと?」
「まぁ1番強い馬と言えばシンボリルドルフだろうな。」
「先生、シンボリルドルフの担当だったんですか。すっ、凄いです!!」
そうか、どこかで見たことある名前とは思ってはいたけれどシンボリルドルフの調教助手だったんだ。
いやぁ懐かしいなぁ…確か競馬学校1年の頃の見学の時にルドルフのダービーを見たけれど、あれを生で見れたのは最高だと思えた。
一緒にエビちゃんと、ダービーを見て興奮したっけ…というかもう3年前なのか。
うん、そうだ。中学生最後のダービーがミスターシービーやから合ってる。
「ルドルフねぇ…彼は強かった。」
「そうさ、間違いなく強い。ミスターシービーがどうした、カツラギエースがどうした、ミホシンザンがどうした。」
「そんなの関係ない。だからこそ私は今でも悔しいんだ。春の不調さえなかったらと…」
「ルドルフはもっと大成していたんだ。そう…凱旋門もブリーダーズカップも夢じゃなかったんだっ!!」
僕に熱心に語る先生の姿は少しだけ、ずるいというか妬けてしまいそうな顔をしている。
同じ競走馬に関わる人間として、あんな風に恍惚と出来るなんて。物凄く幸せそうだ。
あそこまで熱中にさせる馬…いや僕にもいるんだけれど、その感覚は未だにない。
いつしか僕もあんな風に感じる馬と巡り会う時があるのだろうか。
「…そう…なんですか。」
僕の鈍いリアクション…というか引き気味な態度に先生は少し慌てて僕に謝った。
物凄く恥ずかしそうにしながらも、僕に話せたのが嬉しかったのか上機嫌だ。
「ルドルフの話ばっかもあれだし…そうだ私が野寺厩舎に所属する前の藤池厩舎のカツトップエースも私が担当してたんだよ。」
「え、あのカツトップエースも担当してたんですか!?」
「カツトップエースは私が一から育てたと言っても…過言すぎるがな?」
えぇ…菊澤先生ってマジですごい人だ。
いや、三冠馬シンボリルドルフの担当ってのもびっくりではあるけど、二冠馬カツトップエースを若い頃に担当してたなんて凄すぎる。
カブラヤオー以来の二冠馬…僕がちょうど小学六年生の時の二冠馬。
皐月賞の逃げ切り勝ちは見てるこっちが、乗ってる竹崎さんより手に汗握っていたと思う。同じ二冠馬なら、ミホノブルボンと似てるだろうな。
「あの時、藤池先生が病気で、私が厩舎業務を代行してたんだ。いや〜、後々の為の予習にはなったけど大変だったよ…本当に。」
「へ〜、菊澤先生凄いですね。」
そんなことを喋りながら、シリウスを手綱で引っ張りながら厩舎に連れて行こうとする。
そうすると、先生はふとシリウスの背中を叩き始めた。
「海外帰りのダービー馬…それも厩舎開業してすぐの私に持ってきたもんだからそりゃ面倒くさいったらありゃしないと思った。まぁ私は倭田さんの腹心だから一応預かったんだ…うん。でもね初めて彼の、この背中を見ると思い出すんだ…」
先生が先程までとは打って変わってシリウスの背中を物凄く変態気味に滑らかに触る。
あっと、言い方を上手く変えるなら綺麗な陶芸品に触れるかのようだ。というか触っている手が、ブラシのようにさえ見えてしまう。
うん…やっぱ天才っておかしい人しかいないみたいだ。続きを聞きたいのに永遠とシリウスシンボリばっか触って、喋ろうともしない。
これ以上変な触り方を見たくないので話の続きを促す。
「何をです?」
「…さっきあげた、シンボリルドルフやカツトップエースに。だから、あの人が惚れ込んで自分のしたいようにするのが分かる。自分が一番この馬を分かっている…そんな嫉妬心さえ生み出してしまいそうになる。」
「嫉妬心…」
競馬と嫉妬…正直言ってその二つの言葉が交差するなんてと思ってしまう。
菊澤先生が言うほどなのだから関係があるんだろうし、きっと今後僕も感じる時があるんだな。
「そうさ、君には分かるまい。あれらの馬には言い表せない、感覚を私たちに触発させる。だが、それを感じるだけではいかん。」
「じゃあ、どうすればいいんです?」
歩みを止めて、先生は言い始める。
「その答えに、多分言葉は要らないね」
あっけらかんにそう言われた。
僕はその答えに生まれて初めて疎外感を味わったような気がする。
関西の栗東の独身寮に戻って一番に、僕は菊澤先生の言葉を原文ママに古びたメモ帳に書き殴った。
『ばらついたスタートになりました。注目の2コーナーの先頭争い、前に行くのはなんとレジェンドテイオー、レジェンドテイオーが行く。』
スタートは抜群、レジェンドテイオーが前に行ったのと少し控えたスタートになったアサカツービートのおかげでラチ沿の内に向かう。
レジェンドテイオーが大逃げをしているが、ニッポーテイオーは番手で逃げる感じ…シリウスにはじっと堪えるように手綱を引っ張るが少し行きたがろうとしている。
だけど、スーパーグラサードが僕より右斜め前の位置にいてくれるおかげで引っ掛かりがそこまでだ。横にはマウントニゾンとダイナアクトレスが並んでいる。
荒れた内を通っているのは僕だけか…殆どの馬は馬場の良い外側を走っている。
しかしレジェンドテイオーが一番手か…それは少し困る。ペースを早められたら、シリウスが釣られて前へ前へと行ってしまう。出来ることならニッポーテイオーが先頭だとある程度平均的なラップを刻んでくれるからありがたかったが…これなら内じゃなく馬群の中で落ち着かせるべきだったか?前にグラサードを置けているが、少し頼りない。
長距離じゃないから前に馬を置く意味はあまりないかもしれないが、まぁ良い感じではある。
ただダイナアクトレスがかなり良い位置にいるな。外から誰かが突っ込みにいけば良いのだが、鞍上が丘部さんだから難しそうだな。
誰も競りに行こうという人はいない。前も隣も後ろも、馬も騎手も一流…こりゃ倒すには並大抵のやり方では敵わない。
『フレッシュボイスは少し下って、最後方につけます。』
フレッシュボイスはいつも通りって感じか。
勝った安田記念は芝田政人さんに乗り替わっての勝利だったが、元の屋根の多原さんが戻ってからの騎乗スタイルに何らかしらの問題はない。
というより、今日のフレッシュボイスは危ない…気がする。
安田記念は勝ったものの、続く宝塚記念やオールカマーでは馬券外…フレッシュボイスは強襲する走法が売りだったのにここ最近は不調で差し切ることが出来ていない状況だった。
輪乗りのときに一目見て思うのは毛並みが良すぎる。正直言って、見るからに調子が良い。
今のフレッシュボイスと多原さんが組み合わさったら、鬼に金棒を持たせてマシンガンまで持たせてる状態だ。
『ニッポーテイオー豪原、手綱を絞って二番手、二番手であります。外から掛かり気味にフォスタームサシが上がって、ニッポーテイオーの横に並ぼうとしている。』
ん…フォスタームサシっ!?
つい右を見るとフォスタームサシが上がっていっている。てっきり僕の後ろのアサツービートの隣で潜むのかと思ったが、逃げるのか。
こりゃ、マズイ。逃げ馬三頭、それもレジェテイオーはラップ無視の大逃げ体制で番手で控えるニッポーテイオーにフォスタームサシが今までの走法を全部捨てて戦おうとしている。
ニッポーテイオーがペースを崩さなければ問題はないのだが、崩せば最後だ。全員一緒に地獄のタイム勝負になる。こんな重馬場でペースぐちゃぐちゃになれば、レース前に予想した展開なんて全て水の泡だ。
府中には魔物が付き物とはいうけど、今回はレジェンドテイオーじゃなくてフォスタームサシか。全くもって恐ろしいレースになった。
だからといって僕が慌てているかと言えばそうでもない。丁度ダイナアクレスの三馬身前にフォスタームサシが逃げてくれている。
ダイナアクレスが最後の直線で仕掛ける場合、フォスタームサシが前にいるせいで外に膨れるか、内に潜るかのどっちかになる。フォスタームサシが進路を譲る可能性もあるが、あんな大駆けで進路を譲るパワーを最後まで温存するようには思えない。
ほぼ確実的にダイナアクトレスは距離ロス覚悟でもっと外にぶん回すか、内の荒れた馬場でイン突きするかのどっちかになる。
………走りながら、思ってしまうが豪原さんの走りは非常に綺麗だ。剛腕と言われてるが、そうは思わない。どちらかというと南伊さんとかの方がそう感じる。
ニッポーテイオーの走りを注目すると、安定したラップで走っているように見える。僕の体内時計が狂いがなければ、物凄く綺麗なラップを刻みつつ動くだろう。
剛腕というよりかは、パティシエみたいな繊細な…職人みたいな印象を刻みつけてくる。
『三頭が先頭集団を形成しつつ2コーナーのカーブに向かいます。その三馬身後ろにスーパーグラサードが単独三番手。その後に内に控えたシリウスシンボリ、マウントニゾン、その外を回ってダイナアクトレスがここにいて中団を形成。』
レジェンドテイオーは依然大逃げ、ニッポーテイオーは控えて待機。フォスタームサシはまだニッポーテイオーに対しては仕掛けない。まだ2コーナーだから早すぎるが、この状況のままならニッポーテイオーが逃げ切る。
フォスタームサシが馬群から出られないように護衛船団する気概が見えない。
掛かったから、逃げた…それだけでしかない。
護衛船団をしなくてもいいが、せめてレジェンドテイオーと同じようにラップタイムを上げてペースを乱して欲しい。戦うのなら、勝つ気でいかないと。
シリウスシンボリは意外と内の荒れ馬場を苦にしていない。ヨーロッパ遠征の甲斐があったのかは分からないが、実にいいのだが右回りのせいか、やっぱし走り方自体はぎこちない。
内の荒れた馬場のせいで、ゴーグルを降ろす。だが降ろしても芝がゴーグルにぶっ飛んでくる。
その衝撃が僕に発破をかけてくれるような気がする。
『一馬身開いて後方にアサカツービート、ウインドストース。内からスーパーファントム、トチノニシキ、ハーバークラウンが続きます。そして最後方にカツタイフウオー、そしてフレッシュボイス多原は外目の位置につけて追走。』
後ろを少し振り返れば、フレッシュボイスがジリジリ上がっているように錯覚してしまう、まだまだ向正面の真ん中にも至っていないというのに。
掛かるわけでも、変に後方待機するわけでもない…ある種、自然の状態での走りの所為で、いつでも仕掛けてきそうな予感がしてならない。
なんというか物凄くリラックスしているというか…言葉では言い表せないが何かがあると
「こりゃ不味い。」
後ろを確認して、レースの状況を纏めてみるとそう評価せざるを得ない。
このレース、前崩れになるかもしれないな。やっぱしレジェンドテイオーがペースを早めるにつれて、フォスタームサシも早める。それに先行集団は付随してしまう。
こんな荒れ馬場で、こんなペースじゃ後ろから差すのは容易になる。ただ、ニッポーテイオーを除いて。
あの馬だけは、自分のペースで走っている。豪原さんの騎乗技術の甲斐もあるのか、今見てもラップが急変するわけでもない綺麗なリズムで走っている。
それに対してこっちのシリウスは内ラチギリギリで抑えていても、前に馬を置いていても徐々に掛かり出してきている。
気性面ではモガミ産駒特有の激しさはないと思っていたのにっ!!
この速いペースに、シリウスが焦りを感じ始めている。ヨーロッパは馬場の影響もあって、日本よりペースが緩やかだ。ヨーロッパの環境に慣れてしまったシリウスにとっては中々きつい。
余計に復帰初戦の毎日王冠よりペースが早いときた…
初めてシンボリ牧場で出会ったシリウスではなくなってきている。多分、四歳のあの頃のように戻り出している。
『向正面の中間地点にかかってきました。依然先頭は三馬身のリードを取ってレジェンドテイオーが逃げる、逃げる。二番手はフォスタームサシ、ニッポーテイオーは三番手。1200の標識を越えて、3コーナーのカーブを過ぎようとします。』
まずい、本当にまずい。
レジェンドテイオーは、このままなら逆噴射するぞ。
ラップの調整なんかせずそのまま直線に突っ込もうとしてる!!
ニッポーテイオーは一定のペースで走っているのにっ!!
クソっ!!誰がこんなレース展開なんて予想できるんだよ。そこまで予想するべきなのかもしれないけど、こんなもん出来るわけないだろ。
いや待て、そんなことを考えてる場合じゃない落ち着け。まだニッポーテイオーを破れるチャンスはある。
まだだ!!
よく考えろ、よく考えるんだ。
シリウスが先頭に立つイメージを思いつけ。
「………っ!!」
ない。ない…勝てないっ!!
シリウスじゃ勝てないっ!!
フレッシュボイスならニッポーテイオーを差し切れても、シリウスには無理だ。
どう考えてもイメージが湧かない!!
フォスタームサシは包むどころかズルズル速度が落ち出してる。
誰かが今早仕掛けをして、ニッポーテイオーをウチに包むことことが出来るならいいが、それをする馬がいない。
シリウスと一緒に仕掛けようにも無理だ。内の荒れた馬場でずっといたのに、さらに外を回したら勝つどころか掲示板外しかない。
前のスーパーグラサードは完全に勝てないのを察したのか割り切って、掲示板入りのために後ろを蓋してストップさせようとしてる。そのせいでシリウスとマウントニゾンは仕掛けれないっ!!
ストッパーの役も、パワーの限界でもう少しだけの時間しか出来ないが、その時間のせいで仕掛けられないっ!!その後仕掛けたとして、ニッポーテイオーを千切れない。
ダイナアクトレスも終始外を回されてるせいで、体力がない筈。そこで今早仕掛けして、外でニッポーテイオーの進路をシャットダウンしても直線でガス欠で終わって他の馬に差されるだけだ。
丘部さんも完全に勝利は諦めて掲示板入りを狙って、このハイペースなレースから離脱してスピードを緩めている。
「つ、強い…」
独り言が漏れてしまった。それほどまでに今目の前にいるニッポーテイオーは強く、そして後ろにいるフレッシュボイスも同じく強い。
この二頭に勝てないのなら、せめて…三着を狙うしかないっ!!
一着、二着はニッポーテイオーかフレッシュボイスのどちらかだ。
なら、せめて三着にならないと!!
そのために、掲示板入りを狙って体力を温存させているダイナアクトレスを倒す!!
『そしてスーパーグラサードがズルズルと下がっていく、マウントニゾンも連られる形で後退っ。内シリウスシンボリ、外ダイナアクトレスがこの位置につけています。』
もう下がり出すか。となると、下がり切ってからの数秒間が勝負の分け目になるっ!!
後ろなんて気にしない。考えるのは右斜め後ろにいるダイナアクトレス…それだけだっ!!
そうさ、必然的にダイナアクトレスが取るコースなんて二つに決まる!!
シリウスとアクトレスの間にあるのは一馬身半の差のみ、これをどうシリウスにとって俺にとって有利に扱えるか、そこも大事だ。
だからこそ、残り1000mをどう動くかが大事だ。一瞬でも読み間違えた瞬間にシリウスと僕は負ける。
頭の中全部フル回転だ。脳みそ全部、洗濯機に入ってるみたいに考えろ。
これぐらい考えることなんて簡単だろ、俺!!
常に考えるんだ、丘部さんが進みたい道をっ!!
考えろ、そしてその道より先にシリウスが前にいれる道を見つけ出せ。
『その直後にアサカツービート、ウインドストース、内のスーパーファントムは後退気味。外目にハーバークラウンがつけて、フレッシュボイスが更に外から仕掛けて参ります。』
なんとなくだが、思いつく走りが一つある。
だが、言うなればギリギリの走りだ。
………いや、多分いける。
問題は、たっぷりあるが…まぁ問題ないと考えてやるしかない。
教育騎乗で終わらせるのもいいけど、シリウスとこの府中の舞台でどこまで行けるか、やってみたいっ!!
長く続くコーナリングも終わって、そろそろ直線が…そして観客スタンドがどんどん大きく見えてくる。
そろそろシリウスも我慢の限界が来た。
さぁ、もうすぐ…俺たちが仕掛ける時はもうすぐそこまで迫って来た!!
『トチノニシキ、カツタイフウオーの二頭は最後方。フレッシュボイスが交わして上がっていくっ!!』
さぁ、後は読み合いの勝負。
ダイナアクトレスより先に動く、動けたら後はもう勝てる。
だからこそ、死ぬ気で考えるんだ、俺っ!!
『4コーナー、カーブから直線コース。ニッポーテイオーがレジェンドテイオーを交わして先頭に立とうかというところ。フレッシュボイス田原は大外から徐々に捲ってきたっ!!』
丘部さんとダイナアクトレスはこれ以上の距離ロスは欲しくない。かといって内馬場の荒れた馬場は欲しくない。
そして今のままの現状維持も前にいるフォスタームサシで前が壁になるだけだから、嫌なはず。
距離ロスか荒れた馬場か…どちらかの究極の二択。
内か外か、その確率は同じく等しい。
だが丘部さんとダイナアクトレスなら、どっちに行くかは決まるっ!!
『ニッポーテイオー逃げる、逃げる。シリウスシンボリは外に行った、シリウスシンボリが先頭に並びかけようとする勢いだ。』
「何しとんじゃああああああ!!!!」
『
アクトレスは外へ回す!!
ダイナアクトレスはオークス三着の実績馬。それなら多少の距離ロスは許せる範囲内。
だが、ダイナアクトレスの適性は完全なクラシックディスタンスホースではないのも事実。
そして、ダイナアクトレスは今回と同じような重馬場の安田記念で五着に泣いた。
なら、アクトレスは外へ回すはず。その予想はついた。だから、ダイナアクトレスが少し外に回して仕掛けるその前に、俺たちはコーナーの遠心力を最大限に活用してダイナアクトレスの前に着くっ!!
こうすれば、ダイナアクトレスはシリウスより更に外に回るか、内に入るかの選択をもう一度しなければならない。
これでいい、これでいいんだ。
ここからは内に行こうと、外に行こうと何の問題もない。
仕掛けるタイミングを失わせた時点でシリウスは勝てる。あとはダイナアクトレスから逃げ切ればいいだけだ!!
もう一度内か外に進路をとる僅かなタイムラグは、俺たちにとって必要な時間だ。俺たちはそのタイムラグの僅かな時間でダイナアクトレスより先着できるんだ。
『フレッシュボイス一頭、二頭、三頭と切り捨てて、先頭まであと少し。先頭、先頭はようやくニッポーテイオー。後続に半馬身のリードをつける』
もう何も感じ得ない。
府中の直線の最後の坂が、俺らの体を押し潰すように負荷をかけてくる。
しっかりと手綱と鞭は持っている。手綱を動かしつつ、鞭は叩いている。
走ってる最初は前崩れのレースになると思ってたのに、そんなの余裕に覆された。世界が俺の頭を裏切った————いや勝手に俺が世界を信用しただけだ—————その事実に余計に思考が停止しそうだ。細々と動く思考の灯火さえ消えかかっている。
それと同時に、体の感覚がどんどん消え失せている。無味無臭な世界観、吐き気までしそうな気がする。
単純な酔いなどというより、焦燥感が引き起こす吐き気だ。
頭も体も何もかもが止まりそうだ…だというのに世界は動きをやめない。それどころか、もっと加速していく。
ただでさえ、視界は加速しながらも朧げなのに土がたっぷり付いたゴーグルのせいでもっと見えない。
徐々に現実感が失われてるような気もする…それこそが吐き気の原因なんだろう。
けどもう見えなくていいんだ、だってゴールまではあと少し。後は真っ直ぐ走り切ればいい。
それだけでいいんだ。
シリウスが懸命に走ってくれる。
まだ出会って一ヶ月も経っていないというのに、俺の言う通りに動いてくれる。
人間に僅かながらも恐怖心を抱いているというのに…
嗚呼、本当にありがとう。できることなら俺がもっと強かったらよかったのに。
ダービー馬に乗せてもらっているというのに、不甲斐ない走りしか出来なくてごめん。
君が負けることを理解するほど賢い馬だというのは分かっている。
だからこそ、日本に帰ってきてまた負けるというのは君の心には深く、深く突き刺さるものかもしれない。
本当にごめんな。
俺が今やってあげれるのは、ここまでなんだ…
菊澤先生…倭田オーナー…俺だって負けるのは嫌ですよ、どんな青臭い新人でも。
カッコつけて“良い負けが出来そうです”とか言いましたけど、そんなこと言いたくはない。
勝ちたい。…貪欲に勝ちたい、強欲に勝ちたい。
そのためには自分のできる全てをやります。
だけど、俺の全ては…まだちっぽけなんだ…
ごめんよ、シリウス…ごめん。
せやから、せめて…
「三着にしてやるっ!!」
ダイナアクトレスから逃げ切ってやる!!
どんな豪脚が来ようと、逃げ切る。
溜めてた、脚がどんなもんだろうと俺とシリウスはここでお前たちに負けるわけにはいかないっ!!
この2000mという種目の中でランクとして金のニッポーテイオーとフレッシュボイスには負けてもいい。
それはシリウスが銀のランクだからだ。
だけど、同じ銀ランクの中でもシリウスは1位にならなければいけないっ!!
それが俺たちがするべきことなんだ。
『外からさらにダイナアクトレスが伸びようとしている、内レジェンドテイオーが逃げ粘る。』
後ろで誰が吠えてようと知ったこっちゃない。
シリウスと高みを目指すためには、そんな些事なこと着いてくるな!!
もう後少しなんだ。
頂点に辿り着かなくても、地面にへばりつくのだけは絶対にごめんだ。
ゴール板はあと…もう少し。
『外フレッシュボイス追い込む、多原懸命に鞭を振る!!やはり、この二頭で決まりか。ニッポーテイオーも逃げる、逃げるっ!!』
「はぁ…ん、はぁ……」
促しても、促しても、あともう少し欲しくても伸びない。
目の前の二頭が俺にとっては残酷な景色にしか見えない。
こんな広々とした芝が、こんなにも嫌になる。
『フレッシュボイス来る、フレッシュボイス来るっ!!』
だからこの悔しさを胸にしっかり刻みつけよう。
シリウスと俺が次へ目指すために。
『しかしっ!!フレッシュボイス届かないっ!!勝ったのはニッポーテイオー、豪原っ!!』
「ハァ…はぁ…」
無感情にゴール板を過ぎ去った。
過ぎ去ったんだ…だというのに今は感情が爆発しそうだ。
俺の左に見えるのはゴール板だけなのに…
『時計は1分58秒4っ!!サクラユタカオーのレコードにあと一歩届かず、そして
…どうして、他の馬がいるんだよ?
『きたのそうま し~さ~ トンシー 夢水流羽 フラリア♪』さんお気に入り登録ありがとうございます。
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